明治を見る!【6】明治の首相の覚え方

長州の三尊

明治時代【6】:明治時代の首相の覚え方と、内閣を中心に明治を見る。

「明治を見る!」のシリーズの最後である。明治時代は45年間続く長い期間だった。大日本帝国憲法は明治の真ん中の明治22年に公布された。内閣は憲法前から存在していたが、明治の間だけで14回も変わっている。それらの変化を見ることで、明治という時代も印象深くなる。覚え方も含めてまとめたので、是非ご覧を。

(シリーズ記事)

➡明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり
➡明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで
➡明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争
➡明治を見る!【4】明治後半②:日露戦争後の世界と韓国併合と明治の終わり
➡明治を見る!【5】明治時代の世界情勢
➡明治を見る!【6】明治の首相の覚え方

1.明治時代45年間の総理大臣の変遷と覚え方

明治時代の首相は14代変更している。初代は伊藤博文公であり、憲法も無い状態から始まり、なんとか近代国家を目指すために内閣を維持してきた。

これを覚える方法として、YouTubeで「竹内睦泰(たけうちむつひろ)」先生から覚え方を教えてもらった。以下の通りである。

いくやま いまい おやい かさかさ

と頭を取って覚えるといいと言われて、実際に見てみたら、すっと頭に入った。
すなわち、

(伊藤博文)(黒田清隆)(山縣有朋)(松方正義)」
(伊藤)(松方)(伊藤)」
(大隈重信)(山縣)(伊藤)」
(桂太郎)(西園寺公望)(桂)(西園寺)」

 と覚える。何度も出てくる人もいるが、これで覚えやすくなる。
顔写真と出身地別に分類したリストは以下の通り。

明治時代の内閣
明治時代の内閣

ブルーに着色したのが「長州閥」、肌色に塗ったのが「薩摩閥」で、着色のないのがそれ以外である。一目で長州勢の多さが目立つ。明治政府は「薩摩・長州による政治」というが、実際には、長州勢が政治を引っ張っていたことがよく見える。薩摩はどちらかというと、軍に人が多い。

また内閣は14回変わっているが、何度も出てくる人が多い。伊藤博文の4回を筆頭に、なんとか内閣をしっかりと運営すべくその経験を踏まえた内閣が組成されていた。人数で言えば7人となる。

2.長州の三尊(さんそん)~伊藤博文・山縣有朋・井上馨~

あまり多くは言われないが長州の三尊(さんそん)という言われ方がある。その功績をたたえて、長州勢の3人を指す言葉である。
その3人とは伊藤博文(いとうひろぶみ)山縣有朋(やまがたありとも)井上馨(いのうえかおる)の3人である。

長州の三尊
長州の三尊

しかしこの3人は、どうも明治維新を引っ張った「維新三傑」に比して、小者のように言われることがある。よく言われることとして下記のような言われ方がある。

女にだらしないのが、伊藤。金にあざといのが、山縣。両方に汚いのが、井上。」

散々な言われ方である。実際に、それなりに3人とも盛んであったことは事実のようである。しかし、それはあくまで彼らのその側面だけをクローズアップしたに過ぎない。歴史の話でよくあることではあるが、人物の印象などその後の人達がどのような思いをもって語るかによって、まったく異なった言葉となり、事実や人物を見る上で誤った印象を与えることが多い。いい方にも悪い方にもである。

私も、この3人はあまりいい印象がなかった。明治維新の西郷隆盛や木戸孝允などと比べても見劣りする印象が強かった。しかし、一人一人の実際に行ってきた功績や事実を見ると、それが如何に浅い認識であったかを思い知らされた。

