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日清戦争の全容に迫る!【1】戦争の背景と全体像

明治27年(1894年)の日清戦争の背景と全体像を見る

これよりシリーズで日清戦争についてまとめたい。
日清戦争はなぜ起こったのか?そもそも、日清戦争とはどのような戦争だったのか?、それは不自然なほど我々は教えられていない。理由は、China(中国)(中国共産党)・朝鮮半島に都合が悪いからと思われる。 日清戦争は明治27年の1894年に起こり、翌年には終わっている。実はここから日本の「大東亜戦争」までの道が始まっているとも言える。学校でもマスメディアでも「あえて」詳しく取り上げない「日清戦争」についてまとめてみたので、是非ご覧を!

1.日清戦争の「意義」が分かれば、その後の戦争も見えてくる!

学校教育では、日清戦争はあまりにあっさりと「日本と清国との戦い」あるいは「日本が朝鮮半島を支配する目的で進出した結果、清国との戦いとなった」という認識で終わる。

しかし、実情は、全く異なる。全くの嘘・あるいは「真実隠し」と言っていい。

日清戦争を深く見ると、そこに至るまでにいくつものステップがあり、その上でのギリギリの決断の戦争だったことがわかる。
そして、その原因と背景には朝鮮半島特有の特性があり、それに対する大国(日本・清国)の状況が絡まって、戦争となっている。そして朝鮮半島特有のその原因(背景)は、基本的には現在も変わらず、もっと言えば古代から変わっていない。それでもこの時に「戦争」とならざるを得なかったのは「欧米列強のアジア植民地化」がものすごいスピードで進んでいたという、当時の時代背景があった。アジアでは日本のみがその脅威に対して真摯に向き合い対抗しようとしていた。

明治という時代と、大正・昭和と流れを見たい。

明治・大正・昭和
明治・大正・昭和

こうして流れを見ると、改めて、明治政府樹立後の初めての対外戦争が「日清戦争」であったことがわかる。そしてその勝利は、次の日露戦争への要因となる。
そしてそれも勝利した後に日本はアジアで唯一の「列強」となり、第一次世界大戦にも参加する。あくまで「日英同盟」のためにであったが、それによりますます欧米との距離が開き、欧米は警戒感を高める。更に仲間となるはずのアジアでのChina(中国)・朝鮮半島の日本に対する無根拠な敵意はかわらず、一方で日本が日露戦争により得た満州の支配は、China(中国)だけでけでなく欧米、特にアメリカも大きく注目していた。

かくて、その満州での「盧溝橋事件(昭和12年:1937年)」から発する「支那事変(日中戦争)(昭和12年:1937年)」が勃発。それが進んだ結果、英米への開戦となる「真珠湾攻撃」・「マレー攻撃」が行われ、一気に「大東亜戦争」そして「第二次世界大戦」へと進むこととなった。

すこし話がそれるが「支那事変」は今では「日中戦争」と教えられるように強制されている。これは中国共産党による要請であるが、全くの嘘の言葉である。当時「中国」はない。清王朝が倒れ、動乱があっただけの状態だった。かろうじて蒋介石の「中華民国」と毛沢東の「中華人民共和国」という集まりがあったが、国名でも何でも無く定義もない。清国が倒れてまともな中央政府がなかった。日本は宣戦布告する相手すらいなかった。「国」がない上に「中国」という相手もいないのだから、「日中戦争」の「日中」も嘘だし「戦争」も嘘である。支那で起こった「事変」程度のものがずるずると続いたというのが真実である。であれば「支那事変」と言わないと嘘となる。

非常に駆け足で、大分飛ばして記述したが、第二次世界大戦への流れはざっくり言えばこのようになる。日本におけるどの戦争・事変も、すべてその複線となっていて、国際政治の中でそれらを利用した結果としての「大東亜戦争」といえる。

