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維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~

水戸光圀

維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~

明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見る第二弾としてまとめた。今回は、幕末の幕府の危機にあって御三家の中でも特に幕府を倒す中心に動いた水戸藩を取り上げる。倒幕のスローガン「尊皇攘夷」を生み出した水戸藩は、なぜ徳川御三家なのに倒幕を率先したのか見ていきたい。是非、お付き合いを。

(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

1.明治維新のスローガン「尊皇攘夷そんのうじょうい」を生み出した水戸徳川家と明治維新

明治維新というと、ヨーロッパ列強に対抗するために、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し、徳川幕府を倒し近代化を進めた改革、と思われがちである。

しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新の成功の大きな要因なのにあまり注目されない
そして、徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家ごさんけ」のうち、尾張・水戸の両家は徳川幕府側ではなく、倒幕側につくことになった

今回はその中でも、「尊皇攘夷そんのうじょうい」というスローガンを生みだし、むしろ倒幕の維新回天の中心になった水戸の歴史と幕末での動きを見ていきたい。水戸徳川家は、御三家ごさんけの枠を遙かに超えて日本全体を考え「尊皇攘夷そんのうじょうい」の砦となった。その原点はすでに水戸徳川家の始まりからあった

2.徳川御三家とは

再度「徳川御三家ごさんけ」の定義について確認したい。

徳川御三家ごさんけとは
・徳川御三家
は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の三つの家を言う。
将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
徳川本家と徳川御三家
徳川本家と徳川御三家

御三家ごさんけは、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家ごさんけ」という。

この御三家ごさんけは他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家ごさんけは、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した
このように、徳川の体制を安定させる仕組みは、世界でも類を見ないほどの長い期間の「平和の江戸の260年」を維持した原動力の一つとなったともいえる

しかし、これが幕末の維新回天期では、その対応はそれぞれで違っていった。

3.江戸の学問と水戸学

(1) 江戸時代の学問の流れと水戸学の存在

江戸時代の学問は、基本はとにかく朱子学(しゅしがく)である。朱子学とは支那(China:中国)の「南宋・明」で発達した学問である。江戸幕府開設の時から、徳川家康は朱子学を奨励し、武士に対してその徹底をはかっている。それを前提に、江戸時代の学問史を、その派閥毎にまとめた表を見てほしい。

江戸時代の思想史
江戸時代の思想史

表の一番左の「朱子学」が幕府が常に奨励をした学問である。しかし、朱子学を生んだ「明(みん)」においてその修正もなされていた。すなわち、朱子学を批判的にとらえた「陽明学」といわれる学問が発達し、それが日本に伝わって発展を遂げている。

水戸光圀
水戸光圀

一方、水戸黄門で知られる水戸光圀(みつくに:水戸藩第2代藩主、家康の孫)が、1657年頃から水戸において歴史の変遷事業に取り組んでいる。この歴史の変遷作業は結果的には実に230年かかる。途中で停滞する時期もあったが、そうした学問への追及が水戸学といわれる学派(がくは)を生み、それが明治維新において維新志士の間で非常に大きな影響を及ぼす。

また、国学といわれる学派も重要である。特にその代表である本居宣長の「古事記伝」は江戸時代のみならず、近代・現代の日本人のアイデンティティを大きく確立し、日本に与えた影響は計り知れないものである。しかもこれも、スタートは水戸光圀みつくに公であることを考えると、水戸光圀みつくに公のまいた学問の種の偉大さを感じずにはいられない。

表のようにいろいろな学派が生じたが、決して完全に線が引けるものではなく、それぞれの学派が混ざり合いながら、議論を経て研究されていった。

(2) 朱子学の隆盛

朱子学とは、China(中国)大陸の南宋(なんそう)にて生まれた学問体系をいう。一般に「儒教」というと、この朱子学の考え方が大きくあてはまる。藤原惺窩ふじわら せいかが学び広めたもので、藤原惺窩ふじわら せいかは「近代儒学の祖」と言われた。藤原惺窩ふじわら せいかは豊臣秀吉・徳川家康に儒学を教えていて、家康からは士官も求められた。しかし、自身が仕官することは断り、代わりに門弟の林羅山(はやし らざん)を派遣したという。

