- 2017-12-23
- 特集_明治維新とヨーロッパ世界
- 8 comments
ドイツ帝国の成立とビスマルク外交とその終焉・19世紀末の東アジア情勢と奇跡の日英同盟とその背景
19世紀後半(明治維新の頃から日清戦争後)のヨーロッパ世界を見る。今回は、この頃に成立したドイツ帝国の動きと、日本への影響と、その後の世界への影響も見ていく。また、日清戦争とその後の日英同盟とその背景について見ていく。
(シリーズ記事)
➡明治維新とヨーロッパ世界【1】 徳川250年間の世界史と、19世紀後半の世界情勢
➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本
➡明治維新とヨーロッパ世界【3】 ロシア・アメリカの動きと日本
➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉、及び日本
➡明治維新とヨーロッパ世界【5】 (まとめ)19世紀後半50年の世界と、連動していく日本
ページ目次
明治維新の視点からはプロイセンあるいはドイツはなかなか見えてこないが、ヨーロッパではプロイセンそしてその後のドイツ帝国の動きが、非常に重要になってくる。そしてそれは、当時明治維新を終えて大国の一つとなり始めた日本にも大きく影響を与えるとともに、更に、その後の第一次世界大戦・及び第二次世界大戦への、大きな流れへ行くきっかけとなっていく。
1.19世紀後半の動き
まずは、19世紀後半(1840年~1900年)の、戦争・紛争を時系列で追った年表と地図を見てほしい。
このように、世界各地での植民地戦争は19世紀後半はイギリスを中心に一気に進んでいった。特にイギリスは「栄光ある孤立(Splendit Isolation)」という姿勢のもと、ヨーロッパ外ではものすごい勢いで植民地化を進めていた。
一方ヨーロッパ本土では、クリミア戦争(▶ クリミア戦争とパリ条約参照)を終えたものの、列強ひしめく状態で、緊張状態は全く変わっていなかった。特にオスマン帝国の弱体化は明確なものであり、その巨大な統治地域に反して、もはやオスマン帝国一国で列強に対抗できる国力は全くない状態であった。
その中、プロイセンは新興国として着々と力をつけ、ドイツ地方全体をにらんだ動きとなってきた。
2.ビスマルクの基本方針と、普仏戦争後のドイツ帝国の成立
ページ目次 [ 開く ]
1861年にドイツの一地方であるプロイセンの宰相となった、ビスマルクはそれまで比較的農業国的要素が強かったドイツ地方を、プロイセンを引っ張る形で軍事を進めた。折しも、産業革命がヨーロッパ中に広がっていた頃であり、ものすごい勢いで軍事大国となっていった。有名な演説を1862年に行っている。「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」、いわゆる「鉄血宰相」と言われるゆえんで、プロイセンおよびドイツのためにひたすら富国強兵に努めた。
ビスマルクが押し進めた戦争に、普墺戦争(1866年)と普仏戦争(1870年)がある。
普墺戦争は、北のプロイセン対南のオーストリア帝国で、旧ハプスブルグ同志の争いであった。産業革命を経たプロイセンが圧倒、これによりオーストリアはハンガリーと結び「オーストリア=ハンガリー帝国」として独立(1867年)し、ドイツからは離れる。
またビスマルクは、これによりドイツ統一への道が見え始めたことと、先のナポレオン戦争の復讐も兼ねて、プロイセンを盟主としてドイツ地方の諸侯と合わせて、普仏戦争としてフランスとの戦争を行う。これに、フランスは完全に敗れた。
そして翌71年についに「ドイツ帝国」を成立させ、皇帝ヴィルヘルム1世を頂点とした、立憲君主制の国が成立する。
3.ビスマルク外交と三帝同盟・三国同盟
ページ目次 [ 開く ]
ここで、少し振り返っておきたい。ドイツ帝国が成立したのは1871年と述べた。先の地図で、イタリアも発生しているがサルディーニャ王国がイタリア王国を成立させたのは1861年、フランスはナポレオン戦争後ようやく復権したばかり、オーストリア=ハンガリー帝国は1867年に成立、とヨーロッパ諸国もまだまだ体制を整備しつつある段階だった。それが日本の明治維新の頃の世界情勢である。決して日本だけが変革の波にあったわけではなく、ヨーロッパもまた大きく変わっていく最中であった。
ビスマルクの最大の関心は、普仏戦争に敗れたフランスが、再びドイツの脅威とならないように抑え込んでおくことであった。特に、ドイツにとってフランスとロシアとが結びつかないよう、腐心した。そのためには理念や情念に左右されることなく、現実的な国益の判断だけであり、また同時に冒険的な領土拡張には抑制的であった。
