- 2022-10-6
- ⑩ 昭和期-戦後
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「マンハッタン計画」とは何か?広島・長崎原爆を生んだアメリカの超極秘プロジェクトの真実
私が「悪魔の計画」とレッテルを貼っている「マンハッタン計画」を取り上げる。
困難と言われた原子力爆弾をわずか数年で実現し結果的に日本が実験台に選ばれたこの計画。あまりに知られていないこの計画の背景と、アメリカ側の動きを見れば原爆投下が違った形で見えてくる。
そして、現在の日本へと繋がっていることが分かる。是非、お付き合いを。
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1.マンハッタン計画とは
マンハッタン計画(Manhattan Project)、と言っても聞きなじみがないかも知れない。しかし、被害者である我々日本人は絶対に知っておかなければいけない内容と思う。
マンハッタン計画は、広島・長崎に落とした原爆を生んだアメリカの国家プロジェクトであり、その後の世界を変えたプロジェクトと言ってもいいものである。
マンハッタン計画は、アメリカの超極秘プロジェクトとして始められ、原子力の力を「兵器」として使うという目的を持った国家プロジェクトである。始まりを指示したルーズベルトは、後に急死するまで副大統領にも秘密にしてきたほどのものである。
そしてその帰結は、ご存知の通り、日本への原爆投下だった。しかしそれは、マンハッタン計画に集められた科学者達が聞いた当初の目的と違う物だった。
昭和20年(1945年)に広島・長崎に原爆が落とされ、無実の人が一瞬のうちにして灰になり、その後の放射能に大勢の人が悩まされ、そして、国としてまるで「日本が悪い」とまでなってしまっている「原爆投下」の事実を引き起こしたのもマンハッタン計画である。その後の「核」を巡る世界の争いと東西冷戦もマンハッタン計画が引き起こしたと言っていい。
それほどのことを引き起こしたと言っていい「マンハッタン計画」について、あまりに知られていないし隠されている。
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみという徹底ぶりだった。
その後の日本や世界に与えている影響を考えれば、私はあえてマンハッタン計画を「悪魔の計画」とレッテルを貼りたい。原子力開発は確かに飛躍的に進んだが、歴史的に本当に必要だったのかと疑問に思う。
その「悪魔の計画」がどのように行われ、そして背後に何があり、なぜ日本がその被害を受けることになったか、見ていきたい。
2. マンハッタン計画の歴史と内容
(1) 設立のきっかけは、アインシュタインの書簡とフランクリン・ルーズベルト大統領
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マンハッタン計画のスタートは、1939年にアインシュタインが署名した「原子爆弾開発の必要性」の書簡が、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトに渡されたことと言われる。
しかし、実際はハンガリー系ユダヤ人のレオ・シラードが、当時権威中の権威であったアインシュタインに署名してもらうことで、原爆製造を政府に訴えたものである。
それを受け取った当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは同年に早速、「原子力を兵器に使用する」ことを研究するという目的でウラン諮問委員会の設立を承認し、そこに予算が付くことになった。これが「マンハッタン計画」の始まりと言われる。
この書簡が作られた頃は、ドイツのナチス政権の1939年のポーランド侵攻の前の時点であった。当時、確かにアインシュタインもドイツのナチス・ヒットラーに危険性を非常に感じていたという。結果、そのような書簡にサインすることになったのだが、その後激しく後悔していることを発言している。
それはアインシュタインが、ドイツがとても原爆を作り得る状況でないことが分かった時で、この書簡にサインしたことを「大きな誤りだった」と言っている。なぜなら、実際に原子力爆弾は作られ日本に投下されたことは、アインシュタインにとっても大きなショックだったようである。
