維新回天 全体編【3】明治維新の流れを追う②「倒幕期」

明治維新 倒幕期

明治維新の流れを追う!【倒幕期】とした、安政の大獄(1859年)から鳥羽・伏見の戦い(1868年)までを見る。

明治維新の「全体編」シリーズの第3弾である。まったく私的な区分だが、明治維新を【決起期】【倒幕期】【政府形成期】に分けて、その内情を見ていきたい。今回は【倒幕期】である。この期間は、めまぐるしく情勢が変わる。維新志士たちの行動をまとめみた。是非ご一読を!

(シリーズ過去記事)
➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い
➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】

1.明治維新の3つの区分

明治維新を三つの区分に分けてまとめた年表を下記に示す。

明治維新 全体年表

明治維新 全体年表

このように3つの区分に分けてみてみる。理解のためには、その方が全体の区切りがあって分かりやすい。まったく私的な区分ではあるが、理解のためにご参考いただきたい。

【決起期】
アヘン戦争(1840年~:天保11年~)から安政の大獄(1859年:安政6年)までの19年間
【倒幕期】
安政の大獄(1859年:安政6年)から鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)までの9年間
【政府形成期】
鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)から大日本帝国憲法公布(1889年:明治22年)までの21年間

この区分の方法の詳細は、過去記事(➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い)を参考いただきたい。
ここでは、各期に分けてそこで起こった出来事・当時の流れを記述していく。今回は【倒幕期】からである。

2.【倒幕期】の出来事 ~紆余曲折を経ながらも「倒幕」へ~

(1) 江戸幕府始まって以来の大事件「桜田門外の変」

先の記事(➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】)に示したとおり、幕末において「安政の大獄」(安政5年:1858年~)を大きな起点として、幕府の瓦解がスタートを切ったと言っていい。大老の井伊直弼いいなおすけが行ったこの一連の粛正は、倒幕を考えていなかった諸藩ですら倒幕派へと向けていった側面があった。また、当然のことながら、大老井伊直弼個人に対する恨みも大きくなっていた。
その理由は大きく二つあった。一つは、将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだい慶喜よしのぶを推した「一橋派」とそれに協力した者として連座して処分された藩や藩士からの恨みである。もう一つは、攘夷として外人排斥を主張していた勢力から「開国」をしてしまったことに対する恨み、であった。そしてその両方とも強く持っていたのが、「尊皇攘夷そんのうじょうい思想」を強く持った水戸藩であった。藩主の徳川斉昭とくがわなりあきを蟄居させたこともあり、水戸藩の井伊直弼に対する反発は大きかった。

孝明天皇

孝明天皇

そこの火に油を注ぐのが、孝明天皇と朝廷であった。孝明天皇は、将軍継嗣問題では幼少者より年長者がいいとして慶喜を推していたし、自身が外人嫌いのために、条約を締結し開国するなどとは言語道断であった。しかもそれを「勅許ちょっきょ」(天皇の許可)なしで進めたために、孝明天皇は激怒し、決定的に井伊直弼に対する不信を持った。そこで孝明天皇及び朝廷は、これも江戸幕府始まって以来の出来事を行う。朝廷から、直接水戸藩に命令(勅諚ちょくじょう)を下したのである。「戊午の密勅ぼごのみっちょく」と呼ばれるもの(安政5年:1858年)である。水戸藩はこの写しを各藩に送り、同調を誘った。天皇から直接藩に勅諚が出るなどということは、前代未聞であったため幕府は大いに狼狽ろうばいした。
これは安政の大獄の前に起こっている。また、これにより幕府ににらまれることを恐れた各藩は、水戸藩の呼びかけにはあまり応じなかった。それを見た井伊直弼が、水戸藩の陰謀として厳しく取り締まったのが「安政の大獄」の一面であった。このように弾圧を行った井伊直弼であったが、もはや朝廷すなわち孝明天皇との亀裂は、決定的な物になっていた。

桜田門外の変

桜田門外の変

そうした中で、ついに起こるべくして起こった事件が発生した。桜田門外の変である。安政の大獄が始まって2年後の安政7年(1860年)の3月3日、雪の降る中での出来事である。水戸藩の藩士17名と薩摩藩の藩士1名が、大老の井伊直弼を江戸城すぐの桜田門外(今の東京都千代田区霞が関)にて襲撃し、刺殺した。大老、すなわち総理大臣が刺殺されるという大事件であった。これにより大老は倒れるが、この後、阿部正弘あべまさひろ堀田正睦ほったまさよし、そして井伊直弼いいなおすけなど、実力のある老中は現れず、幕府はまったくの機能不全に陥っていく。そして政治の中心に躍り出てくるのが、有力各藩であり、そして孝明天皇の朝廷であった。

