維新回天 全体編【1】明治維新への誘い ~明治維新の楽しみ方~

維新三傑

明治維新の全体像を紹介しながら、明治維新の楽しみ方を解説!

これからシリーズで何回かにわけて、明治維新について「全体編」としてまとめてみた。私なりに分類してまとめた決定版である。維新を知ることは、今の日本を知ることと思う。また、教科書的な一般的な見方とは少し角度が違う私の見方を、一つの見方として楽しんでもらえると嬉しい。歴史の得意な方も不得手な方も、是非ご一読を。

1.明治維新の魅力

明治維新は非常に面白い。歴史好きの私としてはその歴史的意味等を考えるのも面白いし、また物語としてその一人一人のエピソードを見るのもたいへん勉強になる。わずか150年前のことであり、文献もしっかり残っているため、かなり具体的なものが出てくる。一人一人の人間エピソードはとても興味深く、私にとって勉強となる。

一般的に「明治維新」と呼ばれる政変は、体制変換のみをみれば、わずか10数年の間に起こったことである。この時期に何が起こったのか、どんな思いで先人は行動し死んでいったのか、を見ると、現在にもまったく当てはまるし、自分を省みる上でもいい題材となる。また、その考え方に現在と大きな違いはない。国を思い、自分の立場・能力を見て、その中で精一杯行動した結果の結集が「明治維新」であった。そんな一人一人のエピソードは、本当に引きつけられる。歴史の好きな方も、苦手な方も、是非見てほしい。

ただ、明治維新は少々複雑のため難解と思う人もいると思う。私も最初に見たときは、登場人物が多すぎるのと、めまぐるしく情勢が動くので、どこの人でどんな立場か、今何をしているのか、とかいろいろわからず、理解に手こずった。今もそこまで理解したわけではないが・・・。
そこで見方としておすすめなのは、自分の「押し」の人を設定することである。一人、あるいは何人かについて、「この人を知りたい」あるいは「この人が好き」という人を無理矢理でも作った上で見ていくと、話を理解する上で大きな助けとなる。
「押し」の人はたくさんいるが、明治維新全体を理解する上での「押し」の人として、有名どころから3人を挙げてみた。ご参考に。

勝海舟

勝海舟

勝海舟

幕臣の一人。文政6年(1823年)に生まれ、明治32年(1899年)に亡くなっている。明治維新においてこれだけの重要人物が77歳まで生きたというのは、勝海舟一人といっていいだろう。勝海舟は、幕臣でありながら、各藩の知識層とも交友があり、各方面への人脈の広さは群を抜いていた。しかし家は極貧で、かなりの苦労人である。また、剣の達人である一方で佐久間象山の下で蘭学(オランダ後を通じた西洋の勉強の総称)に通じ、非常に開明的思想の持ち主であった。
かといって、単なる秀才ではなく、かなり江戸っ子気質を持った人物であった。咸臨丸(かいりんまる)にて太平洋を横断しアメリカに渡った時(1860年)の艦長が勝海舟である。その後帰国した後、幕府の上層部にアメリカの感想を聞かれたときに「あちらでは人の上に立つ人は相応に利口で、こればかりは日本と違う」と強烈な嫌味を言ったという。
勝海舟はあくまで幕府の役人としての立場を崩さず、しかし、確固たる開明的な考えを持った人だった。そしてその影響を受けた人達も多くいた。坂本龍馬を弟子としてその視野を大きくさせたのは、勝海舟の影響が大きい。また、まだまだ薩摩のことしか考えていなかった西郷隆盛を大きく成長させたのは、勝海舟との出会いを経てから、といわれている。その開明的な考えと学識は、敵味方を問わず広く知れ渡っていて、幕末において多大なる影響を与えた。また、自身も精力的に動き、当時、幕府の陸軍最高指揮官であった勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛とで成った「江戸城無血開城」は、日本を本格的な内乱から救っている。まさに日本の歴史を作った人と言える。幕末における最重要人物の一人である。