ビスマルク外交の成果を大きく上げると、①三帝同盟、②ベルリン会議、③三国同盟、があげられる。
そのために、まずドイツの背後にあるロシアとオーストリアとの同盟関係を強めることをねらい、1873年に三帝同盟を結成した。
【② ベルリン会議】(1878年)
また、ビスマルクはヨーロッパの秩序の安定がドイツの安定の前提と考え、その維持に努めた。とくにバルカン問題ではロシアとオーストリア間の対立要因があり、放置すると三帝同盟崩壊につながるため、1877年~1878年に行われたロシアとトルコの戦争(露土戦争)の仲介に入り、1878年、ベルリン会議を主催した。「公正なる仲介人」としてその調停に乗り出し、結果的にイギリス・オーストリアに有利に、ロシアは獲得した多くの権益を放棄せざるを得なくなった。
【③ 三国同盟】(1882年)
これはビスマルクの調整の失敗であり、ロシアは反ドイツ感情を持つこととなった。それを受けてビスマルクはフランスを仮想敵国とするオーストリア、イタリアとの間で三国同盟を締結した。
しかし、三帝同盟がブルガリアを巡るロシア・オーストリアの対立から延長されず、1887年に解消されると、同年、ロシアとの間に再保障条約(二重保障条約)を締結した。これらは秘密軍事同盟であり、巧妙にヨーロッパ大陸の列強間のバランスをとって勢力を均衡させるものであったが、ここまで巧妙であると、危うさも大きかった。
このようにビスマルクは、特にフランスをにらみつつ勢力均衡をはかりながらドイツの強大化を進めるが、結局ビスマルクにしかできない外交であった。ビスマルクが皇帝に罷免され、ヴィルヘルム2世の時代になると、様相が一気に変わる。
ビスマルクが最も恐れていた、フランスとロシアが直ぐに露仏同盟を結び(1890年)、更にイギリスとの対立まで発展していき、そしてドイツは結果的に二つの世界大戦へと突き進んでいくのである。
4.ビスマルク外交の終焉とヴィルヘルム2世による帝国主義政策
ページ目次 [ 開く ]
ビスマルクの巧みな外交により、このようなドイツの安全を他のヨーロッパ列強の関係を利用しながら維持するという姿勢は、1888年に新たに皇帝となったヴィルヘルム2世には消極的ととらえられ、1890年にビスマルクは罷免される。
このヴィルヘルム2世以降、外交的な駆け引きで列強がバランスをとる時代は終わり、列強が軍備増強を競い、力で決着をつける帝国主義時代に入ることとなった。
ヴィルヘルム2世は、とにかく野心的・好戦的で、列強の帝国主義にドイツとして積極的に参加した。29歳にして即位すると、そりが合わなかったビスマルクを罷免し、自らの親政を開始する。アジアに対する野心も積極的にもち、China(中国)の分割にも参加した。また、ロシア・フランス・ドイツによる日本への「三国干渉」(1895年)は、ロシアの矛先を、バルカン半島から極東に向けさせるために、ヴィルヘルム2世のドイツが主導したという見方が正しいようである。また、アジア人に対する差別を進めるための「黄禍論」を積極的に用いたのも、このヴィルヘルム2世である。その後の白人社会のアジア人差別の世論形成に大きく関与している確信犯である。
更にヴィルヘルム2世のドイツは、イギリスに対抗すべく海軍を増強し、ヨーロッパの火薬庫であるバルカン方面にも進出、さらに「3B政策」と言われるベルリン(ドイツ)・ビザンティウム(トルコ)・バグダート(中東)を結ぶ鉄道を計画した。イギリスの3C政策とも激しくぶつかった。イギリスはこの頃には「光栄ある孤立」政策は断念しており、日英同盟に続き「3国協商」と言われる体制を構築。完全に、ヨーロッパに大国同士の対立構造が生まれていた。ヴィルヘルム2世が、第一次世界大戦の原因を作ったといわれるゆえんである。
5.19世紀末の日本の状況と清との関係
ページ目次 [ 開く ]
この時点で、19世紀末(1900年頃)の日本を取り巻く世界情勢をまとめてみた。下記を見てほしい。
日本では、明治となり日清戦争は終えた状態での地図である。ヨーロッパではまさに大国同士の綱引きの中で、種々の同盟や非公式な協力が張り巡らされている状況であった。その中にあって、オスマントルコの衰退もあり、火薬庫と言われるバルカン半島での民族問題が顕在化しつつあった。
一方隣の清の状況も合わせてみると、いかにイギリス・ロシアの勢力が寄ってきているかわかる。特にロシアは、シベリア鉄道もほぼ完成させている。ヨーロッパでの南下が難しければ、この鉄道を用いることで東アジアでの戦略が全く変わってきていたのである。清は列強の完全な支配を受けつつあった。それを見ていた明治政府の主眼は、間違いなくロシアの脅威であった。
