てつログ https://tetsu-log.com 日本史好きの会計士が、日々の考察をつづるブログ。社会人の豆知識、歴史の再探求、子供へのうんちく、等の一助として。学ぶ事の楽しさと共に。 Mon, 14 Nov 2022 11:59:17 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://tetsu-log.com/wp-content/uploads/2017/12/Profile8_2-150x150.jpg てつログ https://tetsu-log.com 32 32 133035625 安倍元総理の死と、漫画ワンピースの「ヒルルクの桜」 https://tetsu-log.com/abesouri-2022-11-08.html https://tetsu-log.com/abesouri-2022-11-08.html#comments Mon, 07 Nov 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27807 安倍元総理の死と、漫画ワンピースの「ヒルルクの桜」にある「人はいつ死ぬか」を考える

安倍元総理の死から、早くも4ヶ月経った。しかし、その「死」そのものよりも、「統一教会」だとか「国葬」だとかで、本質からかけ離れた議論ばかりで辟易としている。ここではその「死」について、安倍元総理の死から4ヶ月で思うことをまとめた。是非、お付き合いを。

1. 安倍元総理の死と、漫画ワンピースの「ヒルルクの桜」と

安倍元総理「日本を取り戻す」
安倍元総理「日本を取り戻す」

安倍元総理の死から、早4ヶ月経った。なぜか、あの異常な「暗殺」をマスコミは「統一教会」に話をすり替え、報道し続けている。

思うところがいろいろある安倍元総理の暗殺だが、ここでは安倍元総理の「死の意味」を考えたい。「日本を取り戻す」と言った大政治家の死について考えたい

しかし、まず、安倍元総理の暗殺について、今のマスコミ・政治・世間の取り上げ方に、どうしても違和感を感じることを指摘したい。
①白昼堂々と、②安全と言われる日本で、③相経験者で今だ有力な政治家が、④暗殺された、というのに、そちらの問題は全く取り上げない。そして、世間もその話に乗ってしまっている。本来、追究すべき重大な謎があるのに、である。あのずさんな警備の問題はなぜ起きたのか?犯人はどのような経路で武器を作り、安倍総理の情報を得たのか?そうした本質の報道・追求が全くなされていないまるで、事実を隠すかのごとく、としか思えない。

安倍元総理 追悼
安倍元総理 追悼

長らく政治を見ている者として、首相経験者で、あれほどの情熱を持ち、かついわゆる「政治力」を持って多くの人を巻き込めた政治家を、私は知らない。今の岸田政権など比べる対象にすらならない「大政治家」だった
安倍元総理の後半の移民を入れるなどの政治姿勢は、私は反対の人間であり安倍元総理の限界なのかと絶望した。しかし、そうした安倍元総理に反対の立場であっても、上記の「大政治家」という認識については、揺らぐことはない。そして、安倍元総理は総理辞任後はそうしたことを「補正」しながら、次の政治を目指していたと思う

その矢先での死。そしてそれが、なぜか「統一教会」の話にすり替わっている事実、あまりに下らない報道となってしまっている。しかし、安倍元総理の死は何かを残したはずと信じたいあれほどの人の「死」というより、生前の「情熱」は、誰かが引き継ぎ、本来の「日本を取り戻す」という安倍元総理の情熱は育つはずである。

漫画ワンピースの有名なシーンで、私も大好きな「ヒルルクの桜」のシーンがある。
「人はいつ死ぬのか」という問いに対し、ヒルルクは「人に忘れられたとき」と答える
そのシーンは、私の父の死ともつながり、今でも心に残る大事な言葉として私の中に生きている。

Drヒルルクの最後(マンガ「ワンピース」16巻より)
Drヒルルクの最後(マンガ「ワンピース」16巻より)

今、あえて安倍元総理の死、で、「人はいつ死ぬのか」を思う。安倍元総理は簡単に死んだのだろうか?それを引き継ぐ人がいれば「生きている」のではないか。そんなことを思う。

2.マスコミが騒ぎ立てた「国葬」に、国民の長蛇の参列

マスコミが散々あおり、そして批判してきた安倍元総理の「国葬」は、まるで経費の無駄遣いのような扱われ方だった。

私はそれに対して、「怒り」というよりも、「ショック」を受けた。あの激務の首相という仕事を安定して就任し続けたことは、誰がどうみても日本に取っては大きなプラスだった。政治信条が違っていても、その事実は変わらないはずである。安定政権というのは、日本の国益に大きく貢献していた。その事実だけ見ても、安倍元総理に対する「感謝」の念はないのか?と、強く思った。

安倍元総理 国葬
安倍元総理 国葬

しかし、その死に対し、信条が違うからと言ってもあれほどの罵倒をすることは、とても同じ日本人とは思えなかった。「人の死を悼む」そして「歴史上最長の首相在任をしてくれた人の、残酷な死」に対して「弔意を表わす」という当たり前の気持ちがあれば、国葬に対しての批判はあのような形ではされなかったと思う
そういう意味で、安倍元総理の国葬がまるで嫌な物のようにレッテルを貼っているのを、見るのも聞くのも、堪えられなかった。マスコミが煽った世論調査で「国葬に賛成か反対か」などと、まったく意味の無い世論調査は、許せなかった。終わった今でも、そのような報道が目立つ事に対し、怒りと言うより、本当にやるせない「ショック」というか悲しさを感じる。

しかし、実際の国葬の事実をしっかり見ておきたい

安倍元総理の国葬の献花に長蛇の列
安倍元総理の国葬の献花に長蛇の列

令和4年(2022年)9月27日の平日の14時から武道館で行われた国葬は、一般向けの献花台も設けられ10時から一般の献花が可能だった。その献花ですら長蛇の列で、3時間待ちだったという。その日は最高気温は30℃近くまであがり暑い日であったにもかかわらず、東京・九段の献花台から四ツ谷まで2キロ以上の列ができ、国民が安倍元総理の死を弔った

私も行ける物なら行きたかったし、行くべきと思っていた。それほどの「大政治家の死」に弔意と感謝を示したいと思ったからである。
物理的に遠いので叶わなかったが、安倍元総理の実績と情熱は、しっかり国民の中に植え込まれている事が、端的にわかる「国葬」だったと言えるのではないだろうか。
あまりに低レベルでひどい批判が多かったので心配したが、「国葬の実状」を見た時にはホッとした気持ちになると同時に、安倍元総理の「功績」を改めて感じた。

安倍元総理への献花
安倍元総理への献花

「人はいつ死ぬか」について、「国葬」の厳かな雰囲気は国民の一つの答えを示していると思う。「日本を取り戻す」という情熱は引き継がれていかないといけない、と思った。

3.安倍元総理の死と、受け継がれるもの

「政治家 安倍晋三」として見る一方で、同じ時代を過ごした個人の男として、「安倍晋三氏」を見ても、やはりその死はショックが大きかったし、いまだにショックを受けている。
安倍晋三氏の「晋」は、高杉晋作公の「晋」から取ったという。そして、安倍元総理も高杉晋作を尊敬していたという。同じ人を尊敬する人として、改めてご冥福をお祈りしたい。

 

安倍元総理の死について「人はいつ死ぬのか」という問いは、これからの我々がしっかり受け止めることであると思う。「日本を取り戻す」という情熱を我々が受け継げれば、安倍元総理は生きていると言える

「情熱」を持って日本を導いた大政治家の安倍元総理、その死が一つの礎となって日本が良い方向に行くことを願う。

]]>
https://tetsu-log.com/abesouri-2022-11-08.html/feed 4 27807
幕末に日本を守った、26歳の高杉晋作の4ヶ国連合との交渉 ~「魔王のごとき」と言われた交渉~ https://tetsu-log.com/shikokurengokosho-2022-11-01.html https://tetsu-log.com/shikokurengokosho-2022-11-01.html#respond Mon, 31 Oct 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27719 幕末に日本を守った26歳高杉晋作の4ヶ国連合との交渉とは?

明治維新はすさまじく情勢が変わっていく。その中で、日本を守ったとも言えるギリギリの交渉があったことが、あまり語られない。長州藩の高杉晋作公は当時若干26歳にして、世界最強の大英帝国と堂々と渡り合い、交渉を有利に進めた。「日本を守った」といえるその交渉を見ていきたい。是非お付き合いを。

1.日本を守った、当時若干26歳の高杉晋作

高杉晋作
高杉晋作

高杉晋作と聞いても、「名前は聞いたことがあるけれども・・・」、という人も多いと思う。一方で、熱烈なファンが多い人でもあると思う。そして私は後者の人間で、私が、日本の偉大な先人の一人として尊敬してやまない人である。

その高杉晋作公の数ある「偉業」と言える中の一つを紹介したい。明治維新のまっただ中で起った下関戦争(馬関戦争)後の欧米列強(4ヶ国連合)との交渉である。結論から言えば、ただでさえ難しいこの交渉は、若干26歳の高杉晋作に白羽の矢が当たり、その際に見事な手腕で日本を守り抜いたのである。

高杉晋作の暴れ回った幕末の中で、「下関戦争」の頃は、本当に日本が文字通りの植民地になるかの瀬戸際の頃だった。少し深く言えば、この一年前に起こった「薩英戦争」と合わせて、この「下関戦争(馬関戦争)」は、相手が特に危険な国だった。当時の世界で最強の名前をほしいままにした大英帝国の全盛期(ヴィクトリア朝)にあって、その大英帝国となんと「国」ではなく「藩レベル」で戦争を起こした非常に重要な時期だった。それをきっかけに、インドや清国と同じ植民地の道をたどる危険性は十分にあった。

その時に、「長州」ではなく「日本」を守り抜いた交渉をしたのが、当時若干26歳の高杉晋作公である。後の初代首相の伊藤博文が、「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」と言って、大英帝国及び欧米列強に好きなようにされた清国(China)と同じ道を歩んでいたかもしれない、と言ったほどの交渉であった。
つまり、「うやむやにした」のである。

その交渉で、何があり、どんな交渉だったか、見ていきたい。

2.高杉晋作と維新回天

まず基礎知識として、高杉晋作について簡単に触れておきたい。ここではあえて、維新回天(明治維新)というより、高杉晋作という個人にクローズアップして記述を進めたい。

高杉晋作は、幕末迫る天保十年(1839年)に今の長州藩(現在の山口県)の萩市に生まれている。アヘン戦争が1840年であるから、まさにアジアの侵略が目の前に来ている時代に生を受けた

その後、吉田松陰との出会いがあり大きくクローズアップされるが、高杉晋作は吉田松陰と会う前から名門の子供ながらその優秀さと、一方で持つ破天荒ぶりは有名だったようである。そして、吉田松陰先生は早くから高杉晋作のその才能を見出していた、と言われる。

高杉晋作公 年表
高杉晋作公 年表

また、高杉晋作を語る上では、その早すぎる死を抜きには語れない。数々の偉業は、すべて20代で行われ、早すぎる死は慶應3年(1867年)、まだ29歳の時に訪れてしまった。明治元年の前の年である。
高杉晋作公の功績はどれもその後の日本に絶大な影響を与えた。江戸幕府を倒して明治政府を立てたのは、薩摩・長州の2藩によるところが大きいが、その「長州」は高杉晋作が動かなければ、間違いなく今、歴史で語られるような形で存在していなかった。歴史に「if」はないが、もしそうなら、江戸幕府から明治政府という形での近代化はできなかった可能性も低くない。
また、その長州で「奇兵隊」を結成したのが高杉晋作であり、それは後の大日本帝国の陸軍の礎となっている。

まさに、「日本を作った人」の一人と言っていい。
しかもそれが、20代のうちに駆け抜けた人生に凝縮されている

明治維新、という意味では、明治の時代を見ることなく亡くなった高杉ではあるが、最初から「日本」という国レベルの視点で物を見て判断し、行動していた。そして、高杉晋作公の残した「功績」はその後の明治に多大な影響を与え、そして現在にもつながっている。

3.下関戦争時の長州藩と高杉晋作

(1) 薩摩・長州が実行した「無謀な戦争」、薩英戦争と下関戦争(馬関戦争)

明治維新と言われる時代は、情勢がめまぐるしく動いている。その象徴的なものとして、薩摩と長州の関係が言える。薩摩藩は当初は幕府を改革しながら日本を強くすると言ういわゆる「佐幕派」で、一方の長州は幕府の力を弱め朝廷(天皇)中心の政治の下で日本を強くするという「勤王派」だった。
当初は、薩摩藩と長州藩は、その方針においては完全に対立していたのである。

有力諸藩
有力諸藩

しかし、その中で薩摩・長州は大きく方針転換をせざるを得ない事件が立て続けに起きた。文久3年(1863年)に起った薩摩と大英帝国の戦争である「薩英戦争」と、元治げんじ元年(1864年)の長州と欧米列強4ヶ国(英国・フランス・オランダ)連合との戦争である「下関戦争(馬関戦争)」である。

両者とも勝ち目は全く無かった戦争であり、どちらも当時の植民地をほしいままにした大英帝国(イギリス)が入っている。薩摩にしても長州にしても、勝てるなどとは全く思っていない。その建前は、当時、幕府・朝廷から指示された「攘夷」を実行したまでである。
しかし、「外国勢力を除外する」という「攘夷」は、現実的ではなくむしろ日本を滅ぼしかねない「亡国論」であることは、一部知識層には理解されていた。「外国勢力を除外する」というのは威勢がいいが、その「力」が日本に無いと実現しないのである。

それでも実行された「攘夷」の象徴が「薩英戦争」であり「下関戦争」だった。そしてその後は、それを言い訳にするかのごとく、薩摩・長州は「攘夷は無理」と言わんばかりに、大きく動いてくのである。

(2) 下関戦争(馬関戦争)と高杉晋作

下関戦争(馬関戦争)は、長州藩対4ヶ国連合という形で行われたが、中心はやはり大英帝国(イギリス)であった。馬関の港において長州藩が通行の邪魔をして砲撃を続けていたため、「フランス・オランダ・アメリカ」と結んで、長州藩に砲撃の中止と港を開くよう迫っていた。

それに対して、当時の長州藩の重臣達は「幕府の言うことを聞かないといけない」、と恐怖症に陥っている状態だった。なぜなら「禁門の変」で散々に長州藩は叩かれた直後だった。幕府の言うことは「誰も実行し得ない攘夷(外国勢力の排除)」である。そして、その結果、こともあろうか何の考えもなしに4ヶ国の連合艦隊に砲撃をするのである。

なお、このとき、長州藩の松下村塾の志士たちは、
・ 久坂玄瑞(高杉と並び「松下村塾の双璧」といわれた)は7月の禁門の変で死去
・ 桂小五郎は、禁門の変で行方不明
・ 高杉晋作は、脱藩の罪で謹慎蟄居
という状態で、政治の中枢から完全に外れていたのである。
ただ、高杉晋作は謹慎蟄居とはいえ、長州の行く末を案じる人であり、情勢をよく見ていた。

そんな中で、遂に元治げんじ元年(1864年)8月5日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、
長州側も前田村の砲台から応戦し、戦争が開始された。

負け戦と分かりつつも、長州藩も死力を尽くしたが、あっという間に砲台は破壊され、その沿岸地域は連合軍に占領された。
ここに至り、長州の重臣達は無謀な戦争を諦め、降伏の交渉を始めることとなった

4.「魔王のごとき」と言われた高杉晋作の交渉術

(1) 謹慎中に交渉の白羽の矢が立った26歳の高杉晋作

高杉晋作(左)と伊藤博文(右)
高杉晋作(左)と伊藤博文(右)

このように、下関戦争(馬関戦争)はあまりに無謀でまた無計画に始まり、惨敗した。そしてあろうことか、港には欧米勢力が入り込み、まさに危機の状況だった。そしてここから、長州藩は4ヶ国連合に「和平交渉」を申し入れる。

それほどに難しい交渉に誰があたるのか、長州藩の重臣達が出した答えが、謹慎中の高杉晋作であった。当時、高杉は26歳。だれがやっても難しい交渉を、若干26歳の高杉晋作に頼まないと行けないほど、長州藩には人材がいなかったのか、若しくは、高杉でないとここは乗り切れないと考えたのか。それにしても、それを任命する側も、そしてそれを受ける高杉も、相盗の覚悟を持ったと思われる。当時の状況と、自分が26歳の時にその状況と考えると、歴史の瞬間の重みを感じる

