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高杉晋作による「功山寺決起」に見る「決断力」と「覚悟」

高杉晋作の人となりと、それを象徴する「功山寺決起」から学ぶこと。

功山寺決起(こうざんじけっき)」は歴史の教科書上ではさらっと通ってしまうところと思う。しかし、知れば知るほど、この「功山寺決起」の引き起こした影響の大きさと、そしてそれを巡る先人達、特に高杉晋作公の覚悟に、現代にも大いに学ぶ事が多いことに気づく。「功山寺決起」と「高杉晋作公」をまとめた。是非ご覧いただきたい。

1.高杉晋作公とは

功山寺決起(こうざんじけっき)とは、長州藩(今の山口県)の内部クーデターである。しかしそれは単に一つの藩の内部紛争ではなく、それによる影響は日本の近代化への道である「維新回天」そのものを大きく主導することになった。すなわち、近代日本史上非常に重要な出来事と言って位置づけて良い。それがたった一人の青年の強い意志をきっかけにしてなされたのである
まずは、それを主導した高杉晋作公の簡単な経歴などを記述したい。

高杉晋作公は、維新回天の時期の中でも異質の人と思っている。私にとって最も尊敬する人の一人として特別な存在である。
教科書的には、「長州藩を改革した人」として挙げられるが、あまり記述は多くはない。しかし、興味のある人からは、私も同様に熱烈なファンが多い人でもある。

高杉晋作
高杉晋作公

天保10年(1839)に生まれたが、満27歳の若さで結核で亡くなるたった27年の短い期間ではあるが、その後の日本になくてはならない功績と人材を残した日本の偉人の一人であることは間違いない。

長州人で、現在で言えば山口県の人である。生まれた頃が、清がイギリスとアヘン戦争を行っている頃であり、まさに欧米列強によるアジア支配が日本の目の前に来ている激動の頃に生まれて、日本の開国について真剣に考える下級武士だった。

吉田松陰
吉田松陰

高杉晋作といえば、吉田松陰の「松下村塾」である。安政4年(1857)に19歳のときに吉田松陰先生の塾生であった高杉晋作は、「松下村塾の双璧」といわれほぼ同年の久坂玄瑞(くさかげんずい)と共に頭角を現していた。「識の高杉、才の久坂」と言われるほどに、その優秀さは際立っていた。

師の吉田松陰を高杉晋作は深く尊敬していた。しかし、吉田松陰先生はいわゆる「安政の大獄」により、安政6年(1859)に切腹により死す。この師の早すぎる死も高杉晋作に大きな影響を残した。

奇兵隊(真ん中が高杉公)
奇兵隊(真ん中が高杉晋作)

高杉晋作公を語る時に必ず言われるのが「奇兵隊」の創設である。「奇兵隊」は身分に分け隔て無く軍を編成するものであり、長州藩のみならず明治維新を通じても大きな存在感を発揮した軍隊であった。その創始者が高杉晋作である
奇兵隊は、「正規軍」と違うことから高杉晋作らしい皮肉を込めて「奇兵」と名付けているが、その仕組みはしっかりしたものだった。軍事教育と訓練はもちろんだが、一般的な教養までも教育していた。農民であっても努力をすれば出世できるなど近代的なものであった。高杉晋作公は創設者でありその後は、山縣有朋(やまがたありとも)大村益次郎(おおむらますじろう)などに引き継がれるが、高杉晋作の残した功績は大きい。

連合国に世襲された砲台
連合国に接収された砲台

また、高杉晋作公といえば文久3年、4年(1863、1864)に起こった「下関戦争」の交渉力に触れないわけにはいかない。この戦争は、当時の世界最強国のイギリスを含む、フランス・オランダ・アメリカを相手に、日本のたった一つの藩が戦争を仕掛けたものであった。この4ヶ国連合との戦争には高杉晋作は反対だったされるが、とにかく戦争は当然全く歯が立たず完全な敗北となる。そしてその敗戦交渉の白羽の矢が立ったのが、高杉晋作公であった。
当時の通訳アーネスト・サトウ曰く「魔王のようだった」と言うほどに、厳然と交渉にあたり硬軟をおりまぜて見事に交渉を乗り切った。この「下関戦争」その前の「薩英戦争」を経て、列強、特に当時の覇権国のイギリスは、日本という国を一つの国として認め始めるのである。当時の様子などは、過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本)にあるので見てほしい。
なお、この4ヶ国と交渉したときの高杉晋作公はわずか25歳25歳の青年が世界の国々と堂々と交渉し、日本の植民値化から守ったのである。