藤原 惺窩
藤原 惺窩
林羅山
林羅山

林羅山はやし らざんは、徳川幕府において非常に大きな影響力を持った。実に、家康・秀忠・家光・家綱の4代にわたり徳川幕府に仕え、徳川幕府の基礎作りに大いに貢献した。

このように朱子学は江戸幕府の理論的根拠として大いに貢献したが、私の朱子学者に対する個人的な印象はあまりよくない。添付の画像を見てもわかるように、藤原惺窩ふじわら せいかにしても林羅山はやし らざんにしても、これが日本人か?、といいたくなるような格好しか残っていない。いつも「中華」の服である実際彼らは儒教を信頼するあまりChina(中国)・朝鮮の大陸側が優れていて、日本は後進国という考えに染まっていたいつの世でも、こういう人達はいたのかと、ため息が出る。

(3) 国学と本居宣長

国学(こくがく)とは、China(中国)が日本より上であるといった風潮を批判し、日本独自の歴史こそ尊重されるべきとする学問である。具体的には、古事記・日本書紀・万葉集などを研究の対象とし、日本独自の文化や考え方がまとめらていく。

江戸時代の思想史(水戸学・国学)
江戸時代の思想史(水戸学・国学)

国学で特に功績があった4人を、「国学の四大人(しうし)」と呼ぶ。荷田春満(かだのあずまろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)の4人が挙げられている。その中で、「古事記伝」を書いた本居宣長を取り上げたい。

本居宣長と古事記伝
本居宣長(1730~1801年)は伊勢国松坂(現在の三重県松坂市)の木綿商・小津家の次男として生まれた。医師を目指していた宣長は、医書を読むために漢学を学び、荻生徂徠や契沖などの学問に触れたことから、古典研究に強い関心を抱くようになった。医業のかたわらで、『源氏物語』や『古事記』を研究し、松坂の地で数多くの著作を発表した。
本居宣長
本居宣長

宣長の行った研究は、『源氏物語』をはじめとする日本文学の研究日本語そのものの研究などが言われる。日本語の研究は「てにをは」の係り結びの法則を発見し、さらに古代日本語の音韻を分析した成果を出し、現代にも大きく影響を与えている。
そして本居宣長のライフワークとも言え、その後の日本に多大な影響を与えたのが、「古事記」の研究と「古事記伝」の執筆である。「古事記伝」は、読むことが困難だった古事記に注釈をつけた解説書である。これにより、古事記の世界がひも解かれ、広く日本人が理解することができるようになったのである。そしてそれが、天皇の権威付けに大いに貢献し、「尊王」思想の学問的支柱となるのである。

4.その後の日本に多大な功績をもたらした水戸光圀みつくに公と「大日本史」

水戸学といわれる学派は、水戸の2代目藩主の水戸光圀みつくにから始まっている。すなわち、水戸光圀みつくに公が日本の歴史を変遷するとして、「大日本史」の作成を命じたことからである。水戸藩において、このような歴史の変遷のための研究が進むことにより、学問の体系が形づけられていき、「水戸学」といわれる「尊王思想」が確立する。そこには国学の本居宣長の古事記伝の影響や、陽明学の影響も大きく受けているのは言うまでもない。

水戸光圀
水戸光圀公

しかし、なぜ水戸光圀みつくに公は「大日本史」などという歴史の変遷を始めたのか。また、国学のスタートは「契沖(けいちゅう)」による万葉集の研究からだが、それにも水戸光圀みつくに公は資金的なバックアップとして関与している。「国学」も「水戸学」も結果的にその後の日本になくてはならない存在となる。それをみると、水戸光圀みつくに公の先見性と決断には感嘆しかない。

