- 2020-6-9
- ⑧ 大正期
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「怪僧ラスプーチン」の謎多き伝説とその実態を、ロシア帝政の滅亡と共に見る。
「怪僧ラスプーチン」という名をご存知だろうか。アニメの名探偵コナンの映画に使われたらしいが、ここではコナンの話ではなく、実在の話である。謎が多く、にわかに信じがたいエピソードばかりだが、単なる一個人ではなく、ロシアという国家を動かす程の力を持っていた。謎の多いラスプーチンと、ロシアのロマノフ家の当時の状況をまとめた。是非ご覧を。
1.怪僧ラスプーチンの数々の伝説
グリゴリー・ラスプーチン(1869年:明治元年~1916年:大正4年)は帝政ロシアの末期に現れた人物で「怪僧」とか「怪物」とかよばれる。世界は第一次世界大戦に入る前であり、日本は明治の時代から大正へと入る頃の時代の人物である。
比較的最近にもかからわらず、謎が多く、また語られる「伝説」が非常に怪しい。
しかし、「怪しい人物で物語として興味深い(面白い)」、と言うだけでは全くない。帝政ロシアの末期の人物であり、300年続いた帝政ロシア・ロマノフ王朝の滅亡の要因となった、とまで言われる。ロシアの帝政が倒れロシア革命によりそれが生まれようとする頃のロシア帝政を攪乱した人だった。第一次世界大戦のロシアにも大きく関与している。歴史的にも非常に重要な人物である。
ラスプーチンの「伝説」は数々ある。
② 皇太子の治療での効果を見て、父親のロシア皇帝ニコライ2世と皇后のアレクサンドラ皇后から絶大の信頼を得て、宮中に自由に出入りした。
③ 宮中の女性から非常に慕われた。理由は彼の性器が「巨根」で、類い希なる精力の持ち主だったこととされる。当時から「淫乱極まりない」といわれるほど、「信者」の女性と性的行為をしていた。アレクサンドラ皇后とも男女の関係にあったと噂され、その虜(とりこ)になった、と言われる。そしてあろうことか、まだ10代もいた皇帝ニコライ2世の4人の娘もラスプーチンに夢中だった。
④ 政治介入までするラスプーチンに対し、有力貴族の反感を買い、最後は暗殺されるが、これも謎が多い。
⑤ 暗殺について、「青酸カリ」を飲ませても死なず、銃で撃っても死んだと思っても立ち上がり、何度も撃ったとされる。
⑥ 自分の死を予言し、自分が「貴族に暗殺」されるなら、「ロマノフ家は不幸な死を遂げる」とも予言した。まさに予言通りとなってしまった。
このように挙げてみると、物語としては興味が尽きない。しかし、実在した人物であり、日本で言ったら明治維新も終わり、明治の末期から大正にかけての時代で上記のような状態であったことは、事実である。わずか100年前の世界の超大国での内情である。
この「奇怪な人物とその出来事」を「歴史の重要な一ページ」として、時代背景と共に、詳しく見ていきたい。
2.血友病の悲劇の皇太子とそこに入り込むラスプーチン
(1) 悲劇の皇太子アレクセイとラスプーチン
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ロシアの皇帝ニコライ2世には子供が5人いた。上の子の4人はすべて娘であったため、最後の子供であるアレクセイは皇太子として大事に育てようとしていた。
しかし、このアレクセイが血友病を発病してしまう。
血友病は血が固まらない病気で、少しの出血で死に至るし、内部出血で相当な痛みを引き起こす病気である。遺伝による要素が強いが、女子が保因者でも発症はしない。男児にのみ保因者の50%の確立で発症する。現在もそうだが、過去においても当然難病中の難病で、長くは生きられないことが分かっていた。皇帝と皇后はこのことを隠していたというが、相当悩んでいた。ロシア中から名医を集めたが、一向によくならなかった。
そこへ、人々を「祈り」だけで治すというラスプーチンの噂が王家にも入った。「神秘主義」と言われるが当時のロシアでは広まっていたようで、ラスプーチンの「信者」はロシアの皇族にもいたのである。その紹介を受けて、アレクサンドラ皇后によりラスプーチンがアレクセイ皇太子の治療を行う事となった。
