フランス革命とナポレオン時代を追う!【7】そしてナポレオンとその後へ

モスクワでの敗戦

フランス革命後にヨーロッパをすべて飲み込んだナポレオン戦争とその後の失脚を追う。

シリーズの最後である。

ナポレオンは瞬く間にヨーロッパ全土を制圧下にする。その軍事的天才にヨーロッパはなすすべもなく、また自信を取り戻したフランスも全盛と言える状況となった。しかし、それは諸外国に取れば単なる侵略にしか過ぎず、度重なる戦争に国外はもちろん国内からも批判を浴びる。更に、ナポレオン自身の強烈な野心もあらわになり、最後には失脚する。その後のフランスも安定しない。
ナポレオン後から少し長いスパンでまとめてみた。是非見てほしい。

(シリーズ過去記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【3】革命第一段階:憲法成立と国王の危機
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【4】革命第二段階:王政の終焉と、周辺諸国との戦争
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【5】革命第三段階:ジャコバン派の恐怖政治と、テルミドールの反動
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【6】革命第四段階:揺れ戻しの政治と対仏大同盟とナポレオンの台頭

1.ナポレオンとフランス革命

これまで記述したとおり、フランス革命は紆余曲折うよきょくせつを経てもなお、混乱は収まらなかった。革命は、第一段階で憲法が成立し、第二段階で王政が倒れ共和制となり、第三段階で国王を処刑し、反対する者全てを処刑し、その処刑した人達も処刑され、「テルミドールの反動」により、革命は一つの役割を終えた。しかし、第四段階で残ったのは王政後の政治をどうするかということと、諸外国からの危機に対する対応であり、国内の体制は全く定まっていなかった。

そこで登場したナポレオンは、突然現れた印象がある。しかし、ナポレオンに時代の流れがまさに「はまった」といえる。国民が「国王」亡き後に望んでいたのは安定した政権であり、それは同時に他国に対する強さを示せる強い指導者であった。
ナポレオンはまさに、その両者を実行しうるだけの軍事的才能と政治力を持っていた。ナポレオンの才能は決して軍事だけではない。啓蒙思想に深く心酔し、ロベスピエールを尊敬していたナポレオンは、いわゆる「啓蒙思想家」であった。また、それに加えて強烈な野心家であり、戦略家であった。決して軍事だけに精通していたという人ではなかった。

ナポレオン戦争年表

ナポレオン戦争年表

わずか30歳の時に、1799年のブリューメルのクーデターにより、実質的に国のトップとなる。その後の4年間で大混乱のフランスを沈め数々の功績を立てた上で、遂に1804年に「皇帝」となる。ナポレオン35歳の時である。そして、またたく間にヨーロッパの国々を傘下に収めその版図は、ほぼヨーロッパ全域まで伸ばした(1810年)。しかし、その後諸外国の抵抗と無理な拡張に限界が来て、わずか5年後には失脚することとなる。

いわゆる「ナポレオン戦争」は、フランス革命の精神を各国に広めることとなったが、その犠牲者数は400万人とも600万人とも言われる。中でもフランスの若年層は一気にいなくなり、当時の人口構成を著しくおかしくし、その後のフランスの発展に大きな足かせとなった。それでもなお、フランス革命、そしてナポレオンはフランスでは大きな歴史の一ページとして語られる。ナポレオン戦争は悲惨であったが、フランス革命の精神を体現したナポレオンにより、「絶対王政」を否定し、市民による政治を示したことにより、フランス革命の精神はヨーロッパ世界に確実に広まったといえる。

ナポレオンはフランス革命の混乱があったからこそ生まれた人物であり、一方で、フランス革命は、ナポレオンとその失脚により、一つの意義と段階を終えたといえるのではないだろうか。

2.ナポレオンの功績 ~ナポレオン法典と啓蒙思想~

ナポレオンがフランスの政治の中心となるのは、1799年のブリュメールのクーデターから、1815年のナポレオン失脚までの15年間である。その最初の4年間は、実質的には絶対権力者ではあったが、「統領政府」として3人の統領の一人でしかなかった。ナポレオンが皇帝になるのは1804年であり、その後皇帝として君臨することとなる。

戴冠式(1805年)のナポレオン

戴冠式(1805年)のナポレオン

では、ナポレオンが強引に皇帝になったのかというとそうではない。熱烈なフランス国民の支持を受けて、圧倒的な賛成の下で皇帝となっている。
1799年のクーデターの頃もそうだが、テルミドールの反動後、フランスは全く安定せずテロやクーデターの繰り返しであった。そんなときに「第一統領」として政治の中心に躍り出たナポレオンであった。当時のフランスは政治・経済、そして社会全般が完全に混乱と退廃の中にいた。あまりに急進的なフランス革命、まがりなりにもいままで中心にいた王室の存在がなくなったこと、その復古をもくろむ旧勢力、まとまらない革命政府、と、まさにフランスは混乱のまっただ中だった。