 

高杉晋作
高杉晋作は、長州藩の人で、天保10年(1839年)から明治直前の慶応3年(1867年)まで生きた人である。結核で亡くなるのだが、わずか27歳という若さであった。この人が長く生きていたら日本の歴史はいい意味で大きく違ったものになっていた、と思える人の筆頭である。

高杉晋作

高杉晋作

吉田松陰の「松下村塾」で学び、早くから吉田松陰はその優秀さを認めていた。後に久坂玄瑞(くさかげんずい)とならび「松下村塾の双璧」と呼ばれ、「識の高杉、才の久坂」と呼ばれた。長州藩は過激に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」(君主(天皇)を尊び、夷狄(外国)を取り除く、というスローガン)を突っ走り、江戸幕府打倒の急先鋒の藩と位置づけられた。高杉晋作もアヘン戦争後の上海をみており、列強にいいように植民地化されていく清の惨状を見て、まずは藩をそして国を近代国家たり得るところまで変えないといけない、という考えを強く持つようになっていった。更に、行動の人だった。身分のへだたりなく作られた「奇兵隊(きへいたい)」その後の長州藩の大きな礎となり、倒幕の重要な原動力となった。

短い人生ながら、高杉晋作の功績は群を抜いて強烈である。その最たるものが「功山寺決起(こうざんじけっき)」だろう。私見だが、日本史上最も勝ち目のない戦いだったと言える。桶狭間の戦いの織田信長をも超えると思う。
功山寺決起は、長州藩の内乱である。当時の藩の実権を、高杉晋作がクーデターで奪い取ったものである。規模が小さいためにあまり言われないが、その後の薩長同盟が、倒幕とその後の明治政府の最も重要な基礎であることを考えれば、日本史上でも非常に重要な歴史の出来事である。
この挙兵は1864年に行われたもので、当時長州藩では事なかれ主義で幕府に対して従う一派が実権を握っていた。後に「俗論党」といわれる勢力である。当時、「禁門の変」で幕府側に破れ、「馬関戦争」にて欧米の四国連合に破れ、散々の状態であったため長州藩存続のため、幕府に従うのも無理からぬ状況ではあった。しかし、その俗論党はそうした尊王攘夷思想を持った志士の粛正まで始めたため、高杉晋作は避難すると共に、これではいけないと決起を固める。しかし、高杉の言ったことがあまりに唐突だったため、それに従う者が少なかった。にも関わらず高杉は、ここで立たないと二度と立てないと、と固い決心で、文字通り一人でも行くという気迫であった。

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

結果的に最初に高杉に賛同したのはわずか83名。このとき従ったのが、後の首相の伊藤博文である。対する長州藩の正規軍は3000人近くいるところに、その人数からスタートした挙兵であった。功山寺で決起したとき、死を覚悟しつつ高杉が言った言葉が「是よりは長州男児の肝っ玉をお見せする」であった。
しかし無謀と言われたこの挙兵も、賛同者が増え更に藩の正規軍からも同調者が出た事などがあり、奇跡的に成功する。その後改革派が実権を握った長州藩は薩摩藩と結び倒幕を実現し、明治政府の中心を担っていくのである。高杉晋作はこのとき24歳、このわずか2年後に結核で亡くなってしまう。
高杉晋作の信念とここぞという決断が、後の日本を大きく変える政変を成功させた。高杉の影響を受けた人は、明治そして昭和にもつながる中で、数多くいる。その筆頭が伊藤博文であろう。伊藤博文は晩年まで、高杉晋作を慕っていた。
若くして亡くなっているが、その実行力・人的魅力から、後に大きく影響を与えた人である。長生きしてくれていれば、と思わずにはいられない。

 

