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江戸時代に挑む!【2】(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治

徳川家康 像

徳川幕府の初代から3代の、徳川幕府創世記及び武断政治の頃の江戸時代を見る。

江戸時代シリーズの2回目である。
今回は、徳川時代の前半である7代までを見るとともに、特に初代から3代までの治世を詳しく見る。

(シリーズ記事)
➡江戸時代に挑む!【1】江戸時代の歴代将軍と治世の流れ
➡江戸時代に挑む!【2】(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治
➡江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代
➡江戸時代に挑む!【4】(8代~13代)江戸時代後半の「3大改革」と幕末への道
➡江戸時代に挑む!【5】江戸時代の思想史 ~「武士道」を探る~

(動画でのポイント解説)

1.徳川15代将軍と初代家康から7代家宣までの流れ

まず、徳川15代将軍の表を見てほしい。前回に解説した表である。

徳川15代将軍 系譜図
徳川15代将軍 系譜図

徳川家康から始まった徳川幕府であるが、長男に将軍を譲るという慣例は、初代家康から4代家綱まででいったん崩れている。その後、紀州から吉宗を迎えるまでの、5代綱吉・6代家宣・7代家継の代まで、将軍家に男子がなかなか生まれないため、非常に苦労している。

7代までの政治の状況はというと、3代家光までの時代と、その後の4代家綱から7代家継までの時代の2つに分けられる。たまたまと言えるが、前者・後者とも約50年間である。1603年から1650年が家康から家光の時代であり、1651年から1715年が家綱から家継までの時代である。下記はその頃の年表である。

徳川幕府年表① 武断政治と文治政治
徳川幕府年表① 武断政治と文治政治

表にはその頃の元号をすべて入れてある。是非それも見ながら捉えると、江戸時代の流れの理解に一つきっかけが加わると思う。元号も意識して江戸時代を見ると少し味がでる。見ていただきたい。

このように、江戸時代の前半は大きく二つに分かれた時代と捉えるとわかりやすい。実際年表にある左側の時代(家康・秀忠・家光)と、右側の時代(家綱・綱吉・家宣・家継)は大きく分かれる。表には就任時期の年齢を示した。誕生月までは考慮していないので、ざっくりで理解してほしい。これを見ても、前半の3代は年齢の脂がのりきっているころに就任し、長期政権として君臨しつつ政治を行っていることがわかる一方で、後半の4代は、その年齢から見ても、なかなか難しい時代だったことに気づく。
4代家綱は確かに29年という長い治世であったが、就任時にはわずか11歳。従って、その治世の前半は実質的には行っていなかったことが推測できる。また6代家宣・7代家継の政権の短さ及び家継の若さなど見ると、大いに天下が乱れそうな状況になっていたと言える。

では、江戸時代の前半を更に二つに分けて、その治世を見ると下記のようにまとめられる。

家康・秀忠・家光の頃
初代家康・2代目秀忠の頃には、戦国時代の総仕上げとも言える豊臣方の無力化を進めた(大阪冬の陣・夏の陣)。また、平行して幕府の体制を構築すべく、種々の政策を打ち出している。その後の家光は、生まれたときから大きな戦乱はすでになく、戦国時代を知らない世代である。祖父家康・父秀忠の政治を見た上で、積極的な統治を進めている。この3代にわたる政治は、まさに徳川幕府の基礎が構築される時代であったといえ、かなりの強制力を持って進められた。後世に「武断政治」と呼ばれるゆえんである。
家綱・家綱・家宣・家継の頃
その後の、4代家綱から7代家継までの時代は、もはや徳川幕府に対して武力を持って対抗しうる勢力は完全になくなった状況である。とは言っても、「対抗しうる勢力」はないが、「反抗」はあった。そうした反抗や、戦乱のない時代の治世とはどのようなものかという模索の中、後に「文治政治」と呼ばれる、儒教に根付いた政治が行われた。
4代の家綱はわずか11歳で就任しており、家光亡き後の政治は老中を中心に進められた。そのバックボーンとなったのが、儒教、特に朱子学である。親子3代にわたって将軍の侍講(家庭教師)を務めた、林羅山(らざん)・林鵞峰(がほう)・林鳳岡(ほうこう)らの影響を強く受けつつ、学問に根ざした統治が進められた。「文治政治」と呼ばれるゆえんである。このとき、江戸の町は平和の世にあって大いに栄えた。それが「元禄文化」と呼ばれるものとなる。
 