その最初であり発端が「日清戦争」なのである。この戦争とそれに至る背景をしっかり理解することで、その後の戦争の流れの見方も大きく変わってくる。

2.間違って認識されている日清戦争の真相

日清戦争は簡単に伝えられているだけでなく、明らかに曲がって教えられている。真実を知られると困る勢力がいるとしか思えない。学ぶとすぐに矛盾だらけに気づき、現在の教育やいわゆるマスメディアに出てくる論調の「浅はかさ」がすぐにわかる。そして、その「嘘」あるいは「誤解」を見ることで、日清戦争の概要が見えてくる。特に3点、ここではっきり整理しておきたい。

(1) 『日本が侵略目的で朝鮮半島に進出した』というのは、事実を全く捉えていない嘘

よくいわれるのが、『江華島事件(明治8年:1975年)で日本が挑発し、結果的に朝鮮支配を目指したために清国との戦争になった』、というものである。

しかし、これは当時の政治情勢から考えてもまったくあり得ない。もともと明治政府はまだ廃藩置県も終わっていない時期に、他国を統治するなど本気で考えることは有り得なかった。清国と「日清修好条規(明治3年:1871年)を結んで、清国との外交を始めていることから上げられる。そもそも、日本一国では欧米に対する国力は全く歯が立たなかったため、明治政府はとにかく、支配されているアジアと共に欧米に当たる方向性で考えていた。

しかも、それはまだまだ幕末が終わったばかりの段階の話である。まったく政府には金もなく、内政の整備に手一杯の時期だった。朝鮮との「日朝修好条規」は締結に手こずることになりその5年後になる。その時に「江華島事件」で挑発したのは正しいが、その目的は「侵略」などではない。はっきり言えば、当時の朝鮮そのものに「侵略」するほどの魅力のあるものは何もなかった。産業もなく民度も低く、統一した支配層もいない状態である。
そして明治政府には全く余裕が無かった。しかしとにかく、列強特にロシアへの対抗をどのようにするか、ただそれだけであった。その上で、朝鮮半島という地域がどうしても重要だったのである。

(2) 日清戦争の舞台は清国(China(中国))ではない!あくまで朝鮮半島であり、それ以外の場で行われていない

日清戦争は、どうも「日本と清国」との戦争のイメージが強いために、清国と北京や香港あたりで戦った、というイメージが強いが、全くそれは誤解である。

日清戦争の舞台
日清戦争の舞台

添付した図の通り、すべて朝鮮半島・あるいは満州近くである。そこからも、決して日本がアジアを支配すべく出兵したためではないことが見える。国と国ではなく、あくまで局所的な戦いである。度重なる条約違反を清国も朝鮮も行い、更に列強がどんどんアジア支配を強める中で、日本の国家そのものの存続が、地政学的に重要な朝鮮半島にあると考えられていたからである。しかも、その朝鮮半島の支配者が、後述する「大院君(だいいんくん)」・「閔妃(びんひ)」が、あまりにその当事者能力がなく無責任で民衆を無視した政治を繰り返して地域そのものの不安定が問題となっていたのである。

それが原因であり、それを象徴するかのごとく、日清戦争の舞台はすべて朝鮮半島である。もし間違えて清国との戦争で清国(China(中国))で戦争したと記憶していたら、大きくその発想を変えないと、真実が全く見えなくなる。

この戦争は朝鮮が原因で始まり、朝鮮が舞台の戦争である

(3) 『日清戦争は「楽勝」』などでは全くなく、当時反対論も大きかった中で必死で戦い、清国の失策があってかろうじて勝利できた

ここで「日清戦争」では日本は比較的容易に勝った、という誤解は、相当広まっていると思う。私も、社会人になって歴史を見直して初めて知ったことの一つである。

事実は全く違っていた。いくらアヘン戦争等で「眠れる獅子」と呼ばれた清国が落ちぶれても、アジアでは唯一絶対の存在であることは、特に欧米や他のアジア国からは当たり前の感覚だった。日本ですら「中国は日本より優れている」思い込んでいたのは、明治や戦前どころの話ではない。江戸時代や平安時代ですら、やはりChina(中国)に対する大きな憧れは持っていた。また、船の数等、実際に国力は明らかに清の方が上だった。

