- 2018-3-1
- 特集_徳川将軍と江戸時代
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江戸時代の思想史を見て、当時の「武士道」を探る
「武士道」というとどのように感じるだろうか。「武士道」の名付け親は、1900年頃にアメリカで発刊された新渡戸稲造氏の「Bushido: The Soul of Japan」であるが、日本では常にその追求は行われていた。
戦国の世に終止符を打った徳川家康が作った徳川幕府は、「武士」とはどのようにあるべきか、についての問いを「朱子学」に求めた。また一方で、いわゆる「中国かぶれ」に対する批判であったり、朱子学に対する反発もあり、朱子学に対する学問の派閥も形成されていく。江戸時代の思想史は、平和の世にあって人はどのように生きるべきかを探る学問であった。
江戸時代の思想史は、学校の授業でいくら聞いてもまったく興味を持てない世界であった。しかし、維新の頃の個々の人物の活躍を見ていくと、彼らの気持ち・行動の源泉はなんだろうという疑問にたどり着くことが多かった。その中で、古事記に代表される日本の伝統とそれを体現する天皇という存在が、実は維新志士の中の共通認識として機能したことが見えてくる。そしてその議論は決して幕末にとどまらず、近代・現代にも通じる。江戸時代での議論ではあるが、現在にも十分通ずる議論であることに気づく。
そうした系譜はどのように形成されたかを知るために、江戸時代全体を通じてみてみるので、お付き合い願いたい。
江戸時代の考察の最後である。
(シリーズ記事)
➡江戸時代に挑む!【1】江戸時代の歴代将軍と治世の流れ
➡江戸時代に挑む!【2】(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治
➡江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代
➡江戸時代に挑む!【4】(8代~13代)江戸時代後半の「3大改革」と幕末への道
➡江戸時代に挑む!【5】江戸時代の思想史 ~「武士道」を探る~
ページ目次
1.「武士道とは死ぬことと見つけたり」?
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は、江戸時代の中期(1716年頃)に書かれた「葉隠(はがくれ)」の一節である。この表現はあまりに有名で、第二次世界大戦でも「死を恐れないのが武士道精神である」という解釈で使われてしまった。これは全くの誤りである。
「葉隠」は、そもそも「武士道」というものを追求した書物ではない。武士としての心得をまとめたものではあるが、礼儀作法やビジネスマナーといった実用書としてのもであった。また、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の表現には後段がある。長いので割愛するが、文全体は、死ぬことを意識したうえでの決断が重要、といった意味での一節である。むしろ、無駄死になどするものではない、という考えの文である。
武士とはどうあるべきか、あるいは、平和の世になった中で人はどのように生きるべきか、という追求が行われたのが、江戸の思想史といえる。なぜそういった学問が発達したかについては、当時と現代との教育の違いを理解しておく必要がある。
新渡戸稲造の「武士道」によれば、江戸時代の学問の主眼は「人格形成」であり、数学などは技術的なものとして脇に置かれていた。今でいえば、哲学、あるいは道徳教育といったことが最も重要な位置づけであり、その後に技術的な学問がある、というところであろう。
まさに、今の教育で全く欠けている部分が最も重要なテーマとして扱われていた。
話はそれるが、新渡戸稲造氏はクリスチャンでアメリカ人女性と結婚した国際人でありながら、日本の武士道を歴史を照らしてユーモアたっぷりに表現した人である。
新渡戸稲造氏の「武士道」は秀逸の内容と思う。「武士道」は日露戦争の頃(1900年頃)にアメリカで発刊された本だが、世界的にも有名になったもので、日本人が読むことでより深く日本を知ることができる本である。日本人自身が、過去の日本人論を誤解している部分に気づかされる本である。是非おすすめしたい。ここでは、わかりやすい漫画本があるので紹介させていただく(画像をクリック!)。大人も子供も是非みるといい本と思う。
