明治維新とヨーロッパ世界【1】 徳川250年間の世界史と、19世紀後半の世界情勢

19世紀後半の世界

徳川幕府250年間のヨーロッパ列強の歴史と、19世紀後半の世界情勢と日本を考える

今回からシリーズとして、19世紀後半の世界、すなわち明治維新の頃(1840年頃)から日清戦争の頃(1900年頃)までの世界史を、全体で見てみる。特にヨーロッパ列強と日本史、すなわち明治維新期の日本とを、合わせてみてみる。


初回の今回は、その前段として、徳川時代の250年間(1600年~1850年)を駆け足で見た後に、明治維新の時代である、19世紀後半の世界情勢の全体像に触れる。

学生時代から、明治維新の頃の歴史が好きで、明治維新そのものについては、いろいろ学んだし、それなりに詳しくはなったと思う。しかし、明治維新に対してずっとはっきりしない疑問が、二つある。一つ目は、「明治維新は、なぜ始まったのか」、もう一つは、「明治維新は、いつが終わりと言えるのか」、である。
今だに二つとも明確には、まだまだ理解していない。しかし、大人となって、本や教科書以外のメディアを利用することで、いろいろ見えるようになった。今回は、二つの疑問のうち、一つ目の「明治維新はなぜ始まったのか」の疑問を探るのに、大きなきっかけとなる、当時の世界情勢についてまとめてみた。それと、明治維新の頃の日本とを並べてみることで、見えることがあるかと思う。

なお、私は今だに世界史は苦手である。まとめていて、痛感する。どうしても、名前が多すぎて流れをつかみにくいし、ハプスブルグ家とかブルボン王朝とか言われても、親近感がまったくわかない。そんな人間が、日本史を理解するために、という視点でまとめているということに、ご理解を。

1.江戸時代250年の世界情勢の流れ

まずは、江戸幕府成立前の1600年からペリー来航の1850年頃までの250年間の、日本史と世界史の年表を見てほしい。(詳細は、➡ 江戸時代から見た世界史①➡ ②、➡ ③、➡ ④ 参照)

徳川250年と世界史年表

徳川250年と世界史年表

ヨーロッパは常に戦争に明け暮れている。上記の年表は、ごく一部に過ぎない。ヨーロッパ列強は、ヨーロッパ全土で幾度となく戦争を繰り返し、その後、植民地支配という選択肢でアジアへの侵略が強まる。その流れを知る上で、大きく3つの戦争が重要と言える。(詳細は、➡ 江戸時代から見た世界史②~ヨーロッパ戦争史~

【①:30年戦争とウェストファリア体制(1600年頃)】
それまで、宗教が戦争のきっかけであったものが終わり、国家という概念が強くなる。その後「ウェストファリア体制」と言われる
【②:7年戦争(1750年頃)】
この戦争はヨーロッパ本土では、プロイセン対その他ヨーロッパではあったが、(1)イギリスが「第一帝政」と言われる最強時代に入ったこと、(2)植民地戦争の中で「アメリカ」という国家が誕生した、という意義があるものである。世界に与えた影響は、非常に大きい。
【③:ナポレオン戦争とウィーン体制(1815年)】
ナポレオン戦争自体はヨーロッパ全土を巻き込む大戦争であった。そして、ナポレオンが倒れた後のウィーン会議により、フランスは復権を果たすとともに、ヨーロッパ5大国(イギリス・ロシア・フランス・オーストリア・プロイセン)がはっきりした、と言える。

それぞれについて、簡単に見ていく。

2.30年戦争とウェストファリア体制の意義(1600年頃)

当時の数ある戦争の中でも、その規模・内容から、悲惨を極めたのが30年戦争である。「最後の宗教戦争」と言われるこの戦争は、カトリックとプロテスタントという対立をきっかけとして、各国が参戦した。戦争は残虐を極め、ヨーロッパは宗教を元にした対立に疲れ果てた。
30年戦争は、必ずしも30年間戦争していたわけではなく、いくつかの戦争を経て、終わりを告げる。結果として、以下の動きとなる。

30年戦争の意義
・ヨーロッパの中心であった、ハプスブルグ家の「神聖ローマ帝国」から、強国「プロイセン」が独立
・神聖ローマ帝国は、「オーストリア・ハンガリー」帝国に引き継がれ、ハプスブルグ家が残る
・スイス・オランダの独立承認

このように、国としての単位が形成され、「ウェストファリア体制」と呼ばれる体制となる。「ウェストファリア体制」とは「主権国家」の単位で明確に統治をしていき、国同士は「勢力均衡(バランス オブ パワー)」で均衡を保ち、できるだけ戦争しないようにしようとした。30年戦争までの反省を反映した体制ともいえる。