それでは、以降、それぞれの時代について詳細に見てみる。

2.徳川家康・秀忠の時代

徳川家康の印象となると、やはり戦国武将の側面が強いと思う。ただ、結果論ではあるが、その後の江戸幕府のことを見れば、家康は「戦国後」のことをかなり意識していたと言われる。その頃を見てみる。

(1) 天下平定への仕上げ ~関ヶ原の戦いと大阪の陣~

少し遡るが、徳川幕府の体制作りで最も重要な戦いが、関ヶ原の戦い大坂の陣の二つと言える。中でも関ヶ原の戦いは、「天下分け目の関ヶ原」と言われるほどで、ここで家康が勝利したことで、ほぼ天下の帰趨(きすう)は決まったと言える。
その後の大坂の陣は2度行われ真田幸村の活躍等があったが、戦争は始まる前からすでに圧倒的に家康方有利であり、まさに豊臣方の息の根を止めるべく行われた城攻めであった。

ここで先ほどの年表で大阪夏の陣が終わった1615年を見てほしい。その後、武家諸法度が出されるなど、まさに幕府の骨格の整備がされている。その年に改元がなされ「元和(げんな)」とされている。これから平和な時代となるという、当時の政治状況を象徴的に表している。

(2)「関ヶ原の恨み①」長州藩(毛利家)

さて、関ヶ原の戦いについて、有名な二つのエピソードを紹介したい。関ヶ原の戦いそのものについての詳細はここでは触れないが、私のまとめは明治維新への影響を意識しているので、幕末にまで関わる二つのエピソードを紹介したい。
一つは長州藩すなわち毛利家に関わるもの、もう一つは薩摩藩すなわち島津家に関わるものである。いうまでもなく両藩とも、幕末で江戸幕府を倒すこととなったまさに直接の藩であり、その後の明治政府を形作る藩である。

西軍大将 毛利輝元
西軍大将 毛利輝元

関ヶ原の戦いは、東軍たる徳川方と西軍たる豊臣方の二つに分かれた戦争であった。豊臣方の総大将は毛利輝元であり、大名としての格・人望共に兼ね備えた大大名であった。しかし実質的な取り仕切りはすべて石田三成によるものである。石田三成は官僚として非常に有能であり、秀吉を強く慕っていた。そのため、秀吉亡き後の家康の専横ぶりに憤慨していた。それが、関ヶ原の戦いとなったのである。

関ヶ原の戦いは東軍の家康方の勝利で終わった。関ヶ原で敗れた西軍にはその罰が与えられる。その総大将たる毛利家は、中国地方の全域を修め実に120万石あった領地は周防・長門の2カ国に封じ込められ、36万石まで減らされた。藩政は困難を極め、財政的にも大きく逼迫し、かつての名門毛利家も見る影もない状況となってしまった。

吉川広家
吉川広家

関ヶ原の戦いの西軍の敗北の原因は、小早川秀秋の裏切りが有名だが、毛利家の同族たる吉川広家(きっかわ  ひろいえ)の裏切りも大きかった。西軍最大の軍勢である毛利軍を策略により足止めさせたのである。それを裏で行った徳川方に対する毛利家の恨みはかなり強かったようである。ただし広家は毛利家を守るべく裏切ったようで、その後吉川広家は毛利家をなんとか救うべく奔走している。