なお、大日本史は水戸光圀みつくに公の存命中には完成していない。それどころか、研究に研究が重ねられ、完成したのは、なんと二百数十年後の明治時代である。

水戸藩 大日本史
水戸藩 大日本史

なお、このように水戸光圀みつくに公が日本の歴史の研究に力を入れた背景には、幕府側の深刻な「親中」ぶりがあったようである。
「大日本史」よりも先に、幕府側の林羅山を中心とした朱子学派が歴史の変遷を行い「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」を作成している。しかし、この内容で、天皇の「中国人」説が書かれ、それに激怒した水戸光圀みつくに公が自ら歴史を変遷することとなったと言われる
なお、実際には「本朝通鑑」にはそういった記述はないという説もある。しかし、林羅山やその師匠である藤原惺窩も、残っている肖像を見ても、その名前を見ても、いかに「中国」かぶれだったか、見て取れる。今の日本と同様のことが行われていたのかと思うと、少しあきれる気になる。

5.幕末の水戸藩と徳川斉昭なりあき

(1) 「尊皇攘夷そんのうじょうい」という言葉を生み出した水戸学と水戸藩の志士 ~会沢正志斎あいざわせいしさい藤田東湖ふじたとうこ

このような歴史を持つ水戸藩が、ヨーロッパ列強が迫り来る幕末でどのような存在だったかを見ていきたい。

幕末の維新志士たちのスローガンとして「尊皇攘夷そんのうじょうい」があった。「尊皇そんのう論」と「攘夷じょうい論」とを結んで作られたこの言葉及び考え方は、「尊皇攘夷そんのうじょうい思想」として日本全国に影響を与えた。その考え方を初めて明確にしたのが、水戸学の藤田幽谷ゆうこくと言われる。

尊皇そんのう」と「攘夷じょうい
尊皇そんのう
日本の天皇の権威に立脚し、天皇を中心とした国作りを重要視する
攘夷じょうい
日本の伝統を破壊する者として「夷狄」を取り除く、すなわち外国勢を打ち払うこと

この考え方は、まさに水戸学に立脚したものだった。日本本来の「朝廷」を中心とした政治に立ち返った上で、迫り来るヨーロッパ列強に対峙するという考え方は、水戸光圀公の頃からの伝統とも言える考えだった。

維新の志士達は、この言葉を前提にして結果として倒幕に走ることになる。あくまでこの言葉自体には直接的に「倒幕」の考えはないが、幕府がその機能を果たさないほどに無力な状況を見て、「尊皇攘夷そんのうじょうい」のスローガンの下、幕府を倒す原動力として機能した

会沢正志斎と藤田東湖
会沢正志斎と藤田東湖

尊皇攘夷そんのうじょうい思想を体系づけたのは「後期水戸学」と言われる。この後期水戸学を代表する人として、会沢正志斎あいざわせいしさいを挙げたい。その著書である「新論」こそが「尊皇そんのう」と「攘夷じょうい」を体系づけて説明したもの、と言われ、西鄕隆盛も吉田松陰も参考にした
会沢正志斎は先の藤田幽谷ゆうこくに弟子入りしていて、その頃に後の第9代藩主の徳川斉昭なりあきの先生となる。その後の徳川斉昭なりあきの政治にも大きく関与し、積極的に「尊皇攘夷そんのうじょうい」の考えに基づいた藩政改革を実行していった。

また、「後期水戸学」の代表人物として会沢正志斎あいざわせいしさいと並ぶのが藤田東湖ふじたとうこである。藤田幽谷ゆうこくの息子で、徳川斉昭なりあきから全幅の信頼をおかれていた。長州の吉田松陰も、藤田東湖ふじたとうこに学びに行ったという全国区での信頼を持った人だった。しかしペリー来航の直後の1855年の安政の大地震にて圧死してしまった。水戸藩の内紛が起こり藩としての力は落ちてしまうが、内紛は藤田東湖ふじたとうこの死後に起こっており、藤田東湖ふじたとうこが生きていればその後の水戸藩も変わっていたかもしれない。

(2) 迫り来る列強に危機感を感じていた有力藩の一角だった水戸藩の徳川斉昭なりあき

江戸の末期には日本を取り巻く世界は大きく変わりつつあり、幕府も少しずつではあるがそれに対応しようとする動きが始まっていた。一方、各藩は更に動きが活発であった。特に影響を与えた藩主として、薩摩の島津斉彬(しまづなりあきら)、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)、長州の毛利敬親(もうりたかちか)が上げられる。