そしてその交渉を成し遂げた年である1864年、すなわち文久から元治(げんじ)に改元されたその年に起こした長州藩での大クーデターが「功山寺決起(こうざんじけっき)」であった。
結論から言えば、功山寺決起は見事に成功し高杉晋作公が長州藩の実権を握ることになる。しかし、そのわずか3年後に結核で亡くなる。
危機にあった日本をいい意味でかき乱し、その後の日本につなげた英雄だった。

2.「功山寺決起」の背景とその後

(1) 功山寺決起前の長州藩の状況

正義派・俗論派
正義派・俗論派

「功山寺決起」とは長州藩における内部クーデターである。

長州藩の当時の情勢は、揺れに揺れていたが純然たる力を持っていた江戸幕府に対して恭順して従うという「俗論(ぞくろん)派」と、江戸幕府を見限り新しい日本を作らないといけないという「正義派」との争いであった。
なお身勝手な話だが、その「俗論」と「正義」と名付けたのは、他ならぬ高杉晋作である。自分のいるほうが「正義」で、相手はろくなことを言わない「俗論」派としたあたりが、高杉晋作の気質が見える。

そして、その構図自体は日本の開明的な藩のどこでもあるものではあった。ただ長州藩はその中でも日本一急進的な藩であったと言える。いわゆる「尊皇攘夷」運動ということで、徳川の世ではなく、天皇陛下を奉(たてまつ)り夷狄(いてき)を打つ、という思想と行動の最先端を行っていたのが長州藩であった。それは先の分類で言えば「正義派」が主導していた。

しかし、元治元年(1864)の頃の長州藩はまさにボロボロだった。藩の存続が危ぶまれる状態だったのである。禁門の変」により京都を追われ、「下関戦争」により四国連合に散々に攻撃され、更に江戸幕府による長州の征伐である「第一次長州征伐」が行われ、大軍勢が長州に押し寄せていた。なお、その長州征伐の参謀についていたのが、当時は幕府側だった薩摩の西郷隆盛である。

過激一辺倒だった長州の内部は、その「過激」側の「正義派」が力を弱めていた。そして変わって実権を握った「俗論派」は、迫り来る江戸幕府の「長州征伐」に対応するために、「正義派」の家老の首を差し出し江戸幕府との和睦を図ろうとしたのである。また、「正義派」を次々に投獄し、処刑をしていった。まさに粛正であった。

明治維新 倒幕期
明治維新 倒幕期

ただし、ここでの「俗論派」の行動は十分理にかなったものだった、というべきである。「尊皇攘夷」と言ったって藩そのものがなくなるくらいなら幕府に従うべき、という考えの方がむしろ正当であったと言って良い。高杉晋作桂小五郎ら「正義派」の方の考え方の方が、普通の人から見れば極端だった。ただし、結果的には国際政治を知っていた彼らの考えが正しかったといえるが。
それほどに長州藩は、過激に動き日本中の藩の中でも異質の行動をしてきたのであった。

そんな中で元治元年(1864)の7月に、「第一次」となる長州征伐が幕府によって行われる。総勢15万人とも言われる大軍勢が結成される。その総督(総大将)に尾張藩主の徳川慶勝が、その参謀に薩摩の西郷隆盛がつき、35藩から成る大軍勢が結成された。ただし、どの藩もお金もやる気もなく実態としてはそれほど強力ではなかったが、長州藩にとっては途方もない脅威であった。

(2) 誰が見ても無謀な決起

そんな状態の中で「俗論派」が「正義派」を押さえながら粛正をしていったことは、まったくおかしい判断とは言えなかった。どう考えても長州藩自体の存続にまで危ぶまれる情勢で、幕府及びその当時になっては朝廷に対抗するというのは無謀といえた。

