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新千円札の北里柴三郎博士から学ぶ

新千円札

新千円札のデザインの北里柴三郎博士の功績と人となりから学ぶ

新紙幣の発表が平成31年(2019年)4月9日に、麻生財務大臣からなされた。新しい千円札に選ばれたのは、明治・大正・昭和にかけて日本のみならず世界にも多大な貢献をした、北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)博士である。北里博士はは日本の「近代医療の父」と言われる大きな功績を残した。特に細菌や予防医学の研究により大きな功績を残すと共に、情熱を持って実業や教育にも力を入れて、文字通り日本の医療の礎(いしずえ)を作った一人である。是非ご覧を。

なお新一万円札のデザインの渋沢栄一氏については、過去ページ(➡「資本主義の父」渋沢栄一の人となりから学ぶ)にあるのでそちらもご覧を。

1.情熱の人北里柴三郎 「熱と誠があれば何事も成功する」

新千円札
新千円札

新千円札のデザインに選ばれたのは、北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)博士である。なかなかなじみのない人だが、日本と世界の医療に多大の貢献をした人である。日本の近代医療の父、ともいわれる。また世界的な影響も多大で、第一回のノーベル賞の候補にあがっていた。

北里柴三郎博士は熊本県出身。1853年(嘉永5年)に生まれ1931年(昭和6年)に78歳で亡くなっている。生まれた年の1853年はアメリカのペリーが日本に来航した年で、時代はまさに「明治・大正・昭和」という日本の激動期にあたっている。幼少時より儒学に接していた北里柴三郎博士は、肥後の藩校・時習館、また熊本医学校に入り、横井小楠を祖とする実学の精神を学んだ
その中で北里柴三郎博士は、医学に進み伝染病予防や細菌学の発展に大きく寄与した。また医によって人を救いたい、という情熱から病院の設立や大学の医学部の設立なども進め、その信念を貫いた。

北里柴三郎博士
北里柴三郎博士

北里博士は20代でドイツのコッホ博士の下で学び、その才能を開花させている。コッホ博士は当時、パスツールとならぶ世界の医学界の巨人であった。しかもそのコッホの「四天王」の一人とまで言われるほどの研究成果を残している。
世界初の破傷風菌の純粋培養に成功、また更に破傷風の治療として「血清療法」という革新的な方法を開発、世界にその名をとどろかせた。ドイツの皇帝は明治天皇に北里博士を絶賛するメッセージを送り、ドイツ人以外には送られたことのない「プロフェッサー(大博士)」の称号を北里博士に贈った。
そうした北里博士に対し海外からの破格のオファーがある中、北里博士は当時は科学後進国であった日本に貢献したいと、すべてを断って日本に帰国した。

北里柴三郎博士が38歳の時に、後の京都帝国大学の総長となる荒木寅三郎にアドバイスした言葉がある。

「君、人に熱と誠があれば、何事でも達成するよ
よく世の中が行き詰まったと言う人があるが、これは大いなる誤解である。
世の中は決して行き詰まらぬ。もし行き詰まったものがあるならば、これは熱と誠がないからである。
つまり行き詰まりは本人自身で、世の中は決して行き詰まるものではない。熱と誠とをもって十分に学術を研究したまえ」

この言葉通り、情熱と誠実さを持って信念を貫いて研究・事業をした情熱の人であった。

2.「医者の使命は病気を予防することにある」予防医療にかけた情熱

北里柴三郎博士
北里柴三郎博士

北里柴三郎博士の信念に、
「医者の使命は病気を予防することにある」
という考えがあった。今の医学にも学ぶべき医療の原点があるように思う。今の医療は「病気を治すこと」に主眼が行きがちとなっているが、北里博士は「予防医療」の重要性を、信念ととして持っていた。

しかし、北里博士がこの発言をしたのは博士がまだ医者になる前の学生の頃であったという。北里博士は1877年頃(24歳頃)から同盟社という学生結社を組織。社会活動を志すなら雄弁でなければならないと主張して、毎週土曜に演説会を開き弁舌を磨いていた。これが、北里博士が単なる研究者とは一線を画するところである。まさに「実学」の人であり、大きな情熱を持って医療を学んでいた。
その時に「医道論」として自身の考えをまとめてある。その中に
医者の使命は病気を予防することにある
とあると主張している。

また、次のような原稿も残っているので紹介したい。

昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。

人のために、国のために情熱を持った国士であったことがうかがえる。

3.言葉から見る北里柴三郎 ~「大業を成さんとするなら基礎を固めるべき」~

北里柴三郎博士は単なる研究者ではなく、学問を「実学」と捉えそれを実践しなければ意味が無い、と考える人であった。そうした北里柴三郎博士の残した言葉は、博士の人となりを想像させると共に、現代人が見ても非常に勉強になる言葉が多い。

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」
「細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない」
「熱と誠があれば何事も成功する」

 

北里柴三郎
北里柴三郎

単なる学問や研究者であることを嫌った北里柴三郎博士の言葉として、非常に意義深いものばかりである。また、医療の道だけでなく他にも言えることであり、現代においてもそのまま通じる言葉と思う。

また、北里博士が25歳の時に東大医学部在学中の頃に、姉弟に宛てた手紙にこう記されていたという。

「いやしくも男子と生まれたからには、普段から大いに愛国心を養い、わが日本帝国が世界万国と肩を並べ、秀でることはあっても決して遅れを取らない、不羈独立(ふきどくりつ)の国にすることは、今に生きる男子としてお互いに志す所であり、一日も忘れてはならないことです。
この大業を成さんとするなら、各人がそのための基礎を固めるべきであり、その基礎とは自分自身の勉強です。どんなに志があっても学力がなければ他人はその人を信頼せず、他人の信が無い人が独りで国家の大益となる業を起こそうとしてもまず不可能です。天下のことは大勢の人々と共に成すのが最善です」

大業を成さんとするなら、基礎を固めるべき」という言葉は、まさに実学の人、北里柴三郎博士を象徴する言葉に見える。また現代に生きる自分にも大きく当てはまる言葉として受け止めたい。

4.実業や教育を通じた後進の指導・育成

北里博士の活躍した時期は、まさに明治期から大正・昭和へと日本が近代国家の道を歩んでいる時期であった。当時の日本では各分野での勉学が進み、また経済が近代化している最中であった。

野口英世
野口英世

そんな中で北里柴三郎博士は1892年には福沢諭吉などの援助を受けて私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所の前身で1899年に国立伝染病研究所となる)を設立し、研究を進める。そこから多くの弟子を輩出し、日本の医療に大きく貢献している。あの野口英世もこの研究所の門下生の一人である。

 

福沢諭吉と「足るを知る」
福沢諭吉

また、福沢諭吉の恩を返すべく、福沢諭吉の亡くなった15年後の1917年に、慶應義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創設にも関わり、初代科長、病院長に就任している。

また、「良質な体温計メーカーを作りたい」として創業発起人の一人に連ねて作った会社が「赤線検温器株式会社」であり、現在の「テルモ(TERUMO)」の前身である。

単に自身の研究にとどまらず、国を良くするための情熱をもって日本の医療会を牽引した人であった。

5. 北里柴三郎博士に思うこと

このように北里柴三郎博士を見ていくと、単なる研究者あるいは医者という範囲を超えた人物であり、その信念に基づいた活躍をしたことがうかがえる。

医療の世界は縁遠いように思っていたが、単なる医療研究者ではなく、国のために尽力した先人として学ぶべき事が多い人と思う。このような人が新千円札に選ばれたことに感銘を受けると共に、これをきっかけに、北里柴三郎博士の言葉や人生を参考にできたらと思う。

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