日本で初の国会として、第一回帝国議会が開かれたのが1889年である。長州藩の山縣有朋が首相であった。そのわずか3年後の1894年に日清戦争があり、日本は勝利した後に遼東半島を得る。
しかし、日本は本来、清と戦争する余裕など全くなく、とにかくロシアの脅威に備えるべく、必死だった。日清戦争そのものは早く終わり勝利したことはよかったのだが、当時の明治政府の状況と、清の振る舞いについては、その後の展開のためにも、知っておく必要がある。
「日清戦争」を見る上で「長崎事件」の存在が象徴的であり、これをなしに語れない。清はこれだけの列強の支配を受けながら、矛先はなぜか日本であり、日本より優位に立つことを常に意識していた。その中で、軍艦を突然長崎につけて起こした暴動が「長崎事件」(1886年)である。
長崎事件(1886年)
1886年(明治19年)8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に入港した。8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。長崎県警察部の警察官が鎮圧に向かった。そして警察官と清国水兵が双方抜刀して市街戦に発展、これを契機に不穏な空気が漲るようになった。
その次の日も、清側が約束を破った結果から暴動に発展。それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷)という大事件となった。
長崎事件に代表されるように、清との協力どころか清を抑えない限りロシアとの戦争に入る事すらできない状況であり、世論も清に対する反感が高まっていく。この前提なくして、「日清戦争」の原因はつかめない。清がどのようにふるまっていたのか象徴する事件と言えるが、まったく日本の歴史の教科書からは出てこない・・・。
そんな中で、1889年の初めての第一回帝国議会は大荒れだった。この時「国境としての主権線」とともに「朝鮮を含む利益線」の防衛のための陸海軍増強を訴える山県首相に対して、民党(自由民権運動派)は「民力休養・経費節減」を唱えて、軍事費重視の予算案通過に反対。記念すべきアジア初の議会をいきなり解散させたくなかった政府は、植木枝盛ら自由党土佐派40人を買収して、予算を通過させた。これに怒った中江兆民が衆議院議員を辞めたことは有名である。
この世界情勢でも軍事費を増やそうとしない野党の存在とは、いったい何なのか。この頃から変わってないのかと、悲しくなる。その4年後に日清戦争が起こるのだが、この当時日本の海軍の整備はまだ進んでいない。清に負ける可能性は十分にあったのである。
その後、ロシアとの戦争を有利にすべく手にした「遼東半島」を失うのは、1903年の「三国干渉」である。ロシア・フランス・ドイツの3国が、「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。」と言って、遼東半島の返還を求めた。当然、明治政府がそれに対抗できるわけがなく清への返還となる。といっても、その後ロシアがすべて領有するのだが。
一般にはロシアが主導したといわれるが、ロシアの矛先を極東に向けさせたいのとアジア支配で日本をたたいておきたい、例の「黄禍論」でアジア人差別を助長したドイツのヴィルヘルム2世がかなり積極的に進めたともいわれる。
6.奇跡の日英同盟の舞台裏
ページ目次 [ 開く ]
明治維新の始まりから、日露戦争前の1900年頃までの中、日本は必死だった。
徳川幕府から明治政府には変わったが、全く財政に余裕もなく、ひたひたどころか一気に来るロシア、アジアに対する警戒を強めるドイツ、独立戦争を終えいよいよ大国となったアメリカ、そうした相手と一気に肩を並べるまで進めるべく、とにかく必死だった。また、自国が浸食されているのに日本にちょっかいをかける清及び朝鮮も大きな課題であった。
そんな中、世界中を驚愕させた「日英同盟」が1902年に結ばれる。当時の英国は「栄光ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいない中、有色人種の日本と同盟を結ぶなど、考えられない事であった。当然、それはロシアに対する戦略的なものであるが、それだけではない。ひたむきに近代化をすすめた日本を大国の一つとして認めなければ、同盟は成立しない。
また、日本は信頼に足る、と世界に知らしめたことがあったことを触れておきたい。
