江戸時代に挑む!【4】(8代~13代)江戸時代後半の「3大改革」と幕末への道

徳川吉宗

江戸時代「3大改革」を中心に江戸時代後半を見る

江戸時代シリーズの4回目である。
(過去記事)
➡江戸時代に挑む!【1】江戸時代の歴代将軍と治世の流れ
➡江戸時代に挑む!【2】(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治
➡江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代

前回までの初代家康から7代家継までの時代を、「江戸時代前半」と定義できる。徳川幕府の創世記と、その後の「文治政治」と呼ばれる時代を見てきた。
しかし、それも限界を見せ始めた頃に、徳川御三家の紀州から将軍となった徳川吉宗が8代将軍となることで、大きく変革を見せ始める。それが、「江戸時代後半」と位置づけられる。今回は徳川吉宗以降の江戸時代を見ていく。

1.徳川15代将軍と8代吉宗から15代慶喜までを見る

まず、徳川15代将軍の表を見てほしい。前回に解説した表である。

徳川15代将軍 系譜図

徳川15代将軍 系譜図

今回は、「江戸時代後半」として区分する時期について述べる。江戸時代後半として区分できるのは、8代将軍徳川吉宗以降である。初代家康から7代家継まで、徳川宗家からの出身者による将軍であった。しかし、家継の後に将軍継嗣問題が生じた結果、初めて徳川御三家の紀州の徳川吉宗が江戸に入り将軍となった。
吉宗が将軍となったのは、1716年(享保元年)である。時期的にも、徳川幕府開設から113年後であり、ちょうど徳川250年の真ん中あたりと言える。

下に江戸時代後半の年表を示す。

江戸幕府年表② 江戸時代後半

江戸幕府年表② 江戸時代後半

表にはその頃の元号をすべて入れてある。元号も意識して江戸時代を見ると少し味がでる。見ていただきたい。

8代将軍 徳川吉宗

8代将軍 徳川吉宗

江戸時代の後半は、将軍としては①吉宗、②家斉、が中心である。①の吉宗の直系3代が、8代吉宗・9代家重・10代家治、である。②の家斉の直系3代が、11代家斉・12代家慶・13代家定、である。その後は幕末であり、14代家茂、最後の将軍15代慶喜となる。

①の吉宗の時代には、吉宗自身が中心になって行った「享保の改革」(1716年~)が行われる、また、9代家重・10代家治の頃の田沼意次の政治も非常に重要である。

11代将軍 徳川家斉

11代将軍 徳川家斉

②の家斉の時代は非常に長かった。徳川将軍最長の50年もの治世があり、更に大御所としても権勢を振るっていた。「化政文化」と言われる時代である。その頃に行われたのが、老中松平定信による「寛政の改革」(1787~1793年)である。そして幕末が近づく頃に12代将軍家慶の下で行われたのが、老中水野忠邦による「天保の改革」(1841年~1843年)である。教科書的には、この享保の改革・寛政の改革・天保の改革が「江戸幕府の3大改革」と位置づけられている。

それでは、以降、それぞれの時代について詳細に見てみる。

2.徳川吉宗の治世

(1) 徳川吉宗の人となり

徳川吉宗は、32歳の時に将軍に就任している。徳川幕府開設から113年後の第8代の将軍であるが、前7代とはまったく違う系統からの就任となっている。すなわち、紀伊半島の紀州藩からのしかも4男である吉宗が徳川宗家に入るというのは、異例中の異例であった。その際の、徳川家の将軍がらみの重要人物の相次ぐ死亡は、なんらかの必然があったと考える方が自然であるが、真相は判明のしようがない(前回記事参照 ➡江戸時代に挑む!③(4代~7代)文治政治の時代)。

暴れん坊将軍

暴れん坊将軍

徳川吉宗というと一般的なイメージでは、松平健主演の時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」であると思う。江戸の町を町人に変装して吉宗が正義の味方のように振る舞うのはさすがに史実ではないが、まったく型破りの将軍であったことは間違いない。「暴れん坊将軍」にもでてくる忍者のような役割は「御庭番」という実力組織を作ったこと、また「庶民の味方」のイメージで言えば、庶民の意見を聞くために設置した「目安箱」を設置している。