それほどの清国と戦うことは、日本もできる限りやりたくなかった。近代国家として歩み始めたばかりで、更に「大日本帝国憲法」が出来たばかりで議会と内閣との争いは混乱に混乱を来し、憲法停止すらささやかれるほどであった。
だからこそ、清国も日本に挑発してきて(長崎事件)、更に日本の新聞も世論を煽(あお)った。その急先鋒は朝日新聞であった。それでも自重した上で、考えに考え抜いた開戦であった。それほど清国との戦争は大きな国の決断だったのである

結果だけみれば日本の圧勝だったが、それは明らかに敵の失敗に寄るところが大きく、日本は「運良く」勝ったに過ぎなかったのである。

3.当時の日本の背景

(1) 明治の中での「日清戦争」

明治の中で、日清戦争が起こったのは、ようやく産声を上げた「大日本帝国憲法」が生まれてすぐである。大日本帝国憲法が明治22年(1889年)に発布されたその5年後の明治27年(1914年)に日清戦争の勃発となっている。

明治時代 年表
明治時代 年表

こうしてみると、日清戦争自体は明治中期に起こっているように見えるが、その火種は既に明治政府成立間もない頃から、大きな政治課題になっていた。「征韓論」と名付けられたすり替えれた議論となり地政学的に重要な朝鮮半島への対処は内政にも大きく影響した。。「征韓論」とは西郷隆盛の意図と離れいろいろ言われるが、典型的には韓国を武力で制圧する議論の事と言われる。
西郷隆盛が木戸孝允・大久保利通と袂を分かつこととなった「明治6年の政変」など、まさに朝鮮半島に対する扱いが原因であった。

また、同じく明治6年に結ばれた「日清修好条規」は日本として初めてアジアとの連携を模索し始めた最初の条約だったが、これが導火線の一つとなり、その後の日清戦争を引き起こすこととなる。
また、明治政府設立間もない頃から、当時朝鮮半島の支配層であった「李氏朝鮮」の李氏は、まったく国のことなど考えず、世界情勢の認識もなかった。結果、日本という清国より遠い国に対して対等に話すことはない、という態度であったため、ことごとく日本の使者に対しての無礼を働いていた。
「征韓論」なるものが日本の政治の中で高まっていった背景には、多分に朝鮮半島の支配層の当時の世界観と日本のギャップ、そして歴史的にもどっぷりはまっているChina(中国)への「華夷思想(かいしそう)」により、China(中国)に対する属国意識から全く抜ける事が出来ていなかった朝鮮半島支配層へのいらだちがあった。
こう書くと、今現在も何ら変わらないように思うが・・・。

(2) 日清戦争の背景にある「国境確定」

明治の初期から維新政府は国境の確定を急ぎ進めた。これをはっきりして初めて国防が成り立つという観点は、開国間もない日本であってもすでにその意識を持っていた。
そこで、矢継ぎ早に進めている。

明治初期の「国境画策」
明治初期の「国境確定」
① 清との対等条約としての「日清修好条規」(明治4年:1871年)
② 「宮古島虐殺事件」を利用した「台湾出兵」(明治7年:1874年)
③ ロシアとの国境交渉「千島・樺太交換条約」(明治8年:1875年)
④ アメリカ・イギリスと調整し「小笠原諸島領有宣言」(明治9年:1976年)
⑤ 江華島事件に伴って朝鮮の開国を迫った「日朝修好条規」(明治9年:1976年)

年号を見てもらえれば、如何に明治政府が国境を定めることに腐心していたことがわかる。台湾出兵や江華島事件など、かなり強引な手法も含めてだが、とにかく近代国家設立のため、非常にタフな交渉を実施してきた。