伊藤博文
伊藤博文
伊藤博文(いとうひろぶみ)この3人の中でといえば、伊藤博文(いとうひろぶみ)についてはこのブログでも何度も取り上げているので、それほど長い説明は要しないだろう。伊藤博文は、幕末初期の頃からその意識は高く、イギリスに留学していて初期から語学堪能であった。高杉晋作の「功山寺決起」にも参加し、薩摩・長州の同盟の前から、常に長州の全面に立って引っ張ってきた人である。
そして、明治維新の三傑が亡くなった後はといえば、この人が日本を引っ張って言ったと言って過言はないだろう。初代内閣総理大臣のみならず、ありとあらゆる役職の最初は伊藤博文であった。それほど、他に任せることが難しい時代で、自らが切り開いていった人である。大日本帝国憲法の作成において、部下に任せるという姿勢ではなく、自ら学習し自らが憲法の専門家の第一人者になるところまできて初めて憲法を作っている。まさに信念の人であり、日本に与えた功績は計り知れない「巨人」である。
山縣有朋
山縣有朋
山縣有朋(やまがたありとも)山縣有朋(やまがたありとも)は、あまり印象にない人も多いのではないかと思う。確かに明治の頃から人気は無かったようで、内閣総理大臣となっても短命の内閣となっている。しかし、若い頃は奇兵隊を率いて長州の改革なども務めた。高杉晋作からの信頼は厚く、奇兵隊は完全に山縣有朋に任せられていた。特に陸軍の創設には大きな存在であり、良くも悪くも日本の陸軍の父であったということは間違いなく言える。

人気はあまりなかったが、大正11年(1923年)に85歳で亡くなるまで、軍及び政界に大きな影響を残した人であった。国民の不人気ぶりは目立ったが、昭和天皇の信頼は厚かったようである。まさに無骨な「軍人」としての側面で、日本を引っ張った人の一人であった。

井上馨
井上馨
井上馨(いのうえかおる)
「長州の三尊」のうち、井上馨(いのうえかおる)だけは総理大臣をやっていない。いろいろな巡り合わせでそうなった人ではあるが、総理大臣はやっていなくとも各内閣において閣僚は歴任しており、また内閣に入っていなくとも数々の役職をこなし、井上なしでは行政は立ちゆかなかった。
若い頃から積極的に世界をみたいと留学もしている。かなり開明的な考えをもちつつ「国学」をしっかり学び、日本の伝統もしっかり見据えた上での開国を主張していた。

岩倉具視使節団が欧米に行っていた頃は、留守政府の大蔵卿として、財政を切り盛りした。そのやり方が強引で経済を優先するように進めていたためか、西郷隆盛が井上にお酒を回すときに

「三井の番頭さん、差し上げる」

といったという逸話がある。西郷はあまり井上のやり方を良く思っていなかったようである。

といっても、やはり実力者であり能力が高かった。伊藤博文も内閣を組閣するときには、井上への入閣をいつも打診しながら進めていた。第一次伊藤内閣の時には外務大臣として就任。このころいわゆる「鹿鳴館」などで、日本の「近代化」といって欧米にならう「欧化政策」をすすめた。その目先には不平等条約の改正があった。信念を持って進め、不平等条約の撤廃に大きく貢献したのである。いろいろ逸話も多い人ではあるが、情熱を持って日本を組み立てていった大功労者の一人であることは間違いない。

大正4年(1915年)に81歳で亡くなる。歴史上ではあまり派手に持ち上げられる人ではないが、日本を近代化すべく大きく活躍した人であった。

3.薩摩勢の2人~黒田清隆・松方正義~

第2代の「黒田清隆(くろだきよたか)」は薩摩の人である。その後、薩摩人として2度総理大臣となる「松方正義(まつかたまさよし)」と共に、明治時代で薩摩人で総理大臣になったのは、この二人である。
これも逸話としてあるらしいが、大久保利通が「どうも薩摩人は軍事には得意だが、政治は苦手である」と言ったそうである。

この二人を指して「薩摩人だから」という気は無いが、この二人の内閣も短命で終わっている。

(1) 黒田清隆(くろだきよたか)

黒田清隆
黒田清隆

黒田清隆(くろだきよたか)は、伊藤博文の後に内閣を任せられている。酒癖が悪く、奥さんを酒乱の末に殺した、という話があるほどの人である。

頭を丸めた黒田清隆
頭を丸めた黒田清隆

情に厚い人であった。エピソードがある。薩摩の軍人で、戊辰戦争では函館戦争の指揮をとったが、その時の「榎本武揚」という人に惚れ込んで、この人はこれからの日本になくてはならない、と、自分の頭をそり上げてその助命を嘆願した。その後、超大国ロシアのサンクトペテルブルグに行き堂々と領土交渉したのは榎本武揚である。榎本武揚の活躍を考えれば、黒田の見る目が確かであったと言えるのではないだろうか。