3.7年戦争の意義(1750年頃)

この戦争は、ヨーロッパ本土ではプロイセン対全ヨーロッパというものであはあるが、世界に与える影響という意味では、イギリス・フランスの「第二次百年戦争」というべきものであろう。この戦争の意義は、

7年戦争の意義
・ヨーロッパ本土では、プロイセン一人で勝利し、強国として大きく乗り出した。
・アメリカ独立戦争を経て、アメリカが誕生した。
・イギリスが世界で圧倒的な力を見せ始め、「第一帝国」とよばれる時代に入った。

地図で確認したい。

1750年頃の世界情勢

1750年頃の世界情勢

矢印を加えたが、侵略の方向性という意味で入れてある。ロシアは執拗にトルコとの戦争をしかけ、不凍港を目指す。一方、ヨーロッパ列強は自国(王室)の権威のために、他国侵略を繰り返す。そして、そろそろ植民地化が始まりだす。また、清も大きくその版図を広げている。
一方日本では、その頃は、将軍は徳川吉宗の後の、将軍家重・家治の時代である。田沼意次の経済政策等が行われている頃である(詳細は、➡江戸時代への誘い①の「5」)。

ここで、アメリカという舞台ではインディアン戦争という名の侵略が始まり、ついに「アメリカ」という国家が誕生する。

4.ナポレオン戦争とウィーン体制の意義と、イギリスの「第二帝国」(1815年頃)

フランス革命を経てナポレオン戦争となるが、戦争そのものは、基本的にヨーロッパ本土の話ではある。その後の、ウィーン体制が象徴的で、これによりヨーロッパは、より明確に5大国(イギリス・ロシア・フランス・オーストリア・プロイセン)中心に動くこととなる。

ただし、5大国と言っても、圧倒的にイギリスが強い状態である。正確には「グレートブリテン及びアイルランド王国」であり、5大国の他の4国が束になっても勝てなかった、とまで言われる。「第二帝国」と呼ばれる体制となる。強大な海軍力をもち、他の国を圧倒していた。その時点での世界の地図を見てほしい。

ウィーン体制時(1810年頃)の世界

ウィーン体制時(1810年頃)の世界

イギリスの植民地支配が、全世界的に広がっているのが見れる。もう一つ、イギリス優位を揺るがないものとした決定的な要素が、「産業革命」である。「産業革命」とは何だったのか、定義等でいろいろ論はあるが、機械による生産・蒸気機関の出現・石炭の利用、といった手法で生産性を飛躍的に上げた。各地に植民地を持っていたイギリスが、その豊富な原材料から、先駆けて生産性を上げて国力とした。18世紀後半から19世紀半ばまで、「世界の工場」とよばれ、その力は、当然軍事にも大きく貢献した。
そして、産業革命はその後、ヨーロッパ各地にも広がり、ヨーロッパ列強の世界的優位は、揺るぎのないものとなっていく。

日本では、徳川家斉の最長記録将軍の頃である。

5.19世紀中ごろまでの、ヨーロッパ列強の確立と、江戸時代との対比

駆け足で、江戸時代の250年間のヨーロッパ列強の歴史をみた。日本をよく「平和ボケ」した時代、というが、先にも述べた通り、江戸時代は江戸時代でいろいろな工夫をしながら、内戦とならないよう工夫して進んでいる(➡ 江戸時代への誘い①等参照)。また、その間に文化・技術を高めていて、経済的にも豊かであり、決して後進国ではなかった。当時の江戸の人口は、その頃の世界の統計がないため正確ではないが、オランダ一国と同じであったともいわれるほど、少なくともトップクラスであったことは間違いない。

一方、ヨーロッパは、とにかく戦争の歴史である。上に挙げた三つの戦争は、世界的な影響を考えて抜粋したものであるが、それ以外にも無数にある。
それに、「産業革命」が加わって、植民地支配がますます進みやすい体制となってきた。明治維新の頃のヨーロッパ列強の特徴として、下記を上げられると思う。

・イギリスが産業革命を経て圧倒的な力を持ち、積極的なアジア(中東含む)植民地支配を進める。
・ロシアが、少し遅れて発展を遂げようとしていた。
・5大国(イギリス・ロシア・フランス・オーストリア・プロイセン)は産業革命を経て、「大量殺戮兵器」を手にすることとなり、ヨーロッパの列強はそのまま世界の列強となり、他の国を圧倒するとともに戦争の悲惨さが格段に上がった。
・ヨーロッパ国家も、形ができ始めてきた頃ともいえる。プロイセンは1872年に統一されて「ドイツ帝国」となるが、ドイツも新興国である。また、イタリアはまだ国の単位すらない。
・アメリカは、まだ建国後間もない状態で、ヨーロッパ列強に肩を並べるべく混乱の最中であった。
列強のアジア支配

