- 2017-7-26
- 特集_江戸時代への誘い
- コメントを書く
歴代徳川将軍から見る、江戸時代への誘い
江戸時代を理解する上では、やはり徳川幕府を理解しないと進まない。今回から、その江戸幕府、特に将軍にまつわる記述をしたい。それにより、江戸時代という時代に興味を持つきっかけになればと思う。
別の観点から言えば、前述したとおり、明治維新の爆発力を生んだ元をたどっていくと、やはり江戸時代を理解することは非常に重要であることを思い知らされる。また、実は、世界史的にも重要な国であったことに気付く。
(シリーズ記事)
➡江戸時代への誘い【1】
➡江戸時代への誘い【2】
➡江戸時代への誘い【3】
ページ目次
1.江戸時代のイメージをつかむきっかけとして、将軍に着目してみる
まず、私は学校の授業での江戸時代は大変苦手だった。たぶん大勢の人が同意見だと思う。名前だけ覚えさせられ、退屈だった。
戦国は好きである。「徳川四天王」「武田16神将」「五大老五奉行」など記憶するくらい興味を持った。しかし、江戸幕府の将軍15人はなぜか頭に入らない。教科書的な文化の話をされても全く心にひびかず、結局、江戸幕府の出来る過程と、それが滅びる明治維新だけが頭に入るという状態であった。
それに風穴を開けたのは、NHKの大河ドラマの「八代将軍吉宗」であった。江戸幕府15代将軍のちょうど真ん中の8代目とその息子家重、その孫家治のイメージを少しつかめたのは大きな収穫であった。1995年のドラマなのでもう20年以上前か、と感慨深いものがある。
当時の私の吉宗のイメージといえば、享保の改革をした人、という教科書通りしかなかった。しかしドラマを見て、紀州の部屋住みから将軍になった過程と、御三卿まで作った卓越した政治力等々、非常に面白かった。お庭番まで作っている人なので、黒い部分も感じたが・・・。
とはいえ、その後はあまり勉強する機会もやる気もなく、結局、初期の家康・秀忠・家光、真ん中の吉宗、そして最後の慶喜、くらいのイメージでずっと来ていた。そんな私が、今では15代すべてについてのざっとしたイメージが持てるようになったのでご披露したい。
2.「実績の有名将軍」に着目した、徳川15代将軍
ページ目次 [ 開く ]
上記は徳川幕府15代将軍を並べたものである。簡単に私の覚えで何が起こったかを示してある。
有名どころを空色で着色した。家康・秀忠・家光は創世記として印象もあると思う。また、綱吉は生類憐みの令が非常に印象的ではあるが、赤穂浪士の討ち入りもこの時であり、いろいろあった時代である。
吉宗はちょうど真ん中に当たり、家康を神君として信奉していた。紀州の部屋住みから将軍になり、庶民感覚を持ちつつ様々な改革をした、というのが教科書的なところか。
最後は徳川慶喜であり、彼は写真がたくさん残っているので、印象にある人も多いと思う。写真家であり絵描きであり、趣味の人で、子供も多く、余生は隠居生活で77歳まで生きている。
3.「在任期間」に着目した、徳川15代将軍
ページ目次 [ 開く ]
さて、この表を作るにあたって意識したのは、将軍になった年齢と在任期間である。左は上記の表で在任期間が20年超の長期政権をオレンジで着色したものである。
これを見ると有名どころは長期政権であることが見て取れる。もちろん、初代と2代目の家康・秀忠は将軍としては短いがそもそも幕府ができたのが遅いので仕方がない。
また、4代の家綱も実は長いが、その頃の記述は、次回以降にしたい。
4.長・長期政権であった、11代将軍の家斉について
ページ目次 [ 開く ]
ここで目を引くのは、11代将軍の家斉である。実に50年もの長期政権で、群を抜いている。更には退いた後も「大御所」として権勢をふるっていた。
家斉はあまり歴史の教科書に出ることもなく、また、有名な逸話といえば側室が16人はいたとか、子供が50人以上いたという話が多く、相当な女好きというイメージがつきまとう。
しかし、長いだけあってそれだけの人ではないという評価もある。田沼意次を排して松平定信を重用。寛政の改革を進める。しかし、質素・倹約を進める松平定信と対立が深まり、結局は罷免。その後には、貨幣の改鋳を行い金の含有量を減らして貨幣を増大させている。今でいう金融政策である。幕府財政もふんだんに使ったため、幕府の財政はひっ迫したが、一方、化成文化が花開き、江戸は非常に活気づいたといわれる。子だくさんの女好きのイメージだけが先行するが、ひたひたと迫る海外列強の脅威に立ち向かうための日本の力を蓄えた功労者なのかもしれない。インフレも起こったが、景気を活性化させないことには国は栄えない。是非、増税ばかりいう財務省にも見習ってほしい。
5.「親子関係」に着目した、徳川15代将軍
ページ目次 [ 開く ]
これで家斉のイメージは少しついたと思う。ここでもう一度、15代将軍の表を見てほしい。
名前のところを、太枠で囲い黄色や緑で着色した。これは、直系の子供が将軍を継いだころである。(正確には6代家宣と7代家継もであるが、あまりに短いため覚えるためとしては割愛)
家康の直系は4代家綱で途絶えた。その後、綱吉が継ぐが綱吉も男児に恵まれず、甥の家宣が継ぐがすぐに亡くなり、継いだ家継も早世している。
家継はもともと体が弱かったため、将軍継嗣の問題はすぐに出ており、御三家の中から紀州の四男の吉宗が将軍となった。なぜ、御三家の紀州のしかも四男がなったかは、興味のある方はぜひ見てほしい。あまりに周りで死んでいるので、想像ではあるが吉宗の恐ろしさも思う。
その後、吉宗の直系が3代続くが、吉宗の長男家重は一説には脳性麻痺の病気を患っていたといわれ、言語がうまくしゃべれなかったようである。先に説明した大河ドラマでは、それを中村梅雀が非常に印象深い演技をしていて見入ってしまった。今でも、家重というと中村梅雀を思い出す。
話はそれたが、吉宗にはほかに次男 宗武(むねたけ)、4男 宗尹(むねただ)もいた。特に次男は聡明で病気の長男に代わり推す声もあったが、長幼を重視し家重に継がせた。また、吉宗は家重の子家治に期待するところが大きかったようである。なお、先の宗武、宗尹はそれぞれ御三卿の田保家、一橋家の初代当主である。(もう一つの御三卿、清水家は家重の次男が初代当主)
一方、家治も男児に恵まれず、結果、先に記述した家斉が一ツ橋家から将軍となっている。家斉の後も3代続いているが、さすが子だくさんの家斉といったところか。しかしその孫の家定は、ペリー来航の19日後に父家慶がなくなり将軍となったが、病弱で5年後に死去。これにより家斉の直系は途絶え、幕末の将軍継嗣問題が大きくなっていった。
6.徳川将軍の流れを見て思うこと
ページ目次 [ 開く ]
以上、駆け足で徳川将軍を在任期間と親子関係を中心に見てみた。歴史を知ることは人物を知ることと思う。歴史という多面的なものの中に、一人一人の人生が入っていて、それらにクローズアップすると興味が増すと思う。私も大河ドラマという助けを得つつ、いろいろ調べていって、自分なりのそれぞれの人物像に出会えることで、歴史に興味を得られている。また、そうした先君を教科書にしながら現代を生き、考え、行動したいと思う。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。