結論から言えば、ナポレオンはそれを「統領政府」時代(1799~1804年)に見事に治め、フランスの秩序と平和をしっかりともたらした。1804年に彼は皇帝となるが、その功績を考えれば至極当然とも言えるほどであったようである。国民の大多数がナポレオンの皇帝即位を支持したという。歴史家の言葉を借りれば「これほど短期間で根本的な改革を成し遂げられたのは脅威と言うほかない」というほどであった。

ナポレオン法典

ナポレオン法典

フランス革命は、王政に対する反感からスタートしたが、それにより「利己主義」を助長し、国家としての連帯感を失わせたと言われる。ナポレオンは社会に秩序が必要と、法による秩序作りに腐心した。後に「ナポレオン法典」と言われる民法典は1804年に公布されるが、これこそがナポレオンの功績の最大のものの一つといえる。近代的な思想を「法」という形で表現したこの民法典は、この後の世界に大いに影響を与えた。ナポレオン戦争による領土獲得に匹敵するものとも言われ、ナポレオン治世の金字塔とも言えるものである。現在の日本の民法にも深く影響を与えた。

ナポレオンが皇帝となるとき、、まさにナポレオンは啓蒙思想に基づいた理想的な国家を目指し、それに邁進していた。それが国民の大きな共感を得たからこそ、その後に、国民の圧倒的支持を得たうえで、皇帝となったのである。

3.ヨーロッパにおけるナポレオン戦争

いわゆる「ナポレオン戦争」は、フランス革命後にナポレオンを中心にして行われた戦争を総称したものである。ナポレオンはヨーロッパ全土に遠征に行っている。エジプト遠征、スペイン制圧、ベルギー制圧、ロシア遠征、などなど、幾度となくヨーロッパ各国との戦争となり、そのほとんどに勝利するという、驚異的な軍事力だった。
それに対してヨーロッパ諸国は、特にイギリスを中心に結束してフランスに当たるべく進めた。それが幾度となく繰り返される「対仏大同盟」としてフランスに対抗し、大いにフランスを苦しめていた。

この戦争は本来「革命理念の拡大」が名目であり、ナポレオンは自身でこう言っている。

「私は侵略を目的に戦争したことはない。ただ、革命に対抗するイギリスの挑戦を受けただけのことだ」

しかし、他国にとっては侵略以外の何物でもなかった。またイギリスにとっては何百年にもわたって続けられているフランスとの「百年戦争」の一環として考えられる。アメリカの独立戦争からフランス革命、ナポレオン戦争に至るまでを「第二次百年戦争」と呼ばれる.

ナポレオン戦争時のヨーロッパ

ナポレオン戦争時のヨーロッパ

ナポレオン戦争時のフランス最大版図を見ると、いかにナポレオン率いるフランス軍が強かったか改めて思い知る。図の着色部分はすべてフランスの影響下にあった。イギリス・ロシア・オスマン帝国を除くほとんどすべてのヨーロッパ諸国を下し、国境はなきものとなった。
フランス軍の強さはナポレオン個人によるところもあるが、主たる要因はそこではない。当時戦争は「傭兵」が雇われて行うものが中心だったのに対し、フランスではジャコバン政権から行われていた「徴兵制」となっており「国民軍」の形成により、動員力が全く違っていた。また、フランス革命に対する列強の圧力への対抗ということで、その士気も他国を圧倒していた。そういう意味でも、ナポレオン戦争はフランス革命の一部と考えることもできる。なお、ナポレオンはイギリス上陸も目指したが、結果的にはイギリスは無傷のままで戦争を終えている。ナポレオン戦争後、ヨーロッパ各国では徴兵制の導入など軍制改革も進み、ますます戦争の体制が大規模化されていくこととなる。

戦争は有名な物がいくつもある。フランス海軍が負けた「トラファルガーの海戦」、皇帝3人(ロシア:アレクサンドル1世、オーストリア:フランツ1世、フランス:ナポレオン)が同じ戦場に介した「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」、イタリア征服など、いくつもあり、そのいずれも大きな規模のものであった。ここでは詳細は記述しないが、興味のある人は是非、本など読んでみることをお勧めする。