政治の舞台が江戸から京都へと移る、大きな起点となった事件であった。

(2) 当時の各藩の方向性

桜田門外の変を経て、政治の舞台は江戸から京都へと移る。まさに江戸幕府の力が落ちてきたことの証拠であり、時代の大きな変革が始まっていた。将軍と老中を中心とする体制でなんとか改革を進めようとしていたが、井伊直弼の登場、そして大老が刺殺されるという大事件は、徳川家及びその譜代大名によってされていた政治に限界をきたしたことを表す事となった。これ以降は、外様大名を中心とした、今まで政治に参加できなかった層からの改革が中心となって進んでいく。

桜田門外の変(安政6年:1860年)から鳥羽伏見の戦い(明治元年:1868年)までの8年間は、有力諸藩と徳川家と朝廷の入り乱れた綱引きの中で、情勢はめまぐるしく変わっていった。その舞台の中心は天皇御所のある京都であり、京都に主な勢力が集中し、そして暗殺が横行する「血塗られた」街と化すのである。
その頃の勢力として理解すべきは、①幕府に対する考え方として3つの分類、②外国に対する対応として2つの分類があった。

【 江戸幕府(徳川家)に対する対応の分類 】
① 佐幕さばく:徳川家の恩を忘れず、また既得権益者としても、徳川体制を守る、という考え。
② 公武合体こうぶがったい:徳川家を潰すまではやる必要がないが、徳川以外も含めた体制にするため、朝廷と幕府とを一体として政治を行う、という考え。
③ 倒幕派:とにかく、徳川家を倒してからでなければ新しい政治は開けないという考え。
【 外国に対する対応の分類 】
① 攘夷じょうい
:とにかく、外国(夷狄いてき)は排除する、という考え。
② 開国派:開国して西洋の技術を取り入れることで、日本として対抗していく、という考え

[ 江戸幕府に対する分類 ]は、明治維新の流れも示す。最終的には②の公武合体派から③の倒幕派への流れとなっていくのが、この【倒幕期】である。一方、[ 外国に対する分類 ]について、既に早い時点から知識層の中では①の攘夷は無理であると言うことは知れていて、②の開国以外の選択肢はない、という考えであった。ただ、守旧派であったり単なる過激派の人々にはそれが理解できず、ただただ「攘夷」というテロを行うという考えが、むしろ主流であった。そして、朝廷であれ孝明天皇であれ徹底した攘夷論者が、朝廷の勢力であったことは、非常に大きな要素であった。

佐幕派と公武合体派と倒幕派

佐幕と公武合体と倒幕

では諸藩はどうだったか。全てが意見を決めていたわけでないし、各藩の中でも意見は分かれていた。従って一概には言えないが、あえて桜田門外の変の頃の分類で言えば、主な藩は下記の通りと言える。
① 佐幕派・ほとんど攘夷派:徳川家、会津藩、桑名藩
② 公武合体派・開国派:薩摩藩、越前藩、土佐藩、肥後藩(熊本藩)、肥前藩(佐賀藩)
③ 倒幕派・尊王攘夷派:長州藩、(水戸藩)

ざっくり言えば、このような勢力図であった。見てわかるとおり、純粋な倒幕派は長州藩のみで、ほとんどが公武合体派という、穏健派であった。「過激派」のレッテルを貼られる長州藩はこの後散々な目にあうが、しかし、近代化を進め最強の名高い薩摩藩が長州藩と結んだときに、局面は一気に変わるのである。

(3) 刻々と変わる状況

明治維新 倒幕期

明治維新 倒幕期

和宮親子内親王

和宮親子内親王

桜田門外の変により大老が刺殺されるという大事件すら起こる状況になり、事態は緊迫の度を深めていった。そんな中で、次に政局が大きく動くのが、和宮降嫁かずのみやこうかである。これは、天皇の一族(孝明天皇の妹)である和宮が、徳川将軍の家茂に嫁ぐという、露骨な政略結婚である。文久元年(1861年)に江戸入りしている。これにより、幕府と朝廷との和解を演出した。なお、和宮親子内親王かずのみやちかこないしんのうにはすでに婚約者がいたがそれをやめさせての無理矢理の政略結婚であり、和宮親子内親王は江戸に行くことに非常に不安に思い、大きく反対していたようである。とはいえ、将軍家茂と和宮親子内親王の夫婦仲は歴代の徳川将軍の中でも随一といっていいほど良く、家茂が早世した後も、家茂を思っていたという。