西郷隆盛

西郷隆盛

西郷隆盛

西郷隆盛ほど、人間的魅力を言われる人もいない。敵であってもその人格に触れれば尊敬する、というほどの大人物であり、人的魅力を備えた人であった。西郷隆盛は文政10年(1828年)に生まれ、明治10年(1877年)に西南戦争の末に亡くなっている。明治維新における西郷隆盛の果たした役割は、計り知れず大きい。まさに維新の主役の一人であり、「維新の三傑」として、大久保利通木戸孝允と並んで評価されている。

西郷隆盛が関わった明治維新の出来事は、枚挙にいとまが無い。蛤御門の変(禁門の変)長州征伐鳥羽・伏見の戦い江戸城無血開城戊辰戦争などと、戦争参謀らしく、戦争関連で重要なものにことごとく関与し、勝利している。また明治政府が成った後にも、数々の政策を実行し、盟友の大久保利通を含めた要人が欧米使節団としていなかった時に、留守政府を良く守りつつ大きく近代化のために進めている。

こうした偉業も去ることながら、西郷隆盛にまつわる逸話を見てもその人物の深さを思わせる。坂本龍馬は西郷隆盛に会って
「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。」
と評している。師匠の勝海舟は、

西郷隆盛

西郷隆盛

「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)だ。・・・その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方がまさるほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。・・・横井の思想を、西郷の手で行なわれたら、もはやそれまでだと心配していたのに、はたして西郷は出て来たわい」
と評している。それほどに人を魅了する力を持った人物であり、またその実行力たるや、他の維新志士たちの群を抜いていたことは、歴史が証明している。

また、西郷隆盛の言葉をつづった「南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)」は、今も読み継がれるべき深い内容のものである。有名な「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉も、ここにある。また、

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

という有名な言葉もここにある。

西郷隆盛の最後は、自殺に近い形で士族の決起の総大将となり、西南戦争にて破れ切腹した。明治政府をまさに作った人ではあるが、華美なことを嫌っていた。南州翁遺訓で次のように述べている。

「文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やらちいとも分らぬぞ。」

西郷は着飾るだけの文明に対し強く批判していた。西郷にとって文明とは「道」、すなわち正義が広く行われることであり、西洋とは全く異なる考え方を持っていた。日本の良さを失う形での文明開化を嘆いていた。西郷隆盛は、維新随一の実力者であり、思想家であり、そして日本を愛する熱い志士であった。

2.明治維新の始まり・終わりはいつか? ~明治維新はなぜ行われたか~

明治維新がいつはじまったか、そして終わりをいつとするか、それについて考えることは、「維新がなぜ行われたか」という維新そのものの定義に関わってくると思う。これだけの政治体制の変換であり、これほどの短期間に行われたものである。なんらかのきっかけと動機がなければ、絶対に出来ないか、相当の時間がかかるはずである。

まず言えることは、一般に言われる「ペリーの来航」がスタート、ということに対して、あえてこれは間違いとしたい。ペリーあるいはアメリカを中心に考えると、明治維新全体の話のつじつまが合わなくなってくる。

明治維新において、『幕府を倒して明治政府を立てる事』、は「目的」ではなかった。日本という国のために明治政府という新たな体制をつくることは「手段」であり「目的」ではなかった。その証拠と言えるのが、明治政府設立後間もなく戦争となった、「日清戦争」・「日露戦争」と言える。全く体制が整っていないにもかかわらず、その二つの戦争に入らざるを得ないほど、世界情勢が逼迫し、列強による植民地支配が迫っていたのである。「目的」は明らかに、列強のアジア植民地支配にどのように対抗するかであった。