一節を紹介したい。江戸時代の教育を分析した中で、その頃の教育について述べている。
・「武士の世界では財務的な知識は低く見られ、道徳的・知的な素養より下に見られていた。従って武士道は金銭欲を意図的に無視したため、金を原因とする害毒から遠ざけられていた。これが我が国が大きな腐敗に犯されることがなかった原因である。」
・「教育における最高の仕事は、精神の向上であった。」
この記述の後に、近代化が進む日本を見て「拝金主義」がはびこっている、と、憂(うれ)いている。まさに今にもあてはまる嘆きである。江戸時代の教育に学ぶことは多いと思う。
2.徳川時代の学問の流れ
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江戸時代の学問は、基本はとにかく朱子学(しゅしがく)である。朱子学とはChina(中国)の「南宋・明」で発達した学問である。江戸幕府開設の時から、徳川家康は朱子学を奨励し、武士に対してその徹底をはかっている。それを前提に、江戸時代の学問史を、その派閥毎にまとめた表を見てほしい。
表の一番左の「朱子学」が幕府が常に奨励をした学問である。しかし、朱子学を生んだ「明」においてその修正もなされていた。すなわち、朱子学を批判的にとらえた「陽明学」といわれる学問が発達し、それが日本に伝わって発展を遂げている。
一方、水戸黄門で知られる水戸光圀(みつくに:水戸藩第2代藩主、家康の孫)が、1657年頃から水戸において歴史の変遷事業に取り組んでいる。この歴史の変遷作業は結果的には実に230年かかる。途中で停滞する時期もあったが、そうした学問への追及が「水戸学」といわれる学派(がくは)を生み、それが明治維新において維新志士の間で非常に大きな影響を及ぼす。
また、「国学」といわれる学派も重要である。特にその代表である本居宣長の「古事記伝」は江戸時代のみならず、近代・現代の日本人のアイデンティティを大きく確立し、日本に与えた影響は計り知れないものである。しかもこれも、スタートは水戸光圀であることを考えると、水戸光圀のまいた学問の種の偉大さを感じずにはいられない。
表のようにいろいろな学派が生じたが、決して完全に線が引けるものではなく、それぞれの学派が混ざり合いながら、議論を経て洗練されていくのである。
3.朱子学の隆盛
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朱子学とは、China(中国)大陸の南宋(なんそう)にて生まれた学問体系をいう。一般に「儒教」というと、この朱子学の考え方が大きくあてはまる。藤原惺窩が学び広めたもので、藤原 惺窩は「近代儒学の祖」と言われた。藤原惺窩は豊臣秀吉・徳川家康に儒学を教えていて、家康からは士官も求められた。しかし、自身が仕官することは断り、代わりに門弟の林羅山(はやし らざん)を派遣したという。
林羅山は、徳川幕府において非常に大きな影響力を持った。実に、家康・秀忠・家光・家綱の4代にわたり徳川幕府に仕え、徳川幕府の基礎作りに大いに貢献した。その林羅山が朱子学の考え方として述べているので触れておきたい。
『 空は高く地は低いように、万物には必ず上下がある。これは人間社会においても同じで、父と子や主君と家来のように、上に来るものを敬わなければならない。』
これを、「上下定分の理(じょうげていぶんのり)」という。このように朱子学は、特に上下関係を明確にし絶対とするとともに、下の者は学問を修めることとしており、支配をするうえでは都合の良い考えの学問であった。
林羅山は、明暦の大火(1657年)の4日後に亡くなるが、その後に子供が幕閣となっており、幕府の儒教すなわち朱子学の普及・発展を大きく進めている。
このように朱子学は江戸幕府の理論的根拠として大いに貢献したが、私の朱子学者に対する個人的な印象はあまりよくない。添付の画像を見てもわかるように、藤原惺窩にしても林羅山にしても、これが日本人か?、といいたくなるような格好しか残っていない。いつも「中華」の服である。実際彼らは儒教を信頼するあまりChina(中国)・朝鮮の大陸側が優れていて、日本は後進国という考えに染まっていた。いつの世でも、こういう人達はいたのかと、ため息が出る。
4.陽明学・古学の変遷
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陽明学(ようめいがく)は、朱子学の批判から生まれている。朱子学は、あくまで上下関係を重視し、その上での知識の習得を説くことで、こうした知識を得ることが先であり、社会の形式を重視していた。