とにかく、世紀の政略結婚を経て幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」の機運が高っていくが、尊皇攘夷派は面白くない。また、天皇が強力に主張する「攘夷」(外国人の排除)が実行されていないと、現在の体制対する不満を持った志士は多くいた。そして、幕府に対して朝廷がもの申す立場になりつつあった中、京都が政治の中心になっていく。新撰組の前身の組織が形作られ、京都の警備にあたるようになるのは、この頃である。

そんな中、薩摩藩の動きとして大きな事件が起きる。寺田屋騒動と、生麦事件である。後の流れにおいても重要な出来事であった。

島津久光

島津久光

薩摩藩の藩主は、島津斉彬が亡くなった後、異母兄弟の島津久光が就いていたが、その久光はまさに公武合体派であった。薩摩藩が中心となりながら、各藩を率いて政治を行う、という考えを持っていた。あくまで自分がという人で、西郷隆盛や大久保利通などとは、うまくいっていなかった人である。その島津久光が公武合体をすすめるために、ということで兵を率いて京都・江戸に来た。その時に、京都で自分の薩摩藩の過激派分子を取り締り、斬り捨てたのが寺田屋騒動である。
そしてその後、孝明天皇の勅命を持って江戸に行き、公武合体のための役割を果たすことで薩摩藩の政治的地位を高めていた。この後、薩摩へと帰るときにあったのが「生麦事件」(文久2年:1862年)である

この生麦事件は、今の横浜市に位置する「生麦村」で、島津久光の列に馬に乗ったまま道を通ったイギリス人に対して薩摩の藩士が斬りかかった事件である。当時大名の行列に対し、馬に乗ったままでいることは無礼であり、そのまま斬られてもしかたなかった。しかしそれがイギリス人となると外交問題に発展する。しかもこのときの怪我が元でイギリス人に死者が出ている状態であった。ましてや相手は、世界最強のイギリスである。大問題となり、これはその翌年の薩英戦争へと発展することになる。しかし、あくまでこの頃は薩摩藩は「公武合体派」で、徳川と共に藩政改革を行いながら体制を変えていくというスタンスであった。

一方、過激派集団とのレッテルを貼られながらも「尊皇攘夷」に突っ走る長州藩も、かなり動いていた。文久2年(1862年)には高杉晋作・久坂玄瑞が中心となり、品川のイギリス大使館の焼き討ち事件を起こしている。また、高杉晋作は身分の分け隔て無く軍を作り教育をするための「奇兵隊」をその翌年の文久3年(1863年)に結成。後の維新の礎となる軍隊が形作られていた。

(4) 対立する長州藩と薩摩藩率いる公武合体派、弱り目にたたり目の長州藩

そんな中で、大きく事が動くのが、高杉晋作が山口の萩で奇兵隊を結集していた年と同じ文久3年(1863年)の、京都である。公武合体派とそれに賛同する朝廷との合作による政変である。あまりに攘夷を主張する長州藩に公武合体派の代表格の薩摩藩・会津藩が業を煮やし、さらには攘夷を主張していた孝明天皇も幕府側の安定性を取るようになったことで、長州藩と通じている朝廷の公家たちを追放するという政変が起こった(8月18日の政変)。三条実美を代表とするそうした公家たちは、京都を追われ、長州まで流れることとなった(七卿落ち)。

新撰組 近藤勇と土方歳三

新撰組 近藤勇と土方歳三

この頃の長州藩は、完全に頭に血が上っている状態だったと言っていい。しかも、8月18日の政変の後に、あろうことか京都に火をつけて反長州派を斬り孝明天皇を拉致する、という計画まで立てたという。これを未然に防ぎ斬り付けたのが、有名な新撰組「池田屋事件」である。なお、この計画は新撰組側からしか出てこないので、新撰組の偽情報の可能性もある。
とにかく、この事件は後世において「維新を数年遅らせた」といわせている。それはこの事件で池田屋にて有能な志士たちが死んだこともあるが、これをきっかけにこの後、長州藩が更に無謀な行為に走ったことにある。それが「禁門の変」であり、そしてそれが後の「長州征伐」へと続く。ただ一方で、そうした無謀とも言える行為が、維新を早めたという評価もあるが。