大河ドラマ 吉宗

大河ドラマ 吉宗

私のイメージは、NHKの大河ドラマで西田敏行主演の「八代将軍吉宗」である。1995年のドラマで大分古いもので詳細の記憶はあいまいだが、印象は強かった。吉宗は庶民派ではあるが根回しの人であり、まさに政治家であった、というのが私の印象である。西田敏行氏のイメージはぴったりであった。

吉宗は質素倹約で知られるが、必ずしもそれだけが彼の側面ではない。人間味のある話も多く、やはり文字通りの名君であったようである。

徳川吉宗像(和歌山県庁前)

徳川吉宗像(和歌山県庁前)

将軍となると、まずは幕閣との軋轢のみが目立っていた側用人の間部詮房と侍従の新井白石を罷免した。また、江戸城に入る際に紀州藩士は40人程度しか従えず、できる限り現場の混乱をさせないよう配慮されている。実際、それまでの側用人による側近政治に不信を抱いていた譜代大名や老中は、吉宗に対して好感を得たと言われる。また紀州藩士達は、禄(給与)の少ない者から選ばれていて、しかもお気に入りの者を選りすぐってではなく、たまたまいた者の中から選んだ、といわれる。
吉宗の行った享保の改革の詳細は後述するが、ここでは、吉宗のエピソードを見てみたい。

吉宗の質素倹約
吉宗が将軍となったとき、幕府の財政はかなり厳しい状況にあった。かつて紀州藩主として紀州藩の財政の建て直しに成功している吉宗は、将軍となったことで幕府の財政立て直しに着手する。このころの幕府は、まさに贅沢三昧であった。幕府の財政を立て直すために、まずはトップの自分が模範を示すことが必要だと考え、自ら質素倹約に努める。幕府トップの将軍の身でありながら、身なりは絹ではなく木綿を羽織り、食事は一日二回で済ました。しかも、その献立は一汁三菜というとても質素なものだった。
余談だが、そういった粗食のおかげもあったのか、吉宗は66歳まで生きた。平均寿命が30歳~40歳代であった当時としは比較的長寿であった。
大奥改革
幕府の財政負担として大きなもので、大奥があげられる。大奥のために幕府の財政のなんと25%も使っていたという。倹約を勧める吉宗は大奥改革に乗り出す。ここで、大きく人を減らした際の吉宗の手法に特筆すべき点がある。一般的にリストラを行う場合には、年齢の高い人や能力の低いものがターゲットとなるが、吉宗は、容姿端麗で若い女中を選び、外に出した。吉宗は「容姿端麗であれば良縁も多いはず。」と述べたという。未来ある人を外に出し、内にはしっかりと雇用を確保しているといえ、吉宗の心遣いが見て取れる。また、そうした大奥の改革も、大奥の実力者(天英院・月光院)等とのリレーションを保った上で行っているところは、現在の社会においても見習うべき点と思う。

(2) 享保の改革とは

享保の改革は、吉宗の治世の時代の元号である「享保」からその名がつけられる。スタートは吉宗の将軍就任である1716年と言われるが、終了はいつという定義はなかなか定まっていない。吉宗の治世そのものが、「享保の改革」と言えるだろう。

享保の改革 内容

享保の改革 内容

添付した表は、享保の改革の政策の概要である。享保の改革はイメージ的には「質素倹約政策を行った」、という人が多いと思う。しかし、その内容を見てみると、非常にきめ細やかにいろいろな政策を進めようとしたことが見られる。特に、今でいう「経済政策」といえる内容が多いことに気づく。

目安箱は、実際に江戸に置かれたようで、将軍自らが目を通したかどうかは定かではないが、実際に市民の意見を広く聞く姿勢は見せている。増税政策として「上米(あげまい)の制」と「五公五民」への変更は、大転換と言える。上米の制は、いうなれば「金持ち増税」で、ある石高以上の大名に追加の税金を課した。老中は、この政策は大名の反感を買い危険である、と主張したそうだが、吉宗は断行した。しかし一方で、対象の大名は参勤交代での江戸の滞在期間を短くすることが許されたため、増税のみではない政策といえる。五公五民とは、単純に言えばそれまでの「四公六民」で税率が40%であったのを、50%に引き上げた。これは農民にとっては厳しいものであり、苦しんだと言われる。