なお、このときに通訳として選ばれたのが伊藤俊輔、後の伊藤博文である。伊藤博文は高杉より3年下であるから更に若い。

(2) 絶妙な駆け引きを入れ混ぜて臨んだ交渉

道場での高杉晋作
道場での高杉晋作

高杉晋作は、交渉にあたり筆頭家老の宍戸家の養子という名目で臨んだ。「宍戸刑馬(ぎょうま)」という偽名を使って交渉に臨んだ高杉は、9月8日に連合艦隊の英国船に呼ばれ交渉を行う事となった。

当時、イギリス側の通訳として従事していたアーネストサトウの描写によれば、「悪魔のごとき傲然としていた」(※傲然(ごうぜん):尊大に振る舞うこと)、と評すほどだったという。やはり、長州のみならず日本がどうなるか分からない交渉の最前線の緊張感は、高杉ならばひしひしと感じていたということと思う。

また、それは交渉の戦略の一つであった。交渉が進むと、「だんだん態度がやわらぎ」とアーネストサトウが言ったように、交渉は順調に進んだ。高杉はそれほどに堂々と交渉に臨んだと言える
当時の連合国の要求は、簡単に言うと、

① 海峡通行の安全の確保
② 300万ドルの賠償金支払い
③ 彦島の租借

の3つだった。交渉を進めながらも、まずは休戦を結ぶことができ、1回目の交渉は終了する。

しかし、2回目の交渉には高杉晋作は現れなかった。外国との講和に反対する藩内の「攘夷論者」が「高杉・伊藤を切る」と藩の上層部に詰め寄り、なんと藩の上層部がそれを高杉のせいにしたのである。それに怒った高杉晋作は伊藤博文と共に逃げることにした。それもあって2日目の交渉は出られなかった。

しかし、高杉晋作はこの状況を利用して「あえて」出なかったと思われる節がある
2日目の交渉で高杉が出てこなかったため、長州藩の重臣が出席したが、イギリス側が「高杉でないと信用出来ない」として高杉を要求してきた

結果、2回目の交渉は全く進展せず、長州藩側は次の交渉を高杉に任せるしかなかった

高杉が「どうせ俺に泣きついてくる」と考えていた、という推測は、高杉晋作の行動原理から考えてまったく無理がない。それほどまでに、長州藩の上層部は当事者意識も統治能力もないと、高杉に見透かされていたし、高杉はどのように行動すればいいか分かっていた

(3) 絶対に譲らないところで、古事記を読んで聞かせたという逸話

そうした経緯で迎えた3回目の交渉であった。もう一度、4ヶ国連合側の要求をまとめると、

① 海峡通行の安全の確保
② 300万ドルの賠償金支払い
③ 彦島の租借

であった。
①については、認めざるを得ないことを高杉は理解していて、あっさりと認めた。
②については、これも認めざるを得ないとしてあっさり認めた。ただし、「幕府の命に従ったのだから、幕府に請求するように」として、見事にその請求を幕府に付け替えた。後に明治政府がこれをなんとか完済する。

そして③の「彦島の租借」だけについては、高杉は断固反対の立場を貫いた

上海に留学したことがある高杉は、大英帝国の汚さをよく知っていて、「香港の租借」と同様にあっという間に植民地化されることを分かっていた。

では、どうやって答えたか。

ここで高杉は

「そもそも、日本国なるは高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし・・・」

と「気が狂ったかのように」古事記や日本書紀を読み始めたという。これには、通訳で参加していた伊藤博文もアーネストサトウもあっけにとられ、そして伊藤は「訳せません!」と高杉に懇願したという。それでも高杉は講釈をやめなかった。

これに対し、イギリスの艦隊司令官のキューパーは、それまでの要求を高杉が認めたこともあり、③の彦島の租借については撤回し、取り下げたのである。

作り話のように聞こえるこの話は、「逸話」とも言われるが、歴史の瞬間にはドラマのようなことがあることは、どの時代も同じである。また、つい120年前の話であり伊藤博文公がその場にいた状態で、なんの根拠もない話が流布されるとは考えにくい。

(4) 日本を守ったその交渉とその成果

後に、伊藤博文公は

「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」

と語っているという。すなわち大英帝国や欧米列強に好きなようにされた「清国」と同じ道を歩んだ、と言われるほどに、この交渉は大きかった。

そして、敵対しているはずの大英帝国(UK:イギリス)は、この交渉を通じたこともあり、長州は信頼できる相手として、むしろつながりを強くしていった。これは薩英戦争を通じた、薩摩と大英帝国(UK:イギリス)の関係にも言えるが、幕府よりも薩摩・長州のような「藩」に信頼を持ち関係を強めていった。

このようにして、戦争としては「下関戦争」は全く無謀の無策だったが、高杉晋作はその和平交渉を経て、当時の長州を動かし日本を危機から守った、とすらも言える。そして、その後の長州藩にも多大な影響を与え、本格的に幕末へと動いていく。
この交渉は、非常にドラマティックなものだった。そしてそれは、天才とも言える高杉晋作でなければ出来なかったと思う

5.その後の高杉晋作と維新回天

この4ヶ国連合との交渉後の長州藩は、まったく動きが異なってくる。元治げんじ元年(1864年)は「高杉晋作の年だった」とあえて言いたい。

高杉は9月にこの交渉を行ったが、その年の12月、あの「功山寺決起」を起こす。「もはや長州藩を変えないといけない」、「そしてそれは今しかない!」、と決意し、皆から反対されても、誰も賛同しない中でも立ち上がり、功山寺にて「これよりは長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と宣言して見せた。
遺書まで書いたこの功山寺決起により、一気に長州藩の守旧派は崩れ、「開国し国力を付けて欧米列強にあたる」という方向性を明確にした(詳しくは ➡ 過去記事(「高杉晋作による「功山寺決起」に見る「決断力」と「覚悟」参照)。
この元治げんじ元年(1864年)の翌年に、功山寺決起は成功する。

そして、その後の長州の大きな危機であった「第二次長州征伐(慶応2年:1866年)」の際にも高杉率いる奇兵隊を中心に、総勢30万人とも言える幕府側を食い止める活躍をした。これも江戸幕府の失墜を象徴する出来事となり、倒幕の大きな要因となった。

現在の東行庵(とうぎょうあん)
現在の東行庵(とうぎょうあん)

しかし、その後、高杉晋作は肺結核を患い、その年に寺(東行庵とうぎょうあん)に入り療養するが、その半年後の慶応3年(1867年)4月13日に亡くなる。29歳だった

わずかと言っていいのか、29歳という短い期間ではあるが、その人生の軌跡はすさまじい。走り抜いた高杉晋作公はどのような気持ちだったのだろうか。

その翌年が明治元年(1868年)となり、五箇条の御誓文が発布され江戸幕府は正式に倒れ、明治の時代となって行く。

6.高杉晋作の下関戦争の講和交渉を見て

明治維新 高杉晋作の「4ヶ国連合の交渉」を中心に見てきた。歴史の一ページとしては、単に「4ヶ国連合と交渉した」とだけ出るが、その当時の状況、そして高杉晋作公の個人の人生をみると、如何にすごいことか、改めて感じる

高杉晋作公の覚悟と、知識と、勇気と、情熱と、どれをとっても、自分では遠く及ばない。年齢は高杉晋作公の倍近くなったが、年齢の問題ではない。しかし、少しでも近づければと思う

高杉晋作公が「日本を守る交渉」をしたことを、現代の日本人としてしっかり受け止めたい
現在の日本を見て、高杉晋作公はどう思うのだろうか・・・。

]]>
https://tetsu-log.com/shikokurengokosho-2022-11-01.html/feed 0 27719
北の霊場「恐山」の魅力 ~神秘的な境内と温泉~ https://tetsu-log.com/osorezan-2022-10-11.html https://tetsu-log.com/osorezan-2022-10-11.html#respond Mon, 10 Oct 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27586 北の霊場「恐山 菩提寺」の魅力 ~神秘的な境内と温泉~

恐山おそれざん」というと、名前は知っていてもあまりイメージがない人が多いと思う。ご多分に漏れず私もそのうちの一人だった。しかし、行ってみて「すごい体感をした」としみじみ思っている。そんな恐山おそれざんの魅力を改めてまとめてみた。是非、ご一読を。

1.「日本三大霊場れいじょう」の一つ、恐山おそれざん 菩提寺ぼだいじ

恐山おそれざんと言っても、名前は聞くが場所も歴史もあまり知らない、という人が多いと思う。東北の人たちにはなじみが深いだろうが、そうでないとなかなか知ることがない。しかし、その歴史や温泉などを見ると「行きたくなる」と思うし、実際に行ってみて、「是非、体感してほしい場所」と思った

恐山おそれざんは、本州の最も北に位置する半島である「下北半島」にある。青森市よりさらに北に行った場所で、近くの「むつ市」から山道を超えると、そこに行ける

下北半島と恐山 菩提寺
下北半島と恐山 菩提寺

「日本三大霊場(れいじょう)」という言われ方がある。霊場(れいじょう)とは、「神仏の霊験あらたかな場所の意で、神社・仏閣などの宗教施設やゆかりの地など、神聖視される場所(Wikipediaより)」と説明される。
日本には数々の「霊場れいじょう」があるが、その中でも「日本三大霊場れいじょう」と言われるのが、下記の三つである。

日本三大霊場れいじょう
恐山おそれざん :菩提寺ぼだいじ(青森県)
・比叡山:延暦寺えんりゃくじ(滋賀県、京都府)
・高野山:金剛峯寺こんごうふじ(和歌山県)
日本三大霊場と恐山
日本三大霊場と恐山

どれもお寺があるが、むしろ、霊が集まる場としての「霊場れいじょう」が先にあってそこにお寺が建てられた、と考える方が自然に思う。
その中で、特に「霊が集まる場」としての霊場れいじょうを強く感じさせる、恐山おそれざん菩提寺ぼだいじを深く見ていきたい。

南 直哉(じきさい)院代
南 直哉(じきさい)院代

恐山おそれざん菩提寺ぼだいじは、本州の最北の半島である下北半島に位置する。青森市より更に北に行かないと行けないし、なかなか行くには苦労する。しかし、霊場れいじょう」としての恐山おそれざんは、広く東北地方では「恐山おそれざん信仰」として根強く信じられ、今は観光も含めて多くの人が参拝する。
是非、東北のみならず日本人として、「死者の霊が集まる」と言われる恐山おそれざんに訪れると、感じられる物が多いと思う。

2022年現在で、恐山おそれざん菩提寺ぼだいじの院代(住職代理)南直哉(みなみ じきさい)氏である。直哉じきさい氏は長野県の出身で、サラリーマンとして百貨店で働いて後に、福井県の禅寺永平寺(曹洞宗)で20年修行されて、その後に恐山おそれざんに入った、という異色の経歴を持つ人である。
数々の著書もあり、ブログも発信しているという、非常に積極的な活動をされている。私が手に取った本の印象では、著書は読みやすく、堅苦しくないので、親しみやすいと思う。

2.「死者の霊が集まる」恐山おそれざん 菩提寺ぼだいじと境内

恐山おそれざん菩提寺ぼだいじは、境内を含めてぐるっと回ると3kmほどあるらしく、それなりに時間がかかる。そこで見られるもの、体感できるものは、まさに霊場れいじょうと言われるにふさわしい物に思う。

恐山 菩提寺境内
恐山 菩提寺境内

恐山おそれざんは、862年に円仁(えんにん)によって創建されたと言われる。円仁は平安仏教の祖の一人「最澄」の弟子であり、当時は天台宗であった。しかし、お寺はその後の衰退を経て現在は曹洞宗の寺となっている。
しかし、曹洞宗は基本的には「霊魂」の存在を認めていない。それでも、その曹洞宗のお寺である恐山おそれざん菩提寺ぼだいじが「死者の霊が集まる」と言われて1200年もの間、親しまれていることは興味深い

恐山 菩提寺の「地獄巡り」
恐山 菩提寺の「地獄巡り」

恐山は、「恐山」という山があるわけではない。「恐山山地」としてこのあたりの山々を総称して言う。このあたりは活火山の地域で、境内でも噴気や温泉の湧出がありボコボコと音を立てている。硫黄の匂いは境内全体を覆っている。その硫黄ガスは境内の建物を腐食させていくほどである。
「地獄巡り」とも言われるらしいが、境内には、硫黄が立ち込め火山岩が堆積しているところを歩くコースがある。一時間弱で歩けるコースでは、ボコボコと硫黄泉が噴出していて、匂いもきつい。しかし、「なぜこの地に円仁は寺を建てたのか、そして1000年以上も親しまれているのか」、と思うと、歴史の重みとこの地の「力」のようなものを感じられる気がした

そしてすぐ近くにあり散策のコースでもある宇曽利湖(うそりこ)」は、火山で出来た「カルデラ湖」で、湖は酸性が強すぎて、ごく限られた生物しか生きられない澄み切ったその湖は、見た目とは別に非常に過酷な世界で、それが恐山のシンボルとして存在し、「霊場」の雰囲気を出している
1200年前に円仁は、こうした光景を見て、そして修行した唐の知識から、この地こそ霊的なものが集まる霊魂の地、として寺を創建したという

恐山 菩提寺から見える宇曽利湖(うそりこ)
恐山 菩提寺から見える宇曽利湖(うそりこ)

2022年の現在でも、それが感じられるほどの、ある種「異様な」雰囲気を感じられる空間だった。

3.境内に「自然に」存在する温泉

これほどの活火山の中にある恐山おそれざんの魅力の一つが、「温泉」である。
とは言っても、本当に「温泉」で設備も何もない。ただお湯があり、湯船がある、という「温泉」である。しかもそれが、お寺の境内にある。いわゆる「温泉施設」といった温泉ではない。

格別の恐山の菩提寺境内の温泉
格別の恐山の菩提寺境内の温泉

この温泉も酸性が強く、長く入ることは推奨されていない。しかし、その雰囲気たるや、まさに「温泉」だった。曹洞宗では「入浴」も「修行」であるというのを見たことがある。「身を清める」という意味で、修行と同等に重要視している。私は仏教にそこまで詳しくはないが、ここのお風呂に入るとその意味が分かる気がする。
まさに、自然の力で地から出た「温泉」に「つからせてもらう」という気分で入った。「身を清める」という気持ちになれる。

境内の「ボロボロ」建物の温泉
境内の「ボロボロ」建物の温泉

境内にあるお風呂は全部で4カ所(宿坊も含めれば5カ所)ある。その中には「混浴」もある。あまりに自然に「混浴」があることは驚きだった。
どれも飾り気のない建物で、というより、ほとんどボロボロだが、それが歴史を感じさせ、雰囲気を更に引き立てている。建物の中は本当に「湯船」しかない温泉である。
どのお風呂も質素で飾り気がない。しかし、趣と歴史と、なにか重みを感じられる非常に良い温泉だった。

本当にお勧めの「温泉」である!

4.境内にある宿坊「吉祥閣」

話は変わって、境内にある「宿坊(しゅくぼう)」について記述したい。「宿坊」は定義的には本来は「仏教寺院や神社などで僧侶や氏子、講、参拝者のために作られた宿泊施設」であるが、現在は観光用にも使われ、その敷居はずいぶん低くなっている。

恐山の宿坊 吉祥閣
恐山の宿坊 吉祥閣

恐山おそれざん菩提寺ぼだいじには「吉祥閣」という宿坊がある。宿坊初体験の私は、事前の予測として「厳しいのかな」「きれいではないだろうな」と思っていたが、その予測はことごとく裏切られた。
建物・設備はきれいで、部屋は高級旅館と遜色ないほどに整備されている。夜食・朝食は当然「精進料理」であるが、予想を上回る質と量だった。

豪華な「精進料理」
豪華な「精進料理」
館内の大浴場
館内の大浴場

また、朝には法要があり、宿泊者は6時半に集合し法要の場に行く。その時のピリッとした空気も良かった。また、宿坊全体の静かな雰囲気は、一般のホテルや旅館で味合う物とまた違って、本当に良かった。

恐山の宿坊で特に良かったと思ったのは、「拝観時間を終えた後の菩提寺を散策できる」ことだった。夜、朝、の独特の雰囲気の中で見るお寺は、また違った景色のように見えるし、より「恐山」の空気を感じられるものだった。

また、この宿坊のお風呂も非常に良かった。境内の温泉とお湯は同じだが、ここは流石に設備がしっかりしていた。ありがたいお湯にゆっくりつかり、非常に良いお風呂だった。

恐山に行くなら、是非、宿坊で一泊して、恐山菩提寺ぼだいじを体感することをお勧めしたい

5.恐山を体感しよう!