アヘン戦争

アヘン戦争

と考えると、「ペリーの来航」(1853年:嘉永6年)が明治維新のスタートとは思えない。確かに庶民が触れた初めての「黒船」であり、日本中が大騒ぎになったのは事実だが、知識層はその前から、列強がアジアに迫ってきたことは十分熟知していた。それが「このままではいけない」との確信に変わったのはペリーの黒船ではなく、その10年以上前に起こった「アヘン戦争」(1840年~43年:天保11年~14年)による清の惨状を見せつけられたことである。その頃から、各藩での動きは活発になっている。
そう考えたときに「このままではいけない」といわれた体制である「幕府」が倒され、新しい体制が一応整うのが、「大日本帝国憲法の成立」(1889年:明治22年公布)といえる。

結論的に言えば、明治維新とは、それぞれ独立した「藩」の上に幕府が存在する「幕藩体制」から、政府という中央集権的機関により広く「国」全体を見た行政を行う体制、への変革であった。そしてそれは、来たるべき列強、特に清を植民地化したイギリスと、北から来るロシアに対する防衛のための体制作りであった。

ということで、今回のまとめ方としては、アヘン戦争前後から大日本帝国憲法成立までをターゲットとした。その後は、「日清戦争」・「日露戦争」へと続くが、それらは別途のところで記述したい。ただ、どうしてもイメージとして「日清戦争」・「日露戦争」は明治維新と別物のように思われるが、まったく連続したものである。学べば学ぶほどそう思う。もっと言えば、その後の第一次世界大戦・第二次世界大戦もである。できるだけそれを意識して、記述していきたい。

3.明治維新の区分

明治維新は、いろいろ事情がめまぐるしく変わる。理解の上で大きく分類すると「決起期」・「倒幕期」・「政府形成期」の3つの時期に分けられる。また、登場人物の立場としては、①天皇陛下、②徳川将軍・その後の内閣総理大臣、③老中、を意識してみていくと流れが見えてくる。下記に主な出来事をまとめた年表を示す。

明治維新 全体年表

明治維新 全体年表

詳細は今後触れていくので、今は年表を見る程度でと思うが、是非見てほしいのは、天皇・将軍・(主な)老中はどのように展開したか、である。そのあたりを押さえながら各藩の動きや明治政府の動きを見ていくと、全体からぶれずに明治維新を見ることができる。また、3つの区分は以下の通りである。

【決起期】
アヘン戦争(1840年~:天保11年~)から安政の大獄(1859年:安政6年)までの19年間
【倒幕期】
安政の大獄(1859年:安政6年)から鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)までの9年間
【政府形成期】
鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)から大日本帝国憲法公布(1889年:明治22年)までの21年間

という3つに分けてみた。それぞれの内容は次回の記事に譲るが、ここではその区分の方法についての説明を中心に記述したい。

4.【決起期:1840~59年】アヘン戦争とペリー来航を経て、意識は「藩」から「日本」へ

【決起期】としたのは、アヘン戦争から井伊直政の安政の大獄までである。天保11年(1840年)から安政6年(1859年)の19年間である。

明治維新 決起期

明治維新 決起期

この時期は、知識層には知れていた列強の脅威がついに、清まで来たことを思い知らされたところから始まる。1840年から始まるアヘン戦争である。その前からもロシア船の蝦夷地(北海道)への進出や、アメリカのモリソン号が浦和に来たというモリソン号事件など、列強の進出はひたひたと近づいていることは、知識層や支配層では広まっていた。しかし、アヘン戦争による「清」のひどい状況は、日本の志士たちに強烈な課題をつきつけた。まさに清の悲惨な状況を知って、日本の対応を幕府・各藩・各自それぞれが、「抜き差しならぬ状態」と考え始めた。それまでは「藩」の単位でしか考えなかった藩士たちが、日本という「国家」の単位を意識せざるを得なくなった。もはや「藩」として別々にやっていては列強に対峙できない、ということが、知識層には共通の認識になっていった。

ペリー来航(浦賀)

ペリー来航(浦賀)

