- 2022-9-26
- 特集_維新回天と徳川御三家, お勧め特集②
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維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~
明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見る第三弾としてまとめた。最終回の今回は、幕末の時に御三家の中で唯一、徳川幕府と運命を共にし、徳川幕府側についた紀州藩を見ていきたい。紀州藩はなぜ他の御三家と違う道を行ったのか、本当に幕府側であったのか、見ていきたい。是非、お付き合いを。
(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~
ページ目次
1.徳川御三家で唯一徳川幕府を守り続けた紀州徳川家と幕末の「将軍継嗣問題」
明治維新というと、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し討幕を果たした、と思われがちである。
しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新が成功した非常に重要な原因なのにあまり注目されない。
その中でも特筆すべきは徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家」の動きだった。すなわち、紀州徳川家を除いて徳川幕府側ではなく新政府側につくことになったのである。
徳川御三家で唯一徳川方についた紀州徳川家は、幕末の将軍家とあまりに深いつながりがあったことが、幕末の紀州徳川家の行動の大きな要因となる。
そして、徳川本家とのつながりは、第8代将軍の吉宗公という紀州からの将軍を通じて幕末まで続くが、そのきっかけは、紀州藩の最初の「家祖」の徳川頼宣公からだった。
そしてそれは、幕末の「将軍継嗣問題」という維新回天そのものとも言える問題を生みだし、紀州徳川家は徳川本家と運命を共にしていくのである。
2.徳川御三家とは
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「徳川御三家」を再度見直しておきたい。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
・尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の三つの家を言う。
・将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
御三家は、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家」という。
この御三家は他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家は、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した。
しかし、これが幕末の維新回転期では、その対応はそれぞれで違っていった。
3.一体だった紀州徳川家と徳川本家
(1) 家康の寵愛を受けた初代紀州藩主、徳川頼宣
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徳川御三家として紀州徳川家の始まりの藩主である「家祖」となったのは、徳川頼宣である。この徳川頼宣は、まさに武人の人で豪胆かつ英明な君主だったと言われる。
後に触れるが、この徳川頼宣はあの8代将軍吉宗の祖父にあたり、吉宗はこの祖父である徳川頼宣を非常に慕っていたと言われる。
頼宣は慶長7年(1602年)に生まれている。徳川家康の10男として、他の兄弟と共に厳しく帝王学を学んだ。頭も良く豪胆な頼宣を家康は非常にかわいがり死ぬまで手元に置いていたという。
関ヶ原の戦いが1600年だったことから、もはや戦乱の世は徳川により収まりつつある中で生まれた。そこで迎えた大坂夏の陣(慶長20年:1615年)で頼宣のエピソードが、彼の人間性を語っていて面白い。
頼宣は悔しくて涙を流して訴えたという。そのあまりの剣幕に重臣が
「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありましょう」