また、「元文金銀」と言われる貨幣の変更は大きな政策変更であった。貨幣の金・銀の量を減らして質を落とし、貨幣量を増やした。いわゆる金融政策である。
吉宗は当初は新井白石ばりの質素・倹約派であり、貨幣の価値を下げることには消極的であった。しかし、享保の大飢饉や増税に伴う不況もあってデフレ圧力が高まった中で、大岡忠相(おおおかただすけ)等が主張していた貨幣改定を受け入れた。結果、米価の安定等につながっている。やはり金融政策はこの当時から有力であり、経済状況に応じて政策を柔軟に転換する吉宗の聡明さが、享保の改革を成し遂げる原動力であったと言える。

また、その後の江戸幕府を支える大きな政策として、「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」の制定(1742年)と「御三卿の創設」がある。

【 公事方御定書(くじかたおさだめがき) 】
これは江戸幕府の刑事関係の基本法典とも言えるもので、上巻に司法警察関係の法令 81条、下巻に刑法・刑訴・民訴など実体法・手続法 103条を収めた。こうした成文法の整備を積極的に行うことで、正しい治世を目指している。
【 御三卿 】の創設
御三卿とは、吉宗の息子にそれぞれ「清水家」「田安家」「一橋家」の家を創設し、将軍家に子供がいなければ、その3家が将軍継嗣の一番の優先順位があるとした。家康を「神君」として尊敬してやまない吉宗が、このように家康の血よりも今の将軍の血を近いと定義したことは、相当な決断だったと想像する。しかし、江戸幕府の将軍継嗣の問題は老中・幕閣、ひいては国全体を巻き込む一大事となるので、自身の就任時の混乱もあって、その制度を再度見直す必要性を痛感していたのだと思う。

(3) 名奉行、大岡忠相(おおおかただすけ)

大岡忠相

大岡忠相

大岡忠相(おおおかただすけ)も、よく時代劇ドラマで出てくる人である。「大岡越前」で名奉行として活躍している場面は、目にしたことがある人は多いと思う。そのイメージが強すぎて、「裁判官」的な側面のみが大岡忠相の功績のように思ってしまいがちであるが、その活躍は決して「町奉行」にとどまらない。

もともと、大岡忠相は吉宗が将軍になる前の紀州藩主の時に抜擢した人である。そして、吉宗の行う政策のほぼすべてにかかわっているといえる。目安箱・江戸火消しの創設・公事方御定書・貨幣改定、といった重要政策で必ず名前が挙がる人である。また、ドラマなみかどうかはわからないが、町奉行として功績も大きく、まさに人格・能力ともに備えた名官僚であった。吉宗及び「享保の改革」を支えた大きな柱の人である。

 

3.徳川家重・家治時代の治世

(1) 徳川家重・家治

吉宗の子供は、長男 家重(いえしげ)、次男 宗武(むねたけ)、3男宗尹(むねただ)の三人が有力な将軍継嗣として存在していた。本来であれば長男である家重が問題なく将軍を継嗣するのだが、家重には言語不明瞭という障害があり、またその力量が乏しいと有名であったようである。一方で次男の宗武が文武両道の名声の高い存在であったこともあり、将軍継嗣は一時は危ぶまれた。
しかし吉宗は、家重の子家治が聡明であったこと、また、家康公からの長男を将軍継嗣に、という考えに従うべき、と考え、将軍を家重に譲り、自身はその死まで「大御所」として政治を切り盛りした。

このように将軍についた第9代将軍 家重であったため、あまりかんばしい話はない。吉宗と違い政治は側用人である大岡忠光(大岡忠相とは別人)や、田沼意次を重用し、自身は政治そのものを引っ張ることはなかった。

その後に継いだ、第10代将軍 徳川家治も、吉宗のように自身が前に出て政治を行ったと言うより、田沼意次による政治を追認する形での治世であった。一般的にはあまり名の知れた将軍ではないが、吉宗から信頼されたとおり誠実で実直の人だったようである。正室の倫子(ともこ)とも仲がよく、将軍の中ではめずらしく正室がいる間は側室を取らなかった。また、田沼意次に政治を任せていたのも、田沼の力量を見抜いていた、という説もある。