こうした日本の国境確定で、当然衝突するのは隣国になる。ロシアとは、榎本武揚が首尾良く条約をまとめた。

しかし、当然ではあるがここから隣国との軋轢が生まれる。もともと、アジア地域では「空白地帯」について国境という概念がなかった。どちらも「空白地」としていたが、近代国家の建設において国境を画定することが必要とされた。

(3) 日清戦争当時の内閣

このような近隣の国際情勢の中で、日本はついに「大日本帝国憲法」を制定するに至る。これにより「近代国家」の一員として大きく名乗りを上げることが出来た。しかし、あまりに先進的かつ民主的なこの「大日本帝国憲法」下では、ドイツのビスマルクさえ「(先進的すぎて)大丈夫か」というほど、議会の力が強かった。当時で、予算の拒否権が与えられている憲法などどこにもなかった。

しかし、今と変わらず野党は勝手なことを言って、清国に対する「弱腰外交」と批判する一方、「予算は緊縮で」という国民に耳障りのいいことしか言わなかった。一方で朝鮮半島を巡る緊張と清国との一戦は避けられない状態になっていった中、議会の混乱は憲法スタート時にもかかわらず、いやだからこそ、ひどい物だった。

ただ、ここで特に伊藤博文公を中心に日本の行政側(薩摩・長州)の覚悟と団結は、「清国との戦争」の決意の中で醸成(じょうせい)されていった。日清戦争当時は、日本の議会は紛糾に次ぐ紛糾で、それをみて清国は「戦争などできるはずがない」と高をくくっていったようである。しかし、それを見事にはねのけ団結させたのは、伊藤博文公の「第二次伊藤内閣」であった。

第二次伊藤内閣
第二次伊藤内閣

後に「長州の三尊」といわれる長州の伊藤・井上・山縣の3人がそろい踏みで内閣にいる。また、後の最後の元老となる「西園寺公望(さいおんじきんもち)、後の日露戦争の陸軍の英雄「大山巌(おおやまいわお)」、元内閣総理大臣の「黒田清隆(くろだよたか)」・「松方正義(まつかたまさよし)」など、そうそうたる顔ぶれであった。
元勲内閣」ともよばれ、だれが首相をしてもおかしくない程の陣容で「日清戦争」に臨んでいた。逆に言えば、それほどまでに国内・国外とも緊迫した状況でギリギリの開戦であったのである。

4.当時の世界情勢

ここでは、当時の列強の状況を簡単に押さえておきたい。明治という時代を見る上で、世界情勢の認識なしでは、全く知識不足となってしまう。

日清戦争時の世界の指導者・君主
日清戦争時の世界の指導者・君主

明治時代すなわち19世紀の中盤から後半と20世紀初頭にかけて、世界の列強はまさに「帝国主義」むきだしであった。産業革命により軍事・産業の発展を遂げた後は、むき出しの植民地主義に走っていた。この頃の5大国と言えばそのままヨーロッパの5強を指し、最強のイギリス、2番手にロシア、そしてフランス、オーストリア、そして発足間もないドイツ連邦であった。これに加えて、アメリカという新興国が南北戦争を終えたことで、一気にその力をつけて植民地支配に乗り出していた。
植民地支配と言っても生やさしい物ではない。ほとんど人を人と見なさず、残虐の限りを尽くしている。それらについては、またいずれ触れたいが、興味のある人は是非調べてほしい。