となだめると
「私の14歳が2回あるわけではなかろう!」
と言ったという。これを聞いた家康は、たいそう喜んで
「頼宣の発言こそ手柄だ」と褒め称えた。
このような豪快な性格を持つ頼宣は、元和5年(1619年)に2代目将軍徳川秀忠により紀州藩(紀伊藩)を任される。
藩を任され政治を担うと、豪快な性格に関わらず緻密に政治に向かい、経済はもちろん産業・文化の発展に大きく寄与する政治を次々と実行していった。
いくつもの善政があるが、そのうちの一つに今では当たり前になっている和歌山のみかんを挙げたい。
如何に、KIRINホールディングスのHPで特集されていた徳川頼宣とみかんの記事を引用したい。
雑税を省き、殖産に励んだ頼宣であるが、このとき漆器(黒江塗)や保田紙などと並んで、特に力を入れたのが、みかん栽培の奨励であった。頼宣は、紀州産の小みかんを大いに気に入り、他品種とは異なる味の良さに目をつけると、領土内でのみかんの生産・開発に注力する。みかんに関しては税金を免除するなど、積極的に支援した。頼宣のこうした尽力によって、小みかんは紀州みかんとも呼ばれるようになるほど、紀州では小みかんが大規模な産業として定着していった。
また、頼宣は当時発展を続けていた江戸での需要を見越し、紀州みかんの江戸への運搬・販売に取り組んだ。それは1634(寛永11)年頃のことで、有田郡滝川原村(現在の有田市宮原町)の滝川原藤兵衛が400籠ほどの紀州みかんを江戸に送っている。
江戸には既に他の地域からもみかんが出荷されていたが、その中でも紀州みかんは高い評価を得ることとなった。こうしてみかんは江戸を中心に普及していき、その名産地として紀州のみかん産業が形づくられていった。
徳川頼宣という人は、その肖像画からも想像される豪胆気質と、それには似つかわしくない緻密な経済・文化・政治の面で卓越した人だったと言える。興味の尽きない人物である。
みかんだけでなく、今の和歌山県・三重県という広大な土地を任され、難しいと言われた地を見事に豊かにし今日の状態を作ったのは、間違いなく徳川頼宣の功績が非常に大きい。
以下に、和歌山県が作っているHPに徳川頼宣公が行ったいくつかについてのの紹介があったため、引用したい。
後に8代将軍となった徳川吉宗の影に隠れた印象ですが、その吉宗が尊敬し憧れたのが、紀州徳川家の家祖であり祖父の頼宣です。
政治家として非常に優秀だった頼宣は、主産業である米作だけでなく、漆器の黒江塗やミカンの栽培など諸産業を奨励して紀州藩を大藩へと育て上げ、父・家康を祀った紀州東照宮、母・お万の方を弔うための海禅院の多宝塔など、数々の建造物も手掛けました。紀州東照宮は家康の孫・家光が建造した日光東照宮と並ぶ由緒正しい神社で、左甚五郎作の彫刻や狩野探幽の襖絵が社殿を飾り、徳川家ゆかりの太刀や具足など重要文化財指定の美術工芸品も収められています。
戦国時代に廃れた文化財の修復にも尽力し、紀三井寺護国院の境内にある三井水は頼宣の手によって古来の姿を取り戻したと伝えられています。また、和歌の浦・雑賀崎の線の北側で大規模な開発を行っていたのに対し、線の南側には手を付けず名勝として残すなど、400年前の日本で景観の重要性と都市計画についても思慮をめぐらせた頼宣は、まさに希有な存在であったといえるでしょう。
和歌山県HP「わかやま歴史物語100」より
徳川頼宣公は紀州の枠にとどまらない発想の持ち主であり、今の和歌山・三重の基礎を作り上げた人だった。
(2) 徳川頼宣の孫、徳川吉宗が第8代将軍として本家へ
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上記の徳川頼宣を祖父に持ち、幼少の頃大変慕って育ったのが、後の8代将軍の吉宗である。
吉宗が8代将軍になったのは、あまりにも「偶然」続いた周りの死、がある。
もともと吉宗は紀州藩でも藩主になる人ではなかった。四男として生まれ、兄も優秀であったため本来は藩主にさえならない位置にいた。だからというわけではないが、自由奔放に育ち幼少の頃は手の付けられないほどの暴れん坊だったという。まさに「暴れん坊将軍」という名は、嘘ではないようである。
しかし、宝永2年(1705年)に立て続けに周りで「死」があった。