(2) 田沼意次の政治

田沼意次ほど、そのレッテル張りが定着してしまった人も珍しいのではないだろうか。教科書で「賄賂(わいろ)政治」の一言で斬られてしまい、そのイメージしかない人が多いのではないだろうか。当然私もそのうちの一人で、大人になっていろいろ知るようになって、やっと現実が見えてきて、まったくイメージが変わった人の一人である。

田沼意次

田沼意次

田沼意次は、9代将軍家重、10代将軍家治の2代にわたって幕閣となり、側用人として権勢を大きく振るった。その政策は、「重商主義」と言われる貨幣経済への変革とも言える大きな改革であった。それまでの緊縮財政的政策に疲弊していた経済を大いに活性化させるべく数々の政策を打っている。
商人からも税金を取るための制度として「株仲間」を奨励、長崎での貿易を拡大、ロシアからの侵略に備え蝦夷地の調査を進めている。貨幣の改定も行い、経済に合わせた政策をとっている。
当時の米が中心の農業的視点から、貨幣経済への転換を進めた商業と経済を重視した人であった。また、蝦夷地の調査にみえるように、国防も考えた天下国家を考える大政治家であった面も注目したい。また、発明家といわれた平賀源内とも親交があり、西欧の技術を学ぶことの重要性から蘭学の奨励もしている。
ただ、田沼の政治において士農工商を飛び越えた能力主義による登用は、当時の幕閣にあって反発も大きく、賄賂(わいろ)政治という側面を極端にクローズアップされたのは当時からであった。

田沼意次は1786年に将軍家治の死去と共に失脚する。一般に江戸の後期の文化の発展を「化政文化」とよばれるが、これは田沼の失脚後からしばらく経った後の1804年~1829年の元号である「文化・文政」を取って言われる。しかし、田沼の時代には本居宣長の国学が栄え、平賀源内の蘭学の発展、伊能忠敬の日本地図、など、大いに文化が開いている。近年の研究者はこの頃(1750年頃~1780年頃)を化政文化の前段として、「宝暦・天明文化」と呼ぶ場合もある。

なお、田沼意次の後に老中首座となって「寛政の改革」を実行する松平定信が、田沼を相当嫌っていたようである。その松平定信による田沼批判が、世論操作的に田沼に「賄賂政治家」としてのレッテルを貼り、失脚につながったという側面があるようである。

幕末において見事にロシアとの交渉をおこなった勘定奉行に川路聖謨(かわじとしあきら)という人物がいた。その川路をして田沼意次のことを「よほどの豪傑」と評したといわれる。それほどの功績を持った人であり、経済政策重視の私としては非常に興味深い人物である。

4.徳川家斉の治世

(1) 長期政権徳川家斉の時代

徳川家斉は、とにかく長い治世となっている。先代の第10代将軍家治には男子がなかったため、一橋家でから養子に入ったのが家斉である。そしてその家斉が将軍につくのは家治が亡くなった時であり、若干15歳の時である。その後、50年にもわたり将軍職について、徳川将軍の中でぶっちぎりの一位の長さとなる50年もの間、将軍職に就く。そして、40人もの側室を持ち実に55人もの子を設けている。
更に、その子家慶が将軍となっても大御所として君臨しており、徳川幕府の中でも特異な将軍といえる。

将軍の子だくさんというのは、単に将軍候補がたくさんいる、といった話とはならず、その後の育て方・大名への養子縁組といった大きな仕事となる。実際、幕閣はこの子供達の処遇に切り盛りしたようである。また、側室もこれだけいれば当然財政的な問題も大きく、当時の幕府は大きく疲弊していった。

しかしこういったときに町人文化は栄えるもので、特に江戸の文化的側面が多く発展した。特徴としては風刺的な風潮であり、浮世絵(葛飾北斎等)や寄席などが大いに栄えた。この頃の元号でる「文化」「文政」を合わせて「化政文化」と言われる。

(2) 松平定信と「寛政の改革」

「寛政の改革」は、家斉が将軍についた1787年から、老中首座となった松平定信(さだのぶ)によって行われた。松平定信が老中在任中の1793年までの6年間に行われた改革である。改革の方向性は、大きくは田沼意次の重商主義を否定し、質素倹約に務めた享保の改革をまねたものである。結論的には、改革は民衆の反発を大きく買い経済の混乱を招き、6年で頓挫している。