するとたちどころにアレクセイの症状がよくなった。この効果の原因は分からない。「ラスプーチンの治癒能力は本当にあった」「鎮痛薬的な物を処方していたのでは」「定期的な痛みの鎮静期にあたっただけ」と言った話がいわれるが、真相の程はわからない。
しかし、ラスプーチンがこれにより皇帝と皇后の絶大な信頼を得た、という歴史の事実だけは間違いのないことだった。そしてそれが、300年続いたロシア皇帝のロマノフ王朝を滅ぼす大きな要因の一つとなったのである。
ただ、ラスプーチンが「弱みにつけ込んだ」と断ずるのは酷な気がする。ラスプーチン自身は本気で治そうとしたし、現在の学者の中でもそうした「自然治癒力を持つ人はいる」という人もいる。実際にアレクサンドラの症状は改善され、アレクサンドラからも絶大な信頼を得ていた。しかし、ラスプーチンの場合には「治療」以外の部分が多すぎたため、批判されたのは当然と思うが・・・。
(2) ヴィクトリア女王からの血友病の悲劇
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少しラスプーチンから話がそれる。アレクセイの血友病について触れたい。
前述の通り、皇太子アレクセイの血友病がラスプーチンを宮中に引き入れる大きな要因であった。その後宮中はラスプーチンを中心に大きく亀裂が入り、王朝の死を早めた。
ここで、血友病は、保因者であっても男性のみが発病し女性は発病しない。また、まれな例外を除いて血友病は遺伝性の病気である。そして、遺伝は「X染色体」により遺伝するため、男性が保因者であってもその子供の男児が保因者となる可能性はない。なお、保因者の男性の子が女性だと100%保因者となる。
となると、血友病の保因者は母親のアレクサンドラ皇后、ということになる。ではアレクサンドラ皇后の母親はというと、ドイツのヘッセン大公に嫁いだアリス・モード・メアリーである。そのアリスの母は、あの大英帝国の全盛期を築いたあのヴィクトリア女王である。つまり、ヴィクトリア女王が血友病の保因者であったようである。ヴィクトリア女王は4男5女の9人の子供をもうけて、ヨーロッパの各地の嫁がせている。「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるゆえんである。
そのヴィクトリア女王が血友病の保因者、ということで、その子供が嫁いだ先の王室は血友病にかなり苦しめられた。3代の間で10名もの血友病の皇族を生むことになってしまった。「呪われた血」とも言われたそうだが、不幸としかいいようがない。不幸にして気づかずに血友病の保因者となり、病気の子を産んだ母親の苦悩は想像を絶する。ラスプーチンを宮中に引き入れた背景は、こうした不幸な遺伝からであった。
3.ラスプーチンから離れられなくなったロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后とロマノフ家
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このように皇太子アレクセイの血友病から、わらにもすがる思いで呼び寄せたのがラスプーチンだった。そして、これは噂でしかないが、アレクサンドラ皇后とラスプーチンと男女関係を持っていたと言われる。事実かはわからないが、「息子を治すスーパースター」で精力絶倫のラスプーチンとなれば、そうなったことも十分ありうる。ラスプーチンを引き入れた後の信頼と異様なまでの彼への擁護は、皇后に対する不信も増大させた。
では夫であり皇帝であるニコライ2世はどうだったかというと、なんとニコライ2世もラスプーチンを特別に擁護したのである。病気を抱える子を持ち、その子をどのような形にせよ楽にするラスプーチンに信頼を寄せるのは分からなくもないが、政治にまで介入させるほど信頼した。
ラスプーチンの力は、政府の人事にまで及び、閣僚を入れ替えるほどの権勢を持つに至った。それはラスプーチン個人としてだけではなく、むしろそうしたラスプーチンの皇帝に取り入る能力を利用した面々がいたためでもある。