池田屋事件は、京都において新撰組の評価を大いに高め、長州藩はいよいよ悪役になっていく。長州藩の志士にすれば、国を思って行動しているのになぜ、というストレスは鬱屈し、それは幕府とそれに味方する公武合体派の藩に向けられていく。そしてこの後すぐに、高杉晋作も止めたという「禁門の変(または蛤御門はまぐりごもんの変)」を起こす。長州藩の志士達はこのとき完全に孤立の状態で、対する幕府側は薩摩藩・会津藩・桑名藩などの精鋭であった。中でも薩摩藩は西郷隆盛が指揮をとり、最強の軍備を備えていた。結果、長州藩は大敗した上に、京都が極度の乾燥状態にあったため長州勢が放った火が京都中を襲い、3日間消えず京都は大損害となった。そしてこの戦争の際に、御所に鉄砲を向けて発砲したことから「朝敵」となり、完全に長州は孤立無援の過激派となってしまった。
この頃の長州藩士は、薩摩・会津に恨み骨髄であった。草履の下には薩賊会奸さつぞくかいかん(薩摩は賊、会津は奸物(腹黒い)という意味)と書いて踏みつけていたというほどである。

この後、幕府は更に長州藩に対して、政治的・軍事的圧力を高めていく。幕府にとっては、長州を悪役にすることは都合が良かった側面もあった。しかし、その中で西郷隆盛が勝海舟と出会うことを一つの契機に、このようなことを続けても日本としての展望は開けないと、西郷隆盛を中心とした薩摩藩が大きく舵を切る。また一方で、長州藩も、高杉晋作・桂小五郎を中心に、このような状態であっても信念を曲げることなく列強に対抗すべき方法を模索しながら進んでいく。この両藩が、同じ目的の下に結んだときに、維新回天は最後の段階を迎えることとなる。それが、第一次・第二次の長州征伐である。
ここで、長州征伐の前に、薩摩・長州の方向性を明確にしていく日本史そして世界史としても大きな起点となる戦争が2つあったことに触れないといけない。薩英戦争馬関戦争である。

(5) 列強の力を思い知る二つの戦争(薩英戦争・馬関戦争)

このように、日本国内での争いは京都を中心に行われていた。日本を先導していく薩摩藩と長州藩が、朝廷を挟んでそれぞれで争う状況になったのが8月18日の政変以降の情勢であった。しかもこの時、この両藩は更なる戦争を仕掛けることとなる。

相手は、西欧列強である。薩摩藩はイギリスとの「薩英戦争」、長州藩はイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国連合との「馬関戦争」が行われる。薩英戦争は、8月18日の政変の年と同じ文久3年(1863年)の7月であり、馬韓戦争はその翌年の、元治げんじ元年(1864年)の8月である。この二つの戦争がその後の日本に与えた影響は計り知れないものであった。その理由の一つは、薩摩・長州という日本のトップの藩が世界を思い知ったことである。そしてもう一つはなかなか語られないが、世界が日本を認識し「文明国」として意識させたこと、にある。

この二つの戦争について、過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本)からの引用で恐縮だが、ご覧いただきたい。

薩英戦争と薩摩藩
薩英戦争は、まず生麦事件(文久2年:1862年)に端を発する。薩摩藩主島津久光の大名行列にイギリス商人が入ってしまい、結果的に死んだ事件である。当時は不平等条約により治外法権があったため、イギリス側にとってはとんでもないこととなり、犯人の差出を要求した。幕府は先に賠償金を払っている。
犯人の逮捕と処罰、賠償金を求めたイギリスに対し、薩摩藩の返答は「生麦事件に責任なし」だった。かなり挑戦的な対応だったが、怒ったイギリスも薩摩の船を拿捕するという行為に出た。これもまた、過剰ともいえる対応である。
結果、翌年の文久3年(1863年)に鹿児島湾にて砲撃が始まり、薩英戦争となった。結論から言えば、両者痛み分けの形で戦争は終了している。しかし、人的被害はむしろイギリスに多く、薩摩藩は周到に砲弾の計算等を行い、訓練・避難をしていた。
そして講和のテーブルに着いたとき、薩摩藩は賠償金を払うと申し出たため、イギリスは驚いたが、これで負けたわけではないという体面がついたため喜んだという。ただし、生麦事件の犯人については「逃亡中」(もちろん嘘)として罰することすらしなかった。薩摩藩では賠償を払ったことに批判もあったそうだが、これ以上イギリスを刺激することを避けたかった本音があった。