この【決起期】の最中に、アメリカのペリーの黒船が来る。確かに、浦賀沖(神奈川県横須賀市)につけられた4隻の蒸気船は当時大きな騒ぎとなり、人だかりができた。インパクトはすさまじいものがあり、幕府は大いに慌てることとなった。しかし国としての問題の本質は、条約問題である。ペリーが持ってきた条約締結に対して、日本としてどのように振る舞うのか、幕府は初めて外国との大きな交渉の矢面に立たされた。そして、これと先の列強の脅威の認識が合わさって、後の倒幕への決定的な引き金となった。幕府の無能ぶりをさらけ出したのである。
結論から言えば、幕府は条約を締結した。しかし、この条約締結の状況を見た有力諸藩は、幕府の無能力ぶりを見せつけられたのである。幕府側には阿部正弘や勝海舟など優秀な人物もいたが、総じて言えば官僚的な事なかれ主義の結果が条約の締結であり、その先についての展望など全く無かった。これを見て、これから来るであろう列強に対し「日本」が立ち向かうには今の体制、すなわち江戸幕府を中心とした幕藩体制では無理と言うことが共通の認識になっていく。

大老 井伊直弼

大老 井伊直弼

しかも、大老(今でいえば総理大臣)となった井伊直弼(いいなおすけ)は、あろうことか開明的な幕閣・藩主・藩士に対し、次々と蟄居(ちっきょ)・切腹を命じた。いわゆる「安政の大獄(あんせいのたいごく)」である。今考えても本当に有為な人材が亡くなっている。もし生きていれば、「維新三傑」と言われる人達をも超えると思われる人も亡くなっている。歴史に「IF」はないが、それらの人々が生きていたら、また日本は大きく違っていたと思われる。悔しい限りである。しかし、井伊直弼も信念の人であり、日本を思って彼の信じる正義に基づいて動いた結果と思われる。

この安政の大獄をこの【決起期】の最後としたのは、この「安政の大獄」あたりから流れが変わったと認識しているためである。幕府に対する不満はあっても、「倒幕」というところまでのムーブメントはなかった。あくまで、「王政復古」という形で幕府だけではなく諸藩も政治に参加する政府への移行というのがイメージされていた。しかし、安政の大獄を一つのきっかけに幕府の限界が完全に露呈してくると、幕府そのものを倒すことからでないと始まらない、という方向性に流れが向いてきたのである。

5.【倒幕期:1859~68年】250年の江戸幕府の見事な幕引き

【倒幕期】としたのは、井伊直弼の安政の大獄から、鳥羽伏見の戦いまでで、安政6年(1859年)から明治元年(1868年)の9年間である。この期間はわずか9年間であるが、有名な事件はこの期間に集中している。

明治維新 倒幕期

明治維新 倒幕期

最もめまぐるしく情勢が動いた時期と言える。更に言えば、この【倒幕期】は大きく前半と後半に分けられる。分ける要因は、情勢を一変させる「薩長同盟(1866年)」である。後半はわずか2年だが、この「薩長同盟」が「江戸幕府の終焉」を決定的にした。

【倒幕期】といっても、すぐに倒幕で体制が固まっていたわけではない。250年もの江戸幕府の伝統は、それほど簡単に崩れるものではない。いくら将軍の力がなく老中が無能だといわれようと、各藩に対する統制能力・また江戸幕府そのものの軍事力など、圧倒的な力を有していたのは江戸幕府である。その親戚の藩(親藩)も含めれば、実に800万石、国土の25%が徳川幕府方であった。ちなみに薩摩藩は72万石、長州藩は36万石である。まさに圧倒的であり、それに代わりうる勢力はなかった。加えて、内乱をしている余裕は日本にはなかった。それも知識層は十分に理解していたのである。

薩長同盟の当事者たち

薩長同盟の当事者たち

では、なぜ幕府が滅びたのか。直接の原因は「薩長同盟」である。各藩の中で大きく開明的にリードしていたのは、長州藩と薩摩藩であった。その二つの藩が結ぶことが決まった時、倒幕という方向性がはっきりと具体化していき、一気に倒幕まで進んだ。薩長同盟から実に2年で、あっけなく江戸幕府は滅ぶのである。