その後毛利家には、正月に行われる恒例行事が幕末まで250年間続いたという。
それは、藩主の前に出た家老が
「もはや徳川討伐の準備ができましたがいかがはからいましょうや」
というと、藩主が
「いやまだ時機が熟せぬ」
と答える、というものである。
これをなんと200年以上にもわたって行っていたというのであるから、その執念深さには脱帽する。もちろん、この恨みだけで長州藩が倒幕に動いたわけではない。しかし、倒幕という一つの大改革に対する原動力としてこうしたエピソードがあったことは、理解しておく必要がある。

(3)「関ヶ原の恨み②」薩摩藩(島津家)

島津義弘
島津義弘

薩摩の島津義弘(しまづ よしひろ)は、家康をして、薩摩の島津だけは敵に回したくない、といったという逸話まであるほど、勇猛で知られた人物である。しかし、いろいろあったが結果的に島津義弘は西軍に参戦することとなった。その頃の薩摩藩の事情で、わずか1500騎という兵力と共に参戦。これに対し石田三成は軽んじた布陣を行っている。

島津義弘像(鹿児島県伊集院駅)
島津義弘像(鹿児島県伊集院駅)

結果、関ヶ原の決戦において西軍がくずれて撤退すると、島津軍が敵の中に孤立する形となった。ここで島津義弘は、後に「島津の退き口(しまづの のきぐち)」と言われるようになる伝説的な退却を行い命からがら戦地を脱するのである。島津勢300人が東軍の名だたる武将率いる80,000人に取り囲まれた状態から、一気に抜け出たのである。これには、家康方にもその勇猛をたたえられたが、最後についてきていた家臣はわずか80余名であり、ほうほうの体での退却であった。また、その後の戦後の家康との交渉も激しく、なんとか領土没収は避けられた。家康も最も恐れた武将の一人と決定的な対立は避けたかったとみられるが、一方の島津は家康に対する恨みは強く持っていたようである。

これも長州藩と同様に、この恨みが250年間続いたから薩摩藩が倒幕に動いた、とは思わない。しかし、こうした歴史というのは意外に組織や人間にすり込まれるものでもあると思う。関ヶ原の戦いを通じたこうしたエピソードは、一つの歴史として知っておく必要はあると思う。

(4) 関ヶ原の戦いに見る徳川家康の深謀

関ヶ原の戦いで、徳川家康のすごさを感じずにはいられない。

この戦いは秀吉死後の家康の専横に怒り心頭であった石田三成が、反家康派の大名を結集して起こした戦いである。しかしその三成の動きも、家康の手のひらの上で踊らされていたものである。家康は三成がそのように動くことを知っている上で、「上杉攻め」という口実を与えて、三成の挙兵の誘い水としたのである。

関ヶ原前の西日本勢力図
関ヶ原前の西日本勢力図

また、関ヶ原の戦いの頃の諜報戦はすごいものがあった。三成も大きく動いたが、対する家康もかなりの有力大名に対する諜報戦を行っている。宇喜多秀家の裏切りにより東軍が勝ったことは偶然でもラッキーでもない。家康の戦略の中での勝利である。
そして上記の通り毛利・島津という遙か西の大大名に対し、ここまでの勝利をして完膚なきまでに押さえ込んでいる。「明治維新まで恨みを持ち続けた」ということは、徳川幕府側から言えば、「250年もの間押さえ込んだ」のである。

徳川家康像(静岡県駿府城公園)
徳川家康像(静岡県駿府城公園)

徳川幕府の基礎を作る上で、有力大名を完全に制圧することが必須であった。そして家康は確実にそれを進めていった。この関ヶ原の戦いで家康はほぼ天下を手中にし、その後の「大坂の陣」で豊臣方にとどめとも言える勝利を収め、徳川幕府は盤石となっていくのである。

(5) 大坂冬の陣での華麗なる「いちゃもん」方広寺鐘銘事件

ここでは、方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)を通じて、当時の江戸幕府の一端を記述したい。