若いころの大久保卿

若いころの大久保卿

ここで、イギリス側からすれば、少し圧力をかければ、いつも謝罪で頭を下げて金を払って問題を処理しようとする江戸幕府よりも、筋を通してギリギリの交渉をしてくる薩摩藩を好意的にみた。この戦争の講和を機に、薩摩藩とイギリスは接近することになったのである。
このとき薩摩を指揮したのが、まだ30代の若かりし大久保利通と言われる。また、この薩英戦争には、その後の日露戦争の英雄や大臣として国を引っ張って行く、山本権兵衛、東郷平八郎、大山巌、その他が、国の一大事と従軍している。彼らも、10代・20代という若さであった。ここで、イギリスという世界帝国を体感した。薩摩はこれからイギリスと接近することになるが、日英戦争の意義は日本にとっても、非常に大きかったと言える。

(Wikipediaより)
ニューヨーク・タイムズ紙は『この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった』とし、さらに、『西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう』とも評している。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

 

馬関戦争と長州藩
馬関戦争は呼び方としては総称として使われる場合もある。戦争自体は、文久4年(1864年)に長州藩が4国連合艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)に砲撃され、長州海軍が壊滅的打撃を受けたものである。壊滅的と言っても、長州海軍はもともと貧弱ではあったが・・・。
なぜ、4国連合が砲撃したかと言えば、その前年の文久3年(1863年)、先の薩英戦争と同じ年に、長州軍が「攘夷の実行」として、外国船を砲撃したからである(下関事件)。
4国連合にとっては、あまりに当たり前と言える報復攻撃をしたといえる。ただ、この頃の長州藩にとっては事情があった。「攘夷」の勅命が下っているのに、幕府の動きの遅さに業を煮やした長州の一部の急進派の行動であった。長州の中でも割れていたが、外国船に砲撃するという行為の結果、長州藩は大騒ぎとなった。そして、報復を受けて、完全な敗北となったのである。ここでも重要なのは、その後の交渉と展開である。

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

4国連合との交渉には、そもそも砲撃に反対していた伊藤博文が藩の危機と急きょ留学先から戻っていて、日本側の通訳として参加した。そして長州藩は講和使節として、高杉晋作を抜擢した。高杉はこの時、脱藩の罪で牢につながれていたが、急遽任じられたのは優柔不断の藩主にその力はなく、高杉に頼るしかなかったためである。 高杉は家老・宍戸備前の養子、刑馬(ぎょうま)と名前を変えて身分を偽り、連合軍の旗艦ユーリアラス号でイギリスのキューパー司令官との談判に臨んだ。その姿は終始傲然とした姿勢を崩さず、その様子をイギリス人通訳アーネスト・サトウは、「魔王のようだ」と評した。

最初の交渉では、藩主が出てこないため連合国側は不満であったらしく、48時間の休戦を決めただけで終わる。にもかかわらず、なんと2回目の交渉の前に高杉は姿をくらました。自分の代役として臨む家老では埒が明かないと連合国側が認識するだろう、と狙ったともいわれる。実際、3回目の交渉の席に高杉が臨むと、連合国側は「藩主を出せ」と要求するが高杉が「藩主は蟄居中である」と応えると、あっさり引き下がった。
交渉では連合国側は、馬関海峡の外国船の通行の自由等及び賠償金として300万ドルの支払いを求めた。 高杉は基本的には認めるが、ただし支払うのは長州藩ではなく、長州藩に攘夷を命じた幕府の義務なので幕府に請求せよとして、相手に認めさせた。

道場での高杉晋作

道場での高杉晋作

なお、イギリスのキューパー提督は、重ねて彦島の租借を申し込んだといわれる。これを認めると、そこから国の割譲が始まるイギリスのいつもの流れとなる非常に危険な要求で、これに関しては断固拒否したという。この時、高杉晋作はわざと「古事記」を読んで、通訳できない伊藤博文を置いたまま、日本の伝統の重さを気迫をこめて伝えたといわれている。
イギリスを含め列強側にこのような交渉を見せつけたことは、非常に重要であった。実際、この交渉は単なる一つの藩の交渉ではなく、国際的な約束として履行されている。

高杉晋作は、この時24歳。そして、その4年後に結核で亡くなる。明治維新では、その他にも大勢の志士が若くして亡くなっているが、この人ほど長く生きてほしかったと思う人はいない。やはり早すぎる死であると思わざるを得ない。