列強のアジア支配

このような状態の中、アジア植民地支配は確実に進んでいた。

世界帝国のイギリスはインドを完全に支配下におさめ、そして、清に迫るアヘン戦争(1840年~1842年)により、ひたひたと依っている。
日本にとっては、アヘン戦争の衝撃は計り知れないものであった。維新回天の大きな原動力となっている。アヘン戦争のことは、清でそれを取り締まった林則除の友人魏源がまとめた本「海国図示」が出版されているが、むしろ清ではなく日本の知識層に広く読まれている。
また、高杉晋作は香港に留学していて、その時の清の惨めさを見て、日本の武装化を急いだ。他のアジア諸国も含め、日本にとっては、非常に大きな教訓となったのである。

6.19世紀中ごろまでのヨーロッパ及び大陸の歴史と、日本の歴史を見て思うこと

このように世界史を日本史と対比してみると、思うことがある。なぜヨーロッパ列強または支那(中国)も含め、少しでも国力がつくと、自国の豊かさよりも、他国の侵略を優先するのかが、感覚的に理解できない。
一方、江戸時代の日本は、技術的・文化的に世界から遅れていたとは、到底思えない。十分大国であった。見たところ、ヨーロッパとの大きな違いは、「産業革命」を経ていたかどうか、だけに思う。技術的にも商業的にも十分その素地があったため、近代化を比較的旧スピードでできたと思う。
また、ヨーロッパ列強と対比して考えると、徳川時代において十分大国だった日本の歩んできた道が、いかに平和裏になるよう努力したか、逆に世界から見ると特殊だったかと、実感する。
豊臣秀吉の時代から、「刀狩り」をして武力を放棄している。徳川幕府の時代もそれが継承され、徳川家康以降、徳川幕府は武士に質素・倹約を指導し、学問を進めた。江戸時代を通じて、武士は刀を抜くことを、固く禁じられている。今で言えば、「憲法9条」を自らに課して、その上で文化・政治の発展を遂げている、と言えるのではないだろうか。ヨーロッパの世界史を見た場合のような、他国への侵略の意図など全く持たず自国への発展をしていたことが、こうして年表や地図を並べても見えてくると思う。この規模の国で考えた場合、アジアのみならず、世界でも独特の発展を遂げているといっていいのではないだろうか。そうして蓄えられていた国力こそが、後にヨーロッパ列強の一つ、ロシアと渡り合うまでになるような独立を勝ち得た原動力に思う。

7.19世紀後半(1840年~1900年:明治維新~日清戦争後)の世界の戦争・紛争状況を時系列で並べてみる

下記を見てほしい。19世紀後半(1840年~1900年)の世界の戦争・紛争の主なものをまとめたものである。
(作成にあたっては、リンクの番組を大いに参考にした。かなり内容は濃いがいい番組なので、興味ある方は是非➡ YouTube【世界と日本の戦争史】)

19世紀後半の世界の戦争・紛争

19世紀後半の世界の戦争・紛争

番号が若いものから古い順序である。まさに世界中で、戦争・紛争である。この世界情勢の中に、日本の明治維新があり、日清戦争があった。そして日露戦争へと続く。このように見れば、いかに世界の植民地化・列強の帝国主義化が、この50年で同時進行的に進んでいたかわかる。
番号の③がペリー来航であるが、同時にヨーロッパでは、大戦争の一つ「クリミア戦争」が行われていた。また、③に至る以前に、イギリスはムガル帝国を滅ぼし、オーストラリアも植民地化し、清へのアヘン戦争を終え、割譲を実行している。まさに、日本に迫ってきていたのである。

徳川時代の日本での海外船事件と対応

徳川時代の日本での海外船事件と対応

この世界情勢の中で、日本国内でもひたひたと事件は続いていた。表を見てほしい。1830年から、ペリー来航の1853年の23年間の年表である。
実際、事件は各地で起こっており、当時から認識は高まりつつあった。その中でも、水戸藩の動きが目立つ。御三家である水戸藩は、早くから「水戸学」によりその学問を磨いていた。その思想は、明治維新に絶大な影響を与えている。
日本にとって、ヨーロッパ列強の動きはまさに危機であった。その認識は11代将軍の徳川家斉の時代にもしっかりとされながら、各藩が独自でその準備を進めていた。
後に来る「ペリー来航」は確かに衝撃であったが、日本の知識層(むしろ役のない草莽の志士)はその上を行く世界情勢に対する認識をすでに持ちつつ、強烈な危機感の下でそれぞれの動きを始めていた。

次回以降、各国の動きに着目しつつ、日本への影響も見ていきたい。まずは、世界帝国イギリスである。

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