関ヶ原の戦いが終わっても、豊臣方の力はまだ強く、家康としてはどうしてもそぎ落としたかった。そんな中で、豊臣方の財力を削ぐべく寺社の再建を豊臣方にやらせた時の神社の一つが方広寺である。この方広寺の鐘に「国家安泰」「君臣豊楽」と銘打ったことが、その後の大坂冬の陣・大坂夏の陣のきっかけなのである。

なにが悪いのか。「国家安泰」は「家康」という字を裂いている、「君臣豊楽」は豊臣方の繁栄のみを祈っている、というのである。これを戦争のきっかけとした、聞いたときには冗談としか思えなかったが、史実ではあるようである。

林羅山
林羅山

これを学問的にバックアップしたのが林羅山である。その頃は出家して、「道春」と名乗っているが、朱子学の大家がこうした主張をしたそうである。あまり個人的な感情は言いたくないが、当時の肖像画をみても中国かぶれのイメージが強く、このような姑息な言いがかりをつけるのをみて、個人的にいい印象を持てないのは私だけだろうか?
ともあれ、この林羅山の朱子学が江戸幕府に大いに取り入られ、平和な時代に大きく寄与したことは間違いない。林家が3代にわたり実に7代の将軍に仕え、その影響を大きく残したことはしっかり理解すべきである。江戸の学問史としてこのシリーズで後に詳細に記述する。

(6) 武家諸法度(元和令)と武士のあり方への模索

関ヶ原の戦いの後の大坂の陣により、ほぼ天下太平は成った。そのすぐに、改元が行われ(元和)、初めての武家諸法度が提示される。
武家諸法度とは江戸時代に武家を統括するために幕府が出す制度法である。8代将軍の吉宗までは将軍が就任することに見直され、6回出されている①秀忠:元和令(1615年)、②家光:寛永令(1635)、③家綱:寛文令(1663)、④綱吉:天和令(1683)、⑤家宣:正徳令(1710)、⑥吉宗:享保令(1717))。
第一回目の武家諸法度は、「元和令(げんなれい)」とよばれ将軍秀忠の名で出されている。しかし、その頃には家康は大御所として君臨しており、当然家康の指示に基づくものである。全部で13ヶ条あり、内容は以下の表の通りである。

武家諸法度 元和令
武家諸法度 元和令

武家諸法度の中身を見ると、よりその頃のことがイメージできる。私がとにかく注目したいのは、第一にある「大名は、武術と学問を磨け」ということである。ここに、戦乱の世を終わらせた家康の気持ちが、一番表れていると思う。武士という戦闘集団をどのようにして導いていくのか、また、そうすることで平和な世の中をいかに維持していくか、がここに表現されているように思えてならない。
他の条文も、当時を知る上で非常に興味深い。今に通じる物もある。是非見てほしい。

また、13ヶ条に修めて短文で示しているところが素晴らしいと思う。とかくルールはやたら多くなったり、文書がだらだらと続き、よくわからなくなることがある。その後の武家諸法度も若干増えたりするが、大きくは増えない。基本となるルールとはこのようにシンプルであるべきと思う。

(7) 徳川家康・秀忠の対外政策

国内政治はこのように固めている。一方で、それだけでなく外交政策も行っている。

己酉約条(きゆうやくじょう)の成立(慶長14年:1609年)
秀吉の朝鮮出兵以来途絶えていた朝鮮との貿易を復活。これ以降、朝鮮特使が来るようになる。明治まで続く。
琉球征伐(慶長14年:1609年)
幕府とその命を受けた薩摩藩による琉球王国の平定。当時、大陸は「明」の時代であったが、明にそれに対抗する国力はなく黙認している。琉球の「尚寧王(しょうねいおう)」が降伏し、その後、日本の将軍が替わると「慶賀使(げいかし)」を、琉球の王が変わると「謝恩使(しゃおんし)」が江戸に来るよう義務づけられる。この琉球征伐は今の沖縄を知る上でも非常に重要である。是非押さえておきたい歴史である。
慶長遣欧使節の派遣(慶長18年:1613年)
仙台藩主伊達政宗が、家康の許可を得てスペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世に使節団を派遣。貿易が主たる目的であったが、それを利用した倒幕が目的であったとする説もあるほどである。伊達政宗という人物はどうも一つの戦国武将の枠を超えた発想の持ち主だったようである。