幕府の機能が完全に低下する中、薩摩藩・長州藩が軍事力では劣っていても、独自の交渉を見せて、交渉自体は国際法に基づいて実施した。明らかに賠償額等は不当であったようだが、世界最強のイギリスとも堂々と戦い、そして毅然と交渉を行いその存在を認めさせたことは、日本がアジアで唯一独立足り得た大きな原動力となった。「清」と同様の道を歩む危険は十分にあった戦争であった。日本が清と同様な「半植民地」とならずにすんだのは、上記のような若かりし日の志士達の、まさに獅子奮迅ししふんじんのごとき覚悟と活躍あってのことであることをよく知っておきたい。

なお、長州藩ではこの馬関戦争の後に、その同年のうちに高杉晋作によるクーデター功山寺決起が行われる。攘夷派の過激な活動のため「朝敵」とまでなった長州藩は、この頃、幕府に恭順を示す守旧派(いわゆる「俗論党」)が実権を握って粛正を進めていたが、それに対して高杉晋作が決起し、主導権を奪ったものである。詳細は(➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い の「高杉晋作」参照)。これにより、長州藩は完全に方向性が固まったと言える。もともと過激な攘夷派が暴走しているような状況だったが、高杉晋作・桂小五郎を中心に、開国・近代化をすすめながら国力をつけて列強に対するという「武備恭順ぶびきょうじゅん」の方向性で、藩が固まっていった。

(6) 第一次長州征伐と勝海舟

こうした二つの戦争を経ても、幕府はなおも世界に目をくれず、長州に対する圧力に腐心していた。禁門の変でまったくの悪役となった長州に対し、総攻撃をしかけるべく準備を進める。すなわち、西国21藩に出兵を命令、征長総督に尾張藩主の徳川慶勝を任命し、元治げんじ元年(1864年)の11月18日を総攻撃の日と定めた。いわゆる、「第一次長州征伐」である。

幕府はこのように準備を進めるが、その後の動きは非常に緩慢であった。本気で長州藩を取り潰す、という気はなかった。脅せば長州藩もおとなしくなる、くらいの認識であった。また、総督となった尾張の徳川慶勝はもともと武力討伐には消極的で再三断るが、「全権委任」を条件にして初めて受けた、といういきさつがあった。

結論から言えば実際の軍事行動はとられず、長州藩に対して家老3人の切腹、先の七卿落ちで残っている5卿の追放、山口城の降伏を条件に、長州藩の降伏を認めるのである。これには幕府側は大きく不満であったが、総督の徳川慶勝がその決断を下して、征長軍を解散させてしまった。
これを主導したのが、西郷隆盛である。しかし、西郷隆盛は当初は長州藩を倒すべく意気揚々であった。これが変わったのは、長州征伐の準備が進められている頃にあった、勝海舟との初めての出会い(元治げんじ元年:1864年 9月11日)からである。このときに、勝海舟が述べたのが、以下の通りである。

「幕府の高官は時勢に疎く、責任逃ればかりで決断力がない。もはや国家の大事は幕府に任せておけず、薩摩や越前、土佐といった雄藩が連合して、政務にあたるべきではないか。長州征伐のような内輪もめをしている場合ではなく、外国から侮られぬよう、幕府を廃し、天下の諸侯が協力して国是を決め、外国に対処すべき」
勝海舟と西郷隆盛

勝海舟と西郷隆盛

西郷隆盛は、幕臣の勝海舟から出た言葉が幕府の批判であることに驚き、また、世界における日本の位置づけも明確に理解した上で「長州征伐などしている時ではない」と断じた勝海舟に、心の底から敬服をしている。
西郷隆盛という人は、人的魅力のつきない人である。その中で私が好む最たるものは、ここぞと決めたときの信念と大胆な決断力である。勝海舟という一人の天才に出会い、自分の視野の狭かったことを痛烈に自覚した西郷隆盛は、その後、大きく方向性を変える。薩摩の田舎軍人から、「日本」という単位での行動をするようになる。実際、この第一次長州征伐にて軍事行動なく終わったのは、西郷隆盛の動きがあってである。西郷隆盛は、長州藩を倒すことは日本のためにならないと悟り、大きく行動に出たのである。

(7) 仇敵同士の奇跡的同盟「薩長同盟」と第二次長州征伐

このように、「長州征伐」という意味では中途半端に終わった「第一次長州征伐」であった。内情は薩摩の最高実力者である西郷隆盛、そしてもちろんその同胞である大久保利通が、「倒幕」に傾き始めたことが明確に歴史の事実として出た証拠であった。しかし、幕府側は、長州藩が思った以上に早く恭順の意を示したがいかにもその場しのぎの対応であったため、幕府の権威のためにということで、長州を討つ事を考えていた。その急先鋒が後に最後の将軍となる徳川慶喜であった。