道場での高杉晋作
道場での高杉晋作

そんな情勢の中で、今こそ「藩政改革」が必要と、「俗論派」を討って藩政を改革すると言ったのが、文字通り高杉晋作ただ一人だったのである。それが「功山寺決起」であった。最初は、本当に一人だったのである。高杉晋作を止める皆の説得を全く聞かず、「一人でもやる」といって高杉晋作は全く引かずに進めたのである。それを見て、当時の伊藤俊輔(後の伊藤博文)がついてきたが、本当に少数しか付き従わなかった。相手は、長州藩の正規軍であり3,000人を敵に回して戦いを挑んだのである。

ここで今の歴史の評価だと、「高杉晋作ならやるだろう」と思う人もいるかもしれない。しかし、高杉晋作という人は本来慎重派であり、物事をしっかりと冷静に判断する人だった禁門の変の時も反対し「臆病者」とまで言われている。その時に「松下村塾の双璧」と言われた久坂玄瑞が亡くなってしまったが・・・。
その人が、このような10人が10人とも「無謀」と答える決起をしたのは、俗論派が完全に幕府にすり寄り始めたこの時を逃したら二度と幕府に反対するというタイミングであり体力を失う、と情勢をしっかり分析した結果であった。まさに苦渋の決断であり、かつ、不退転の決断だった。

(3) 功山寺決起による日本への影響

安倍晋三内閣総理大臣
安倍晋三内閣総理大臣

このようにして起こった功山寺決起だが、結果的には成功し高杉晋作ら「正義派」が長州の実権を握る。高杉晋作公はその後は体調を崩し死に至るのだが、その精神は桂小五郎伊藤俊輔(博文)井上馨山縣有朋、などそうそうたる面々がしっかり受け継いだ。長州藩は、薩摩藩と並んで明治維新の2大柱の藩として明治天皇の下で日本そのものを大きく改革していった。日本を大きく引っ張ったのは、紛れもなく長州藩の面々だった。

現在でも、首相を最も多く輩出している件は、長州藩のあった山口県である。現在の首相である安倍晋三総理も山口県の出身である。そして安倍首相の「晋三」という名前の由来は高杉晋作である、と本人が言っている

それほどに、高杉晋作公がやり遂げたことの影響は大きい。そしてその象徴が「功山寺決起」である。まさにその後の日本の礎(いしずえ)を築いたのが、高杉晋作公でありその影響は今だ現在にも続いている、と言っていい。

3.功山寺決起とは

(1) たった一人の挙兵 ~「これよりは 長州男児の腕前お目に懸け申すべく」~

功山寺決起」と言われるのであるから、決起は「功山寺」である。そしてその功山寺は、長州の中心であった現在の山口県の萩市ではなく、北九州のすぐ近くの「下関市」にある。

功山寺の位置
功山寺の位置

その功山寺には、先の禁門の変(元治元年7月:1864年7月)で破れた公卿がかくまわれていた。いわゆる「七卿落ち」の七卿である。当時はすでの五卿となっていたが、公家の純然たる名家がそこにかくまわれていた。

功山寺の高杉晋作像
功山寺の高杉晋作像

そこに逃亡中の高杉晋作が訪れ、酒を酌み交わす。そして、決意していた高杉晋作は、その五卿にむかって決起を宣言したのである。その時のセリフが、

これよりは 長州男児の腕前お目に懸け申すべく

である。このとき高杉晋作は26歳。まだ若き青年であったがその決意は全く揺らがないものであった。なお、このときに高杉晋作は、資金面で大きくバックアップしてくれていた白石正一郎の弟に遺書までしたためていた。死を覚悟しての挙兵であった
のときに、一緒に立ち上がったのは84たった84名での挙兵であった。長州藩の正規軍は3,000名に対して84名からスタートしたのである。なおこのとき、後の初代総理大臣となる伊藤博文公も入っている。

立ち上がったのが12月15日の深夜である。この日は山口県では珍しく雪が多く降り積もったという。赤穂浪士の討ち入りの日が12月14日だったので、その日に決起したかったという説もある。それほどの覚悟だった。

(2) 集まった仲間たち

このようにスタートした功山寺決起であったが、実際にはその前段があった。功山寺決起として高杉が宣言したのは元治元年の12月15日である。しかし、その前から高杉晋作は決起を促す勧誘を積極的に行っていた。誰一人賛同していなかったのである。当時の「隊」に対して何度も試みるが、「俗論派」の主張を受け入れる空気の方が強かった。