長州藩は急進的に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」(君主(天皇)を尊び、夷狄(外国)を取り除く、というスローガン)に走り、それはイコールで「倒幕」を意味していた。しかし薩摩藩は、まだまだ幕府が隆盛であった中で、幕府である「徳川家」を完全に倒すのではなく、自分がコントロールしながら改革を進める方向性であった。しかし、幕府の無能ぶりと薩英戦争を経たことによる列強への認識が、薩摩藩をして幕府を見限るところまで来てしまった。その結果が、当時の急先鋒であった長州藩との同盟である「薩長同盟」である。薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(後の木戸孝允(たかよし))が、土佐の坂本龍馬の仲介で、日本のために手を結ぶ、という、明治維新の最大のハイライトと言える。

孝明天皇

孝明天皇

ここで、倒幕のもう一人の主役を指摘しておきたい。それは「朝廷」であり「天皇」である。天皇陛下という存在と威信が江戸幕府に最後通牒を突きつけ、そしてそれが江戸幕府を率いた徳川家を完全に日本のトップから退場させた。また、それが非常に短期間かつ被害が少ない状態で行われたのは、まさに日本で脈々と継いできた「天皇」という威信があったためである。
薩長同盟が成っても、幕府の力が最も大きかったことには変わりはなかった。よく「薩長同盟」が成ってほとんど明治維新が決まったように語られるが、それは結果論であり、現実には徳川幕府は十分に力を持っていた。実際に「大政奉還(1867年)」で徳川幕府が朝廷に政権を返上した時にも、徳川慶喜は日本最大の藩として「徳川家」の力を大きく温存し、政治に関与し続けるという体制であった。「幕府」がなくなっただけで、政治の中心は「徳川家」であったのである。

それが全く代わったのは、翌年の「鳥羽・伏見の戦い(1868年)」である。この時に、「朝敵」とされて完全に戦意喪失したのが他ならぬ徳川慶喜であった。そのが流れが、その後の「江戸無血開城」となる。そのように持って行ったのが薩長中心の新政府軍であったが、その時の「天皇」という存在を利用することで、世界でも類を見ないほどのスピーディーかつ被害の少ない形で、政権委譲を成功させたのである。

15代将軍 徳川慶喜

15代将軍 徳川慶喜

よく、徳川慶喜は無能扱いされる。幕臣である勝海舟の慶喜に対する評価も辛辣である。しかし私は、このような日本の大きな危機にあって、比較的平和裏にかつ素早く体制変換させた功労者として考えるべきと思う。人物としては、「戦いもせず屈した卑怯者」となってしまうが、「戦わない」という決断は、結果としてそれは多くの日本人を救い、また次の体制へと進むための重要な礎(いしずえ)となった。明治維新の前段のハイライトである「倒幕」は、徳川慶喜の決断とそして天皇陛下の存在なくしては、ここまで見事に進められなかった、と言えるだろう。

 

6.【政府形成期:1868~89年】日本史上最大の内乱を経て、「明治政府」を形成

【政府形成期】としたのは、鳥羽伏見の戦いから大日本帝国憲法発布までで、明治元年(1868年)から明治22年(1889年)の22年間である。

明治維新 政府形成期

明治維新 政府形成期

この期は、「日本史上最大の内乱」と言われる戊辰戦争(ぼしんせんそう)から始まる。戊辰戦争は、日本が二つに分かれて行われた戦争であるが、いろいろな場所での戦争の総称である。この戊辰戦争の最初は、「鳥羽・伏見の戦い(明治元年:1868年)」である。そして、1年半の戊辰戦争を終えると、明治新政府は「近代国家」としての道を歩むべく数々の施策を立てていく。そしてその総仕上げであり近代国家としてのスタートであるのが「大日本帝国憲法」の作成であり発布である。

