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江戸時代から見た世界史②~ヨーロッパ戦争史~

江戸時代期(17世紀~19世紀前半)のヨーロッパ戦争を見る

先回で江戸時代の世界情勢について述べた。
( ➡ 江戸時代から見た世界史①
今回はその世界での動きを、特にヨーロッパについて、少しクローズアップして記述したい。

1.江戸初期~幕末(17世紀~19世紀前半)の日本・世界史年表

まず、もう一度年表を見てほしい。

江戸時代と世界史年表
江戸時代と世界史年表

先にも述べた通り、ヨーロッパの歴史は戦争の繰り返しであり、ここにない戦争を含めたらとても書ききれない。またそれらも重要ではある。ただその中で、当時のヨーロッパ列強及び日本への影響を考えた時に抑えるべき戦争は下記のとおりである。
・30年戦争(1618~1648年)とウェストファリア条約
・7年戦争(1756~1763年)とパリ条約
・ナポレオン戦争(1799年~)とウィーン会議
重要な戦争はいくつもあるが、上記の3つがその規模、その後の影響を考える上で重要なため、それぞれについて述べたい。
なお、1853年からの「クリミア戦争」はクリミア・バルカン半島での戦争だが、日本にとってもロシアを通じて影響が大きい。その後の第一次世界大戦が有名なバルカン半島でのサラエボ事件から発したことも象徴的なように、クリミア戦争はその後の世界を見る上でも非常に重要な戦争である。また、アメリカが日本に開国を求めることができたのも、当時のヨーロッパの関心がクリミア戦争で東アジアになかったことが理由の一つと言われる。これほどクリミア戦争は重要だが、時期的に明治維新・近代の話として別で述べたい。ここでは明治維新前の江戸時代を見る、ということでクリミア戦争はここでは触れない。

これから、ヨーロッパの戦争について示すが、一つ先に知っておくべき事実を示しておきたい。日本における戦争の死者数である。江戸時代には大きな戦争はなく、戦争による死者数はゼロとしていいだろう。明治維新は諸説あるがどんなに多くとも何万人であり、戊辰戦争こそあったが、江戸の無血開城を代表に、廃藩置県というシステムの大変革があっても流血を見なかった。日本駐在のイギリス外交官パークスは、廃藩置県が流血を見ずに行われたことを見て、「ヨーロッパなら数年は戦争となる。人間の仕業ではない」とまで漏らしたといわれる。

2.30年戦争(1618~1648年)とウェストファリア条約(1648年)