「日本三大霊場」の一つと言われる恐山菩提寺ぼだいじを見てきた。本州の最北端とも言えるその場所は、行くには大変だが、「行ってみて絶対に損はない」、と言いたい。「霊場」としての歴史の重みを感じつつ訪れて、そして格別の温泉に入り、厳かな宿坊に泊まることは、日本人として最高の体験になると思う。

行ってみて、しみじみ思い返すと、本当に何か「すごい体感をした」という想いを持つ。観光としても温泉としても最高の場所だが、それとは別に、普段「霊」を意識しない私が、何か「感覚的」に感じる事ができる不思議な場所だった。

歴史もそのままに残り、まったく飾り気のない恐山菩提寺ぼだいじは、一度は体感することをお勧めしたいそして、私は、機会があれば再度訪れたいと思う。

]]>
https://tetsu-log.com/osorezan-2022-10-11.html/feed 0 27586
原爆誕生の悪魔の「マンハッタン計画」 ~日本人が知るべき悪魔の原爆計画とその結果~ https://tetsu-log.com/manhattan-2022-10-06.html https://tetsu-log.com/manhattan-2022-10-06.html#comments Wed, 05 Oct 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27551 原爆誕生の悪魔の「マンハッタン計画」 ~日本人が知るべき悪魔の原爆計画とその結果~

私が「悪魔の計画」とレッテルを貼っている「マンハッタン計画」を取り上げる。困難と言われた原子力爆弾をわずか数年で実現し結果的に日本が実験台に選ばれたこの計画。あまりに知られていないこの計画の背景と、アメリカ側の動きを見れば原爆投下が違った形で見えてくる。そして、現在の日本へと繋がっていることが分かる。是非、お付き合いを。

1.マンハッタン計画とは

マンハッタン計画(Manhattan Project)、と言っても聞きなじみがないかも知れない。しかし、被害者である我々日本人は絶対に知っておかなければいけない内容と思う。
マンハッタン計画は、広島・長崎に落とした原爆を生んだアメリカの国家プロジェクトであり、その後の世界を変えたプロジェクトと言ってもいいものである

マンハッタン計画は、アメリカの超極秘プロジェクトとして始められ原子力の力を「兵器」として使うという目的を持った国家プロジェクトである。始まりを指示したルーズベルトは、後に急死するまで副大統領にも秘密にしてきたほどのものである。
そしてその帰結は、ご存知の通り、日本への原爆投下だった。しかしそれは、マンハッタン計画に集められた科学者達が聞いた当初の目的と違う物だった

長崎での原爆投下写真
長崎での原爆投下写真

昭和20年(1945年)に広島・長崎に原爆が落とされ、無実の人が一瞬のうちにして灰になり、その後の放射能に大勢の人が悩まされ、そして、国としてまるで「日本が悪い」とまでなってしまっている「原爆投下」の事実を引き起こしたのもマンハッタン計画である。その後の「核」を巡る世界の争いと東西冷戦もマンハッタン計画が引き起こしたと言っていい。

それほどのことを引き起こしたと言っていいマンハッタン計画」について、あまりに知られていないし隠されている
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみという徹底ぶりだった

その後の日本や世界に与えている影響を考えれば、私はあえてマンハッタン計画を「悪魔の計画」とレッテルを貼りたい。原子力開発は確かに飛躍的に進んだが、歴史的に本当に必要だったのかと疑問に思う。
その「悪魔の計画」がどのように行われ、そして背後に何があり、なぜ日本がその被害を受けることになったか、見ていきたい。

2. マンハッタン計画の歴史と内容

(1) 設立のきっかけは、アインシュタインの書簡とフランクリン・ルーズベルト大統領

マンハッタン計画のスタートは、1939年アインシュタインが署名した「原子爆弾開発の必要性」の書簡が、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトに渡されたことと言われる。
しかし、実際はハンガリー系ユダヤ人のレオ・シラードが、当時権威中の権威であったアインシュタインに署名してもらうことで、原爆製造を政府に訴えたものである。

アインシュタイン(左)とシラード(右)
アインシュタイン(左)とシラード(右)

それを受け取った当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは同年に早速、「原子力を兵器に使用する」ことを研究するという目的でウラン諮問委員会の設立を承認し、そこに予算が付くことになった。これが「マンハッタン計画」の始まりと言われる

この書簡が作られた頃は、ドイツのナチス政権の1939年のポーランド侵攻の前の時点であった。当時、確かにアインシュタインもドイツのナチス・ヒットラーに危険性を非常に感じていたという。結果、そのような書簡にサインすることになったのだが、その後激しく後悔していることを発言している
それはアインシュタインが、ドイツがとても原爆を作り得る状況でないことが分かった時で、この書簡にサインしたことを「大きな誤りだった」と言っている。なぜなら、実際に原子力爆弾は作られ日本に投下されたことは、アインシュタインにとっても大きなショックだったようである。

フランクリン・ルーズベルト
フランクリン・ルーズベルト

なお、当然だが、この頃に日本はアメリカと戦争していたわけではない。真珠湾攻撃は1941年の12月であり、表面的には日本とアメリカが戦争すると言うことは全く言われていない時期だった

そんな中で、極秘プロジェクトとしてフランクリン・ルーズベルトの指示の下、「悪魔の計画」マンハッタン計画が始まるのである
なお、フランクリン・ルーズベルトは原爆を落とす前に急死している。そして次の大統領は、当時副大統領だったトルーマンである。しかし、ルーズベルトは副大統領のトルーマンにさえこのマンハッタン計画を知らせていなかった。後に、ルーズベルトの急死を受けて大統領になったトルーマンはマンハッタン計画の全容を聞いて、驚愕したという。

(2) 集結する天才科学者達とオッペンハイマー

ロバート・オッペンハイマー
ロバート・オッペンハイマー

こうして始まった「兵器製造前提の原子力の研究」は1942年に本格的な「兵器製造」を視野に入れた段階に入る1942年10月、ルーズベルトは核兵器開発プロジェクトを承認した

ドイツ・ナチス、ヒットラーの脅威という背景を後押しにして、政府も全面的に核兵器開発に乗り出す。そこには予算が付けられ、優秀な科学者達がどんどん集結した。特にドイツ系のユダヤ人が多かったと言われるそこにはやはり「ヒットラーの脅威」という大きな「要因」があったが、ルーズベルトや核爆弾を完成させたかった勢力は、そこを利用したとも言える

科学者のトップに選ばれたのが、ドイツ系ユダヤ人の子であるロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーは計画当初から最後まで深く入り、日本に原爆を落とすことも決めた人である。「原爆の父」と呼ばれるほどの、原爆製造に関わる最重要人物である。
そのオッペンハイマーの提案により選ばれたのが、ニューメキシコ州のロスアラモスでだった。砂漠ののどかな地に、突如巨大研究所が建てられることになる。そして、1943年に研究所が建てられた。それが後のロスアラモス国立研究所である。

マンハッタン計画の中心 ロスアラモス
マンハッタン計画の中心 ロスアラモス

このロスアラモス研究所で、広島・長崎に投下された原爆が作られた。まさに「原爆誕生の地」である

(3) 着々と進む研究により、原子爆弾の完成

マンハッタン計画は、ロスアラモスだけで行われていたわけではない。全米各地で、研究及び開発のための原子炉やプラントの製造が進められ、ウラン・プルトニウムを利用して核分裂させ「大量殺戮兵器」に変えられるか、研究されていった。

マンハッタン計画の重要拠点(Wikipediaより)
マンハッタン計画の重要拠点(Wikipediaより)

1944年頃には、研究は直接的に「兵器として核爆弾を使うか」として結論が出る頃になってくる。その頃には、具体的な爆弾そのものの形状や核燃料の運び方・爆破の仕方が研究され、結論づけられていった。
ついに、「原子爆弾」がほぼ完成の域に達していったのである

(4) ドイツという目的がなくなっても止まらなかった原爆投下。そして日本へ。

運命の1945年(昭和20年)は、マンハッタン計画が一気に動く。

1945年の5月7日に、ナチスドイツは降伏し、ヨーロッパでの第二次世界大戦は終了する。科学者達は、その科学の力に魅せられて超新型爆弾を作っていったが、しかし、その一番の目標であったはずのドイツが降伏したとなれば、大きな目的を失ったことになる

しかし、1945年4月に急死したフランクリン・ルーズベルト大統領に代わって大統領についたトルーマン大統領は、計画を続行することを決断していた。トルーマン大統領は元副大統領で、ルーズベルト大統領の急死によって突如大統領になった人である。
このトルーマンに説明したのが、ヘンリー・スティムソン国務長官である。彼は、日本に対して常に厳しい姿勢の人で日系人の強制収容を進めた人でもある。ロスチャイルド系の顧問弁護士を務めていた過去がある。

ルーズベルトの急死と次のトルーマン
ルーズベルトの急死と次のトルーマン

このような状況下でトルーマン大統領は、もはや巨額の「投資」をした原爆計画を目に見える形で実現しないといけない、と決断していた。それは日本そのものに対する対応というより、この「新兵器」を他の国が作り出す前に見せつける必要がある、という理由もある。また、既に走り始めたこの巨大国家プロジェクトを止める力はトルーマン大統領にはなかった、という事も言える。

しかし科学者達の中で反対も多かった。実際にその要望書(フランクレポート)では、できれば使用をしないように促し、最低でも原爆投下前に無実の人達に知らしめるべきとした。しかし、それらの声は政治の前では無力だった。

その中で、1945年5月にロスアラモスで行われた原爆目標策定委員会の2回目の会議で原爆を投下する目標となる日本の都市がリストアップされ、着々と準備は進めらる。
驚くのは、世界初の核実験が行われたのが、その後の7月16日ということであるトリニティ実験)。核の時代の幕開けと言われる世界初の実験は、これほどに日本への原爆投下の直前だった

めまぐるしく動く1945年
めまぐるしく動く1945年

そしてその年の8月6日広島と、8月9日長崎の悲劇と呼ぶには余りすぎる、大人間実験が行われた

3.生みの親 オッペンハイマーの苦悩

原爆の父 ロバート・オッペンハイマー
原爆の父 ロバート・オッペンハイマー

「悪魔の計画」であるマンハッタン計画を取り仕切ったのは、ロバート・オッペンハイマーで、彼は「原爆の父」とも呼ばれる。これほどの計画を、秘密主義のままでしかもすさまじいスピードで、「原子力」を「爆弾」に変えたことは、オッペンハイマーのリーダーシップが果たした役割は大きいと言われる

しかし一方で、ドイツ系ユダヤ人の血を引く彼は、ドイツでなく日本に原爆を投下することになった事への「恐れ」を抱いたのか、戦後に原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」と述べている。また、核兵器そのものにも反対するようになっていった
しかし、それでも日本に原爆を落とすこと、広島・長崎を選んだことは、オッペンハイマーも決断者の一人であった。決して「政治に強制された」、と単純に言える位置になく、まさにトップ層の一人であったことは間違いの無いことである。「原爆の父」と言われるが、それはすなわち「広島・長崎の原爆投下の首謀者の一人」と言い切りたい

戦後は一転して「共産党」との関わりを疑われ「赤狩り」により1954年に公職から追放されている。その後はFBIに監視し続けら抑制された生涯を過ごした

マンハッタン計画 トリニティ実験での画像
マンハッタン計画 トリニティ実験での爆発画像

オッペンハイマーは後年、ヒンドゥー教の神の「クリシュナ」が言ったという一説「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用して、クリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している

それを聞いてどう感じるだろうか?
個人としての後悔・つらさは理解できなくもないが、あまりに彼の実績の内容ともたらした物(日本の都市への原爆投下)が大きすぎて、独りよがりの被害者ぶった後悔にしか見えないのは私だけであろうか?

4.裏で動く巨大企業とデュポンなどの巨大資本家

デュポンのグリーンウォルト
デュポンのグリーンウォルト

アメリカで行われた、超極秘プロジェクトのマンハッタン計画だが、これが政府だけで実行できうる物ではなかった。名だたる民間企業が入っている
特に言われるのが、デュポンである。今でこそ「テフロン加工」等で有名だが、当時「死の商人」の代表格とも言われたデュポンは、経営者のクロフォード・グリーンウォルトを中心に積極的にこの計画に参加し協力していった。なお、デュポンはこの後、売上を2倍に増えるほどに成長し、更なる一大財閥となっている
他にも、ゼネラル・エレクトリック(GE)ウェスティングハウス・エレクトリック、といった、超巨大企業が政府の予算から雇われ、積極的に「新爆弾」作りに協力していた。

それは、国防のためだけではない。上記でも分かるようにGEにしてもウェスティングハウスにしても、後の原子力発電の企業として支配者となる会社である。なお、福島第一原発はGEに発注して出来た原発である。
こうした企業の全面バックアップと、その企業のバックにいる資本家によりマンハッタン計画はサポートされて進められた。しかも、秘密裏にである

5.「フランクレポート」に見る科学者の中の原爆投下反対

先に記述したとおり、マンハッタン計画に協力した科学者の中でも、少なくともドイツが降伏した時点の日本に、しかも都市に原爆を落とすことには反対だった人もいて、トルーマン大統領に直訴すべく報告書を作った。それが、1945年6月11日、すなわち広島・長崎への原爆投下の直前に諮問委員会に提出されたフランクレポート、と呼ばれるものである。

そのフランクレポートの一部を日本語訳した物を見てみたい。

ソ連に原爆の情報を与えず、国際管理にも加えずに原爆を実戦使用するなら、ソ連はそれを脅しとみなし、国際管理だけではなくあらゆる交渉において頑かたくなな態度を取ってくるだろう。だから戦後の平和のためにも日本に使用してはならない

・それに、原爆を実戦使用してしまったあとで原爆の開発を制限しようとしても説得力がなく、どの国も従わないことになる。我々は、このような理由から、早期に無警告で日本に対して核爆弾を使用することは勧められないと考える。

・もしアメリカ合衆国がこの無差別破壊の手段を人類に対して最初に使用するならば、合衆国は世界中で大衆の支持を犠牲にし、軍拡競争を加速させ、このような兵器を将来においてコントロールするための国際的合意に到達する可能性を傷つけるであろう。

・したがって、一方的に秘密裡に実験するとか日本に使用するのではなく、それに代わって、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせるまず、核兵器の国際的な管理体制を作り上げることが肝要である

幻冬舎HP ゴールドライフオンライン より一部を引用

上記にあるとおり、迫り来る8月の長崎・広島への原爆投下の前に、科学者達も危機感を持っていたことが良く分かる。「アメリカ」というひとくくりで見るのではなく、やはりこうしたアメリカの内状も知る事は、原爆を落とされた日本人としても重要である

なお、この諮問委員会の責任者は先のスティムソン陸軍長官であり、結果的には、この報告はトルーマン大統領に届くことなく、原爆投下の日が来てしまうのである。
また、先のアインシュタインもそしてシラードもドイツ降伏後の原爆投下に反対し、シラードが署名を持ってトルーマン政権に申し出たが、何の効果も無かった。

結局、日本への原爆投下は、もはや科学者あるいは世論がどう言っても、動かなかったのかも知れない。もはや、この巨大国家プロジェクトを止めるという選択肢はなかったのかも知れない。

6.マンハッタン計画とその歴史を知ることで、当時と今が見えてくる

あの原爆を生んだマンハッタン計画について見てきた。当時の米国の状況も見えてきたと思 う。そして、改めてマンハッタン計画の背景等を見ると、「そもそも日本に落とす必要性あるい必然性はなかったが、日本になってしまった」、という表現が的確のように思う。