一方長州側は、幕府側に、そして4国艦隊にと、散々に破れ、大いに危機にあった。その中で、幕府に恭順を示す「俗論党」が長州の実権を握った。「俗論党」とは高杉晋作が命名した派閥で、要するに守旧派の下らない連中、という意味を込めている。一方の改革派は「正義党」とよばれる。当然これも高杉晋作の命名だが。その俗論党が正義党の粛正を行ったことから、高杉晋作が前代未聞の無謀とも言える決起をし、長州勢のクーデターを成功させるのが「功山寺決起」(元治元年:1864年 12月)である。「これより長州男児の肝っ玉をお見せしよう」といって始まったこの戦いは、当初「80人対3000人」というあり得ない戦いであった。しかし、見事にこれを成功させた。詳細は(➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い の「高杉晋作」参照)。これにより、長州藩は実質的に高杉晋作とその盟友の桂小五郎により、完全な開国・倒幕路線を明確にしていく。

薩長同盟の当事者たち

薩長同盟の当事者たち

そして薩摩側は、長州征伐を終えて、ほとんど幕府勢力に対する見限りが進んでいた。少なくとも、西郷隆盛・大久保利通はそう判断していた。そうした下地がある中に、土佐藩の藩士、坂本龍馬・中岡慎太郎という調整能力に長けた志士が調整役となって間に入り、仇敵同士の薩摩・長州が手を結ぶ「薩長同盟」が結ばれる(慶応2年:1866年3月)。
「薩長同盟」というと大々的に行われた同盟に見えるが、実際には秘密同盟であり、京都で薩摩の小松帯刀の別邸で行われた。面子に固執する、西郷隆盛・桂小五郎を坂本龍馬が説き伏せて手を結ばせる、という名場面のところである。実際には、薩摩の小松帯刀、土佐の中岡慎太郎などの志士たちなしではなしえなかった。まさに歴史の一ページとなる瞬間であったことは間違いない。

このように結ばれた薩長同盟であったが、幕府はそれを知らず、高杉晋作のクーデターにより倒幕派が実権を握った長州藩に対して、再度の討伐を強行する。これが「第二次長州征伐」である。これには、諸藩の反対が非常に強かったが、幕府の権威により15万もの軍勢をそろえる。しかし、ここに最強の薩摩藩は参加しなかった。先の薩長同盟が機能していたのである。そして幕府15万人に対して長州は3千人程度で戦争が始まる。しかし、実際に戦争が始まると長州軍の奮戦ばかりで、幕府軍を圧倒してしまう。もともと幕府軍の士気が低かったのに対して、長州軍は高杉晋作はもちろん、毛利元純を大将に、そして参謀には高杉晋作と並び称される軍事の天才である大村益次郎をつけ、圧倒的兵力の差をものともしない士気で、幕府軍と戦った。また、先の薩長同盟で薩摩藩や坂本龍馬から武器を買い付けていたのもあり、近代化した武器を大量にもっていて、それをフルに利用した結果だった。結果、幕府軍は敗走した。

(8) 最後の将軍「徳川慶喜」と江戸幕府の終焉 ~大政奉還及び王政復古の大号令~

徳川慶喜

徳川慶喜

この第二次長州征伐で、ついに長州藩というたった一つの藩にも勝てなかった幕府は、その権威を大きく失墜させた。また、第二次長州征伐の最中の慶応2年(1866年)に、第14代将軍の徳川家茂が病死し、そして最後の将軍、15代将軍徳川慶喜が将軍に就任する。しかし、それでも幕府の士気は上がらなかった。

慶喜は、将軍としての人望がない人だった。この年は、孝明天皇の崩御の年でもある。夷狄を嫌い、攘夷を強く主張した孝明天皇の崩御は、政局に大きな影響を与えることとなる。毒殺説も根強い。また翌年即位した明治天皇はこのときわずか14歳。その後の激動の日本を引っ張った明治天皇は、非常に若くして即位していた。