(1) 戦争の概要
日本では、まだまだ江戸幕府開始間もない頃である。

30年戦争対立国
30年戦争対立国

戦争に関わった国名を挙げだすと余計複雑になる。あまりにいろいろな国が加わって、訳が分からなくなってくる、というのが感想である。端的に述べれば、ヨーロッパ中が加わった宗教戦争で、プロテスタントとローマカトリックの戦い、がスタートである。宗教改革が終わった後にくすぶっていた両者の争いが、当時の神聖ローマ帝国領のボヘミアでの紛争から戦争が始まる。その後は、デンマーク、スウェーデン、オランダ、フランス、オーストリア、スペイン、などが加わり、戦争はヨーロッパすべてを巻き込んだ。「最後で最大の宗教戦争」ともいわれるが、実際には宗教戦争の要素のみならず、ヨーロッパでの覇権争いである。フランスブルボン家はこれをいい機会とスペインハプスブルグ家に戦争を挑むという覇権争いの側面もあった。
(2) 戦争の状況
30年戦争は30年ずっと続いたわけではなく、何回かに分けて行われた。犠牲者数は諸説あるが、400万人とも1,000万人ともいわれる。戦争は悲惨さを極める。少し聞いただけで、正直日本人では理解できないレベルである。理解できないのは人数だけではなく、その残酷さである。宗教戦争の名のもと、異教徒となれば人とみなされず、ある意味動物以下ともいえる扱いである。単に皆殺しではなく、筆舌に尽くしがたい猟奇的な殺し方であったり拷問が行われている。その様子は文学では、グリュンメルスハウゼンの『阿呆物語』、絵画ではジャック=カロの『戦争の悲惨』などが伝えている。カロの絵画の一つが、添付した図である。ぶら下がっているのは全て人である。このような画像を見ると、日本人との違いを感じずにはいられない。日本の歴史でこのような事実は見たことがない。架空の南京事件等は当然別であるが。
なお余談だが、支那大陸での残虐ぶりも筆舌に尽くしがたい。一つの例が凌遅刑(りょうちけい)と言われる刑である。見るのも吐き気がする。なお虐殺はチベット・モンゴル・ウィグルなどで、現在進行形である。せめて程度は違うと信じたいが・・・。
(3) ウェストファリア条約
あまりに悲惨な戦争の結果、ロシアとトルコを除くすべてのヨーロッパの国々が参加し、新しい秩序作りが進められた。会議は1945年に始まり3年も続き、ようやく合意にこぎつけた。これにより、「宗教戦争」と言われる枠組みは終わりをつげ、各国は他国の領土を尊重し内政に干渉しないことが確認され、新たな国際体制が構築された。近代の国際法の元祖ともいわれる条約である。とはいえ、それほど長続きはしないのだが・・・。いろいろな決定があるが、主なものは以下のとおり。
・「神聖ローマ帝国」の支配下諸侯に大幅に主権が認められた。特に、プロイセンの台頭を見る。結果、神聖ローマ帝国は大きく弱体化したため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われる。なお「神聖ローマ帝国」はオーストリア=ハンガリーのハプスブルグ家に引き継がれる。
・フランスがアルザス=ロレーヌ地方を(神聖ローマ帝国から)勝ち取る。
・スウェーデンはバルト海沿岸部に領土を獲得。
・スイス、オランダの(神聖ローマ帝国からの)独立を承認。
余談だが、この頃の歴史をみていたらフランスの哲学者ヴォルテール(1694~1778年)の言葉に出会った。「神聖でもなければ、ローマでもなく、帝国でもない」という言葉を見て、かえって「神聖ローマ帝国」に興味がわいた。結局、今でいうドイツ地方の寄り合い所帯ということであるが、当時の人がこのように言っていたことが印象的である。

3.7年戦争(1756~1763年)とパリ条約(1763年)