「戦争を終わらせるために広島・長崎は原爆の犠牲になった」という自虐的な日本人の見方は、当時から見てもおかしいことは、原爆を生んだマンハッタン計画の科学者達の報告書(フランクレポート)からも歴然としている
どう考えても、「落とさざるを得ない」という状態にアメリカはなかった。当時のトルーマン政権が「原爆を都市に落として(世界に誇示するという我々の)目的を果たす」と判断したのである。

そして、マンハッタン計画に参加した企業の名前とその後の繁栄ぶりを見れば、そこに絡んだ企業は、決して単なる国防ではなく戦後を見据えた利益を考え、投資・行動していることが良く分かる。

このようにマンハッタン計画を通じて原爆を見ていくと、戦争が単に「怖い」とか「ひどい」ではなく、政治・経済・産業も絡んだ流れの一環であることが学べると思う。マンハッタン計画は、まさそうだった。
また、そんな視点で、現在の状況も見ていきたい

]]>
https://tetsu-log.com/manhattan-2022-10-06.html/feed 2 27551
維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~ https://tetsu-log.com/gosanketoishin3-2022-09-26.html https://tetsu-log.com/gosanketoishin3-2022-09-26.html#respond Sun, 25 Sep 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27317 維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見る第三弾としてまとめた。最終回の今回は、幕末の時に御三家の中で唯一、徳川幕府と運命を共にし、徳川幕府側についた紀州藩を見ていきたい。紀州藩はなぜ他の御三家と違う道を行ったのか、本当に幕府側であったのか、見ていきたい。是非、お付き合いを。

(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

1.徳川御三家で唯一徳川幕府を守り続けた紀州徳川家と幕末の「将軍継嗣けいし問題」

明治維新というと、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し討幕を果たした、と思われがちである。

紀州藩の居城 和歌山城
紀州藩の居城 和歌山城

しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新が成功した非常に重要な原因なのにあまり注目されない。
その中でも特筆すべきは徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家」の動きだった。すなわち、紀州徳川家を除いて徳川幕府側ではなく新政府側につくことになったのである。

徳川御三家で唯一徳川方についた紀州徳川家は、幕末の将軍家とあまりに深いつながりがあったことが、幕末の紀州徳川家の行動の大きな要因となる。
そして、徳川本家とのつながりは、第8代将軍の吉宗公という紀州からの将軍を通じて幕末まで続くが、そのきっかけは、紀州藩の最初の「家祖」の徳川頼宣公からだった。
そしてそれは、幕末の「将軍継嗣けいし問題」という維新回天そのものとも言える問題を生みだし、紀州徳川家は徳川本家と運命を共にしていくのである。

2.徳川御三家とは

「徳川御三家」を再度見直しておきたい。

・徳川御三家は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の三つの家を言う。
将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
徳川本家と徳川御三家
徳川本家と徳川御三家

御三家は、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家」という。

この御三家は他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家は、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した。

しかし、これが幕末の維新回転期では、その対応はそれぞれで違っていった。

3.一体だった紀州徳川家と徳川本家

(1) 家康の寵愛を受けた初代紀州藩主、徳川頼宣よりのぶ

徳川御三家として紀州徳川家の始まりの藩主である「家祖」となったのは、徳川頼宣よりのぶである。この徳川頼宣よりのぶは、まさに武人の人で豪胆かつ英明な君主だったと言われる。
後に触れるが、この徳川頼宣よりのぶはあの8代将軍吉宗の祖父にあたり、吉宗はこの祖父である徳川頼宣よりのぶを非常に慕っていたと言われる。

紀伊藩の家祖 徳川頼宣公
紀伊藩の家祖 徳川頼宣公

頼宣よりのぶは慶長7年(1602年)に生まれている。徳川家康の10男として、他の兄弟と共に厳しく帝王学を学んだ。頭も良く豪胆な頼宣よりのぶを家康は非常にかわいがり死ぬまで手元に置いていたという。
関ヶ原の戦いが1600年だったことから、もはや戦乱の世は徳川により収まりつつある中で生まれた。そこで迎えた大坂夏の陣(慶長20年:1615年)で頼宣よりのぶのエピソードが、彼の人間性を語っていて面白い。

このとき頼宣よりのぶは「先陣はぜひ私に!」と名乗り出る。しかしまさか家康の息子(しかもまだ13歳)を最前線に出すわけにもいかず、希望は聞き入れられない。
頼宣よりのぶは悔しくて涙を流して訴えたという。そのあまりの剣幕に重臣が
「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありましょう」
となだめると
私の14歳が2回あるわけではなかろう!
と言ったという。これを聞いた家康は、たいそう喜んで
頼宣よりのぶの発言こそ手柄だ」と褒め称えた。

このような豪快な性格を持つ頼宣よりのぶは、元和5年(1619年)に2代目将軍徳川秀忠により紀州藩(紀伊藩)を任される。

藩を任され政治を担うと、豪快な性格に関わらず緻密に政治に向かい、経済はもちろん産業・文化の発展に大きく寄与する政治を次々と実行していった。

いくつもの善政があるが、そのうちの一つに今では当たり前になっている和歌山のみかんを挙げたい。
如何に、KIRINホールディングスのHPで特集されていた徳川頼宣よりのぶとみかんの記事を引用したい。

雑税を省き、殖産に励んだ頼宣よりのぶであるが、このとき漆器(黒江塗)や保田紙などと並んで、特に力を入れたのが、みかん栽培の奨励であった。頼宣よりのぶは、紀州産の小みかんを大いに気に入り、他品種とは異なる味の良さに目をつけると、領土内でのみかんの生産・開発に注力する。みかんに関しては税金を免除するなど、積極的に支援した。頼宣よりのぶのこうした尽力によって、小みかんは紀州みかんとも呼ばれるようになるほど、紀州では小みかんが大規模な産業として定着していった

 また、頼宣よりのぶは当時発展を続けていた江戸での需要を見越し、紀州みかんの江戸への運搬・販売に取り組んだ。それは1634(寛永11)年頃のことで、有田郡滝川原村(現在の有田市宮原町)の滝川原藤兵衛が400籠ほどの紀州みかんを江戸に送っている。

 江戸には既に他の地域からもみかんが出荷されていたが、その中でも紀州みかんは高い評価を得ることとなった。こうしてみかんは江戸を中心に普及していき、その名産地として紀州のみかん産業が形づくられていった。

KIRINホールディングスHPより

徳川頼宣よりのぶという人は、その肖像画からも想像される豪胆気質と、それには似つかわしくない緻密な経済・文化・政治の面で卓越した人だったと言える。興味の尽きない人物である。

みかんだけでなく、今の和歌山県・三重県という広大な土地を任され、難しいと言われた地を見事に豊かにし今日の状態を作ったのは、間違いなく徳川頼宣よりのぶの功績が非常に大きい
以下に、和歌山県が作っているHPに徳川頼宣よりのぶ公が行ったいくつかについてのの紹介があったため、引用したい。

後に8代将軍となった徳川吉宗の影に隠れた印象ですが、その吉宗が尊敬し憧れたのが、紀州徳川家の家祖であり祖父の頼宣よりのぶです

政治家として非常に優秀だった頼宣よりのぶは、主産業である米作だけでなく、漆器の黒江塗やミカンの栽培など諸産業を奨励して紀州藩を大藩へと育て上げ、父・家康を祀った紀州東照宮、母・お万の方を弔うための海禅院の多宝塔など、数々の建造物も手掛けました。紀州東照宮は家康の孫・家光が建造した日光東照宮と並ぶ由緒正しい神社で、左甚五郎作の彫刻や狩野探幽の襖絵が社殿を飾り、徳川家ゆかりの太刀や具足など重要文化財指定の美術工芸品も収められています。

戦国時代に廃れた文化財の修復にも尽力し、紀三井寺護国院の境内にある三井水は頼宣の手によって古来の姿を取り戻したと伝えられています。また、和歌の浦・雑賀崎の線の北側で大規模な開発を行っていたのに対し、線の南側には手を付けず名勝として残すなど、400年前の日本で景観の重要性と都市計画についても思慮をめぐらせた頼宣よりのぶは、まさに希有な存在であったといえるでしょう

和歌山県HP「わかやま歴史物語100」より

徳川頼宣よりのぶ公は紀州の枠にとどまらない発想の持ち主であり、今の和歌山・三重の基礎を作り上げた人だった。

(2) 徳川頼宣よりのぶの孫、徳川吉宗が第8代将軍として本家へ

徳川吉宗
徳川吉宗

上記の徳川頼宣よりのぶを祖父に持ち、幼少の頃大変慕って育ったのが、後の8代将軍の吉宗である。

吉宗が8代将軍になったのは、あまりにも「偶然」続いた周りの死、がある
もともと吉宗は紀州藩でも藩主になる人ではなかった。四男として生まれ、兄も優秀であったため本来は藩主にさえならない位置にいた。だからというわけではないが、自由奔放に育ち幼少の頃は手の付けられないほどの暴れん坊だったという。まさに「暴れん坊将軍」という名は、嘘ではないようである。

しかし、宝永2年(1705年)に立て続けに周りで「死」があった
3代藩主である長男の綱教(つなのり)が39歳で突然亡くなった。綱教は将軍綱吉の後継候補であった上に、その時の健康上の問題はなく突然死であった。それが7月であり、その後すぐに、父の光貞が9月に亡くなる。更に綱教の後を継いだ4代藩主の頼職(よりもと)も藩主に就任してわずか3ヶ月後の10月に亡くなった。
頼職は妻も子もいなかったため、結果的に4男の吉宗が紀州藩主となるのである。吉宗は江戸幕府の将軍になる以前に、紀州藩主となったのも奇跡的とも言える状況であった

そして徳川の将軍家が短命だった6代家宣、そして病弱にしてまだ5歳だったという7代家継になったときに結果的に8代将軍が吉宗になったのも「奇跡的」だった最も有力だった御三家筆頭の尾張藩主の徳川吉通(よしみち)がわずか25歳で謎の突然死を遂げたのである。
これが決定的になり、紀州の藩主だった徳川吉宗が江戸に迎え入れられ、遂に徳川幕府において初めて徳川本家の血を引かない、御三家からの将軍の誕生だった

(3) 吉宗以降続く「紀州徳川の源流」の将軍

このような「奇跡的」とも「陰謀」とも言える形で将軍となった徳川吉宗ではあるが、その後の政治は「享保の改革」で知られるように、次々と徳川幕府を立て直す政策を行っている。

ここで取り上げたいのは、「御三卿ごさんきょう制度」の成立である。
徳川吉宗は御三家では、代を経るにつれ徳川の血が薄くなって言うということと、やはり争いが大きくなるため、自分達の子供に「御三卿ごさんきょう」として家を継がせるとした。この御三卿ごさんきょうが、御三家に変わる「将軍家のスペア」として機能したことにより結果的に御三家が将軍家が遠ざかり、それ以後、すべての将軍は御三卿ごさんきょうから排出される形になった。
つまり、吉宗以降の将軍は14代の家茂まですべて「紀州徳川家を源流に持つ将軍」と言えるのである。

徳川15代将軍と御三家
徳川15代将軍と御三家

正確には最後の将軍の徳川慶喜よしのぶは水戸藩の出身だが、御三卿ごさんきょうの一つである一橋家に養子に行き、その上で将軍となっている。

4.幕末に大問題となり明治維新を早めた、「将軍継嗣けいし問題」と安政の大獄

幕末の大テーマの一つが「将軍継嗣けいし問題」であったこれがなければ、幕府の存続も違った形になった可能性がある。具体的には第13代将軍の徳川家定の次の将軍をだれにするのか、という政治課題であり幕府存続のために非常に重要な課題であった。

第11代将軍の家斉いえなり・第12代将軍の家慶いえよしの長期政権が続いたときこそが、幕府が傾き始めたときである。それでも将軍は長命であったため、将軍継嗣けいしという意味では問題がないと思われた。しかし、12代家慶いえよしの子(後の家定)は病弱で覇気も無く将軍になることを早々に不安視されていた。それは、父の家慶いえよしですらそのように考えていた。

徳川家斉直系(徳川家斉、家慶、家定)
徳川家斉直系(徳川家斉、家慶、家定)

そんな中でのペリーの来航である。ペリーの来航があったのは1853年の6月3日だが、なんと徳川家慶いえよしはその月の22日に心不全で倒れ、その次の月に亡くなってしまう。黒船来航という一大事に心労が重なった、とは言えるが、一国を率いるリーダーにあるまじき形での死に方だったとも言える。

となると次の将軍は、結局先ほどの家慶いえよしの子である徳川家定が第13代将軍としてつくが、先に示したとおり親の家慶いえよしですら不安視する家定は病弱な上に政治に興味が無く、酒と女に走るような状態だった。
脳性麻痺のうわさがあり、松平春嶽から「凡庸の中でも最も下等」とまでこき下ろされている。
父の家慶いえよしがペリー来航の直後に急死したことから、タイミングも最悪であったと言える。国難にあたり、家定ではとても統治しきれなかったし、家定が病弱であったため、すぐに家定の次の将軍継嗣けいしの問題が起こった。

将軍継嗣けいしの候補は、2人。一人は11代家斉の子で紀州に養子に行った斉順の息子慶福(後の家茂いえもち、もう一人は英名の名が通っていた水戸の慶喜よしのぶである。なお慶喜よしのぶはその頃には一橋家に養子に入っていたため、一橋慶喜よしのぶである。

幕末の将軍継嗣問題
幕末の将軍継嗣問題
徳川家茂
徳川家茂

この結果は、大老井伊直弼により強権が発動されて、紀州の徳川家茂いえもちが第14代将軍として就くことになる。これは紀州藩と徳川本家が一番近かったことを示す。徳川家茂いえもちは紀州徳川家とは言え、その祖父は徳川家斉いえなりの子供で紀州藩に養子にいっていた。すなわち、徳川家茂は紀州藩とは言っても、もともとが徳川家斉いえなりの血を強く引いていた。それが井伊直弼の主張であり、徳川家茂いえもち擁立の根拠であった。

ただ、幕末のこの混乱期にあってあえて火中の栗を拾うような真似を、家茂いえもちが積極的に望んでいたかどうかは、疑問が残る。しかし、紀州と将軍家との関係の伝統、そして自分に課せられた役割として、将軍としてあえてこの難しい時代を乗り切ろうとした。年齢は就任時はまだ13歳。結果的にはわずか20歳で亡くなり、将軍は争った徳川慶喜よしのぶとなる。
紀州出身の家茂いえもちではあったが、徳川将軍として日本を率いてこの国難にあたろうと腐心した。家臣からの信頼も厚く、天皇との関係も良好だったと言われる。13歳という若さで、この国難と国内の混乱のために身を捧げ、7年という長い統治を行い力尽きた徳川家茂いえもち公に感謝と尊敬の念を持たずにはいられない。

5.明治維新で苦渋の決断を迫られた、紀州の最後の藩主 徳川茂承もちつぐと幕末

紀州藩の幕末を見てみたい。

紀州藩は第13代の藩主の家茂が将軍家に入ったため、紀州藩主が空席となった。それを引き継いだのは、藩の始まりの「家祖かそ」である徳川頼宣よりのぶ公の家系の、徳川茂承もちつぐだった。紀州藩の第14代としてそして紀州藩最後の藩主となる

最後の紀州藩主 徳川茂承(もちつぐ)
最後の紀州藩主 徳川茂承(もちつぐ)

徳川茂承もちつぐは、幕末期にあって常に幕府と共に新政府軍と戦ってきた。紀州徳川家が幕府に逆らうということはあり得ない状況だった
しかし一方で、幕府そのものは紀州藩をそれほどに重要視をせず、ただの藩の一つとして扱った。紀州藩は徳川の代表としての意識と幕府との間で悩みながら、幕府についていかざるを得なかった。

その現れの一つが、14代将軍 徳川家茂いえもちが20歳で亡くなったときの茂承もちつぐの動きである。次の将軍に、紀州藩主の徳川茂承もちつぐを推す声もあったという。しかし、茂承もちつぐはそれを固辞し、むしろ一橋慶喜よしのぶを推薦した。