3代藩主である長男の綱教(つなのり)が39歳で突然亡くなった。綱教は将軍綱吉の後継候補であった上に、その時の健康上の問題はなく突然死であった。それが7月であり、その後すぐに、父の光貞が9月に亡くなる。更に綱教の後を継いだ4代藩主の頼職(よりもと)も藩主に就任してわずか3ヶ月後の10月に亡くなった。
頼職は妻も子もいなかったため、結果的に4男の吉宗が紀州藩主となるのである。吉宗は江戸幕府の将軍になる以前に、紀州藩主となったのも奇跡的とも言える状況であった。
そして徳川の将軍家が短命だった6代家宣、そして病弱にしてまだ5歳だったという7代家継になったときに結果的に8代将軍が吉宗になったのも「奇跡的」だった。最も有力だった御三家筆頭の尾張藩主の徳川吉通(よしみち)がわずか25歳で謎の突然死を遂げたのである。
これが決定的になり、紀州の藩主だった徳川吉宗が江戸に迎え入れられ、遂に徳川幕府において初めて徳川本家の血を引かない、御三家からの将軍の誕生だった。
(3) 吉宗以降続く「紀州徳川の源流」の将軍
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このような「奇跡的」とも「陰謀」とも言える形で将軍となった徳川吉宗ではあるが、その後の政治は「享保の改革」で知られるように、次々と徳川幕府を立て直す政策を行っている。
ここで取り上げたいのは、「御三卿制度」の成立である。
徳川吉宗は御三家では、代を経るにつれ徳川の血が薄くなって言うということと、やはり争いが大きくなるため、自分達の子供に「御三卿」として家を継がせるとした。この御三卿が、御三家に変わる「将軍家のスペア」として機能したことにより結果的に御三家が将軍家が遠ざかり、それ以後、すべての将軍は御三卿から排出される形になった。
つまり、吉宗以降の将軍は14代の家茂まですべて「紀州徳川家を源流に持つ将軍」と言えるのである。
正確には最後の将軍の徳川慶喜は水戸藩の出身だが、御三卿の一つである一橋家に養子に行き、その上で将軍となっている。
4.幕末に大問題となり明治維新を早めた、「将軍継嗣問題」と安政の大獄
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幕末の大テーマの一つが「将軍継嗣問題」であった。これがなければ、幕府の存続も違った形になった可能性がある。具体的には第13代将軍の徳川家定の次の将軍をだれにするのか、という政治課題であり幕府存続のために非常に重要な課題であった。
第11代将軍の家斉・第12代将軍の家慶の長期政権が続いたときこそが、幕府が傾き始めたときである。それでも将軍は長命であったため、将軍継嗣という意味では問題がないと思われた。しかし、12代家慶の子(後の家定)は病弱で覇気も無く将軍になることを早々に不安視されていた。それは、父の家慶ですらそのように考えていた。
そんな中でのペリーの来航である。ペリーの来航があったのは1853年の6月3日だが、なんと徳川家慶はその月の22日に心不全で倒れ、その次の月に亡くなってしまう。黒船来航という一大事に心労が重なった、とは言えるが、一国を率いるリーダーにあるまじき形での死に方だったとも言える。
となると次の将軍は、結局先ほどの家慶の子である徳川家定が第13代将軍としてつくが、先に示したとおり親の家慶ですら不安視する家定は病弱な上に政治に興味が無く、酒と女に走るような状態だった。
脳性麻痺のうわさがあり、松平春嶽から「凡庸の中でも最も下等」とまでこき下ろされている。父の家慶がペリー来航の直後に急死したことから、タイミングも最悪であったと言える。国難にあたり、家定ではとても統治しきれなかったし、家定が病弱であったため、すぐに家定の次の将軍継嗣の問題が起こった。
将軍継嗣の候補は、2人。一人は11代家斉の子で紀州に養子に行った斉順の息子慶福(後の家茂)、もう一人は英名の名が通っていた水戸の慶喜である。なお慶喜はその頃には一橋家に養子に入っていたため、一橋慶喜である。
この結果は、大老井伊直弼により強権が発動されて、紀州の徳川家茂が第14代将軍として就くことになる。これは紀州藩と徳川本家が一番近かったことを示す。徳川家茂は紀州徳川家とは言え、その祖父は徳川家斉の子供で紀州藩に養子にいっていた。すなわち、徳川家茂は紀州藩とは言っても、もともとが徳川家斉の血を強く引いていた。それが井伊直弼の主張であり、徳川家茂擁立の根拠であった。