この期は「鳥羽・伏見の戦い」から始まる、と記述したが、政治的には「王政復古の大号令(1867年)」から始まる、というべきだろう。王政復古の大号令とは、力を温存したまま政治から身を引く「ふり」をした徳川家に対して、これではいけないと考えた薩摩・長州を中心とした新政府勢力が、江戸幕府を完全に廃止し天皇を中心とした新しい国家を作ることを宣言したものだった。これに反発した徳川慶喜が大阪に戻った時に起こったのが、「鳥羽・伏見の戦い」である。この戦争は薩摩側の挑発に乗った旧幕府軍が戦端を切ってしまったことから始まるが、これが全国・特に東北・北陸・北海道の東日本に広がって「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」となった。

戊辰戦争

戊辰戦争

戊辰戦争は、日本史上最大の内戦といわれる内戦で、日本は「新政府軍」と「旧幕府軍」・「奥羽越列藩同盟」などの旧幕府側との二つにわかれ、戦争となった。二つに分かれ、と言ったが、実際には新政府軍の軍事力と天皇を擁することでの圧倒的優位の中での戦争であった。特に「旧幕府軍」の最大勢力である「徳川家」が「鳥羽伏見の戦い」及び「江戸城無血開城」により完全に降伏の状態だったため、その勝敗自体は最初から新政府軍に決まっていた。あくまで、「抵抗勢力の一掃」という戦争であったといえる。ただし「一掃」とは表現したが、戊辰戦争全体での死者数は1万人程度と言われる。これほどの体制変換への動きであったが、非常に犠牲者数は少なかったと言える。しかもかかった時間は、わずか1年半であった。ちなみに同時期に起こったアメリカ南北戦争は、死者数60万人で4年近く内戦が続いている。

このように、王政復古の大号令から戊辰戦争終結までわずか1年半程度で済んだため、その後の体制作りに集中できた。なお戊辰戦争の構図として、イギリスが新政府軍を、フランスが旧幕府軍を、両国に出遅れたプロイセンが奥羽越列藩同盟をサポートしていたことからも、日本の分裂が進む可能性は十分にあった。しかし、このようにスピーディーかつ犠牲の少ない形で進められたことで、列強がつけいる隙を与えなかったのである。これには、天皇という存在が大きかった。天皇を擁して「官軍」となった新政府軍に対し逆らえば「朝敵」となるため、各藩は戦わずして降伏していった。一部の強力な「反新政府側」との戦争だけが行われたのである。

この戊辰戦争が終わると、明治政府は矢継ぎ早に政策を打ち立てていく。その中でも「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「地租改正(1873年)」は革命的な政策変更であったと言える。ここでは詳細は割愛するが、これにより地方が、「藩主が直轄する半独立体制」から、「明治政府が管理の権利を持ち、その委託を受けた知事が統治する」という形となった。

また、この期において「岩倉具視使節団」による欧米での学習や、西郷隆盛による西南戦争と西郷の死、大久保利通の暗殺、といったことが行われている。急速に、欧米列強への対抗のための力をつけるべく、明治政府の体制作りが進められていった。そして「国の形」としての大日本帝国憲法が発布されるのである。

7.維新の頃の欧米列強

この頃の欧米列強について、簡単に触れておきたい。もう少し詳しく見るのはこのシリーズで別の記事で行うので、ここでは簡単な記述にとどめておきたい。

19世紀後半の世界の戦争・紛争

19世紀後半の世界の戦争・紛争

この頃の列強というと、「5大国」と定義できる。イギリス・ロシア・フランス・プロイセン・オーストリアの5ヶ国である。これらの列強は、産業革命を経てアフリカ・南米・アジアへと、すさまじい勢いで植民地の飽くなき獲得競争を繰り広げていた。