紀州藩は明治政府の成立後は、新政府に反対する者としてとにかくにらまれ、それに対して釈明を繰り返し、なんとか紀州藩の存続を図った。名門中の名門だった紀州藩がそのような扱いになってしまったのは、歴史の転換点には仕方の無いことかも知れなかったが、切ない。
とは言え、新政府軍も本気で紀州藩を潰すようなことはなく、内乱をしている場合ではないため、明治2年(1869年)の廃藩置県により徳川茂承もちつぐは知事となった。

その後も精力的に動き、明治政府が打ち出した徴兵令や秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、明治11年(1878年)3月に自ら10万円を拠出し、旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立した。買収した田畑からの収入を用いて徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。

紀州藩主として、そして旧徳川御三家としてのプライドを持った行動を行った人だった。

6.別れた徳川御三家の対応に見る維新回天

徳川御三家と維新回天(明治維新)という視点で、シリーズで見てきた。

徳川時代は藩が中心で有り、その中で圧倒的力を持つ徳川家の分身とも言える存在が「徳川御三家」のはずだった
しかし、ここまで見てきたとおり、その3つの藩(家)はそれぞれの判断でそれぞれの正義を持って260年の江戸の時代を過ごし、そして、その蓄積として幕末の対応が分かれた。

ただしそれほど単純ではなく、反幕府側だった尾張藩・水戸藩でそれぞれ違った考えを持っていたし、幕府側と言える紀州藩もその後の明治政府には協力している。
しかも、御三家のどの家も、その家の始まりである「家祖かそ」の想いをしっかりと引き継いでいたことが分かる。伝統を重視しつつ、自分達なりの正義に基づいて徳川御三家のどの藩も、すべては日本のために動き行動した、ということが言えると思う。

徳川15代の将軍と徳川御三家
徳川15代の将軍と徳川御三家

このように、徳川御三家は「日本」という視点を失わずに、徳川家という巨大な影響力を考えながら行動したのが維新回天と言えるのではないだろうか

御三家の歴史と、維新回天における御三家を見て、改めて先人達の努力の上に今の日本があり、先人達の強い思いを感じた。  

先人達が守ろうとした日本とはなんだったか、現代に生きる我々も日本を見つめ直すきっかけにし、次の未来に引き継いでいきたいと強く思う。

]]>
https://tetsu-log.com/gosanketoishin3-2022-09-26.html/feed 0 27317
維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~ https://tetsu-log.com/gosanketoishin2-2022-09-21.html https://tetsu-log.com/gosanketoishin2-2022-09-21.html#respond Tue, 20 Sep 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27411 維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~

明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見る第二弾としてまとめた。今回は、幕末の幕府の危機にあって御三家の中でも特に幕府を倒す中心に動いた水戸藩を取り上げる。倒幕のスローガン「尊皇攘夷」を生み出した水戸藩は、なぜ徳川御三家なのに倒幕を率先したのか見ていきたい。是非、お付き合いを。

(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

1.明治維新のスローガン「尊皇攘夷そんのうじょうい」を生み出した水戸徳川家と明治維新

明治維新というと、ヨーロッパ列強に対抗するために、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し、徳川幕府を倒し近代化を進めた改革、と思われがちである。

しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新の成功の大きな要因なのにあまり注目されない
そして、徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家ごさんけ」のうち、尾張・水戸の両家は徳川幕府側ではなく、倒幕側につくことになった

今回はその中でも、「尊皇攘夷そんのうじょうい」というスローガンを生みだし、むしろ倒幕の維新回天の中心になった水戸の歴史と幕末での動きを見ていきたい。水戸徳川家は、御三家ごさんけの枠を遙かに超えて日本全体を考え「尊皇攘夷そんのうじょうい」の砦となった。その原点はすでに水戸徳川家の始まりからあった

2.徳川御三家とは

再度「徳川御三家ごさんけ」の定義について確認したい。

徳川御三家ごさんけとは
・徳川御三家
は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の三つの家を言う。
将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
徳川本家と徳川御三家
徳川本家と徳川御三家

御三家ごさんけは、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家ごさんけ」という。

この御三家ごさんけは他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家ごさんけは、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した
このように、徳川の体制を安定させる仕組みは、世界でも類を見ないほどの長い期間の「平和の江戸の260年」を維持した原動力の一つとなったともいえる

しかし、これが幕末の維新回天期では、その対応はそれぞれで違っていった。

3.江戸の学問と水戸学

(1) 江戸時代の学問の流れと水戸学の存在

江戸時代の学問は、基本はとにかく朱子学(しゅしがく)である。朱子学とは支那(China:中国)の「南宋・明」で発達した学問である。江戸幕府開設の時から、徳川家康は朱子学を奨励し、武士に対してその徹底をはかっている。それを前提に、江戸時代の学問史を、その派閥毎にまとめた表を見てほしい。

江戸時代の思想史
江戸時代の思想史

表の一番左の「朱子学」が幕府が常に奨励をした学問である。しかし、朱子学を生んだ「明(みん)」においてその修正もなされていた。すなわち、朱子学を批判的にとらえた「陽明学」といわれる学問が発達し、それが日本に伝わって発展を遂げている。

水戸光圀
水戸光圀

一方、水戸黄門で知られる水戸光圀(みつくに:水戸藩第2代藩主、家康の孫)が、1657年頃から水戸において歴史の変遷事業に取り組んでいる。この歴史の変遷作業は結果的には実に230年かかる。途中で停滞する時期もあったが、そうした学問への追及が水戸学といわれる学派(がくは)を生み、それが明治維新において維新志士の間で非常に大きな影響を及ぼす。

また、国学といわれる学派も重要である。特にその代表である本居宣長の「古事記伝」は江戸時代のみならず、近代・現代の日本人のアイデンティティを大きく確立し、日本に与えた影響は計り知れないものである。しかもこれも、スタートは水戸光圀みつくに公であることを考えると、水戸光圀みつくに公のまいた学問の種の偉大さを感じずにはいられない。

表のようにいろいろな学派が生じたが、決して完全に線が引けるものではなく、それぞれの学派が混ざり合いながら、議論を経て研究されていった。

(2) 朱子学の隆盛

朱子学とは、China(中国)大陸の南宋(なんそう)にて生まれた学問体系をいう。一般に「儒教」というと、この朱子学の考え方が大きくあてはまる。藤原惺窩ふじわら せいかが学び広めたもので、藤原惺窩ふじわら せいかは「近代儒学の祖」と言われた。藤原惺窩ふじわら せいかは豊臣秀吉・徳川家康に儒学を教えていて、家康からは士官も求められた。しかし、自身が仕官することは断り、代わりに門弟の林羅山(はやし らざん)を派遣したという。

藤原 惺窩
藤原 惺窩
林羅山
林羅山

林羅山はやし らざんは、徳川幕府において非常に大きな影響力を持った。実に、家康・秀忠・家光・家綱の4代にわたり徳川幕府に仕え、徳川幕府の基礎作りに大いに貢献した。

このように朱子学は江戸幕府の理論的根拠として大いに貢献したが、私の朱子学者に対する個人的な印象はあまりよくない。添付の画像を見てもわかるように、藤原惺窩ふじわら せいかにしても林羅山はやし らざんにしても、これが日本人か?、といいたくなるような格好しか残っていない。いつも「中華」の服である実際彼らは儒教を信頼するあまりChina(中国)・朝鮮の大陸側が優れていて、日本は後進国という考えに染まっていたいつの世でも、こういう人達はいたのかと、ため息が出る。

(3) 国学と本居宣長

国学(こくがく)とは、China(中国)が日本より上であるといった風潮を批判し、日本独自の歴史こそ尊重されるべきとする学問である。具体的には、古事記・日本書紀・万葉集などを研究の対象とし、日本独自の文化や考え方がまとめらていく。

江戸時代の思想史(水戸学・国学)
江戸時代の思想史(水戸学・国学)

国学で特に功績があった4人を、「国学の四大人(しうし)」と呼ぶ。荷田春満(かだのあずまろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)の4人が挙げられている。その中で、「古事記伝」を書いた本居宣長を取り上げたい。

本居宣長と古事記伝
本居宣長(1730~1801年)は伊勢国松坂(現在の三重県松坂市)の木綿商・小津家の次男として生まれた。医師を目指していた宣長は、医書を読むために漢学を学び、荻生徂徠や契沖などの学問に触れたことから、古典研究に強い関心を抱くようになった。医業のかたわらで、『源氏物語』や『古事記』を研究し、松坂の地で数多くの著作を発表した。
本居宣長
本居宣長

宣長の行った研究は、『源氏物語』をはじめとする日本文学の研究日本語そのものの研究などが言われる。日本語の研究は「てにをは」の係り結びの法則を発見し、さらに古代日本語の音韻を分析した成果を出し、現代にも大きく影響を与えている。
そして本居宣長のライフワークとも言え、その後の日本に多大な影響を与えたのが、「古事記」の研究と「古事記伝」の執筆である。「古事記伝」は、読むことが困難だった古事記に注釈をつけた解説書である。これにより、古事記の世界がひも解かれ、広く日本人が理解することができるようになったのである。そしてそれが、天皇の権威付けに大いに貢献し、「尊王」思想の学問的支柱となるのである。

4.その後の日本に多大な功績をもたらした水戸光圀みつくに公と「大日本史」

水戸学といわれる学派は、水戸の2代目藩主の水戸光圀みつくにから始まっている。すなわち、水戸光圀みつくに公が日本の歴史を変遷するとして、「大日本史」の作成を命じたことからである。水戸藩において、このような歴史の変遷のための研究が進むことにより、学問の体系が形づけられていき、「水戸学」といわれる「尊王思想」が確立する。そこには国学の本居宣長の古事記伝の影響や、陽明学の影響も大きく受けているのは言うまでもない。

水戸光圀
水戸光圀公

しかし、なぜ水戸光圀みつくに公は「大日本史」などという歴史の変遷を始めたのか。また、国学のスタートは「契沖(けいちゅう)」による万葉集の研究からだが、それにも水戸光圀みつくに公は資金的なバックアップとして関与している。「国学」も「水戸学」も結果的にその後の日本になくてはならない存在となる。それをみると、水戸光圀みつくに公の先見性と決断には感嘆しかない。

なお、大日本史は水戸光圀みつくに公の存命中には完成していない。それどころか、研究に研究が重ねられ、完成したのは、なんと二百数十年後の明治時代である。

水戸藩 大日本史
水戸藩 大日本史

なお、このように水戸光圀みつくに公が日本の歴史の研究に力を入れた背景には、幕府側の深刻な「親中」ぶりがあったようである。
「大日本史」よりも先に、幕府側の林羅山を中心とした朱子学派が歴史の変遷を行い「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」を作成している。しかし、この内容で、天皇の「中国人」説が書かれ、それに激怒した水戸光圀みつくに公が自ら歴史を変遷することとなったと言われる
なお、実際には「本朝通鑑」にはそういった記述はないという説もある。しかし、林羅山やその師匠である藤原惺窩も、残っている肖像を見ても、その名前を見ても、いかに「中国」かぶれだったか、見て取れる。今の日本と同様のことが行われていたのかと思うと、少しあきれる気になる。

5.幕末の水戸藩と徳川斉昭なりあき

(1) 「尊皇攘夷そんのうじょうい」という言葉を生み出した水戸学と水戸藩の志士 ~会沢正志斎あいざわせいしさい藤田東湖ふじたとうこ

このような歴史を持つ水戸藩が、ヨーロッパ列強が迫り来る幕末でどのような存在だったかを見ていきたい。

幕末の維新志士たちのスローガンとして「尊皇攘夷そんのうじょうい」があった。「尊皇そんのう論」と「攘夷じょうい論」とを結んで作られたこの言葉及び考え方は、「尊皇攘夷そんのうじょうい思想」として日本全国に影響を与えた。その考え方を初めて明確にしたのが、水戸学の藤田幽谷ゆうこく(1774~1826年)と言われる。

尊皇そんのう」と「攘夷じょうい
尊皇そんのう
日本の天皇の権威に立脚し、天皇を中心とした国作りを重要視する
攘夷じょうい
日本の伝統を破壊する者として「夷狄」を取り除く、すなわち外国勢を打ち払うこと

この考え方は、まさに水戸学に立脚したものだった。日本本来の「朝廷」を中心とした政治に立ち返った上で、迫り来るヨーロッパ列強に対峙するという考え方は、水戸光圀公の頃からの伝統とも言える考えだった。

維新の志士達は、この言葉を前提にして結果として倒幕に走ることになる。あくまでこの言葉自体には直接的に「倒幕」の考えはないが、幕府がその機能を果たさないほどに無力な状況を見て、「尊皇攘夷そんのうじょうい」のスローガンの下、幕府を倒す原動力として機能した

会沢正志斎と藤田東湖
会沢正志斎と藤田東湖

尊皇攘夷そんのうじょうい思想を体系づけたのは「後期水戸学」と言われる。この後期水戸学を代表する人として、会沢正志斎あいざわせいしさいを挙げたい。その著書である「新論」こそが「尊皇そんのう」と「攘夷じょうい」を体系づけて説明したもの、と言われ、西鄕隆盛も吉田松陰も参考にした
会沢正志斎は先の藤田幽谷ゆうこくに弟子入りしていて、その頃に後の第9代藩主の徳川斉昭なりあきの先生となる。その後の徳川斉昭なりあきの政治にも大きく関与し、積極的に「尊皇攘夷そんのうじょうい」の考えに基づいた藩政改革を実行していった。

また、「後期水戸学」の代表人物として会沢正志斎あいざわせいしさいと並ぶのが藤田東湖ふじたとうこである。藤田幽谷ゆうこくの息子で、徳川斉昭なりあきから全幅の信頼をおかれていた。長州の吉田松陰も、藤田東湖ふじたとうこに学びに行ったという全国区での信頼を持った人だった。しかしペリー来航の直後の1855年の安政の大地震にて圧死してしまった。水戸藩の内紛が起こり藩としての力は落ちてしまうが、内紛は藤田東湖ふじたとうこの死後に起こっており、藤田東湖ふじたとうこが生きていればその後の水戸藩も変わっていたかもしれない。

(2) 迫り来る列強に危機感を感じていた有力藩の一角だった水戸藩の徳川斉昭なりあき

江戸の末期には日本を取り巻く世界は大きく変わりつつあり、幕府も少しずつではあるがそれに対応しようとする動きが始まっていた。一方、各藩は更に動きが活発であった。特に影響を与えた藩主として、薩摩の島津斉彬(しまづなりあきら)、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)、長州の毛利敬親(もうりたかちか)が上げられる。

有力諸藩
有力諸藩
徳川斉昭 公
徳川斉昭 公

その中で水戸藩は、幕府を倒すスローガンとして使われた尊皇攘夷そんのうじょういという言葉を生み出した藩である。
江戸幕府を倒した藩として長州と薩摩を挙げる人は多いが、実は水戸藩はそうした志士達の「思想的拠点」と言える程の重要な役割を果たしていた。
幕末の時には、藩の内輪での内部抗争が激しすぎて藩の力が落ち、新政府に対する影響力は小さくなってしまったが、明治維新の志士たちへの思想的影響を与えた意味では、明治維新の重要な原動力であった。

その藩主である9代藩主の徳川斉昭とくがわなりあきもまた、精力的な人だった。

長兄の死後、藩の改革派に推されて文政12年(1829年)に第9代藩主となる。人事を刷新して藤田東湖ふじたとうこ会沢正志斎あいざわせいしさいらを抜擢し、海防、民政、教育を重視した天保の改革を行った。
徳川御三家ながら改革派の藩として、幕府・老中と対立しつつも自らの主張を貫き、特に日本全体の国防を強くしようと腐心した。
また、幕府の軍制改革参与として幕政にも参加している。

しかし、こうした改革の姿勢は幕府・老中からの反発を生み、あの大老井伊直弼による安政の大獄により安政5年(1858年)に謹慎を命じられ、その2年後に亡くなってしまう。

水戸藩はこの後、藩の内紛等があり、結果的に明治維新の有力藩としては機能せず、その後の明治政府においても存在感はなかった。しかし、水戸藩の政治や考え方は、「水戸学」及びそれを実践した徳川斉昭なりあきによって、日本全国に大きく影響を与えたのである