そしてその頃はまさに、王政の最後とも言える王政の全盛期だった。イギリスはヴィクトリア朝といわれる全盛を築いたヴィクトリア女王、2番手のロシアは結果的にロシア革命で惨殺されるニコライ2世、後の第一次世界大戦の原因とも言える人種差別主義者のドイツのヴィルヘルム2世、またオーストリアのヨーゼフ1世、などがヨーロッパの支配体制であった。フランスは、ナポレオン3世を経て共和制に戻ったため、この当時は王はいない。
そして、アメリカの大統領はマッキンリー大統領であったが、この後暗殺される。そしてアジアでは、日本は当然明治天皇であり、清国は実質的な皇帝という意味で西太后をあげるべきであろう。
こうした情勢の中で、欧米列強はどんどんアジア進出を始めていた。

真の割譲
真の割譲

植民地化のアジアの中で象徴的なのが、「清国の半植民地化」である。図にあるとおり、清国はほとんど国の体を為さなくなってきていた。実際に、この後「辛亥革命(1912年)」により清国という王朝は消えて亡くなる。
しかし、欧米の飽くなき植民地への渇望は決して、イギリス・ロシアだけではなかった。乗り遅れたとばかりに、アメリカが超大国になりつつある頃であった。

こうした世界情勢の中で、日本は独立国たる道を行くためにがむしゃらに進んでいた。「内戦」に近い状態になってでも、議論を尽くしながら国の方向性を模索していた。その中で「日清戦争」があるのである。

5.清・朝鮮半島の情勢

清国は確かに、世界的に見ても超大国であったことは間違いない。欧米から「眠れる獅子(しし)」と呼ばれ、一定の畏怖(いふ)の念を持たれていた。それが、「アヘン戦争(天保11年:1840年)の敗北、その後のあまりにひどい国情に欧米はその植民地化を加速していった。欧米は、とにかく産業革命による生産量の増加に伴う市場を求めていた。

そして清国は、もともと漢民族ではなく満州族により立てられた国で、有力な皇帝を輩出し全盛期にはかなり広い版図を誇っていた。しかし、この頃にはその広い版図を統治する程の力は無く、また、皇帝の咸豊帝(かんぽうてい)が1861年に30歳で早くに亡くなると、その後50年にも渡り清国を動かしたのは、その皇后である西太后であった。

清と朝鮮半島
清と朝鮮半島

この西太后が、「中国三大悪女」の筆頭としてあげられるほど、残虐で嫉妬深く策謀にかけては巧妙であった人物である。この西太后の下で政治は大いに乱れ、部下は国に対して忠誠心を尽くさなくなった。日清戦争でも指揮をとる袁世凱(えんせいがい)、その弟子にあたる李鴻章(りこうしょう)などの名将と呼ばれる人はいたが、あくまで個人であり、国としてのまとまり・忠誠心は全く無かったのである。それが、国力で圧倒的に劣る日本が日清戦争で勝てた最も大きな要因といって良い。

そして、朝鮮半島に関してはほとんど「国」と呼ぶにも難しいほどの状況だった。統治といっても、最も有力な支配層が「李氏(りし)」ではあったが、まともな軍隊もなく民に施策を講じる事なども特になく、ただ、搾取の対象としての国民があっただけであった。人権はなく、「チュリの刑」といわれる筆舌に尽くしがたい拷問は、日本統治前まで行われていた。この背景を理解しないと、朝鮮の支配層がなぜ簡単に自国民を裏切り他国にすがり、そして巻き込むのか理解できない。つまり、自国民を単なる労働や搾取の対象としてしか見ていないため、それを統治するとすら考えていないのである。

そしてそれは、中華も基本的に同じである。朝鮮半島は、あくまで中華の属国として「華夷思想(かいしそう)」のもとChina(中国)を絶対視する方向性であった。その行き着く先が「事大主義(じだいしゅぎ)」である。「小が大に事(つか)える」という語源は、強い勢力に付き従うという考えで、古くから基本的にはChina(中国)を対象としている。今も同様である。