(2) 松方正義(まつかたまさよし)

松方正義
松方正義

松方正義(まつかたまさよし)はなかなか語られない。エピソードとしては、あの伊藤博文も呆れるほどの女好きであったようである。子供は、男15人・女11人とも言われるほどである。明治天皇から、

「お前は子だくさんと聞くが、一体何人いるのか」

と聞かれて、すぐに答えられなかった松方は、

「後日調査の上、ご報告申し上げます」

と答えたと、言われる。それほどの女好きで、政治家としても優秀とは言えなかったようである。「松方は薩摩だから総理大臣になれた」と当時から言われていたようで、なかなか功績としては難しい。しかし、その人間的な面白さは頭に入れておきたい。

また財政的な活躍にも触れておきたい。「松方デフレ」と言われるが、経済的には緊縮財政を進め当時は統一した紙幣がなかった中で「政府紙幣」の普及を進めた人である。世界的な懸案だった「金本位制の是非」に揺れる日本を切り盛りした人であった。明治天皇からの信頼は厚く財政に関する大きな信頼を得ていた。

4.唯一の政党人 大隈重信

大隈重信
大隈重信

明治の政治家の中で、唯一「政党人」として政党からでてきて内閣総理大臣となったのが、大隈重信(おおくましげのぶ)であった。大隈重信は、備前藩(佐賀藩)の人であり、当時の薩摩・長州の政治の全盛の中で、遂にそれ以外の藩からの内閣が組成されたときだった。この後の「大正デモクラシー」のきっかけとなるとも言える内閣であった。

大日本帝国家の成立から10年ほどの頃であった。議会制民主主義がなかなか根付かない中、伊藤はかなり苦労していた。そんな中で山縣有朋などの反対を押し切って、次の内閣として推薦したのが大隈重信であった。議会の運営に窮していた伊藤博文が、国民に人気があった大隈重信や板垣退助を、仕方なく利用しようとしたのである。成り手がいなかったのである。よく見てみると、この前までが、長州と薩摩が入れ替わりで内閣を組成していたが、ここで成り手がいなくなってしまった。日清戦争が終わり次の日露戦争へと流れていく難局で、強すぎる議会を抱えた政権運営は非常に難しく、なかなか火中の栗を拾う人がいなかったのである。

大隈内閣に対しては、政府内では非常に不安が大きかったようである。日清戦争と日露戦争の間の頃で、非常に大事な時期に大隈重信など政治経験に乏しい内閣に対して元老は伊藤以外全員反対したと言われる。明治天皇も非常に憂慮されたようである。大隈内閣にするといわれ、

「本当に大丈夫か」

と何度も聞いた、といわれる。
結果、大隈重信はわずか4ヶ月の短命内閣となる。ひどい政権運営で全くまとまらず、ロシアに対峙しようという時にアメリカにすらケンカを売る始末だったようである。

その後、大隈重信は大正時代に第二次内閣も組成し、政治の道を行く。一方で教育にも力を入れたいと、明治15年(1882年)に設立した「東京専門学校」は今の「早稲田大学」の全身である。早稲田大学の創始者として知られる。

個人的にはあまりいい印象がないが、信念の人であり、今の政党政治の走りを築いた人と言える。

5.「桂園(けいえん)時代」の桂太郎と西園寺公望

(1) 桂太郎(かつらたろう)

桂太郎
桂太郎

桂太郎(かつらたろう)と西園寺公望(さいいおんじきんもち)が代わる代わる内閣を作った時期が合った。両者の頭文字を取って、「桂園時代(けいえんじだい)」と言われる。10年近く続くこの時代であるが、非常に重要な時代でもあった。世界史にのこる日露戦争・その後の日韓併合の時代である。彼ら2人による政治の安定があって初めてこの時代があった。

若い頃の桂太郎
若い頃の桂太郎

桂太郎(かつらたろう)は長州人である。「長州の三尊」と言われる三名より少し若い世代である。桂にとって井上馨は義理の父にあたる。
木戸孝允(桂小五郎)は親戚筋にあたり、木戸孝允は11歳年下の桂太郎に目をかけ、留学費用を立て替えたりしている。戊辰戦争などにも参加しており、当時若干20歳になったばかりの青年であった。