3.徳川家光の統治と保科正之

組織は3代目が重要、とよく言われる。江戸幕府3代目は徳川家光であり、後の江戸幕府の基礎を築いたという意味で、やはり重要な3代目であった。

(1) 徳川家光の人となり

徳川家光
徳川家光

家光の母は、浅井長政と、信長の妹であるお市の方の間に生まれたいわゆる浅井3姉妹の三女、お江の方である。徳川家光は20歳で将軍となっているが、その時には秀忠が大御所として実権を握っている。

父の秀忠の頃から、力のある大名に対しては「改易」という形で領地の没収などを行い徳川幕府に反抗できないよう力を削いでいったが、家光もそれと同様に行っていった。数々の制度改正がなされ、江戸幕府の体制は家光の代により大きく確立するが、一方でそれは、大名に対し有無も言わせない強圧的な施策と重なって実現されているのである。この3代までの施政が「武断政治」と言われるゆえんである。なお家光は、父秀忠より祖父の家康を尊敬していたようである。

柳生宗矩
柳生宗矩

剣術指南役として仕えていた柳生宗矩(やぎゅう むねのり)を家光は重用している。家光は、武士の頂点として剣の道にも通じようと修養していた。逸話として、剣の腕が上がらなかった時に、柳生宗矩に「なぜ自分の剣の腕が上がらないのか」という質問をし、柳生宗矩に「これ以上を求めるには禅による心の鍛錬が必要です」と言われている。
実際に家光は、柳生宗矩に紹介された禅僧「沢庵(たくあん)」を重用している。吉川英治の小説「宮本武蔵」に出てくる沢庵である。漫画の「バカボンド」の頃の話である。

(2) 家光の政治

徳川家光は、補佐にも恵まれ徳川幕府の基礎となる政策を次々と実現している。特に、秀忠の死後(1632年)、数々の政策を出している。

・老中・若年寄・奉行・お目付役の制度を定め、幕藩体制を確立(1633年)
武家諸法度の改定(寛永令)。これにより参勤交代制度の義務づけ(1635年)
・鎖国令(1~3次)。鎖国の完成
田畑永大売買の禁止、田畑勝手作の禁止(1643年)

上記の通り、後の徳川幕府政治の骨格となる重要な制度が決められたのは、まさに家光の時代である。こうした大胆な政策を、武力を背景にどんどん進めていった。しかし一方で、「島原の乱」が起こったのも、家光の施政下である。

(3) なかなか生まれない世継ぎと、春日局と大奥

家光にはなかなか世継ぎが生まれなかった。どうも、家光は男色もあったようで、これが大きな原因であるようである。当時は男色も珍しくなかった。そこで、家光の乳母である「春日局(かすがのつぼね)」が家光の好きそうな女性を集めた場所を作り、それが後の「大奥」となるのである。

しかし、それでもなかなか子供ができなかったが、ようやく何人かの側室を持ち、世継ぎが生まれた。家光が晩年になってからのため、どうしても年の差は大きくなってしまっている。余談ではあるが、側室に入った古着屋の娘から生まれたのが4代将軍家綱であり、八百屋の娘から生まれたのが5代将軍綱吉、である。

(4) 異母兄弟、保科正之

幕末への影響のある人物を取り上げたい。次の将軍である家綱の治世に大きくかかわるとともに、幕末にまでその影響が及ぶ人物である。江戸時代を通じても重要な人物といえる。