1900年に起こった義和団事件で、義和団や清が、占領する各国公使館を襲撃した。その時に、治安の指示を与えられ、わずか数十人でその任にあたった、柴五郎中佐である。
まずは、イギリス人がその時のことを記したものをみてほしい。
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
篭城当時を取材したピータ・フレミング
「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的になった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである」
ロンドンタイムス社説
「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」
義和団の乱において総指揮を取ったイギリス公使クロード・マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようになり、1901年の夏の賜暇休暇中に英国首相ソールズベリー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉全てに立ち会い日英同盟締結の強力な推進者となった。
柴五郎中佐は、「賊軍」会津の出身でありながら、陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。戊辰戦争(1868年)によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。幼い柴中佐は、敵の目を逃れて自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた、という壮絶な過去を持つ。それでも明治政府に仕え、国のために尽力し、第二次世界大戦後まで生きた、信念の人である。
こうして、日本は必死で近代化を進めながら、「大国」の一つとして数えられるまでになっていく。しかし世界がそのように認識しつつあったとしても、日本自身は、ロシアの脅威によって、国の存亡がかけられている状態である。特に、日本の中枢には「ロシアの脅威をどうするか」、以外に考えられることはなかっただろう。国の存亡をかけた状態であった。
コメント
-
2019年 7月 30日トラックバック:金融分野には「国境廃止」を理想としている人々がいる
ですよね。古川くんが1/8東京の独立講演会の抽選に当たり、ナマ青山さんを見てくるそうです。土産話聞きましょう!
それはうらやましいですね。是非話を聞きたいです。
古川さんが応募していたこともびっくりでした。古川さんも青山さんファンになってますな。
いずれも国士ですね。
そして現在の国士「青山繁晴」さんが、憲法改正の新提案を発表されましたね。『本九条は自衛❝権❞の発動を妨げない』。短いながら熟慮された素晴らしい文。是非とも採用されてほしい!
青山繁晴さんの発言は震えましたね。自衛隊が軍隊にならない9条改正ならやらない方がいい、と思っていたところに、青山さんがいてくれて、ほんと心強いです。
ただ、本気で青山さんの身を案じます・・・。すさまじいキーパーソンになっていますね。
必死で頑張っていた日本。
教科書の在り方を今一度見直して、日本人が誇りを持って先人の思いを素直に受け止める日が来ることを願う。
自国を愛することに、右も左もなく、小坂達也さんのおっしゃっる通り、右翼でもなく左翼でもなく皆んな仲良く!!
ビスマルクさんのいろんな政策を見てたら、ふと戦国時代の今川義元がよぎりましたわ。
教科書だけじゃなくても調べられるから、いろいろ知ることは大切だね。
ビスマルクと今川義元とは、面白い見方するねぇ。ビスマルクは戦争しないように努力したんだけど、その後のヴィルヘルム2世がひどい。
そのへんはまたの記事をお楽しみに。
柴中佐に代表される、日本人(将兵)の勇敢さと礼儀正しさ、そして占領後も緩まない規律。それを目の当たりにしたイギリスが「光栄ある孤立」を転換して国家間の同盟にまで発展していく…、日本人の誇りを改めて感じる史実です。柴五郎は、秋山好古の同期生で、同じく陸軍大将にまでなっているんですねー。
柴中佐は、中国語・英語・フランス語を話せる語学の達人でもあったそうです。
そういった勉強努力の面も含め、先人達に見習うところは多いな、と思う今日この頃です。
秋山好古と同期生とは知りませんでした。戊辰戦争で家族全員亡くなっている柴中佐と秋山好古とどんな会話があったか興味ありますね。
そんな余裕もなく、勉強していたんでしょうね。