日清戦争時の李氏朝鮮
日清戦争時の李氏朝鮮

その朝鮮において、当時実権を握っていたのが「大院君(だいいんくん)」である。彼はバリバリの「鎖国派」であり、とにかく外国からは逃げて逃げて逃げ続けたい、という考えの下の人物だった。そして、もう一人の重要人物が大院君の息子の「高宗」の妃である閔妃(びんひ)である。
この閔妃が、規模は小さいが西太后と引けを取らないほどの横暴ぶりで、政治を切り盛りしていった。夫であり皇帝である高宗はもともとそうした力は無く、それをしる閔氏は自分の一族をどんどん政治に入り込ませ、専横の限りを尽くした。そして、高宗(閔妃)と大院君との争いが、清国と日本を巻き込んでの大問題となる。当然国民も当惑し反乱することがあるが、強烈な身分制度が根強い朝鮮半島で、大きな力にはなり得なかった。

なお、私は韓流ドラマはまったく見ないが、この手のドラマを見た研究者があまりに嘘ばかりで辟易したという。なお、添付した「閔妃」の画像も信憑性は薄いという説もある。あまりに嘘の上塗りで歴史がわからなくなってきているのが韓国の実情である。
ドラマのストーリーはもちろん、服装などの時代考証から人物像から、何から何までファンタジーで当時に「王朝」とよべるほどの存在は朝鮮にはなく、あくまで「華夷思想」に基づく支配層が「李氏」であった、ということである。リーダーのいない地域ほど不安定な物はなく、日本の難しさと不安は、そこに大きな原因があった。

6.日清戦争までの流れ

これまで全体の概要を述べてきたが、日清戦争に至るまでの具体的な流れをまとめた表が下記である。

日清戦争までの流れ
日清戦争までの流れ

日清戦争に至るには、大きく二つの種類の出来事があった。

一つは、先ず明治の早い段階に結ばれた清との「日清修好条規(明治4年:1871年)」と、その5年後となった朝鮮との「日朝修好条規(明治9年:1876年)」である。前者は日本で初めて結んだ対等条約であり、アジア国家間の大きなステップであった。一方後者は、今まで国として扱われていなかった朝鮮を「国」として扱って条約を結んだ、朝鮮にとっても画期的な物のはずのものであった。しかし、この間が5年間もかかっているところが、朝鮮の面倒なところを表している。

そしてもう一つは、朝鮮半島の内部の3つの内乱である。それに日本と清国が関与していく形で巻き込まれていった。

① 壬午(じんご)事変
 大院君を閔妃が失脚させた事件。これにより閔妃が政権を握るが能力が低く民衆の不満は高まる。
② 甲申(こうしん)事変
 閔妃の「事大主義」による清国にべったりの政策や、日本の開国に触発された若者達による反乱。一度成功するも、清国により制圧される。
③ 東学党の乱(そして日清戦争)
 閔妃の政治により貧困を極めた農村からの反乱。これに清国が介入したため、この条約違反は見過ごせないと日本も参戦。これにより「日清戦争へ」

簡単に書いたが、これを見ても戦争の経緯がさらっとわかると思う。次回以降で、それぞれを詳しく見ていきたい。

7.日清戦争までの流れをみて

今回は、日清戦争の時代背景の全体の説明と、そこに至った経緯を簡単にまとめた。次回以降で、より詳しく見ていきたい。

今回を見てもらっても気づくと思うが、「日清戦争」という戦争に至るまでに過程がいくつもある。その中で、先人達はベストを考えながら選択し、結果的に、勝利も見通せない「日清戦争」に踏み切った。近代日本の初めての戦争で、憲法も発布されたばかりで、相当な決断だったと思う。「過程」を見ていかないと、その「結果」までが理解できないことが多い。またその「過程」をみると、戦争に至った理由もうなずける。

歴史は表面の事実だけではつかめないことを、改めて「日清戦争」を学んで思う。特に近代史は時代が近いので、今は資料がたくさんある。歴史の授業やマスコミが隠すそうした「真実の歴史」に触れて、理解していきたいと思う。先人達を知るためと、今を生きる自分のために。

 

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