(3) 「尊皇」に逆らうことが出来なかった最後の将軍 徳川慶喜よしのぶ

15代将軍 徳川慶喜
15代将軍 徳川慶喜

幕末において、最後の将軍となったのは第15代将軍徳川慶喜よしのぶである。そしてこの徳川慶喜よしのぶの実父は、水戸の徳川斉昭なりあきであった慶喜よしのぶは、一橋家に養子に出されていてそこから将軍になったため、一橋家のように見えるが、水戸の出身である。養子に出される8歳まで水戸にいて水戸学をしっかり学んだ人だった。

つまり、幕府のトップが「尊皇攘夷そんのうじょうい」の思想をしっかり受けていた。徳川慶喜よしのぶは新政府側の薩摩藩・長州藩とのせめぎ合いを続けるが、最期の「鳥羽伏見の戦い(明治元年:1868年)」では、早々に退却し、それにより徳川幕府は完全に倒れた。
この時、まだ徳川幕府には力があったにもかかわらず退却した理由の一つとして言われるのが、徳川慶喜よしのぶが、水戸学から学んだ「尊皇そんのう」の考えである。鳥羽伏見の戦いで「朝敵」とされてしまった時点で、徳川慶喜よしのぶは天皇に対して弓をひくことができず、戦意を喪失したと言われる。

慶喜よしのぶの行動がすべて水戸学に基づくとは言わないが、少なくとも「水戸学」の考えは慶喜よしのぶの行動・判断に影響を与えていたことは言える。維新志士だけでなく幕府のトップの教育からも、「水戸学」は明治維新に大きな影響を与えているのである。

6.維新回天の中心となった水戸徳川家を見て

明治維新を「徳川御三家ごさんけ」の視点から見てきた。今回は水戸徳川家の歴史と共に明治維新を見た。

水戸徳川家は、水戸学により、明治維新そのものを作り出した藩だったと言ってもいい。その思想は御三家や「藩」という単位ではなく、「日本」という広い視点で考えられ、日本全体を牽引した
水戸光圀公から始まる水戸学は、ある意味で今の日本を作った大きな要因と言えると思う。

水戸学として日本を研究し継承してきた水戸藩の歴史を見ると、先人達が守ろうとした日本が見えてくる。現代に生きる我々も日本を見つめ直すきっかけにしたいと思う。

]]>
https://tetsu-log.com/gosanketoishin2-2022-09-21.html/feed 0 27411
維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~ https://tetsu-log.com/gosanketoishin-2022-09-16.html https://tetsu-log.com/gosanketoishin-2022-09-16.html#respond Thu, 15 Sep 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27296 維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~

明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見てみたい。普通に考えれば、徳川御三家と言ったら江戸幕府の中枢中の中枢のはずである。しかし御三家は、幕末における幕府の危機にあって、それぞれで考えてそれぞれで日本のためにと違う動きをした。そうした先人達の判断・行動から、明治維新、更には現在の日本を考えたい。是非、お付き合いを。

(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

1.徳川御三家ごさんけで対応が大きく分かれた明治維新

明治維新というと、ヨーロッパ列強に対抗するために、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し、徳川幕府を倒し近代化を進めた改革、と思われがちである。

しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新の成功の大きな要因なのにあまり注目されない
すなわち、徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家ごさんけ」のうち、なんと2つもの「家(藩)」は徳川幕府側ではなく、新政府側につくことになった

そしてその理由は、それぞれの藩や家が持った歴史を見ていくと見えてくる。もちろん、単純な話ではなく、「これが理由で新政府側についた」と語られるものではない。しかし、御三家ごさんけの歴史を見ることで江戸時代の一つの側面を見られるし、明治維新が違う角度から見えてくる

今回はその中でも、「御三家ごさんけ筆頭」と言われる尾張徳川藩の歴史と幕末での動きを見ていきたい。

名古屋城
名古屋城

2.徳川御三家とは

そもそも「徳川御三家ごさんけ」とは何かを知らないといけない。

徳川御三家ごさんけとは
・徳川御三家
は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の三つの家を言う。
将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
徳川本家と徳川御三家
徳川本家と徳川御三家

御三家ごさんけは、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家ごさんけ」という。

この御三家ごさんけは他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家ごさんけは、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した
このように、徳川の体制を安定させる仕組みは、世界でも類を見ないほどの長い期間の「平和の江戸の260年」を維持した原動力の一つとなったともいえる

しかし、これが幕末の維新回天期では、その対応はそれぞれで違っていった。

3.御三家ごさんけ筆頭 尾張徳川家の始まりの「家祖かそ」徳川義直よしなおとは

尾張徳川家 徳川義直(よしなお)
尾張徳川家 徳川義直(よしなお)

まずは、御三家ごさんけの中でも「筆頭」の家格を持つ、尾張藩(現在の愛知県:名古屋市)を見てみたい。

尾張徳川家は、御三家ごさんけの中でも筆頭ということで、徳川本家を除けば最高の「格式」を持った家として存在していた。その最初である「家祖かそ」は徳川家康の9男の徳川義直(よしなお)だった。

徳川義直よしなおはとにかく勉学に熱心で、特に儒教の考えに深く傾倒し研究した人だったといわれる。

徳川将軍8代と徳川義直と水戸光圀
徳川将軍8代と徳川義直と水戸光圀

その義直よしなおが集めたといわれる「軍書合鑑」には「王命によって催(もよお)さること」とある。その意味は「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」ということであり、その思想は歴代藩主に語り継がれ尾張徳川家の藩訓となったとも言われる。
つまり、初代の義直よしなおからすでに将軍家よりも朝廷すなわち天皇にこそ「権威」がある、という今の日本と同様の「国家意識」を持っていた、ということが言える。

義直よしなおの考えは、弟の息子でありそして後の水戸藩の藩主となる水戸光圀みつくににも、大きく影響を与えたといわれる。後の明治維新ひいては日本に大きな影響を与えた、といえる水戸学の祖といえる水戸光圀みつくには、叔父にあたる義直よしなおを慕い、学問において尊敬していたという。

尾張徳川の初代義直よしなおは、すでに最初から徳川という枠にとらわれず「日本」というものを歴史的観点から見ていたのかも知れない。そして、それが確実に引き継がれていった。

4.8代将軍吉宗と真っ向から逆らい、名古屋を空前の好景気にした7代藩主徳川宗春むねはるとは

(1) 不審死が相次いだ将軍継嗣しょうぐんけいし問題

尾張徳川と将軍家との関係において、将軍家の8代将軍 徳川吉宗の頃についての尾張徳川家に触れたいこの時に尾張徳川と将軍家との決定的な「確執」が生まれた、ともいえる。

一つは、これはあくまで結果論に過ぎないし真相はわからないが、8代将軍吉宗の前の、6代将軍家宣・7代将軍家継の「将軍継嗣しょうぐんけいし問題」とそれをめぐる不審死である。病床の6代家宣が、次の将軍を考えたとき、自分の子供である家継は幼少であり病弱であったため、尾張の4代藩主の徳川吉通を推した、という話もあった。新井白石によりそれはなくなり家継が7代将軍がわずか5歳で将軍となるが、その家継も3年で亡くなる。

この7代将軍になった頃、なんとその尾張徳川家の吉通(よしみち)が25歳の若さで変死している。徳川吉通は尾張柳生流を極め、勉学にも励み名君と言われたほどの人物だった。
また、こうした「不審死」は少し前の年に紀州藩でも相次ぎ、結果的に紀州の徳川吉宗が、8代将軍となるのである。

そしてこの後、御三家ごさんけ筆頭である尾張徳川家から将軍になった人は一人もないまま、幕末を迎えることになるのである。その後の将軍家が紀州の流れが続くため、尾張藩の将軍家に対する不信は大きかったといわれる。

吉宗就任までの徳川家連続死
吉宗就任までの徳川家連続死

(2) 8代将軍吉宗に逆らい今日の「名古屋を作った」第7代藩主 徳川宗春むねはる

徳川宗春伝
徳川宗春伝

そしてもう一つが、その8代将軍である吉宗の「質素倹約」に真っ向から反対し、「名古屋の繁華に京(興)がさめた」と言われるほどの好景気をもたらし、尾張・名古屋の文化・経済を大いに育てた尾張の7代藩主である徳川宗春むねはるの政治と、それに対する将軍家(吉宗)との確執は、尾張藩と将軍家との決定的な「対立」だった
徳川宗春むねはるは、4代藩主で先に変死で述べた吉通(よしみち)の弟である。

徳川宗春むねはるは名古屋に入るときに、そのド派手な衣装と奇抜な行動で語られ、歌舞伎の題材にもなっている。宗春むねはる一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。そして、その恰好のみならず、宗春むねはるは当時の将軍吉宗の方針に逆らうかの如く、質素倹約と真逆の政策を実施していった

こうした宗春むねはるの「印象」から、「奇人」「幕府に反発した人」というイメージがつきまとう。
しかし宗春むねはるは、単に「反幕府」とか「反吉宗」という考えではなく、凛とした信念があった。その政治信条をつづった「温知政要(おんちせいよう)」に示されている。

宗春むねはるの考えで一貫した物として、下記の二つを挙げたい。

徳川宗春むねはる公の考え
・ 行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる

・ 規制を増やしても違反者を増やすのみ

これは明らかに当時の幕府と方針が異なるものであるが、現在の経済でも言える「正論」である。Wikipediaにあるとおり、吉宗以降も続く「幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春むねはるだけである」、と言える
現在で言えば、積極的な公共投資を行い、また規正を緩和し商売をしやすくしていった。

この結果、名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春むねはるの治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春むねはるは、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている。

こうした宗春むねはるの政策が効果をもたらしても、幕府は自身の方針を変えようとはせず、むしろ威信が揺らぐと危惧した。また、当時の幕府と朝廷との緊張関係も影響し、徳川宗春むねはるは、藩主になって8年を経過した1739年に、ついに幕府から蟄居謹慎の命を受け藩主の座を追われることとなった

宗春むねはるはその後も蟄居謹慎が解けず、1769年に69歳で人生の幕を閉じる30年もの謹慎期間はあまりに長すぎると思うが、一方で、謹慎を命じた責任者の将軍吉宗は宗春むねはるのことを気にかけていたとも言われる。徳川宗春むねはるに対しては、将軍である吉宗よりもむしろ、老中からの反発が大きかったようである
また、実際の謹慎はそれほど厳しいものではなかったともいわれる。しかしそれでも、現在にも通じると思われる宗春の考える「政治」「経済」政策は、尾張藩では実行できなくなってしまった。
名古屋に生まれ名古屋に住む私としては、徳川宗春むねはる公の政治がもっと長く続けば、名古屋もそして日本も違う形の良い国になっていたように思う
Wikipediaからの引用だが、宗春むねはる公の考えの一部が下記である。

  • 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
  • 人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
  • 奪い合うことや義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
  • 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
  • 法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
  • 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
  • ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
  • 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)

そして、この吉宗VS宗春むねはるの確執は、それはそのまま将軍家と尾張徳川家との確執であったといえる。

5.尾張徳川家 14代の藩主、徳川慶勝よしかつと幕末

(1) 徳川慶勝よしかつとは

尾張藩主 徳川慶勝
尾張藩主 徳川慶勝

幕末での尾張徳川藩を率いていたのは、14代の当主、徳川慶勝よしかつである。徳川慶勝よしかつという人はどういう人だったのだろうか。

尾張徳川藩は、10代斉朝、11代斉温、12代斉荘、13代慶臧と4代続いて将軍家周辺からの養子が続いた。徳川本家の13代将軍の家斉は「子だくさん大名」という名を持つほど子供が多かった。そしてその後は、その親族を使った「姻戚関係外交」を展開し各大名に養子にしていった。中には江戸から一歩も出ず、尾張藩に入ることすらなかった当主もいた。
当然、尾張徳川藩の藩士達は面白い訳ではなかった。

しかし、将軍家からの藩主は短命で長続きしなかった。そこで、遂に尾張徳川藩の流れをくむ松平高須家から迎え入れられたのが、慶勝よしかつであった。慶勝よしかつの擁立は何度も試みられた結果であり、尾張藩士の待望であった徳川慶勝よしかつは、ペリー来航が嘉永6年(1853年)だが、その4年前の嘉永2年(1849年)に14代藩主として就任する。まさに幕末の日本の中で、将軍家を除く大名の中で最高の家格をもつ御三家ごさんけ筆頭の当主となった。

尾張徳川家 家系図
尾張徳川家 家系図(徳川美術館HPより

そうした背景を持つ徳川慶勝よしかつは、積極的に政治を動かし、幕末にあって危機感を持って改革を進めた。財政の再建を行うと共に、特に水軍などの国防にも力を入れる。そして、有力諸侯である、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭、仙台の伊達宗城などとも親交を持ち、幅広い人材との交流があった。

(2) 幕末に活躍した「高須四兄弟」とは

ここで高須四兄弟」に触れておきたい。慶勝は、幕末で有名な「高須四兄弟」の一人である。高須四兄弟とは、名門とは言え弱小と言える高須松平家の松平義建の子供のうち、四人の兄弟を指す。
高須家の「高須」は、愛知県と三重県を結ぶ高須輪中の地名で、木曽川・長良川・揖斐川(木曽三川)が作り出した沖積地(濃尾平野)を言う。現在の岐阜県海津市あたりになる。

高須輪中
高須輪中

わずか3万石の高須藩ではあるが、名門で優秀な人を輩出することが知られていた。そして、幕末に翻弄される兄弟4人は、それぞれ徳川ゆかりの藩に養子に出され、活躍し、また兄弟同士で戦うという悲劇となった。

【 高須四兄弟 】
・ 尾張徳川家14代当主 徳川慶勝(よしかつ)
  ・・・ 明治政府側の代表の一人になる。
・ 一橋徳川家10代当主 徳川茂栄(もちはる)
  ・・・ 幕府側。最後の将軍慶喜の後継者
・ 会津松平家9代当主  松平容保(かたもり)
  ・・・ 幕府側。新撰組のオーナーとして、維新の志士を粛清
・ 桑名松平久松家4代当主 松平定敬(さだあき)
  ・・・ 幕府側。松平容保と共に、京都の守護にあたる。

このように兄弟で立場は全く変わるが、明治維新において非常に重要な役割を果たしている。中でも慶勝よしかつは明治政府そのものの実力者となった。
しかも、兄弟仲が良かった。年老いた後の写真が物語るが、実際に明治政府の実力者となった慶勝よしかつは、兄弟達の処分を寛大にするよう、明治政府に相当圧力をかけた。そして、功績のあった慶勝よしかつの言うことは明治政府も聞かないわけにはいかず、兄弟達の処置は寛大なものとなった。

どちらも自分の正義を貫き、日本を見据えた戦いをしたまさに「明治の志士」であった。

高須四兄弟と徳川慶勝
高須四兄弟と徳川慶勝

(3) 長州征伐(第一次)で西鄕隆盛と共に長州藩を救い、幕末の道を開いた徳川慶勝よしかつの英断

尾張徳川家 徳川慶勝(よしかつ)
尾張徳川家 徳川慶勝(よしかつ)

こうした背景を持った徳川慶勝よしかつは、徳川御三家ごさんけ筆頭として当然のごとく、当初は幕府側の有力な代表の一人だった。しかし、

① 高い教育を受け、高須四兄弟だとして育った慶勝よしかつは、幕府の末期的状況を理解していた。
② これまで示したような尾張徳川の伝統を受け継ぐ高須家にあり、家祖かそである「義直よしなお」の「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」は尾張藩の家訓として底流にあった。
③ 上記のことから、幕府の限界を知り幕府に変わる器が必要という認識を持つようになった。

という状況であった。

そんな中で、列強の圧力に対して、有力な藩は危機感を感じそれぞれで日本を守るべく行動をした。当時最も過激に動いた藩の一つが、長州藩だった。
幕府はなおも世界に目をくれず、そうした長州藩に対する圧力に腐心していた。禁門の変でまったくの悪役となった長州に対し、総攻撃をしかけるべく準備を進める。すなわち、西国21藩に出兵を命令、征長総督に尾張藩主の徳川慶勝よしかつを任命し、元治げんじ元年(1864年)の11月18日を総攻撃の日と定めた。いわゆる、「第一次長州征伐」である。
その「第一次長州征伐」の総督が徳川慶勝、であり参謀が西鄕隆盛であった