7年戦争の同盟関係
7年戦争の同盟関係

(1) 戦争の概要
7年戦争は30年戦争から100年近く後の戦争である。その間も何度も大きな戦争があるが、世界戦争と言える規模のものは7年戦争であった。日本では田沼意次の政治の頃である。
この戦争は端的には、イギリス・プロイセン連合 対 オーストリア及びヨーロッパ諸国、である。オーストリア継承戦争の後、オーストリアのハプスブルグ家(マリア=テレジア)は「外交革命」とも呼ばれる外交手腕によりロシア・フランスと結び、プロイセンに対峙していた。それに対し、プロイセン(フリードリヒ2世)が先手を打ってシレジエン(現在のポーランドの南西部、当時のプロイセンとオーストリアの間)に攻め入ったことからスタートした。それにイギリスがプロイセンに加担、ヨーロッパその他の列強(フランス、ロシア、スウェーデン、スペイン)がオーストリアにつき、オスマントルコを除く全ヨーロッパが参加する世界戦争となった。
この戦争の大きな特徴は、ヨーロッパのみならず植民地でも戦争となっていることである。特に重要なのが「フレンチインディアン戦争」と言われるもので、その名の通り北米でのフランスとアメリカ(現地インディアン)との戦いであるが、イギリスがアメリカ側についている。また、インドでも長らく争っていたフランスとイギリスの東インド会社での抗争を再開させている。
この戦争は、イギリス・プロイセン対その他列強、という図式だが、イギリスは植民地でのフランスとの戦争に集中していてプロイセンに兵力を出すことはできず、ヨーロッパ本土では、プロイセン対その他列強、という図式であった。海外ではイギリスとフランスの植民地戦争であり、第二次百年戦争とも言われる。
(2) パリ条約(1763年)
この戦争は、この後にイギリス・フランス・スペインの3国で締結されたパリ条約を見ると、その意義がよくわかる。結果から言うと、イギリス・プロイセン連合が勝利した。結果、イギリスが圧倒的な植民地支配を確立し、プロイセンはヨーロッパの大国として台頭する。
パリ条約での決定事項の主なものは以下の通り。
・イギリスが北米のカナダ・ルイジアナをフランスから獲得。
・イギリスが北米のフロリダをスペインから獲得。
・スペインがフランスから北米の一部を獲得。
・インドでフランスがイギリスの優位を認める。
・ヨーロッパにおけるプロイセンの地位が確立し、ドイツ統一の主導権を握った。
このように、イギリスは圧倒的勝利により、北米・インドの植民地支配を強め、「第一帝国」と言われる世界体制を確立する。この頃イギリスは世界に先駆けて産業革命に入っており、その市場を得たことで大きなまさに世界帝国を強固なものとした。ただし、こののちすぐにアメリカ独立戦争(1775年)が起こり、北米の支配権は大きく削減される(カナダは残る)。
一方、フランスはその支配権を大きく失った。ウィーン条約は、フランス史上「最もみじめな条約」と言われている。当時のルイ15世はヨーロッパ大陸最強と言われていたフランスの地位を失うこととなる。また、その後のルイ16世はイギリスへの復讐とアメリカ独立戦争に参戦した結果、さらなる財政の圧迫を招き、それが後のフランス革命への道となってしまう。

このように、7年戦争は植民地での戦争も含めたまさに世界戦争であった。ヨーロッパ列強の影響が世界に広がっていることを象徴するものとなったと同時に、イギリスの帝国が確立された結果となった。

4.ナポレオン戦争(1799年~)とウィーン会議(1814~1815年)