なお、当然だが、この頃に日本はアメリカと戦争していたわけではない。真珠湾攻撃は1941年の12月であり、表面的には日本とアメリカが戦争すると言うことは全く言われていない時期だった。
そんな中で、極秘プロジェクトとしてフランクリン・ルーズベルトの指示の下、「悪魔の計画」マンハッタン計画が始まるのである。
なお、フランクリン・ルーズベルトは原爆を落とす前に急死している。そして次の大統領は、当時副大統領だったトルーマンである。しかし、ルーズベルトは副大統領のトルーマンにさえこのマンハッタン計画を知らせていなかった。後に、ルーズベルトの急死を受けて大統領になったトルーマンはマンハッタン計画の全容を聞いて、驚愕したという。
(2) 集結する天才科学者達とオッペンハイマー
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こうして始まった「兵器製造前提の原子力の研究」は1942年に本格的な「兵器製造」を視野に入れた段階に入る。1942年10月、ルーズベルトは核兵器開発プロジェクトを承認した。
ドイツ・ナチス、ヒットラーの脅威という背景を後押しにして、政府も全面的に核兵器開発に乗り出す。そこには予算が付けられ、優秀な科学者達がどんどん集結した。特にドイツ系のユダヤ人が多かったと言われる。そこにはやはり「ヒットラーの脅威」という大きな「要因」があったが、ルーズベルトや核爆弾を完成させたかった勢力は、そこを利用したとも言える。
科学者のトップに選ばれたのが、ドイツ系ユダヤ人の子であるロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーは計画当初から最後まで深く入り、日本に原爆を落とすことも決めた人である。「原爆の父」と呼ばれるほどの、原爆製造に関わる最重要人物である。
そのオッペンハイマーの提案により選ばれたのが、ニューメキシコ州のロスアラモスでだった。砂漠ののどかな地に、突如巨大研究所が建てられることになる。そして、1943年に研究所が建てられた。それが後のロスアラモス国立研究所である。
このロスアラモス研究所で、広島・長崎に投下された原爆が作られた。まさに「原爆誕生の地」である。
(3) 着々と進む研究により、原子爆弾の完成
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マンハッタン計画は、ロスアラモスだけで行われていたわけではない。全米各地で、研究及び開発のための原子炉やプラントの製造が進められ、ウラン・プルトニウムを利用して核分裂させ「大量殺戮兵器」に変えられるか、研究されていった。
1944年頃には、研究は直接的に「兵器として核爆弾を使うか」として結論が出る頃になってくる。その頃には、具体的な爆弾そのものの形状や核燃料の運び方・爆破の仕方が研究され、結論づけられていった。
ついに、「原子爆弾」がほぼ完成の域に達していったのである。
(4) ドイツという目的がなくなっても止まらなかった原爆投下。そして日本へ。
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運命の1945年(昭和20年)は、マンハッタン計画が一気に動く。
1945年の5月7日に、ナチスドイツは降伏し、ヨーロッパでの第二次世界大戦は終了する。科学者達は、その科学の力に魅せられて超新型爆弾を作っていったが、しかし、その一番の目標であったはずのドイツが降伏したとなれば、大きな目的を失ったことになる。
しかし、1945年4月に急死したフランクリン・ルーズベルト大統領に代わって大統領についたトルーマン大統領は、計画を続行することを決断していた。トルーマン大統領は元副大統領で、ルーズベルト大統領の急死によって突如大統領になった人である。
このトルーマンに説明したのが、ヘンリー・スティムソン国務長官である。彼は、日本に対して常に厳しい姿勢の人で日系人の強制収容を進めた人でもある。ロスチャイルド系の顧問弁護士を務めていた過去がある。
このような状況下でトルーマン大統領は、もはや巨額の「投資」をした原爆計画を目に見える形で実現しないといけない、と決断していた。それは日本そのものに対する対応というより、この「新兵器」を他の国が作り出す前に見せつける必要がある、という理由もある。また、既に走り始めたこの巨大国家プロジェクトを止める力はトルーマン大統領にはなかった、という事も言える。