しかし、とにかく皇帝ニコライ2世はラスプーチンを重用したため、宮廷内の軋轢は激しくなっていった。そして、人民も詳しくではないにせよ、ラスプーチンの話を知り、アレクサンドラ皇后とそしてその皇女達との男女の噂、淫乱極まりない宮中での性的行為の噂、などにより、ロシアで最も嫌われる人、とまで言われるほどになっていた。皇帝の4人の娘や息子のアレクセイまでもが、ラスプーチンの熱狂的な「信者」と化していたのである。まだ10代も含む娘達は、性的行為の噂も含めてだった。
逆に言えば、それほどに力があったと言える。ここまで皇帝とその家族に取り入るその技術は、ある意味すごいとしか言い様がない。
しかし、こうしたラスプーチンへの批判はそのまま王家であるロマノフ家への批判・不信となる。こうした積み重ねが、ロシアの日露戦争・第一次世界大戦の情けない状況と合わさって、帝政ロシアに対する不満の高まりと共産主義がつけいる隙を作り、王家を倒す「ロシア革命」の土壌となっていった。
4.謎多きラスプーチンの死
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ここまで権勢をもち、女性までもを虜にしてしまえば、当然反発勢力も大きくなる。結論を言えば、ラスプーチンはその反対者達に暗殺される。暗殺したのはニコライ2世と親戚にあたる貴族のフェリックス・ユスポフ一派と言われ、ユスポフ本人がロシア革命後に亡命した先で自慢げに話したという。
しかし、その死すら「怪僧」あるいは「怪物」ぶりを発揮している。
ラスプーチンの情報は、その後のロシア革命によりロシアからソ連になって情報統制が敷かれて、あまり出てきていない。そのため、この死の話もどこまでの信憑性があるかはわからない。しかし、やはり「怪僧」と呼ぶに値する人物だったと言える。
そして、ラスプーチンの死は必ずしもユスポフの言う通りか疑念があるという話もある。大英帝国(イギリス)の工作員オズワルド・レイナーの名前も取り沙汰される。当時、戦争を継続したかった大英帝国(イギリス)にとって、非戦争派だったラスプーチンは除外したかったと言われる。
真相は闇である。
5.ラスプーチンの時代のロシアと日本
(1) 日露戦争とロシアの内情
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ラスプーチンの時代は、まさに日露戦争と密接に関わっている時代であった。ラスプーチンが生まれ故郷のシベリアの田舎から、当時の首都であるサンクトペテルブルグに来たのは1903年あるいは1904年と言われる。宮廷に入ったのは、1905年である。日露戦争は1904年~1905年であり、まさに日露戦争の頃だった。
日露戦争について、ここでは詳細には触れないが、大国ロシアが日本に敗れた理由がここにも透けて見える。国のトップの独裁者が、このような「怪しい僧」に振り回される判断力の人物であったことが、ロシアという国の「国力」を表わしているように思う。
そしてそれを如実に表わしたのが、1905年の「血の日曜日事件」である。これは、日露戦争の最中の1月に起こった事件である。あまりに無様な敗戦が続くロシア帝政に対し、日露戦争の中止や労働者の権利を求めた大規模なデモが6万人にも及んだ。しかしそれは攻撃的な物ではなかったにもかかわらず、軍がそれに対して発砲し何千人とも言われる犠牲者を出した。
血の日曜日事件の影響は計り知れなかった。折から「共産主義」という名の国家転覆の動きが民衆に広がっている中で、「皇帝は民衆の敵」ということが明確に表現された事件だったためである。
(2) 日露戦争後のロシアの状況
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日露戦争の後から、第一次世界大戦とロシア帝政が潰れるまでの間に10年ある。ではその間のロシアの10年かはどうだったかというと、まさに大混乱の時代でロマノフ朝はもはや政権維持は難しかったと言える。
「血の日曜日事件」に端を発し続いたのが「ロシア第一革命」といわれる運動である。血の日曜日事件から6年続く運動と言われるが、あまりにひどい政治に対する農民・労働者の反発だった。
ニコライ2世も対応しようと、議会(ドゥーマ)を開設したり内閣を作ったりした。首相としてウィッテやストルイピンなどを任命し彼らは改革をしようとするが、結局ニコライ2世が皇帝の権力を手放すことをしようとしなかった。それがむしろ民衆の怒りに火を付けたと言ってもいい。