フランス革命からナポレオン戦争までの略史
フランス革命からナポレオン戦争までの略史

(1) フランス革命
時期はいろいろい言い方があるが、スタートは1789年のバスティーユ牢獄の襲撃である。日本では家斉将軍の長い治世の頃である。
教科書にはいろいろ出てくる。バスティーユ襲撃前のテニスコートの誓い、その後のバスティーユ牢獄襲撃、マリーアントアネットの逃亡であるヴァレンヌ事件、ジャコバン派、アンシャンレジューム、テルミドールの反動、ラファイエット、ギロチン、ロベスピエール・・・と覚えることばかりで、私はどうしても理解するところまでたどり着けなかった。むしろ、「ベルサイユのばら」を見て少し興味がわいたくらいである。そういった一つ一つについてはここでは割愛して、世界史に与えた意義を中心に記述したい。
革命は、先の7年戦争及びアメリカ独立戦争により凋落したフランス王政(ブルボン家)に対する反乱から始まる。革命の過程として、まず絶対王政が倒れ、その後立憲君主制となる。しかし立憲君主制はあくまで君主を頂く体制で、それでは収まらずさらに共和制となったうえ、象徴的にルイ16世を処刑するところまできた(1793年)。こうなってくると現状秩序をあまりに乱すとして、特に王政を敷いていたヨーロッパ諸国は看過し得なくなってくる。「対仏大同盟」と言われる同盟が何度も結ばれる。第一回の同盟はルイ16世処刑の1793年で、イギリスを中心にスペイン・オーストリア・プロイセン・オランダ・ポルトガル・サルデーニャ・ロシアが結んでいる。その後のナポレオン戦争を含めると、第7回まで結ばれるもので、いかに革命の影響が大きかったが伺える。
と言っても、革命も決して民衆の手によるもので終わったわけではなく、その後ロベスピエールによる恐怖政治・その挫折と処刑を経て共和制となるが、結局最後はナポレオンが皇帝につき帝政となったことで、革命は一つの区切りを迎える。
(2) ナポレオン戦争(1803~1815年)
ナポレオン戦争は、フランス革命の後にナポレオンによって行われたヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争である。「革命理念の拡大」が名目であるが、他国にとっては侵略以外の何物でもなかった。
ナポレオン戦争時のフランス最大版図を見ると、いかにナポレオン率いるフランス軍が強かったか改めて思い知る。図の着色部分はすべてフランスの影響下にあった。イギリス・ロシア・オスマン帝国を除くほとんどすべてのヨーロッパ諸国を下し、国境はなきものとなった。
フランス軍の強さはナポレオン個人によるところもあるが、主たる要因はそこではない。当時戦争は「傭兵」が雇われて行うものが中心だったのに対し、フランスではジャコバン政権から行われていた「徴兵制」となっており「国民軍」の形成により、動員力が全く違っていた。また、フランス革命に対する列強の圧力への対抗ということで、その士気も他国を圧倒していた。そういう意味でも、ナポレオン戦争はフランス革命の一部と考えることもできる。なお、ナポレオンはイギリス上陸も目指したが、結果的にはイギリスは無傷のままで戦争を終えている。ナポレオン戦争後、ヨーロッパ各国では徴兵制の導入など軍制改革も進み、ますます戦争の体制が大規模化されていくこととなる。
また、ナポレオン戦争による死者数も特筆しておきたい。もちろんこれも正確には難しいが、400万人~500万人と言われる。単純に日本の内戦の死者数と比較するのはおかしいかもしれないが、いかに世界が平和に行き着くために多大の犠牲を払ったか、一方で日本が比較的少ない犠牲で江戸幕府という一つの平和を得て維持したことが貴重なことか、対比してみることも重要と思う。
(3) ウィーン会議(ウィーン体制)(1815年)
有名な「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議である。各国の利害が絡みなかなか会議は進まなかったが、途中にナポレオンの脱走があったりで合意にこぎつけた。基本的な姿勢は「正統主義」と言われ、ナポレオン戦争によってぐちゃぐちゃになったヨーロッパ国境を1792年以前の状態に戻す、というもので、革命前の王政時の状態に戻すというものであった。一見は合理的な提案のようにも見えるが、それを提唱したのがぐちゃぐちゃにした当事国のフランスのタレーランであったところが、皮肉というか、フランスの外交の巧みさに関心する。また、ウィーン会議は「正統主義」という形で王政復古となったが、フランス革命・ナポレオン戦争を通じて、民主主義・近代法などのフランス革命思想が伝播した。この革命思想によりヨーロッパは「民族主義」が広がることになる。とはいえ、これがバルカン半島を火薬庫に次の戦争、第一次世界大戦、の大きなテーマとなる。
このウィーン会議での決定事項を維持するために、二つの軍事同盟が提唱される。一つは「神聖同盟」で、提唱したのはロシアの皇帝、アレクサンドル1世である。これは、キリスト教的友愛の精神に基づき平和を訴同盟で、精神的な主君間での盟約である。外交的、政治的な拘束力はない。これにはほとんどの国が参加している。もう一つが「四国同盟」である。こちらが実質的な意味を持つ。これはヨーロッパの平和維持のための強大国の同盟で、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアで締結される。最初はフランスを抑えるためのものであったが、のちにフランスも加わり「五国同盟」となる。
五国同盟も長続きはしないが、プロイセンが国としての形が明確となる象徴的な同盟となった。ヨーロッパはイギリスを中心に、ロシア・フランス・オーストリア・プロイセンが5大国として確立したと言える。その中でもイギリスは圧倒的で、イギリス以外の4国相手にしても勝てる国力があったといわれる。

5.結果としての植民地活動への活発化

このように、日本の江戸幕府の時代は、ヨーロッパは、戦争を繰り返し、まさに血塗られた歴史であったと言える。その中で産業革命を経てヨーロッパは重商主義となり、植民地を求める動きがどんどん活発になっていくのである。

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