現在の凱旋門

現在の凱旋門

なお、フランスの凱旋門はアウステルリッツの戦いの勝利を記念して1806年にナポレオンが指示して建設が始まっている(完成は1835年)。

4.モスクワでの大敗後の衰退と失脚

こうした破竹の勢いのナポレオンであったが、戦争が続きすぎたことは国民の反発も招いた。また、皇帝になった頃からその野心を隠すことなく、みずからの版図を広げていくその様は、諸外国の反発はもちろん、国民の心も離れさせていった。そんな中で、モスクワでの大敗(1812年)から、敗戦が続くようになっていく。

モスクワでの敗戦

モスクワでの敗戦

ナポレオンの愛したジョセフィーヌ

ナポレオンの愛したジョセフィーヌ

ハプスブルク家の皇女 マリア・ルイーザ

ハプスブルク家の皇女 マリア・ルイーザ

また、ナポレオン自身がイタリア国王になったり、スペインは兄を国王につけたりと、まさに王政の頃と近い形での政治体制を作りつつあった。それに加えて、前のルイ16世のブルボン朝を復活させようとする王党派との暗躍もあり、ナポレオンはどんどん専制君主化していった。しかも、あれだけ否定していた王政であったのに、名家との血筋がほしくなり、子供のいなかった妻ジョセフィーヌと離婚し、ハプスブルク家の皇女マリア・ルイーザと結婚する。フランス革命により処刑された「マリーアントワネット」と姻族関係になったことになるのだから、皮肉なものである。皮肉と言えば、ナポレオンが深く愛したジョセフィーヌは浪費家の上に貞節を守らない人であり、マリーアントワネットに重なる部分がある。一方で、ハプスブルク家の皇女マリア・ルイーザは質素でつつましく、最終的にはナポレオンを深く愛したと言われる。これも歴史の皮肉であろうか。

こうした度重なる敗戦とあまりに露骨なナポレオンの専制ぶりに、ついにナポレオンは1814年に強制的に退位させられ、更に「エルバ島」に幽閉される。この後、フランスの政治をになうのは、ルイ16世の弟であるルイ18世となってブルボン朝が復活するのである。

タレイラン・ペリゴール

タレイラン・ペリゴール

このナポレオン戦争後の世界秩序を話し合ったのが、オーストリアのウィーンで開かれた「ウィーン会議」である。まったく進まなかったことで「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された有名な会議である。しかし、ここでのフランス代表として出席した「タレーラン」の外交手腕は見事であった。明らかに戦争の責任を負うべきフランスの立場を、「正当主義」を掲げてフランス革命前の秩序に戻しことを主張し、それに近い形で合意を勝ち取っている。もともと王党派の彼は、穏健的に政治を進めることを目指していた。しかし、それで立てたルイ18世に失望することになるが・・・。

 

5.その後のフランスと世界 ~フランス革命が世界に与えた影響~

このようにみてみると、最後にはブルボン朝が復活している。結局、フランス革命とナポレオン、そしてそれに関わる戦争は一体何だったのか、と言いたくなる。フランスの政治はその後も安定せず、王朝と共和制とを行ったり来たりして、そのまま世界大戦の時代に入り、現代に至るのである。

近現代のフランスの政治体制の変化

近現代のフランスの政治体制の変化

フランス革命とナポレオン戦争での犠牲者数たるや、日本史では考えられない程の人数である。400万人とも600万人とも言われる人が犠牲となっている。日本の犠牲者数で第二次世界大戦を除けば、内戦でここまでの人を殺害したというのは、やはりまったく理解に苦しむ。しかも800年も続いた王朝を自ら破壊し、その後は更に内輪もめで虐殺が続き、自国民同士で殺し合う様子を見ると、「文化が違う」、という言葉をだすのがやっとである。

しかし、その混乱であっても、人々の情熱とおぼろげながらあった理念があったことは見て取れる。ナポレオンが支持されたのも、彼自身が深くルソーやモンテスキューなどの「啓蒙思想」を大事にしていたからと思う。
日本の江戸時代の後期の出来事で、日本と比較するとあまりに違う論理と行動と言わざるを得ない。天皇陛下の存在がいかに大きいのか、よく理解できる。天皇陛下という万世一系の存在があったため、日本は大きな内戦があってもあるところでは一致団結していた。

正直なところ、個人的にはフランス革命とその一連の動きは、日本人的な感覚では理解できないと思っている。しかし、人々が情熱を持って改革をしようとした結果として、しっかり勉強しておきたい。フランス国旗国歌(ラ・マルセイエーズ)、フランスを象徴する凱旋門、すべてこの頃に作られたものである。混乱と悲惨さの悲劇がつきまとうフランス革命・ナポレオン戦争であったが、市民が立ち上がりまさに世の中を大きくひっくり返す「革命」であったと、強く思う。そして一方で、日本の歴史の「賢さ」を感じずにはいられない。

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