有力諸藩
有力諸藩
徳川斉昭 公
徳川斉昭 公

その中で水戸藩は、幕府を倒すスローガンとして使われた尊皇攘夷そんのうじょういという言葉を生み出した藩である。
江戸幕府を倒した藩として長州と薩摩を挙げる人は多いが、実は水戸藩はそうした志士達の「思想的拠点」と言える程の重要な役割を果たしていた。
幕末の時には、藩の内輪での内部抗争が激しすぎて藩の力が落ち、新政府に対する影響力は小さくなってしまったが、明治維新の志士たちへの思想的影響を与えた意味では、明治維新の重要な原動力であった。

その藩主である9代藩主の徳川斉昭とくがわなりあきもまた、精力的な人だった。

長兄の死後、藩の改革派に推されて文政12年(1829年)に第9代藩主となる。人事を刷新して藤田東湖ふじたとうこ会沢正志斎あいざわせいしさいらを抜擢し、海防、民政、教育を重視した天保の改革を行った。
徳川御三家ながら改革派の藩として、幕府・老中と対立しつつも自らの主張を貫き、特に日本全体の国防を強くしようと腐心した。
また、幕府の軍制改革参与として幕政にも参加している。

しかし、こうした改革の姿勢は幕府・老中からの反発を生み、あの大老井伊直弼による安政の大獄により安政5年(1858年)に謹慎を命じられ、その2年後に亡くなってしまう。

水戸藩はこの後、藩の内紛等があり、結果的に明治維新の有力藩としては機能せず、その後の明治政府においても存在感はなかった。しかし、水戸藩の政治や考え方は、「水戸学」及びそれを実践した徳川斉昭なりあきによって、日本全国に大きく影響を与えたのである

(3) 「尊皇」に逆らうことが出来なかった最後の将軍 徳川慶喜よしのぶ

15代将軍 徳川慶喜
15代将軍 徳川慶喜

幕末において、最後の将軍となったのは第15代将軍徳川慶喜よしのぶである。そしてこの徳川慶喜よしのぶの実父は、水戸の徳川斉昭なりあきであった慶喜よしのぶは、一橋家に養子に出されていてそこから将軍になったため、一橋家のように見えるが、水戸の出身である。養子に出される8歳まで水戸にいて水戸学をしっかり学んだ人だった。

つまり、幕府のトップが「尊皇攘夷そんのうじょうい」の思想をしっかり受けていた。徳川慶喜よしのぶは新政府側の薩摩藩・長州藩とのせめぎ合いを続けるが、最期の「鳥羽伏見の戦い(明治元年:1868年)」では、早々に退却し、それにより徳川幕府は完全に倒れた。
この時、まだ徳川幕府には力があったにもかかわらず退却した理由の一つとして言われるのが、徳川慶喜よしのぶが、水戸学から学んだ「尊皇そんのう」の考えである。鳥羽伏見の戦いで「朝敵」とされてしまった時点で、徳川慶喜よしのぶは天皇に対して弓をひくことができず、戦意を喪失したと言われる。

慶喜よしのぶの行動がすべて水戸学に基づくとは言わないが、少なくとも「水戸学」の考えは慶喜よしのぶの行動・判断に影響を与えていたことは言える。維新志士だけでなく幕府のトップの教育からも、「水戸学」は明治維新に大きな影響を与えているのである。

6.維新回天の中心となった水戸徳川家を見て

明治維新を「徳川御三家ごさんけ」の視点から見てきた。今回は水戸徳川家の歴史と共に明治維新を見た。

水戸徳川家は、水戸学により、明治維新そのものを作り出した藩だったと言ってもいい。その思想は御三家や「藩」という単位ではなく、「日本」という広い視点で考えられ、日本全体を牽引した
水戸光圀公から始まる水戸学は、ある意味で今の日本を作った大きな要因と言えると思う。

水戸学として日本を研究し継承してきた水戸藩の歴史を見ると、先人達が守ろうとした日本が見えてくる。現代に生きる我々も日本を見つめ直すきっかけにしたいと思う。

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