江戸時代への誘い【3】

徳川家茂

4代将軍及び幕末将軍継嗣問題から見る、江戸時代への誘い

さて、ここまで江戸時代について、徳川の将軍を中心に見てきた。
(前回➡ 江戸時代への誘い【1】
(  ➡ 江戸時代への誘い【2】

①では全体を、②では「御三家」「御三卿」を中心に記述した。今回は、はざまと言っては失礼だが、その間の将軍にクローズアップして記述し、幕末も含めて触れたい。

1.4代将軍家綱とその時代のエピソード

まずは、在任期間は長いが印象が薄いと思われる4代将軍の家綱の時代について記述する。
家綱は在任29年の長期政権であるが、就任時の年齢も見てほしい。11歳と若く在任期間が29年であり40歳で亡くなっている。
この家綱をよく補佐したのが、保科正之である。保科正之は、2代目秀忠の隠し子で、秀忠から子と認めらず不遇の境遇の中、高遠(諏訪湖の少し南)藩主の保科正光に養子として迎らえれる。その後、保科正光の死後高遠藩主となった後、3代将軍となった家光に出会う。家光は自分の弟と知って驚き、また実直な正之をいたく気に入り、江戸に迎え入れた。その後、大幅加増となり会津藩主となった。
家光は亡くなる際、保科正之に対し「宗家(将軍家)を頼みおく」と残し、正之は感銘を受け、よく将軍家を補佐した。家光の子の4代家綱も保科正之を非常に頼りにした。家綱の時代での大事件は、1657年の「明暦の大火(振袖火事)」である。日本の歴史上、戦災・震災を除けば最大の火災と言われ死者は3万から10万人と言われる大災害であった。この時に、保科正之は江戸城の再建よりも江戸の町の再建を優先し、天守閣は作らなかった。保科正之は、徳川の次の格の「松平姓」を名乗ることを許されたが、自分を養ってくれた保科家に恩を感じ、終生保科の名を通した。会津松平家が松平姓を名乗るのは3代目からであった。本当に実直な人だったようである。
なお、幕末に会津藩主松平容保が最後まで幕府側についたのは、会津松平家初代の保科正之の教えがあったからと言われる。
家綱の記述のはずが保科正之の記述になってしまった。やはり私の中で存在感があまりになく、記述する知識のなさを思い知る・・・。

なお、家綱の後は5代綱吉であるが、ここからその次の家宣について少し述べたい。家宣は家光の3男綱重の長子で、綱吉に子供がいなかったため将軍家に入り、48歳で6代将軍となった。家宣は綱吉とはそりが合わず、綱吉がどうしても残したいといった「生類憐みの令」を廃止したことからも知られる。在位後わずか4年で死去し、子供の家継に譲ったが家継が継いだのは5歳のときで、その家継もその後3年で死去。その間は、新井白石などの側近政治にならざるを得なかった。

2.13代将軍以降の将軍継嗣問題と幕末への道

その後、吉宗とその直系、家斉とその直系と続くが、それらについては前回の記述を参照いただき、ここでは、まさに幕末の頃の家定・家茂・慶喜について述べたい。

家定については、これまた私の印象はほとんどない。実際、将軍になる前から父の家慶からも不安視され将軍を継がせないようにしたという逸話が残っているくらいである。この人も脳性麻痺のうわさがあり、松平春嶽から「凡庸の中でも最も下等」とまでこき下ろされている。特に父の家慶が、ペリー来航の直後に急死したことから、タイミングも最悪であったと言える。国難にあたり、家定ではとても統治しきれなかったし、家定が病弱であったため、すぐに将軍継嗣の問題が起こった。

将軍継嗣の候補は、二人。一人は11代家斉の子で紀州に養子に行った斉順の息子慶福(後の家茂)、もう一人は英名の名が通っていた水戸の慶喜である。なお慶喜はその頃には一橋家に養子に入っていたため、一橋慶喜である。

結果、大老となった井伊直弼が強引に決着をつけ、1858年に家茂が14代将軍となった。9代家重、13代家定を選んだように、血筋を大事にしないと乱れる、と判断したといわれる。
家茂は、1862年に孝明天皇の妹、和宮と結婚(和宮降嫁)、1863年には229年ぶりとなる征夷大将軍による上洛を行い、天皇に攘夷を誓っている。幕末という時代を天皇の力を借りつつ乗り切ろうとするが、家茂も体が弱く、1866年の第2次調整征伐に出て病に倒れ、わずか20歳でこの世を去る。
私が幕末の志士の中で最も尊敬する勝海舟が、家茂の死をもって「徳川は今日滅んだ」と嘆いたほどの人物であったようである。家茂は家臣からの信頼も厚く、「ザ・政略結婚」ともいえる和宮との仲もよかったとされ、悪いエピソードは聞いたことがない。一方の慶喜は、家臣からはあまり好かれず、どうしても鳥羽伏見の戦いの逃げ方が印象に残ってしまい、あまりいい印象はない。しかし、幕末もしくは世界列強の脅威に迫られている日本国の状況の中で、大きな内戦を起こさせずに最大の勢力である徳川を無力化し明治政府につなげたという事実を見ると、皮肉ではなく慶喜の功績は大きいというべきだと思う。

3.徳川将軍の流れを見て

さて、3回にわたり江戸時代を、徳川幕府の将軍を中心に見てみた。歴史の教科書的には、古い方から新しい方へ順に歴史を見ていくが、今回のように日本の近代を意識してそこから歴史をさかのぼってみていく見方も、非常に面白い。江戸時代についてはまた触れたいと思う。この平和の時代に日本がどのように成長していったかを見ることは、その後の明治維新、二度の大戦、そして戦後を見る上でも重要であると、学べば学ぶほど思う。

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