結論から言えば実際の軍事行動はとられず、長州藩に対して家老3人の切腹、先の七卿落ちで残っている5卿の追放、山口城の降伏を条件に、長州藩の降伏を認めるのである。これには幕府側は大きく不満であったが、総督の徳川慶勝よしかつがその決断を下して、征長軍を解散させてしまった。第一次長州征伐は名ばかりで、実質的な戦闘はなかったのである。

勝海舟と西郷隆盛
勝海舟と西郷隆盛

このように長州藩に対して甘い結論になるように主導したのが、西郷隆盛と言われる。西鄕隆盛は、このときに勝海舟と出会い、日本国内で争っていてはいけない、という広い視点を持つようになり長州を味方にしようとしたと言われる。
もちろんそれは事実だろう。しかし、総督の徳川慶勝よしかつがそれを認めない限り、それは実行されなかった。いくら薩摩藩が強くても、徳川勢は圧倒的な力を持っている。その代表の一人である尾張徳川藩の徳川慶勝よしかつが、幕府に反する勢力を許すという決断は、ある意味で西鄕隆盛よりも重かったといえる

維新回天は、この直後に薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」をもって、急速に回天を始め、ついには江戸幕府は倒れ明治の時代となる。
まさに、徳川慶勝よしかつは「明治維新の立役者」の一人だったことは、間違いない

(4) 江戸城の無血開城の影の功労者だった徳川慶勝よしかつ

明治維新の状況は刻一刻と変わっていくが、決定的になったのが「鳥羽伏見の戦い(明治元年:1868年)」により最後の将軍徳川慶喜が退却したことである。
これにより徳川幕府は一気に「朝敵」となり、新政府は徳川方につく大名を押さえつけに入る。その最も象徴的な物が「江戸城無血開城」である。

この「江戸城無血開城」は世界的に見ても、珍しい現象と言える。弱体化したとは言えまだ最強を誇っていた徳川方は、その力を結集すれば新政府を倒すとまではいかずとも、大いに苦しめる力はあった。しかしそれをしなかった。内戦にならずにまさに「無血で」江戸が降伏したことは、勝海舟や西鄕隆盛などの活躍もあるが、日本での内戦は日本人にとって何も利益をもたらさない、という根本の認識が朝廷を中心とした日本に根付いていたからと思われる

新政府軍の江戸への進路
新政府軍の江戸への進路

その証拠の一つが、尾張の徳川慶勝よしかつがこのときに取った行動にある。江戸城無血開城を行うには、新政府軍は「東海道」を通じて江戸へ入る必要がある。その道中は、尾張徳川家はもちろん、その他有力諸侯が連なる。それらが新政府軍を苦しめれば、更に「日本の内乱」は大きくなってしまう。日本を強くするために江戸幕府を倒したのに、これではまさに本末転倒となってしまう。
徳川慶勝よしかつは、尾張から江戸までの間に所在する大名や寺社仏閣などに、新政府側に付くよう使者を送って説得、500近くの誓約書を取り付けたおかげもあり、新政府軍は抵抗を受けずに江戸に到達できた

このよう見ていくと、徳川慶勝よしかつは江戸城無血開城の立役者の一人である、といえる。江戸を火の海から守り、そして日本に内乱を起こさせない努力をした、英雄の一人と言っていいのではないだろうか。

6.徳川御三家ごさんけと筆頭尾張徳川家の対応に見る明治維新

明治維新を「徳川御三家ごさんけ」の視点から見てきた。今回は中でも、御三家ごさんけ筆頭の尾張徳川家の歴史と共に明治維新を見た。
どうしても、明治維新というと、江戸幕府(徳川幕府)を薩摩藩・長州藩を中心とした有力諸侯が倒した、と思われがちだが、それほど単純な構図ではないことが、徳川御三家ごさんけを通じて見えてくる
本来であれば、最初から最後まで江戸幕府の味方をすべき徳川御三家ごさんけが、それぞれの判断で、また私利私欲ではなくそれぞれの信念に基づいて行動した結果が、明治維新であった。その中でも徳川慶勝よしかつの取った行動は、家祖かその徳川義直よしなおの考えである「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」を守った上で、日本に内乱が起らないように腐心した
そしてそれは、結果的に現在の日本を作った大きな決断であった。

改めて、先人達の信念・歴史の重さを感じられる。
次回は、他の「徳川御三家ごさんけ」を見ていきたい。

]]>
https://tetsu-log.com/gosanketoishin-2022-09-16.html/feed 0 27296
日本史の「2000年の流れ」を知ろう!~「日本史の流れ」は「4つの段階」と「続く伝統」で押さえる!~ https://tetsu-log.com/nihonshi-2022-09-01.html https://tetsu-log.com/nihonshi-2022-09-01.html#respond Wed, 31 Aug 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27218 日本史は「流れ」があり、そこには2000年以上も「続く伝統」がある。日本史の流れと「4つの段階」を知ろう!

日本史を知れば知るほど、むしろ現在を正しく理解できることは、私の実感である。そして、日本史を知る上で重要なのは「流れ」あるいは「連続性」を知ることと思う。私なりにその「連続性」を考えつつ日本史を見ると、「4つの段階」に分けて見えてくる。日本史の見方の一つとして、是非、お付き合いを。

1.日本の歴史は、世界で最も長い!日本史の「流れ」を知ろう!

私は歴史・政治を見る上で、まず日本の歴史を見て、そこから世界の歴史と関連付けて勉強するようにしている。それが現代を知る上で、重要どころか必須であるということは、特に大人になって学べば学ぶほど強く思う
となると、その入り口である日本の歴史を見られないと、なかなか次へ進めない。
教科書だと、あまりに人名や年号の話に終始し興味を持てなかったが、日本史の「流れ」を意識して見ると年号も人の名前も入ってくると思う。

長い歴史を持つ日本史には、大きな「流れ」がある。「流れ」とは「連続性」と言い換えてもいい。日本は常に「連続性」を持って歴史をつむいできた
こうした、「流れ」に各時代を当てはめて見ていったら、日本という歴史が理解でき、それは引いては、現代日本人のルーツを知る事であり現在の我々を見つめ直すことにもなると思う。

あまり知られていないが、「最古の国」として日本がギネスブックに認定されている。ギネスに認定されたからすごい、などという気はないが、日本の歴史は世界史上類を見ず長く統一されて続いている。

年表を見ると、日本だけが「区切りがなく続いている」ことがわかる。

世界史年表
世界史年表

小学校・中学校・高校で習ういつもの年表を、「日本の歴史の長さ」で見た時に、如何いかに世界から見ても特殊な国か分かる。

その「世界最長の日本の歴史」を意識して、日本の歴史の「流れ」を見ていきたい。

2.日本の歴史の「流れ」は「4つの段階」で見る!

日本史の流れをみる上で、私は「4つの段階」を意識している。その「4つの段階」とは、主に政治体制に着目して日本史を見た場合の「段階」である。「首都」あるいは「都」の変遷、ともいえる。

下記が「4つの段階」として私が区分する時代の分け方である。

日本史年表と4つの段階
日本史年表と4つの段階
日本史にみる「4つの段階」

段階①: 平安時代の貴族・公家の時代
奈良・京都が都として機能し、「平城京」「平安京」と長く政治体制が維持された(710年~1192年)。およそ400年もの間、この時代であった。
段階②: 鎌倉からの幕府時代
平安の世に台頭した武士が、政治を担い「幕府」を作り政治を行うという日本の機構の大改革がなされ、その後の日本の基礎を作った鎌倉幕府とその後の幕府時代(1192年~1600年頃)
京都から鎌倉へ政治機構が移ったこの時代は、日本史上とてつもない変化と言える。現在にも続く政治体制がここで確立された。
しかし、安定には程遠く、応仁の乱や戦国時代に見られるような、まだまだ混乱の時代だった。
段階③: 江戸時代
幕府体制が揺らぐ中で、再度盤石の幕府体制を確立し260年もの間維持した江戸時代(1603年~1868年)
260年もの間、平和を維持し続けた幕府と藩の体制は、日本を豊かにし日本人の文化・教育の発展に非常に大きく寄与した時代だった。
段階④: 明治時代以降
海外列強による侵略・そして世界の貨幣経済のうねりに日本も巻き込まれ、海外列強による侵略をどう防ぐか、または防ぎ切れていない明治維新以降から現在に至る日本

各「段階」について、詳しくは後述するがここでは簡単に「流れ」を解説したい。

まず、前段階として古事記・日本書紀に示されているような「神話」も含めた「古代の時代」があった。この時代こそ日本の基礎がつくられた時代とも思えるが、あえて「神話の時代」とし歴史の「前段階」として位置づける。

段階①:奈良・京都の平城・平安時代」は歴史の勉強としておなじみの、「なんと(710年)見事な平城京」、「なくよ(794年)ウグイス平安京」で覚えた奈良・京都の時代である。この時代は存在感は薄い人も多いと思う。しかし実に400年近くも続く長い時代だった。ここで、日本の文化も醸成され様々な日本の基礎が出来上がる

段階②:幕府の時代」は、日本の政治機構が一気に変わり、京都から鎌倉へ、公家から武士へと政治機構が移った。基本的にはこの体制は現在にも続くものであり、日本にとってとてつもない大きな変化であり、大きな改革だったといえる

15代将軍 系譜図2
15代将軍 系譜図2

段階③:江戸時代」は、正確には「段階②」の幕府の時代の一部だが、決定的に違うのは「安定」である。徳川15代による治世は、混乱もあったが戦争と言えるような争いもなく、よく日本をまとめ、また諸外国からの圧力も受けないようにして、平和な日本を作った。現在の日本の基礎をつくる上で最も重要な時代だったともいえる。

段階④:明治以降」は、それまでの歴史と全く異なる要素が入ってきた時代であり、まさに今の日本が直面している時代と言える。主にアングロサクソンを中心とした海外列強の「侵略」ともいえる経済・貿易・人などを通じて、自分たちの思うがままにしようとする勢力が入ってきた。「貨幣」というツールを作り出し「お金で世界を動かす体制」が世界中を席巻し、それに基づいて人々が戦争を起こす時代となってしまっている。現在では、戦争というより「経済侵略」という形で迫ってくる。日本としてどのように対処するか、また、必死で対処してきた時代が実は明治以降の共通した日本の置かれた状況なのである。

3.日本史の「4つの段階」とは

(1) 段階①平安時代(710年~1192年)

京都の平安京の時代を作ったのは、平安遷都せんとを行った第50代天皇の桓武かんむ天皇である(794年)。その後、いろいろあるにせよ400年近くも都は京都にあり、天皇を中心とした公家文化が続いた。それが、「段階①:平安時代」と区分した時代である。

「都」と天皇陛下
「都」と天皇陛下
最澄と空海
最澄と空海

その公家文化の基礎は、神道であったり仏教であったりする。各地に神社・お寺が建てられ、人々はそれを囲んで町を作り、祈り、生活していった。平安時代は公家による時代としても挙げられるが、平安仏教(最澄・空海の天台宗・真言宗)の全盛期であり、またその後半には鎌倉仏教が生まれる時代でもあった

そうした平安時代の基礎を作ったのは、その前の聖徳太子であったり、天武てんむ天皇(第40代天皇)の飛鳥時代である。そうした基礎があったからこそ、平安時代の長く成熟した時代を持つことができた。

平安の時代はとかく、「公家の時代」「京都の時代」と理解されがちではあるが、仏教という形で日本の基礎を築いた重要な時代だった。
最澄・空海による2大天才による天台宗・真言宗が生まれた時代であり、その後の鎌倉仏教も含めれば、今の日本の全国にあるお寺の大きな割合がこの時代に生まれた宗教に基づく。

「段階①:平安時代」は、まさに、日本の基礎が築かれていった時代として認識したい。

(2) 段階②鎌倉からの幕府時代(1192年~1603年)

富士浅間大社 源頼朝像
富士浅間大社 源頼朝像

長く続いた「段階②:平安時代」に大きな区切りが来て、次の段階になるのが「いいくに(1192年)作ろう鎌倉幕府」で覚える鎌倉幕府の成立である。
なお、現在の教科書では鎌倉幕府の成立をわざわざ1185年に変えているがこれはおかしい。創設者の源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍として就任し天皇に認められたことをもって「武家政権」の始まりなのだから、ここでは従来通り源頼朝みなもとのよりともが征夷大将軍に就任した1192年をもって鎌倉幕府の始まりとする。

源頼朝みなもとのよりともにより成立した鎌倉幕府は、それまでの日本の歴史上類を見ない大きな変化だった。それまで公家や貴族が京都で行っていた政治を、「幕府」という新しい機構を作りそこが政治を行うこととした。そしてその位置を、なんと京都ではなく「鎌倉」という別の場所に設置した

政治は京都から鎌倉へ
政治は京都から鎌倉へ

しかも天皇という「権威」はそのままにしていることが、この仕組みの大きな特徴と言える。
「権威(天皇)」と「権力(幕府:政府)」の分離、という日本が長く続く源泉となった仕組みが、明確に定義づけられた。

その後の江戸幕府、そしてその後の明治政府から現在の政府を考えても、基本的にはこの機構に基づいているといえる。

(3) 段階③江戸時代(1603年~1868年)

徳川家康 像
徳川家康 像

「段階②:幕府時代」は、幕府という機構はできたが、安定には程遠かった。創設者の源氏は早々に北条氏にとって代わられ、その後の室町時代も混乱が続き、応仁の乱・戦国の世を迎えることになる。

しかし、そうした混乱の間も、なんとかして「権威(天皇)」と「権力(幕府:政府)」という機構は維持され続けた。そして、その集大成ともいえるのが「段階③江戸幕府」と言っていい。私が「段階③:江戸時代」と定義づけた時代は、まさに平和を維持し続け、それまでの日本の歴史がつむいできた機構がよく機能した時代と思う。

江戸時代と言えば15人の徳川将軍の時代である。その初代である徳川家康は、深く源頼朝みなもとのよりともを尊敬していたという。ここにも、日本の歴史の連続性が見られる。
また、徳川幕府の全盛時代にあっても、天皇という権威を崩すことなく統治した。力関係こそ幕府の方が上であったが、「権威」としての天皇を尊重しながら幕府は政治を行っていったのである。

(4) 段階④明治以降の近代(1868年~ 現代)

そしてその次の「段階④:明治以降の時代」が、現在にも続く時代と言える。前段階までの日本とあまりに決定的に違うものが入ってきて、それと日本の歴史との融合を図りつつも、そうした勢力に抵抗し、日本をいかに守るか(保守)、あるいは日本としてどのようにふるまっていくのか、もがき苦しんでいる時代と言える。

何が入ってきたかと言えば、外国勢力である。物理的な「侵略」こそなんとか免れているが、「貨幣」あるいは「資本主義」といった言葉で表現できる「金による支配」が横行し、日本はそれに対して「伝統」を守りつつ体制を作ろうとしている時期と言える。今にも続く時代である。
日本だけでなく世界的に、一部の巨大資本により世界が動かされている時代である。日本は長い伝統のために、特にそれに対して抵抗し、そして取り入れてもきた。

明治の出来事
明治の出来事

明治維新はとかく、日本が「開国をするための改革」とみられるが、すべては海外列強の侵略に対する防御策であった。その後の日清戦争・日露戦争そして大東亜戦争(第二次世界大戦)を見ても、日本のスタンスは一貫している。海外列強の乱暴で身勝手な軍事的・経済的侵略に対して、日本はどうすべきか、悩みそして抵抗し、また受け入れてきた

現在にもその脅威は突きつけられ答えが出ていない。苦難の時代と言えるかも知れない。

4.「4つの段階」があっても、「続く伝統」があり日本の基礎は常に維持された!