しかも、そこには「共産主義(コミュニズム)」という考えが入り、運動はより「組織的」「暴力的」になっていく。その中で本当の怪物「レーニン」が育っていくのである。
それらのロシア革命に関する記述は別の回にしたい。
(3) 第一次世界大戦とロシアの関わり
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第一次世界大戦は1914年のサラエボ事件に端を発する。始めはすぐに終わると誰もが思った戦争は4年も続き、ヨーロッパは悲惨な状況となった。そしてその第一次世界大戦こそ、ロシアの帝政が滅びることと密接に関係していた。
第一次世界大戦自体については詳細は別の回に譲るが、発端となったバルカン半島やオーストリアと密接に関係していたロシア帝政において、兵隊を大量に出して犠牲も出しているにもかかわらず、皇帝と皇后がラスプーチンを重用し政治は混乱を極めた。結果的には、ニコライ2世の無能がさらけ出た、と言っていいのかも知れない。そしてそれが「ロシア帝政」の否定となり、そこに「共産主義革命」の考え方が入り込んで、「ロシア」はついに「ロシア」でいられなくなり「ソビエト連邦」となるのである。
なお、ラスプーチンはロシアの対外戦争には徹底して反対していたという説もある。皇帝に対し、自制を求め民衆への政治の参加を提言していた、という見方もあるようである。
6.ラスプーチンの予言とロマノフ家の悲惨な最期
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これだけみてこれば十分不気味な存在で、興味をそそるが、ラスプーチンの「予言」も彼の神秘性を高めている。
ラスプーチンはその暗殺される年の1916年に、次のように語ったとされる。
かくて、ラスプーチンは1916年12月にロシア皇帝の親戚ユスポフによって暗殺された。そしてそのわずか2ヶ月後の1917年3月に、ニコライ2世はロシア革命により退位しロシア帝政は幕を閉じる。
更に、1918年7月にソビエト連邦を樹立したソビエトは帝政の復活を怖れて「ロマノフ家の暗殺」を指示する。レーニンも当然入っていたと考えられる。もちろんその「処刑」は法律にもなにもなく、その正当性は皆無である。そしてその時に殺されたのは、ニコライ2世にとどまらず、アレクサンドラ皇后とまだ10代を含む4女と血友病の皇太子アレクセイも、ひどい殺され方をした。ここでは詳細には記述しないが「ロマノフ家の処刑」と調べればいろいろ出てくる。
こうしたソ連の頃の虐殺は、徹底的に情報が伏された。当初は「ニコライ2世だけを殺害し、家族は生きている」とされていたのである。しかし実際は悲惨な最期だった。そしてそれは、まさにラスプーチンの予言通りとなっていたのである。
6.帝政ロシアの最後とラスプーチンを見て
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ラスプーチン個人を追う、というより、当時のロマノフ家の状況を含めてまとめた。
「巨根伝説」も諸説あるらしいが、あながち嘘ではない。そしてそれが、実際の政治に繋がっていて政治を動かしていた、という事実を見ると、歴史や政治というのは意外に単純なものかもしれない、と考える。それにより戦争に行かされる方はたまらないが。
世界の歴史を見る上でも、日本の歴史を見る上でも、そして現代を見る上でも、こうした事実を知ることは重要と思う。
しかし、レーニン・スターリンという「怪物」と同時代にいたこのラスプーチンという「怪僧」、歴史とは混乱の時代に特異な人を生み出すのか・・・。
コメント
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ラスプーチンは名前くらいしか知らなかったですが、こんな話が日本の大正時代にあったとは!日本だと道鏡くらいの時代の話ですね。
ニコライ二世というと生麦事件でしたかね。悲劇の皇帝というイメージでした。
ほんと「ぶっとんだ」話だけど、事実だから歴史は深いねぇ。
ニコライ2世が日本に来たときの事件は「大津事件」ね。
悲劇の皇帝、とも言えるけど、局面・局面で見るとやはり「無能」というしかないかなぁ・・・。