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)
高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

しかし、高杉晋作は絶対にそれを受け入れず激怒して説得を繰り返した。しかし逆に、決起の2日前の12月13日には、各隊の幹部が全員一致で高杉晋作を説得して思いとどまらせる試みまでしている。このときにも高杉晋作は全く引かず、ここで立ち上がるよう説得の演説を行っている。

その高杉の信念を悟った隊の中から、「高杉さんを死なせるわけにはいかない」と高杉晋作に従ったのが84名だったのである。高杉晋作のお陰で育った山縣有朋ですらこの84名には入っていない。それほどまでに無謀な決起だったのである。なお、伊藤俊介(後の伊藤博文)は、この時点で高杉と行動を共にしている。2人の信頼関係はそれほどのものだった。

そして伊藤博文公は初代総理大臣として要職を歴任した晩年に、この頃を回顧してこういう言葉を残している。

この私の人生で唯一誇れることがあるのなら、このときすぐさま高杉さんのもとへ駆け付けたことだろう

あれだけの功績のある伊藤博文公が「唯一誇れることがあるのなら」と謙遜しているが、後年でも挙げたことがこの「功山寺決起」だったというのは、非常に興味深い。

また、このときに反対した各隊の幹部達も、決して高杉晋作と決定的に対立したわけではなかった。高杉の考えを良く理解していた幹部達は、高杉晋作の挙兵に賛成はせずとも邪魔をするようなことはせず、また武器弾薬の準備も進めていたという。
高杉晋作公の人柄とその気概には脱帽しかないが、それを受けた面々達もしっかりとその志(こころざし)を受け止めていたと感嘆する。日本の近代化へ向かう過程における先人達には、学ぶことが多い。

(3) 奇跡的な勝利の連続

こうして12月に決起した高杉であり、死をも覚悟した決起であった。なんとかかき集めたのはわずか84名、対するは3,000人の正規軍である。

なんとして、結果は勝利の連続だった。簡単に時系列で戦いを振り返ると下記の通り。なお、これら一連の戦いを、「功山寺挙兵」あるいは元号から「元治(げんじ)の内乱」と呼ぶ場合もある。

功山寺挙兵(元治の内乱)の正義派の進路
功山寺挙兵(元治の内乱)の正義派の進路
功山寺決起及び「元治の乱」の概略
功山寺決起及び「元治の乱」の概略

このようにしてみると、非常に簡単に勝てたように見える。また、歴史の教科書上は非常に簡単に「高杉晋作が長州藩の改革に成功」という程度のき記述となってしまう。
しかし、先に記したとおりこれほどの無茶はないほどの戦いであったしかしそれでも勝てたのは、いろいろ要因があるが、馬関・山口の民衆は非常に積極的に正義派への支持をしていた。物資の運搬を無償で行ったり、商人は寄付をしたりと、高杉達の決死の決起に民衆の大きな支持があったのである。そのため、正義派の隊は日を追うにつれ大きくなっていった。
また、高杉晋作達はとにかく犠牲者をあまり出さないように苦心していた。和議出来る物は和議をし、略奪などないよう強く指示していた。そうした姿勢もあって、民衆の大きな支援を得ることが出来たのである。

一方の俗論派も自らの正義に基づいて戦った。確かに、正義派への粛正はかなりの数に上り、重要な人物の命を奪っていった。しかしそれも藩のためという指名に基づいたもので、必ずしも全てを責められるものではなかった。
俗論派の首謀者とみられた椋梨藤太(むくなしとうた)は元治2年の5月に処刑されるが、その取り調べの際に

私一人の罪なので、私一人を罰するように

と懇願したという。どちらも国士(こくし)として戦ったのが「元治の内乱」であった。

4.高杉晋作公を支えた吉田松陰先生の言葉

このようにして、電光石火のごとくわずか3ヶ月で長州藩をひっくり返した高杉晋作公の「功山寺決起」であったが、このような決断をできたのは、振り返って考えてみても、高杉晋作公にしかできなかったと思う。