(1) 日本は古代から「日本(日の本)」であり続け、それを象徴する「日の丸」が用いられていた

こうした「4つの段階」でみても、日本は変わることなく日本であり続けた。日本人として当たり前のように思うこの事実は、世界で見たら驚きの事ばかりである。
世界は、国名すらよく変わる。そして「統治の機構」も大きく変わっている。しかし、日本は「日本」であり続け、「日の丸」は日の丸として存在していた

日の丸
初代 神武天皇
初代 神武天皇

日本という言葉は、古事記や日本書紀でも出てこない。しかし、「日」を常に中心に考える考え方は至る所で表現されている。

古代の古墳時代から「日の本」というのは意識されていた。飛鳥時代に変遷された古事記でも、初代天皇の神武天皇が、奈良の生駒山で負けた後にこう言ってその進路を変えている。

「私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう」

こう言って熊野に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。このように日をあがめる考えは日本では定着していた。
また、701年頃には文武天皇(第42代天皇)が「日の丸」の原型である「日像」の旗を揚げていたことは知られている。
また、平家物語で語られる「屋島の戦い」(元歴2年:1185年)で、弓の名手那須与一(なすのよいち)が、遠く離れた「日の丸の扇子」を見事居抜き、敵・味方から喝采された、というエピソードがある。

また、室町から戦国にかけて行われた勘合貿易の船に「日の丸」が描かれている。まだ「国」という意識がない当時でも「日の丸」が使われていたということは興味深い。

勘合貿易船
勘合貿易船

このようにして、「日本」は古代から「日本(日の本)」であり続け、それを象徴する「日の丸」が変わることはない。日本の長い歴史の連続性を物語る。

(2) 天皇が常に「国の基礎」としての権威を持ち続けた

第126代 今上陛下
第126代 今上陛下

日本が「日本」として維持した大きなまとめ役が、「権威」たる「天皇」である

「天皇制」という言葉は、共産党が天皇批判のために作った言葉と言われる。私はこの言葉を使うのは不適切と思っている。日本の歴史を見れば「天皇」というのは「制度」ではないといえる。「制度」であれば、歴史は為政者が変われば簡単にその「制度」を変えていく。

しかし、日本ではどんな戦乱の世でも「天皇」という権威は維持され続けた。明治維新の時には、それにすがるしかなかったためその後歪んでいったが、なんにせよ「天皇」という権威は今も純然と日本にあり続け、日本はそれを守り続けている

表現は難しいが、「天皇」とは日本として当然にある「存在」であり、そしてまさに日本としての「象徴」であると思う。「象徴天皇」とは、私が批判的な日本国憲法の言い方だが、ここに関してはそれほど間違っていないように思う。
現在の今上陛下(きんじょうへいか)は、第126代である。

天皇系譜 126代
天皇系譜 126代(宮内庁HPより)

126代もの系譜けいふを持つ天皇を守り続けた日本という歴史は、日本人が誇るべき非常に重要な「事実」である。これに対して、軍国主義だとか、神話の世界だ、とかいう批判がある。126代の中には、歴史の証明ができていないと言われる人もいる。初代神武じんむから疑い、全部を否定する人もいる。
しかし、今の科学で何がわかるのか、ということと、多少の間違いが入っていたとしても、これを守り続けてきたという日本の歴史の事実は変えようがない

日本にとって、日本人にとって「天皇」とはまさに日本を「象徴」する存在、と思う日本史を「4つの段階」で見ても、どの時代にも「天皇」という権威が守られてきた。記録にあるだけで2000年もの間であるこの天皇の存在そしてそれを守ってきた日本の歴史自体が、日本という国が連続性をもって存在していることの、まさに「象徴」と言えると思う。

(3) 日本語(大和やまと言葉)は、基本的に変化せず維持され続けた

持統天皇の百人一首
持統天皇の百人一首

これも当たり前のように思われるが、「日本語」は常に変わらずに存在している。もちろん、変化はあるが、現在に生きる我々でも、1000年近く前に変遷されている百人一首の意味が理解できるのは、日本語が少なくともその頃から変化せず維持されていることの証拠と言える

世界の歴史を見ても、同じ言語がこれだけの規模の国で、この長さで維持されているのは類を見ない。

日本語は、「大和やまと言葉」ともいわれる源泉があり、「あ、い、う、え、お」の母音の構成からずっと続いていたといわれる。
言語が維持されるというのは、当たり前のように見えて、それこそが歴史の継続を示す。先人達とのつながりは、縦の軸でつながっている日本語によって、日本は自然にできているのである

5.「4つの段階」の前に、縄文時代という長く平和な日本の基礎を作り上げた時代があった!

日本史の見方として「4つの段階」と「続く伝統」としてまとめたが、もう一つ触れておきたいのが、その更に前の時代に「日本のルーツ」がある、ということである。

それは「日本史」を飛び越えて縄文時代にあることが、近年わかってきている。また、古事記・日本書紀など文献が出始めた頃の記述や神社や地名を見ると、縄文時代にすでに日本の文化は醸成されていた、と言われる。

次の年表は縄文時代も取り入れて作った。そして、「年」の縮尺を正確にして作成してある。すると、現代知る我々の歴史の遙か前に「縄文時代」があり、そしてその長さを感じると思う。

縄文時代と日本の歴史
縄文時代と日本の歴史

そして更に、縄文時代はその長さだけでなく、遺跡には現在の人も驚くような物があったことが、昭和になって発見されている「事実」である。実は、その頃から既に「日本の文化」は作られていっているのである。

縄文時代の日本のルーツについては別の回で触れたい。ここでは、日本のルーツは更に深い、「縄文時代」にも歴史を持っていることを触れておきたい。

6.日本史を「4つの段階」と「続く伝統」で流れを知り、先人達に学ぼう!

「日本史」というと、その「流れ」というより時代時代で区切って見てしまうと思う。
しかし、日本史は「連続性」が重要であり、それこそが世界に冠たる日本史である。歴史教科書のように、それぞれの時代を「区別」しては日本史を正しく見られない。

それをあえて「4つの段階」に分けているのは、その「4つ」がすべて「連続性」を持っていることが見えてくるからである。その段階の前の段階をしっかり受け継ぎながら、日本という国が出来ている。
そして、それにプラスして日本は「続く伝統」を持っている。それは「4つの段階」を通じて常に維持されている。この日本史の、そして日本の持つ伝統と先人達の蓄積が今の日本である

日本のこの何千年も続く歴史のいしずえの上に、我々がいる。それを意識することは日本人の誇りとして勇気になる。誇りある先人と共に、現在の日本人として、先人に恥じないよう、まっすぐに生きて生きたいと思う。

]]>
https://tetsu-log.com/nihonshi-2022-09-01.html/feed 0 27218
『為せば成る、為さねば成らぬ何事も~』~米沢藩 上杉鷹山の言葉に学ぶ~ https://tetsu-log.com/nasebanaru-2022-08-25.html https://tetsu-log.com/nasebanaru-2022-08-25.html#respond Wed, 24 Aug 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27199 せば成る、さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、さぬなりけり』と詠んだ上杉鷹山ようざんの言葉に学ぶ

有名な言葉かも知れないが、江戸時代で屈指の名君と言われる米沢藩主の上杉鷹山ようざんの言葉を見てみたい。「せば成る、さねばならぬ何事も~」と短歌の形になっている言葉は、現在を生きる我々にも心に染み入る良い言葉と思う。是非、ご一読を。

1.せば成る、さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、さぬなりけり

せば成る、さねばならぬ何事も」という言葉は、知られているかも知れない。しかし、全文は短歌になっていて、「5・7・5・7・7」になっている。

全文は以下の通り。

為せば成る~
為せば成る~

せば成る、さねば成らぬ何事も、成らぬは人の、さぬなりけり

上杉鷹山ようざん

かみの句である「せば成る、さねばならぬ何事も」という言葉を、私は幼少の頃に「ロボコン」の歌の歌詞で出てきたことを覚えている。
しかし、当時は意味を間違えていた。後半の「さねばならぬ何事も」というところを、「しなければいけない何事も」と理解していた。子供ながらに「なんでもしなければいけないんだ」「厳しい歌だな」と思った。

しかし、これを詠んだ上杉鷹山ようざんの言葉は、さらに厳しいと言っていいと思う
かみの句で
せば成る、さねばならぬ何事も」
と言っている。これは「やればできるし、やらなければ何も出来ない」という、ある意味で当たり前の事をあえて伝えている。そして、しもの句では
「成らぬは人の、さぬなりけり」
と伝えている。これは「できない、ということは、人が『やらなかった』に過ぎない」、と切って捨てているのである。「できるまでやらなければ意味が無い」という、非常に厳しい言葉とも取れる

確かに厳しい言葉かも知れないが、幼少の頃に誤解して聞いていたとしても、江戸中期の大名である上杉鷹山ようざんのこの言葉(短歌)は、今も深く心に残っている。

2.上杉鷹山ようざんとは?

米沢藩
米沢藩(「刀剣ワールド」HPより)

上杉鷹山ようざんは、江戸時代中期の人で寛延4年(1751年)に生まれ、文政5年(1822年)まで生きた人である。
出身は九州(日向ひむか国高鍋)だが、縁あって米沢藩に迎え入れられ、17歳にして第9代の米沢藩主となる

米沢藩は、戦国時代の英雄上杉家を祖先とするが、関ヶ原の戦いで徳川方に味方しなかったためその領土は小さくなってしまい、それが米沢藩となった。

上杉鷹山ようざんは養子として迎え入れられたが、情熱を持って藩政に当たり、米沢藩を大きく立て直し繁栄させた江戸時代屈指の名君、とまで言われるほど米沢藩を豊かにし、正しい治世を行った人である。

上杉鷹山
上杉鷹山

では上杉鷹山は何を行ったか。簡単に言えば、

・ 質素倹約
・ 産業の開発(養蚕・製糸・織物・製塩・製陶など)
・ 学問の奨励
・ 子供・老人を大切にする「支給」を実施

等々にまとめられる。
今の政治家にも勉強して欲しいような内容ばかりの政治を行った名君である。単に質素倹約だけに努めるのではなく、その後の未来を見据えた「投資」とも言える、教育・産業育成・社会保障、といった面にまで行き届いた政策を行った人だった。

3.上杉鷹山ようざんと「せば成る~」

取り上げた「せば成る、さねばならぬ何事も、成らぬは人の、さぬなりけり」はもともと、戦国の武田信玄の言葉から来ているという説がある。

武田信玄は、次のように歌ったという。

せばなる さねば成らぬ 成らぬ業を 成らぬと捨てつる 人のはかな

武田信玄

戦国の英雄、武田信玄の歌った言葉は、確かに上杉鷹山が参考にしたかも知れない。しかし、上杉鷹山ようざんの人生・功績を見れば、たとえその「言葉」を借りたとしても、それを実践した人の言葉として、何ら色褪せることは無いと思う。

そして、武田信玄が「人のはかなさ」と嘆き、ある意味捨てているところを、上杉鷹山ようざんは「それではいけない」と言わんばかりに「成らぬは人の、為さぬなりけり」と強く訴えているところが、上杉鷹山ようざんの人となりが感じられる。

4.『成らぬは人の、さぬなりけり』!

心に染み入る言葉は、江戸時代であっても同じである。それが「短歌」の形で残っている日本は、素晴らしいと改めて思う。

そしてあえて今の自分に置き換えるのなら、上杉鷹山の言葉の中でしもの句を心に強く持ちたい。

為せば成る、為さねばならぬ何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり

「出来ないではない、『やらない』である」、と、江戸の名君が言っている
現代を生きる自分として、心にしっかりとどめて現代を生きていきたい。

]]>
https://tetsu-log.com/nasebanaru-2022-08-25.html/feed 0 27199
日本はいつまでマスクをつけるのか・・・?この状況は「異常」ではないのか? https://tetsu-log.com/study-2021-10-03-2.html https://tetsu-log.com/study-2021-10-03-2.html#respond Fri, 19 Aug 2022 21:00:00 +0000 https://tetsu-log.com/?p=27142 日本のどこでもマスクをつけている今の状況は「異常」ではないだろうか?

どこへ行ってもマスクの人しかいない今の日本の状況に、「狂っている」、としか思えず、少し記述したい。ブログをまとめるときには必ず私なりの「結論」があるようにしているが、今回は結論が見えない・・・。つぶやき的になってしまったが、是非、お付き合いを。

1. 顔も表情も見えない「マスクの世界」でいいのか?

いつまでマスクをつけ続けるのか?そう思うことが多い。私自身は、職場以外は言われなければつけないようにしているが、公共交通機関など、つけていない人はほぼ「ゼロ」である。

すでに武漢コロナは最初の頃から様相をずいぶん変えているのに、日本人は相変わらずマスクをつけ続けている。私は、武漢コロナにしてもワクチンにしても、どう考えても論理的に動いていないと考えているが、この「日本のマスク問題」はそれとは別の問題点として捉えている
私が信用していない日本の政府ですら、マスクの「義務化」を言っていないのに、なぜどこに行くにもマスクをしないといけないのか。誰が言っているのか分からず、マスクの効果や根拠が明確でないのに、それでもマスク・マスク・マスク。今の日本の状況は「異常」と思えてならない

高校生もマスク・マスク・マスク
高校生もマスク・マスク・マスク

社会人はまだいい。友人を作るときには「武漢コロナ」というより「マスク強要」はなかったから。
しかし、学生は小学校・中学・高校を「マスクをつけた友人の顔」しか知らないままで、卒業する場合すら出てきた。しかも、驚くことに「卒業写真」の時にマスクのままで撮るケースも多いという。先生は何も思わないのか?なぜ「マスクを外して写真を撮ろう!」と言えないのか?

ここまで来ると、もはやコロナの問題と別の問題ではないか?と思わざるを得ない。

2.誰が「マスクをしろ」と言っているのか?

誰が「マスクをしろ」と言っているのか?と、考えてみてもよいのではないだろうか。

厚労省HPのマスク着用のガイドライン
厚労省HPのマスク着用のガイドライン

一時期は、コロナ分科会の会長の尾見氏が国会で話した、だとか、政府が推奨しているだとかいろいろあったが、本当にそれが今も言われているのか?
少なくとも厚労省のHPを見る限り、「つけないといけない」ということを書いてあるとは思えない。

つまり、誰も明確に「マスクを義務化」をしていない
にも関わらず、今の状況は何なのか?

そもそも、「マスクの義務化」など日本の憲法・法律に照らして出来るはずもない。日本国憲法に批判的な私でも、「マスクの義務化」は憲法上あり得ない。もちろん、憲法に記述がなくてもすべきことはすべきとは思うが、その根拠や効果がないもので個人の行動を制限することはあり得ない。

では、今の「同調圧力による義務化」は一体何なのだろうか?

2022年3月18日午前、東京都世田谷区立富士中学校 卒業式
朝日新聞デジタルより

つけたい人はつければいいだろう。しかし、今の状況は明らかに「義務化」の域に達している、と思う。小学生・中学生・高校生がマスクを付けて話している姿を見て「狂っている」となぜ思わないのだろうか?

マスクをつけることを、何の根拠や合理的理由もないままに「強要する」社会であっていいのだろうか?そうした社会の状況の方が「狂っている」のではないだろうか?

3.日本人は、何をすれば「マスクを取る」のだろうか・・・

「他人に迷惑をかけない」とするモラルの高さは日本人の美徳、と思っている。それは、日本の先人達が私たちに与えてくれた「財産」とも思っている。

しかし、今のこの状況で「マスクをつけなければいけない」という「同調圧力」は、日本人のモラルの高さと関係が無いと思う。どう考えても理不尽なこの「マスクの義務化」は狂っている、とすら思う私がおかしいのだろうか・・・
科学的なコロナの話ではないまま、マスクを全員つけている。日本人の一人として「義務化されてしまっているマスク文化」に強烈な嫌悪を感じる。日本人は、ここまで「社会のルール」に、無批判かつ従順になってしまったのだろうか・・・。

どうしたら、この「マスクの義務化」はなくなるのだろうか・・・。誰かに号令をかけてもらえないと日本人はやめられないのだろうか・・・
早くこの異常な事態が終わる事を願うと共に、この状況が何をきっかけに終わるのか、見極めたい。

 

]]>
https://tetsu-log.com/study-2021-10-03-2.html/feed 0 27142