保科正之
保科正之

家光には、異母兄弟があった。父の秀忠は側室を持っていないという建前であり、一説には正室のお江の方に全く頭が上がらなかったと言われる。その秀忠に実は隠し子がいたらしく、それは秘密にされていた。それが高遠保科家にて養われていた保科正之(ほしな まさゆき)である。
家光がそれを知った時、そっと高遠保科家に養子に出されていた保科正之を観察し、その人物にほれ込んだといわれる。結局、保科正之は幕閣に迎え入れられ、会津藩を与えらえる。家光は、この保科正之をたいそう重用した。保科正之は、初代会津藩主となり、徳川のみ認められる「松平」を名乗ることを許されたが、保科家への恩義を忘れず、生涯「保科」を通している。松平を名乗るのは3代経ってからである。

また、家光はその死の際には保科正之を呼び、「宗家(徳川家)を頼みおく」と伝えている。これに感銘を受けた保科正之は、その後若くして将軍につく家光の子家綱をよく補佐し、善政を敷いている。また、保科正之の会津藩でも、「会津家訓15箇条」の第一条に、会津藩は将軍家を補佐するものであり、それに違えば藩主といえども従う必要はない、と言っている。そして、実際に幕末時にあっても会津藩は最後の最後まで幕府方であり、新選組を結成し、江戸幕府と運命を共にしている。

忠義の人であり、また、常に民のことを思いつつ、経済感覚も強く持った人物である。次回に具体的に記述するが、家光までの3代の武断政治で不満が高まっていた中で、その子家綱をよく補佐し、大きく制度改正も行った。それにより、江戸幕府がこれだけ長く続いたのは保科正之がいたがら、という人もいるくらいである。江戸時代における、最重要人物の一人である。

4.武断政治と呼ばれる時代を見て思うこと

特にこの3名の将軍の時代は、まさに徳川幕府の創世期であったことがよくわかる。政治的にも経済的にも、非常にインパクトのある重要政策が次々に打ち出されている。この3人を改めてみてみると、その強烈な個性で日本を引っ張っていったといえるであろう。
単に国内だけを見据えた政策ではなく、当時なりに世界も意識した政策が打ち出されていることは重要である。また、武家諸法度などを見ても為政者たる武士が率先して質素倹約に励んでいることは、日本人的ではあるが、世界史から見ても非常に珍しいといえる。

また、「教育」に力を入れていたことは、幕府開設当時の政策をみても見えてくる。日本の国力を支えるために勉学を奨励した、といって間違いないと思うし、それが幕府開設当初からみられることに、驚きをもつ。今の日本にあっても学ぶべきことが多い面ではないだろうか。

しかし、家光の頃から、その強権的な手法に対する不満の高まりは表面化している。それが江戸時代前半の後半である「文治政治」への道となる。それらについては次回にて記述したい。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2018年 2月 13日 3:40pm

    記事が楽しそうですねー。伝わってきますよ(笑
    保科正之ですか!名君ですよね。その家訓が素晴らしいがゆえ、幕末白虎隊の悲劇に繋がったというネガティブイメージもありますが、今でも地元小学校で唱和?歌?にも受け継がれているというドキュメント番組があったような・・・。次回の記述が楽しみです。

      • てつ
      • 2018年 2月 14日 9:13am

      「楽しそうなのが伝わる」とは、気恥ずかしいですね。
      とはいえ、筆はすすみます!やっぱり日本史は楽しいですな。

    • ゆかり
    • 2018年 2月 13日 5:05am

    戦国鍋TVの中で、家康から慶喜までを15人の男性歌手が徳川15代っていうユニットで順番に特徴を歌ってるのを見つけたよ。 笑えます。
    バガボンドも秀逸だよねぇ。家光の時代にあたるのかぁ。読み直そ。
    島津家はかなり優秀だったのに、西軍だった為に、後に下士扱いで山内家がしきる上士との対立が生まれてうんぬんで明治維新へと絡んできますな。
    脈々といろんな思いが繋がっていくんだねぇ。

      • てつ
      • 2018年 2月 14日 9:10am

      島津家が西軍にいったいきさつも複雑だけどね。関ヶ原の戦いは「天下分け目」とはよく言ったわ。

      戦国TVの、見てみまっす!

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