しかし、科学者達の中で反対も多かった。実際にその要望書(フランクレポート)では、できれば使用をしないように促し、最低でも原爆投下前に無実の人達に知らしめるべきとした。しかし、それらの声は政治の前では無力だった。
その中で、1945年5月にロスアラモスで行われた原爆目標策定委員会の2回目の会議で原爆を投下する目標となる日本の都市がリストアップされ、着々と準備は進めらる。
驚くのは、世界初の核実験が行われたのが、その後の7月16日ということである(トリニティ実験)。核の時代の幕開けと言われる世界初の実験は、これほどに日本への原爆投下の直前だった。
そしてその年の8月6日広島と、8月9日長崎の悲劇と呼ぶには余りすぎる、大人間実験が行われた。
3.生みの親 オッペンハイマーの苦悩
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「悪魔の計画」であるマンハッタン計画を取り仕切ったのは、ロバート・オッペンハイマーで、彼は「原爆の父」とも呼ばれる。これほどの計画を、秘密主義のままでしかもすさまじいスピードで、「原子力」を「爆弾」に変えたことは、オッペンハイマーのリーダーシップが果たした役割は大きいと言われる。
しかし一方で、ドイツ系ユダヤ人の血を引く彼は、ドイツでなく日本に原爆を投下することになった事への「恐れ」を抱いたのか、戦後に原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」と述べている。また、核兵器そのものにも反対するようになっていった。
しかし、それでも日本に原爆を落とすこと、広島・長崎を選んだことは、オッペンハイマーも決断者の一人であった。決して「政治に強制された」、と単純に言える位置になく、まさにトップ層の一人であったことは間違いの無いことである。「原爆の父」と言われるが、それはすなわち「広島・長崎の原爆投下の首謀者の一人」と言い切りたい。
戦後は一転して「共産党」との関わりを疑われ「赤狩り」により1954年に公職から追放されている。その後はFBIに監視し続けら抑制された生涯を過ごした。
オッペンハイマーは後年、ヒンドゥー教の神の「クリシュナ」が言ったという一説「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用して、クリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。
それを聞いてどう感じるだろうか?
個人としての後悔・つらさは理解できなくもないが、あまりに彼の実績の内容ともたらした物(日本の都市への原爆投下)が大きすぎて、独りよがりの被害者ぶった後悔にしか見えないのは私だけであろうか?
4.裏で動く巨大企業とデュポンなどの巨大資本家
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アメリカで行われた、超極秘プロジェクトのマンハッタン計画だが、これが政府だけで実行できうる物ではなかった。名だたる民間企業が入っている。
特に言われるのが、デュポンである。
今でこそ「テフロン加工」等で有名だが、当時「死の商人」の代表格とも言われたデュポンは、経営者のクロフォード・グリーンウォルトを中心に積極的にこの計画に参加し協力していった。なお、デュポンはこの後、売上を2倍に増えるほどに成長し、更なる一大財閥となっている。
他にも、ゼネラル・エレクトリック(GE)、ウェスティングハウス・エレクトリック、といった、超巨大企業が政府の予算から雇われ、積極的に「新爆弾」作りに協力していた。
それは、国防のためだけではない。上記でも分かるようにGEにしてもウェスティングハウスにしても、後の原子力発電の企業として支配者となる会社である。なお、福島第一原発はGEに発注して出来た原発である。
こうした企業の全面バックアップと、その企業のバックにいる資本家によりマンハッタン計画はサポートされて進められた。しかも、秘密裏にである。
5.「フランクレポート」に見る科学者の中の原爆投下反対
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先に記述したとおり、マンハッタン計画に協力した科学者の中でも、少なくともドイツが降伏した時点の日本に、しかも都市に原爆を落とすことには反対だった人もいて、トルーマン大統領に直訴すべく報告書を作った。それが、1945年6月11日、すなわち広島・長崎への原爆投下の直前に諮問委員会に提出されたフランクレポート、と呼ばれるものである。