一方陽明学の考え方は、「知行合一(ちこうごういつ)」に代表される。すなわち、「知」を身に着ければ、それを行う(実践する)ことが重要である、というものである。
この考え方は、とかく知識の習得ばかりを説く朱子学に対する批判として、大きく共感を得る。しかし、体制側としては危険思想であると位置づけられるものであった。実際に、「大塩平八郎の乱」の大塩平八郎は陽明学の学者であった。
また、この陽明学の考え方は、大いに幕末の志士に影響を与えた。吉田松陰は自分の私塾に「知行合一」の掛け軸があった。佐久間象山、西郷隆盛も影響を受けた。
陽明学は「明」において王陽明(おうようめい)が起こした学問だが、むしろ日本においてのみ発達を見たようである。
また、「古学(こがく)」も陽明学と同様に、朱子学への批判から生まれたものである。朱子学ではなく、孔子や孟子にさかのぼって学問を進めるべきということが語源だが、それは日本においては、古事記・日本書紀・万葉集といった古典を指す。それらも含めた学問であるため、「国学」の一部といえる。その大家の一人に、山鹿素行(やまが そこう:1622~1685年)がいる。
山鹿素行は「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」という指南書を書いている。
当時、儒学の全盛にあり「中国」かぶれの風潮があった。「中国」が日本よりも優れているとして、中華や中朝と称していた。これに対して山鹿素行は、日本こそが中心であるとしたことが、「中朝事実」と呼ばれる書を作った要因である。まさに、今の日本と似たような状況にあったのである。
山鹿素行はさらに、「明」が滅び新たに「清」が起こっていた「中国」の状況を見て、日本には「万世一系」の天皇を守り続けているという歴史があるとした。日本の優位性及びアイデンティティをこの時点で定義していた。
また、山鹿素行はいったん幕閣に入っているが朱子学を批判していたこともあり、蟄居を命ぜられて、赤穂藩にお預けの身となった。しかしそこで、赤穂藩士の教育を行っている。あの大石倉之助もそれを受けた一人である。忠臣蔵の仇討ちは、山鹿素行の考えが影響したために起こったのかも知れない。
更に、幕末において吉田松陰は当時なかなか手に入らなかった「中朝事実」を手にするために奔走している。日露戦争の英雄、乃木希典将軍も「中朝事実」を愛読し、その死の直前には、学習院院長として昭和天皇に献上している。
山鹿素行は、江戸の中期で将軍は綱吉の時代の人であるが、その影響は幕末まで大きく響いている。
5.国学と本居宣長
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国学(こくがく)とは、China(中国)が日本より上であるといった風潮を批判し、日本独自の歴史こそ尊重されるべきとする学問である。具体的には、古事記・日本書紀・万葉集などを研究の対象とし、実証的に証明している。
国学で特に功績があった4人を、「国学の四大人(しうし)」と呼ぶ。荷田春満(かだのあずまろ)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)の4人が挙げられている。その中で、「古事記伝」を書いた本居宣長を取り上げたい。
本居宣長と古事記伝
本居宣長(1730~1801年)は伊勢国松坂(現在の三重県松坂市)の木綿商・小津家の次男として生まれた。医師を目指していた宣長は、医書を読むために漢学を学び、荻生徂徠や契沖などの学問に触れたことから、古典研究に強い関心を抱くようになった。医業のかたわらで、『源氏物語』や『古事記』を研究し、松坂の地で数多くの著作を発表した。
宣長の行った研究は、『源氏物語』をはじめとする日本文学の研究、日本語そのものの研究などが言われる。日本語の研究は「てにをは」の係り結びの法則を発見し、さらに古代日本語の音韻を分析した成果を出し、現代にも大きく影響を与えている。
そして本居宣長のライフワークとも言え、その後の日本に多大な影響を与えたのが、「古事記」の研究と「古事記伝」の執筆である。「古事記伝」は、読むことが困難だった古事記に注釈をつけた解説書である。これにより、古事記の世界がひも解かれ、広く日本人が理解することができるようになったのである。そしてそれが、天皇の権威付けに大いに貢献し、「尊王」思想の学問的支柱となるのである。