では、高杉晋作公を奮い立たせた物は何だったか?もちろんいろいろ要因はあろうが、大きくな影響を与えたのは師である吉田松陰先生の生き様であり、言葉であると言われる。
高杉晋作が、投獄されている吉田松蔭先生に宛てた手紙で、「男子の死ぬべき時はいつか」と聞き、吉田松陰先生が答えた手紙が残っている。
その一部を下記に示す。
私も大好きであり、座右の銘の一つとも言える言葉である。

吉田松陰先生
吉田松陰先生
吉田松陰先生の手紙

(原文)
死は好むべきにも非ず、また悪(にく)むべきにも非ず。道尽き心安んずる、すなわちこれ死所(しにどころ)。世に身生きて心(こころ)死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心(こころ)死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

(現代語訳例)
「死はむやみに求めたり避けたりするものではない。人間として恥ずかしくない生き方をすれば、まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる。世には、身(体)は生きているが心が死んでいる者がいる、また身(体)が滅んでも魂が存在している者がいる。心がなければ生きていても意味が無く、魂があれば身がなくとも損はない。
死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。
生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い。

こうした吉田松陰先生の教えや生き様と、高杉晋作自身の強い意志と判断があって、この日本史上でも類を見ない無謀な決起が行われ、そしてそれが成功したのである。

更に付け加えれば、それが長州を近代化させ、それが薩摩と合わさって日本を近代化させて植民地化を防いだ。たとえ一人から始まったとしても、如何に一人の意思が人を動かし、国を動かすか、象徴しているのが「功山寺決起」であり「元治の内乱」なのである。

5.その後の長州藩と日本

功山寺決起に始まる「元治の内乱」により、長州藩は「正義派」が実権を握ることとなった。ここからの長州藩は、桂小五郎(後の木戸孝允)や伊藤博文が中心となって引っ張っていく。

維新三傑
維新三傑

この「元治の内乱」を経て長州藩は「倒幕」へのうねりを強くしていく。そして今だ幕府側であった薩摩藩は西郷隆盛大久保利通が長州と同様の動きを取り始め、両藩は急速に接近していく。

倒幕へのうねりが完全に具体化する日本の大転換期である「薩長同盟」が結ばれるのは、「元治の内乱」の2年後の慶応2年(1866)である。表舞台は桂小五郎であったが、その裏では高杉晋作が人脈を駆使してその締結を準備していた。

幕末の志士 高杉晋作
幕末の志士 高杉晋作

しかし、高杉晋作はその翌年の慶応3年(1867)4月に肺結核で亡くなる。満27歳であった。

なお、日本の明治維新は薩摩・長州が組んだことにより急速に進み、明治元年(1868)に王政復古の大号令の年から本格的に動き出す。急速に幕府体制を改革し近代化を急いで、欧米からの植民地化を必死で食い止めようとした。
そして、そのわずか50年後には、列強の最有力国の一つのロシアと戦い、かろうじてではあるが「勝利」と言われる戦果を挙げるほどの国になったのである。

高杉晋作公の満27歳の激しすぎる生涯は、吉田松陰先生のいう「死して不朽の見込みあれば」にふさわしい活躍だったと思う。わずか150年程度前にこのような人が居たことを、誇りと思うと共に学んでいきたいと思う。

6.高杉晋作公の功山寺決起に見る「決断」と「覚悟」の力

今回は、「功山寺決起」を中心にして、高杉晋作公について記述した。

功山寺決起」というと歴史上あまりに簡単に書かれるが、詳細にみればこれほどの無謀なものはなかったし、これがその後の日本に与えた影響は計り知れなかった。これを細かく見て、それに関わった人達を知ると、現在においても学ぶことは多い。
これほどの大転換を一人から始めた例は、日本史だけでなく世界史からみても無いと思う。確かに時期は短く、戦闘も大きくなかったのであまり取り上げられないが、実は日本を大きく転換させた大事件であり、結果的に世界史に与えた影響も甚大であった
もちろん、高杉晋作一人での偉業ではない。しかし、現代人としても、その事件がどういうものだったかを知った上で、そのきっかけを作った人がどのような思いで、どのような覚悟で行動したか、を見ることで、学ぶことは多いと思う。

「功山寺決起」における高杉晋作公の覚悟と行動力を、日本人として受け継いでいると思いたい今日この頃である。

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2017-10-30

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