ただ、幕末のこの混乱期にあってあえて火中の栗を拾うような真似を、家茂が積極的に望んでいたかどうかは、疑問が残る。しかし、紀州と将軍家との関係の伝統、そして自分に課せられた役割として、将軍としてあえてこの難しい時代を乗り切ろうとした。年齢は就任時はまだ13歳。結果的にはわずか20歳で亡くなり、将軍は争った徳川慶喜となる。
紀州出身の家茂ではあったが、徳川将軍として日本を率いてこの国難にあたろうと腐心した。家臣からの信頼も厚く、天皇との関係も良好だったと言われる。13歳という若さで、この国難と国内の混乱のために身を捧げ、7年という長い統治を行い力尽きた徳川家茂公に感謝と尊敬の念を持たずにはいられない。
5.明治維新で苦渋の決断を迫られた、紀州の最後の藩主 徳川茂承と幕末
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紀州藩の幕末を見てみたい。
紀州藩は第13代の藩主の家茂が将軍家に入ったため、紀州藩主が空席となった。それを引き継いだのは、藩の始まりの「家祖」である徳川頼宣公の家系の、徳川茂承だった。紀州藩の第14代としてそして紀州藩最後の藩主となる。
徳川茂承は、幕末期にあって常に幕府と共に新政府軍と戦ってきた。紀州徳川家が幕府に逆らうということはあり得ない状況だった。
しかし一方で、幕府そのものは紀州藩をそれほどに重要視をせず、ただの藩の一つとして扱った。紀州藩は徳川の代表としての意識と幕府との間で悩みながら、幕府についていかざるを得なかった。
その現れの一つが、14代将軍 徳川家茂が20歳で亡くなったときの茂承の動きである。次の将軍に、紀州藩主の徳川茂承を推す声もあったという。しかし、茂承はそれを固辞し、むしろ一橋慶喜を推薦した。
紀州藩は明治政府の成立後は、新政府に反対する者としてとにかくにらまれ、それに対して釈明を繰り返し、なんとか紀州藩の存続を図った。名門中の名門だった紀州藩がそのような扱いになってしまったのは、歴史の転換点には仕方の無いことかも知れなかったが、切ない。
とは言え、新政府軍も本気で紀州藩を潰すようなことはなく、内乱をしている場合ではないため、明治2年(1869年)の廃藩置県により徳川茂承は知事となった。
その後も精力的に動き、明治政府が打ち出した徴兵令や秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、明治11年(1878年)3月に自ら10万円を拠出し、旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立した。買収した田畑からの収入を用いて徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。
紀州藩主として、そして旧徳川御三家としてのプライドを持った行動を行った人だった。
6.別れた徳川御三家の対応に見る維新回天
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徳川御三家と維新回天(明治維新)という視点で、シリーズで見てきた。
徳川時代は藩が中心で有り、その中で圧倒的力を持つ徳川家の分身とも言える存在が「徳川御三家」のはずだった。
しかし、ここまで見てきたとおり、その3つの藩(家)はそれぞれの判断でそれぞれの正義を持って260年の江戸の時代を過ごし、そして、その蓄積として幕末の対応が分かれた。
ただしそれほど単純ではなく、反幕府側だった尾張藩・水戸藩でそれぞれ違った考えを持っていたし、幕府側と言える紀州藩もその後の明治政府には協力している。
しかも、御三家のどの家も、その家の始まりである「家祖」の想いをしっかりと引き継いでいたことが分かる。伝統を重視しつつ、自分達なりの正義に基づいて徳川御三家のどの藩も、すべては日本のために動き行動した、ということが言えると思う。
このように、徳川御三家は「日本」という視点を失わずに、徳川家という巨大な影響力を考えながら行動したのが維新回天と言えるのではないだろうか。
御三家の歴史と、維新回天における御三家を見て、改めて先人達の努力の上に今の日本があり、先人達の強い思いを感じた。
先人達が守ろうとした日本とはなんだったか、現代に生きる我々も日本を見つめ直すきっかけにし、次の未来に引き継いでいきたいと強く思う。
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