本居宣長は、当時にもあったChina(中国)偏重の風潮を強く批判している。そうした風潮を「漢意(からごころ)」として痛烈に批判し、日本には「大和魂(やまとごころ)」こそふさわしく、決して大陸に劣るものではないと説いた。本居宣長の大きな功績は、それを古事記などの古文を研究し、実証的に証明したことにある。
こうした本居宣長の考えは、広く日本人に受け入れられ、深く刻まれていくのである。
6.水戸学とその展開
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水戸学といわれる学派は、水戸の2代目藩主の水戸光圀(みつくに)から始まっている。すなわち、水戸光圀が日本の歴史を変遷するとして、「大日本史」の作成を命じたことからである。水戸藩において、このような歴史の変遷のための研究が進むことにより、学問の体系が形づけられていき、「水戸学」といわれる「尊王思想」が確立する。そこには国学の本居宣長の古事記伝の影響や、陽明学の影響も大きく受けているのは言うまでもない。
しかし、なぜ水戸光圀は「大日本史」などという歴史の変遷を始めたのか。また、国学のスタートは契沖(けいちゅう)による万葉集の研究からだが、それにも水戸光圀は資金的なバックアップとして関与している。結果的に両者ともその後の日本になくてはならない存在となる。それをみると、水戸光圀公の先見性と決断には感嘆しかない。
なお、このように水戸光圀が日本の歴史の研究に力を入れた背景には、幕府側の深刻な「親中」ぶりがあったようである。
「大日本史」よりも先に、幕府側の林羅山を中心とした朱子学派が歴史の変遷を行い「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」を作成している。しかし、この内容で、天皇の「中国人」説が書かれ、それに激怒した水戸光圀が自ら歴史を変遷することとなった。
なお、実際には「本朝通鑑」にはそういった記述はないという説もある。しかし、林羅山やその師匠である藤原惺窩も、残っている肖像を見ても、その名前を見ても、いかに「中国」かぶれだったか、見て取れる。今の日本と同様のことが行われていたのかと思うと、少しあきれる気になる。
7.江戸時代の学問史が幕末に与えた影響と現代を考える
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このように学問の変遷と学派を見てみると、China(中国)大陸派と、日本を見直す国学派との争いが、背景にあることが見える。現在の中国に対する脅威であったり反発は、江戸の頃からあり、その戦いの中で「国学」といった学派が明確に成立していく。
そして幕末には古学派・水戸学・国学派のどれも「尊王」が一つのスローガンとなり、その中心としての水戸藩があった。なぜ御三家の水戸藩から、最も尊王の思想である「水戸学」が生まれたのか。それは、水戸光圀の時代からの伏線を見ることでようやく見えてくるものであった。
こうして議論をみてみると、江戸時代の議論ではあるが当時の国際状況や国内の政治状況は、現在にも当てはまるところが多いと感じる。
ただ、現在と大きく異なると思う部分が一つある。それは、新渡戸稲造氏が指摘したことで、『当時の教育の主眼は「人格形成」にあった』、という点である。(とはいえ、技術的な勉強をおろそかにしたとも思えない。本居宣長は医者でありながら、文学の研究にいそしんでいた。今の人よりよっぽど勉強していたと推測する・・・。)
現在は、とかく学歴が高い人、テストができる人が持ち上げられ評価される。会社でも、仕事が正確であったり早い人は優秀とされる。しかし、重要なのは、そうした知識を生かして「何をすべきか」「何ができるか」、ということと思う。もっと言えば、「何をすべきか」が先にあって、知識や技術が後についてくるものと思う。
現在に生きる私としても、江戸時代の議論・歴史を通じながら、この「人格形成」というものを、自己に照らして考えていくことの重要性をかみしめられれば、と思う。
コメント
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本居宣長来た!古事記!!
水戸学からの流れなんだぁ。
学問の派閥や人物の配置の図が良いね。なるほどなるほど。
江戸時代の思想史の年表は、我ながら力作っす!