調整力に長けた政治家で、政治基盤はあまり強くなかった。根回しに苦労し、ニコッと笑ってポンと肩を叩く「ニコポン宰相」と言われる程、調整を重んじつつ政治を実行していった。
日露戦争の勝利という世界史に残る戦争を実行したのは桂内閣の時だったが、当時の内閣は有名人が少なく、当時から「第二流内閣」とまで言われるほどであった。
それを見事に切り盛りし日本を勝利に導いたのは、桂太郎の政治手腕なしでは語られない。桂太郎は陸軍の大将であり、児玉源太郎・川上操六と共に、「明治陸軍の三羽烏(サンバガラス)」と言われる人である。

(2) 西園寺公望(さいおんじきんもち)

再婚時公望
西園寺 公望

西園寺公望(さいおんじきんもち)は、その名前が示すとおり、公家の出身の人物である。なかなか異色の人であり、桂太郎と同年代ながら昭和15年(1940年)に90歳で亡くなるまで生きた長寿の人である。日本の政治を支える人となる。日本の近代政治において、なくてはならない人である。大正・昭和での功績も多くあるがここでは、できるだけ明治の時代に限った内容を記述したい。それほどに、日本の近代政治において重要な人物であった。

同じ公家の岩倉具視の推挙などもあり、若くから明治政府の要職に就いていた。出身大学はフランスのソルボンヌ大学であり、早くから世界を見ていた開明的な考えを持った人の一人であった。

しかし単に海外にかぶれていたわけではない。当時のフランスは「パリ・コミューン」と言われる時代で、市民が魔女狩りのごとく政治を動かし、「フランス革命」の頃からに近い虐殺政治であった。それを見た西園寺公望は、日本は絶対に「天皇を中心とした政治」でないといけない、と強く思ったという。
伊藤博文の腹心、と言われ、伊藤博文のシュタイン博士の下での憲法の勉強も一緒に行っている。もともと大きな野心がある人ではなく、それほど政治にも熱心ではなかったとされるが、伊藤博文からの信頼は厚く、常に政治に関与する立場になっていった。
西園寺が首相になったとき、明治天皇は「公卿から初めて首相が出た」と喜んだという。女好きは伊藤・井上に匹敵するほどと言われ、数々の逸話を残している。

教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と教育にも力を入れた。日本の近代において常に指摘する立場にいて、日本を支えようと腐心した。
「元老」というどこにも明文化されていないシステムがあったが、これを最後の15年間一人で努めた。日本の政治に対して大きな影響を与えつつ、国を導いた。昭和の話ではあるが、いわゆる「大東亜戦争」に向かう、「5・15事件(昭和7年:1932年)」「2・26事件(昭和11年:1936年)」も見て嘆いた人である。仕組みとしての日本がおかしくなっていくのを見て憂慮していた人であった。かくて、大東亜戦争開戦となる真珠湾攻撃の一年前の昭和15年(1940年)に90歳で波乱の人生を閉じた。

6.明治時代の内閣とそのエピソードを見て

明治の時代は、本当にいろいろあった時代であった。しかし、あまりに多くてなかなか頭に入らない。とはいえ、この明治を理解しないと、大正・昭和は理解できない。
そこで、内閣にクローズアップをして明治の時代を見てくると理解が深まる。特に内閣が出来た後の明治を見ると、現在により近くなり当時の先人達の苦労がよく見えてくる。こうした先人達の人間らしいエピソードも含めて見ていくことで、今を知るきっかけになると思う。

明治全体を通じて6回にわたりまとめてみた。一つ一つの歴史的事実はまた記事にしたいが、まずは全体像としてまとめてみた。ここを理解していくと、近現代史の全体像が見えてくると思う。是非、シリーズを通してみていただいて、明治のそして日本の理解を深めてもらえると光栄である。

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コメント

    • のん
    • 2019年 2月 10日

    首相の覚え方!受験生にも役立つ情報ですね。
    こういうの、最初は機械的に覚えるのは苦痛ですが、結構歴史の流れが分かるようになって良いですね。それぞれの人物像も面白いです(´・∀・`)

      • てつ
      • 2019年 2月 10日

      覚えやすいっしょ。竹内先生の直伝です!

      やっぱり暗記も大事だねぇ。時代が見やすくなります。

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