経済的視点にかけた方針で、「こうあるべき」という理想論で松平定信が進めようとしたのだが、経済は疲弊していくばかりで、改革自体は進まなかった。

(3) フェートン号事件と異国船打払令

家斉の長い治世の時代は、1787年から1838年の約50年である。日本では子だくさん将軍の処理に追われている頃、世界の列強はめまぐるしく動き始めた時代である。添付の年表を見てほしい。

江戸時代と世界史

江戸時代と世界史

年表にあるとおり、1775年アメリカ独立戦争、1789年フランス革命、イギリス産業革命、1815年ウィーン会議など、まさにヨーロッパの体制が大きく動き始めた頃であった。ヨーロッパは産業革命を経て、まさに「帝国主義」と言われる時代に突入していくプロセスのまっただ中であった。

そんな中で日本で起こった事件が、「フェートン号事件」である。

フェートン号事件
文化5年8月15日(1808年10月4日)、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人2名を人質にして、燃料や食糧を要求した。
当時、オランダはナポレオン戦争によってフランスの属国となっており、イギリスとは敵対関係にあった。そこでイギリスは東アジアにおけるオランダの商圏を奪うべく艦船を派遣し、オランダ船の拿捕を行なっていた。その影響が日本にまで波及したのがフェートン号事件である。
長崎奉行が切腹する等があったが、結果的にイギリスは食料を得て長崎から離れた。

このフェートン号事件と文政7年(1824年)に水戸藩の大津にイギリス人12人が上陸した事件「大津浜事件」もあり、幕府は外国の脅威を認めざるを得ない状況となってきた。結果、「異国船打払令」を文政8年(1825年)に出すこととなる。この打払令は実効性はなく、また、数年で廃止されているが、日本の開国への要求はひたひたと進んでいた。

5.徳川家慶と「天保の改革」

(1) 徳川家慶(いえよし)の治世

第12代将軍の徳川家慶(いえよし)は、1837年に就任しペリー来航の1853年に死去している。まさに日本の開国、そして結果的に幕末へと向かう時代のまっただ中の将軍である。就任後すぐに、「大塩平八郎の乱」となり、幕府は大いに揺れた。また、「アヘン戦争」は1840年であり、イギリスによる清への侵略が目の前で行われていた。

まさに激動の時代であり、しかも家慶の就任時には父の家斉(いえなり)は健在であり、家慶自身は何もできなかったようである。将軍としての印象に非常に乏しく、またペリーの来航の年にその心労からか、体調を崩しそのまま死去してしまっている。激動の時代に運悪く当たってしまった不運な将軍とも言えるが、日本全体を考えたときに、将軍すなわち徳川幕府の体制の限界が完全に露呈した頃とも言える。

(2) 大塩平八郎とその決起

大塩平八郎(1797~1837年)は、もともと町奉行であったが辞職し、「陽明学」の講師として塾を開いていた。「陽明学」とは、中国からの儒教の一派の学問であるが朱子学と異なり、「得た知識は実践してこそ意味がある」といういわゆる「知行合一(ちこうごういつ)」の考えの学問である。なお、この「陽明学」は幕末の志士に大いに影響を与えている。

大塩平八郎

大塩平八郎

1830年代の天保時代、天候不良で凶作がつづき、「天保の大飢饉」と言われる状態であった。農村はどこも壊滅状態となっていた。米不足は都市部にも打撃を与え、大坂でも一日200人のペースで餓死が続出し、各地で百姓一揆が起きるなど、日本中が大きく揺れていた。希少な米の値段は上がる一方で、幕府はろくな対策もとらず、逆に全国から米を送らせて御城府だけでも守ろうとした。

そこで、義憤に感じた大塩平八郎は、大坂の惨状を嘆き、自分の5万冊もの蔵書を売って、貧民の救済を始めた。また幕府への働きかけも精力的に行った。しかし、幕府は相変わらずの対応であった。結果、大塩も我慢の限界となり、自分の門下生と近隣の農民に檄文を飛ばし、家族と縁まで切って武装蜂起の準備を進めたが決行直前に密告され、やむなく準備不足のまま決起した。集めた300人で「救民」の旗を掲げ、大砲と火矢で大坂の5分の1を焼いたものの、半日で鎮圧された。
大塩平八郎は、奉行時代から正義感の強い人で、不正を許さなかった人であったようである。まさに陽明学の「知行合一」を実践する情熱の人であった。