パーマストン子爵

パーマストン子爵

この中で、圧倒的に突出していたのがイギリスで、パーマストン卿などの強権派が力を持ち「ヴィクトリア朝」と言われる絶頂期の中にあった。他の4ヶ国が束になっても敵わないほどの国力を有していたのである。産業革命を先に経て、圧倒的優位に立っていた。
イギリスの対抗馬としてロシアが挙げられる。ロシアは広大な地を持っているが、凍らない港(不凍港)を求め南下政策の野望を常に持っていた。そんな中で、クリミア戦争(1853年)により、バルカン半島から大きく後退することとなったため、そこを諦め東に目を転じ、アジア(朝鮮半島あたり)からの南下政策に重点が置かれつつあった。産業革命の影響もあり、西から東を結ぶ「シベリア鉄道」の建設に乗り出すのは、明治政府が出来て間もない頃である。なおクリミア戦争以後の皇帝はアレクサンドル2世となっている。フランスはフランス革命・ナポレオン戦争後の混乱を引きずりつつイギリスと対峙するべくアジアでの植民地を広げていた。

ビスマルク

ビスマルク

また、プロイセンはその後の「ドイツ帝国」へと脱皮しようとしている時期であるが、急速に力をつけアジアへの植民地の足がかりを模索していた。ビスマルク体制から次のヴィルヘルム2世へと移るころである。

また、大きな要素として、アメリカの存在がある。アメリカは明治維新の頃には建国間もない国であり、国際的には「大国」といえるほどではなかった。しかし、同時期に行われた南北戦争(1861年~1865年)を経たことで体制が固まり、更にアメリカ版の産業革命も相まって、世界の大国の一つして急速に名乗りを上げていく。そして日本を含むアジアへと進出してきた。
なお、ペリーが来航したのはクリミア戦争と同じ1853年である。これは決して偶然ではない。最強国のイギリスがヨーロッパで大きく戦争している間に日本との通商を結ぼうと、アメリカはそこを狙ってペリーを送っているのである。

こうした国際情勢の下で他のアジア諸国が植民地化されていった。それに対して、日本の「列強のアジア植民地支配に対する挑戦」のスタートが、明治維新であった。維新志士の中でも国を引っ張っていくレベルの人達は、この国際情勢についての共通認識を持っていた。「鎖国」をしていたと言われるが、オランダ・清との通商は許可されていたし、知識層のこうした情報分析能力は、江戸時代を通じて非常に高かった。

8.維新の時期を区分して見えること

非常にかいつまんで、全体像を記述した。明治維新は、情勢があまりに同時多発的に起こるので全体をつかみにくい。ただ、このように時期を分けることで、維新の「フェーズ」を見られると思う。また、当時の国際情勢なしでは明治維新の本質は全く見えてこない。当時の世界情勢も是非おさえておきたいところである。

次回以降、もう少しテーマをクローズアップして、魅力的な個々のエピソードも含め記述していきたい。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2018年 5月 26日

    相変わらず読み応えありますねー。忙しいのに、いつ作っているのか(笑
    個々のエピソード楽しみです…が、体調優先で無理なさらぬよう。

      • てつ
      • 2018年 5月 26日

      明治維新シリーズ。どんどんいきますよぅ。

    • ゆかり
    • 2018年 5月 24日

    読み応えあるし、メリハリがあって、人物確認しながら流れで学べて良いね◎
    150年前か。
    意外とつい最近なんだね。イメージ的に凄く遠い気がするけど。
    戦国時代に比べるとなかなか明治維新辺りは興味が薄かったけど、てつさんのおかげで、我が国を想う観点から楽しませてもらってます。

      • てつ
      • 2018年 5月 24日

      人物がたっぷり出てくるから、お楽しみに。できるだけ分かりやすくまとめるので。

      明治維新は魅力いっぱいです。書き出すと止まらないので、まずは「全体編」。みてねぇ。

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