そのフランクレポートの一部を日本語訳した物を見てみたい。
・ソ連に原爆の情報を与えず、国際管理にも加えずに原爆を実戦使用するなら、ソ連はそれを脅しとみなし、国際管理だけではなくあらゆる交渉において頑かたくなな態度を取ってくるだろう。だから戦後の平和のためにも日本に使用してはならない。
・それに、原爆を実戦使用してしまったあとで原爆の開発を制限しようとしても説得力がなく、どの国も従わないことになる。我々は、このような理由から、早期に無警告で日本に対して核爆弾を使用することは勧められないと考える。
・もしアメリカ合衆国がこの無差別破壊の手段を人類に対して最初に使用するならば、合衆国は世界中で大衆の支持を犠牲にし、軍拡競争を加速させ、このような兵器を将来においてコントロールするための国際的合意に到達する可能性を傷つけるであろう。
・したがって、一方的に秘密裡に実験するとか日本に使用するのではなく、それに代わって、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせる。まず、核兵器の国際的な管理体制を作り上げることが肝要である。
幻冬舎HP ゴールドライフオンライン より一部を引用
上記にあるとおり、迫り来る8月の長崎・広島への原爆投下の前に、科学者達も危機感を持っていたことが良く分かる。「アメリカ」というひとくくりで見るのではなく、やはりこうしたアメリカの内状も知る事は、原爆を落とされた日本人としても重要である。
なお、この諮問委員会の責任者は先のスティムソン陸軍長官であり、結果的には、この報告はトルーマン大統領に届くことなく、原爆投下の日が来てしまうのである。
また、先のアインシュタインもそしてシラードもドイツ降伏後の原爆投下に反対し、シラードが署名を持ってトルーマン政権に申し出たが、何の効果も無かった。
結局、日本への原爆投下は、もはや科学者あるいは世論がどう言っても、動かなかったのかも知れない。もはや、この巨大国家プロジェクトを止めるという選択肢はなかったのかも知れない。
6.マンハッタン計画とその歴史を知ることで、当時と今が見えてくる
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あの原爆を生んだマンハッタン計画について見てきた。当時の米国の状況も見えてきたと思 う。そして、改めてマンハッタン計画の背景等を見ると、「そもそも日本に落とす必要性あるい必然性はなかったが、日本になってしまった」、という表現が的確のように思う。
「戦争を終わらせるために広島・長崎は原爆の犠牲になった」という自虐的な日本人の見方は、当時から見てもおかしいことは、原爆を生んだマンハッタン計画の科学者達の報告書(フランクレポート)からも歴然としている。
どう考えても、「落とさざるを得ない」という状態にアメリカはなかった。当時のトルーマン政権が「原爆を都市に落として(世界に誇示するという我々の)目的を果たす」と判断したのである。
そして、マンハッタン計画に参加した企業の名前とその後の繁栄ぶりを見れば、そこに絡んだ企業は、決して単なる国防ではなく戦後を見据えた利益を考え、投資・行動していることが良く分かる。
このようにマンハッタン計画を通じて原爆を見ていくと、戦争が単に「怖い」とか「ひどい」ではなく、政治・経済・産業も絡んだ流れの一環であることが学べると思う。マンハッタン計画は、まさそうだった。
また、そんな視点で、現在の状況も見ていきたい。
コメント
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戦争は、大儀(名声)のもとに政治(権力)が動き、その裏で経済・産業(富)の利権が必ず働いている象徴的な話ですね。それにしても、たくさんのユダヤ人を救った日本に、ユダヤ人の作った原爆が落とされる…悲しい事実です。
結局、金の論理で動かされた結果がマンハッタン計画で、その標的がたまたま日本だった、という気がします。
とはいえ、「ユダヤ」というひとくくりではないのが、この話の説明が難しいところです・・・。
日本人がこうした事実をいつまでも隠され続けないよう、かんばります!