長州征伐で幕府の威信は大きく失墜したが、それでも最大の勢力であることに変わりは無かった。また、慶応2年(1866年)に薩摩藩主導で「四候会議」が開かれるが、徳川慶喜はうまくこれを無効化し、優勢を維持した。これにより、完全に薩摩藩は幕府を倒すことに向かうこととなる。徳川慶喜は、よく徳川家の勢力維持に腐心した。それが「大政奉還」である。大政奉還は、慶応3年(1867年)10月14日に徳川慶喜が政権を天皇に返上したものである。これにより江戸幕府の265年の歴史はあっけなく幕を閉じたことになる。

しかし、返上と言っても幼い明治天皇をトップとした朝廷に政治を行う能力は無く、結局有力諸侯の集まりによって政治は行われる。しかし、その最大勢力が当然徳川家であったため、慶喜は「名を捨て実を取る」ことに成功したことになる。一方で、このまま慶喜のいいようにやられてはいけないと、薩摩の大久保利通や朝廷の岩倉具視が中心となり、幕府そのものの廃止などをうたった「王政復古の大号令」が出される(慶応3年:1867年 12月9日)。

しかし一方で、旧幕府の勢力今だに強く、それらが大きく反発した。しかし、徳川慶喜は政府に対する恭順を示すために、京都の二条城を出て大阪城に待機する。とはいえ、裏では松平春嶽らと画策し、着々と復権の駒を進めていた。

(9) 「鳥羽伏見の戦い」と徳川幕府の完全なる終焉

鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い

このように、大政奉還をへて王政復古の大号令まで行われたが、徳川家が依然として巨大勢力であることに変わりは無かった。これではいけないと、薩摩藩の西郷隆盛が行動にでる。徳川家のお膝元の江戸にて、放火や強盗などを行い、幕府側を怒らせている。こうしたテロ行為は幕府側の薩摩に対する恨みを増長させ、最終的に幕府側の出兵を引き出している。

幕府側はこのような暴挙をする薩摩に対し、薩摩討伐の勅許(明治天皇の許可)を得るべく出兵する。新政府軍とそれがぶつかったのが「鳥羽・伏見の戦い」(明治元年:1868年 1月27日~30日)である。この戦いこそが、戊辰戦争の始まりであり、徳川幕府にとどめを刺した戦いである。というのは、戦いの最中に「錦の御旗にしきのみはた」を薩摩藩が掲げたことで、幕府側が「朝敵」となり、もともと戦争に消極的だった徳川慶喜はそれにより完全に戦意を喪失し、あろうことか大阪城から江戸に逃げて帰ってしまったのである。この時点で、幕府軍の戦意・戦力は地に落ち、江戸幕府すなわち徳川家は完全に歴史の舞台から退くことになるのである。

鳥羽・伏見の戦いは「明治元年」の年である。「鳥羽・伏見の戦い」は、まさに明治の時代の幕開けといってよいだろう。

3.【倒幕期】を見て

【倒幕期】はめまぐるしく状況が変わっていく。それくらい流動性の高い時期だった。天皇を中心とした国家の方向性は定まっていたが、だれが政治を担うかの結論で2転3転した。その結果、薩摩・長州を中心とする「明治政府」が誕生する。

しかし、明治維新の目的は新政府の樹立ではない。あくまで列強に対抗することであり、これからそのための体制作りに邁進する。次回に【政府形成期】として記述する。

 

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コメント

    • ゆかり
    • 2018年 6月 06日

    いろいろな出来事が重なり合って流れもドラマティックにめくるめく変化してったんだねぇ。
    当事者達の先を見据える先見の明と、決断力に脱帽です。いやはやカッコイイ先人達ばかり。しびれます。

      • てつ
      • 2018年 6月 06日

      ほんと、いろいろな出来事がめまぐるしく変わっていった時期す。

      先人達の判断や情熱を見ると本当に誇らしいし、見習いたいと思うねぇ。

    • ゆうじ
    • 2018年 6月 02日

    いやはや読み応えがありました。ご承知の仕事ゴタゴタもひと段落したので、ついつい就業時間中に…笑
    激動の維新の中でも盛り上がる時期ですね。エキセントリックは高杉に惹かれますが、文武両道(逃げの小五郎の異名もありますが…)&温和篤行(ストレス過多&で病弱ですが…)な木戸孝允もいいですねー。維新三傑で一番目立ちませんが、好きな人物です。

      • てつ
      • 2018年 6月 02日

      出来事が目白押しなので、まとめるのに苦労しました。

      木戸孝允は私も好きですよ。どちらかというと「桂小五郎」の方がなじみ深いですね。
      高杉晋作も「桂さんなら」と絶大の信頼を寄せていた人です。また、記述しますよぅ。

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