失敗したとはいえ、大塩のような元役人が、重要直轄地である大坂で反乱を起こしたことは幕府にとって衝撃的なことだった。これほどの内乱は、島原の乱以来200年なかったことであった。
また、大塩の檄文は民衆の手で全国で筆写され、幕末において大いに参考にされた。越後の生田万の乱もその影響を受けているといわれる。その後全国で小さな乱が頻発。その度に「大塩の乱の残党が起こした」と噂になったという。大塩平八郎は民衆のために立ち上がったヒーローとして、全国的に知れ渡ったのである。幕府への不満が高まっていた国民に、大塩が投げかけた火の粉は非常に大きいものであった。

(2) 水野忠邦と「天保の改革」

「天保の改革」は第12代将軍家慶の時代に行われる。老中の水野忠邦が1830年から1843年にかけて行ったものである。端的に言えば、この改革も「享保の改革」のごく一部の二番煎じでしかなく、質素倹約を進めるものであった。やたらと風紀を取り締り、やり方もひどくまったく不評の改革であった。しかも、アヘン戦争を経て列強の影響が大きくなってくる中、幕府は全くそれに対する対応をしていなかったため、世界情勢を知る開明的で有力な藩からも、まったく支持されなかった。

水野忠邦はとにかく出世欲が強い人で他を押しのけて老中になった人である。その権勢を握るところまでは良かったが、結局人望が薄く、更にこのような世界情勢で日本を導く力量は全くなかった。
改革として最後に出した政策が、「上知令(あげちれい)」で幕府が土地を没収するというものであったが、当然対象の藩からの反発を買い、水野忠邦は失脚。これにより「天保の改革」と言われる水野の治世は終焉を迎えた。

この後、老中は阿部正弘となり、広く各藩の意見を聞くようになっていく。いよいよ徳川幕府はその機能不全を露呈していくこととなっていく。

 6.徳川家定・家茂・慶喜と維新回天への道

第12代家慶が亡くなるのは、黒船来航があった数ヶ月後である。その後は、子の家定となるが、家定は全く統治能力がなく、すぐに将軍継嗣問題となることは、家慶の頃からわかっていた。

平和な時代ならなんとかなったであろう将軍継嗣問題も、列強の開国要求という国家の大問題に対して日本としてどう取り組むのか、というビジョンを持ち得ない将軍・老中の体制はもはや完全に限界に来ていた。その後の第14代将軍 徳川家茂、第15代将軍 徳川慶喜も国全体を考えつつなんとか舵を取ろうとしたが、やはり徳川幕府の体制では世界に対峙していく上では無理であったのである。

第12代家慶の時代から見え始めていた「徳川幕府」という仕組みそのものの限界が、列強の開国要求という国家の一大事に当たったときに完全に露呈した。その結果、力をつけてきた地方の各藩からの要求に応えることができず、「徳川幕府」としての存在は完全な瓦解に向かわざるを得なくなっていくのである。

 

関連記事

コメント

    • ゆうじ
    • 2018年 2月 26日

    来ましたね幕末まで!
    江戸幕府は終焉の一途をたどりますが、日本全体では色々な意味で力を付けた時代と言えますね。
    それにしても、てつさんの年表は秀逸ですねー。清朝関連も増えてバージョンアップしてるし(笑
    記事と照らしながら繰り返し読んで楽しみますわ。

      • てつ
      • 2018年 2月 27日

      年表がわかりやすい、といってもらえるのはうれしいですね。いつも一番力を入れるところです。

      江戸の時代は、よく見ると興味が尽きないです。次回で江戸時代の思想史をまとめてみるので、また見て下さいねぇ。

    • ゆかり
    • 2018年 3月 05日

    暴れん坊将軍と大岡越前って同年代なんだ!!
    綱吉と吉宗のイメージがてつログのおかげで改められましたわ。

      • てつ
      • 2018年 3月 05日

      綱吉も吉宗も、いい参謀をつけて活躍してます。
      どちらもなかなかのトップだったんだろうな、と思う今日この頃。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る
TOP
HOME