明治維新とヨーロッパ世界【3】 ロシア・アメリカの動きと日本

タウンゼント・ハリス

19世紀後半のロシアの南下戦略と、新興国アメリカの動きを見た上で、日本の状況を考える

19世紀後半(明治維新の頃から日清戦争後)のヨーロッパ世界を見る。今回は、ロシア・アメリカである。
特にロシアは、典型的な「ランドパワー」の国である。前回の記事のイギリスとは全く違う動きを見せる。そして、このロシアこそが、日本の明治維新の要素として、大きくのしかかる。ロシアは、「不凍港」という強烈な領土的野心を持っていたからである。

また、この19世紀後半時点では、まだ「新興国」といえるアメリカについて、当時の状況を記述する。

(シリーズ記事 ▶明治維新とヨーロッパ世界【1】 徳川250年間の世界史と、19世紀後半の世界情勢、明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本

1.19世紀後半の動き

まずは、19世紀後半頃(1840年~1900年)の、戦争・紛争を時系列で追った年表と地図を見てほしい。

19世紀後半の世界の戦争・紛争

19世紀後半の世界の戦争・紛争

このように、世界各地での植民地戦争は19世紀後半はイギリスを中心に一気に進んでいった。日本との戦争もそのうちの一つであり、日本はそれを利用しつつ、明治維新といわれる国の体制の見直しを図り、列強に対抗する。
では、ヨーロッパ本土はどのようになっていたか。産業革命を経て、新たな段階に入りつつあるヨーロッパもまた、その体制を大きく変えていく変革期にあったと言える。

2.クリミア戦争(1853年)とパリ条約(1856年)

クリミア戦争そのものは、下記の図の通りである。バルカン半島のルーマニアにロシアが侵攻し、その後連合国がクリミア半島まで迫り、ロシアを抑え込んでいる。

クリミア戦争

クリミア戦争

クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国の弱体化に乗じて、その宿願たる南下政策を進めようとしたことに端を発する。いわゆる「露土戦争」の一環ともとらえられるが、これに対しオスマントルコはなすすべもなかった。しかし、イギリスを中心にロシアの南下を徹底的に封じるため、イギリス・フランスが参戦、ロシアの完全な敗北で終わった。
もはや産業革命を経た他のヨーロッパ列強に対し、ロシアはなすすべもなく、結果、自国の改革の必要性を痛感することとなる。なお、この戦争中にロシア皇帝「ニコライ1世」が死去したため、「アレクサンドル2世」の時代となる。ロシアは新しい皇帝の下、農奴国家から近代国家へと急速に変化を遂げていく。

また、クリミア戦争は産業革命を経た後の初の大規模戦争であった。兵器は発達しており、その犠牲者は何十万にも及び、戦争は悲惨を極めた。
その後に「パリ条約(1856年)」が結ばれた。戦勝国のイギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・サルディーニャ・オスマン帝国、そしてロシアとの間で結ばれた。これにより、すでに形骸化していたとはいえ、先のナポレオン戦争後のウィーン体制は完全に崩壊した。「帝国主義」という時代が明確となり、下記のような方向性が定まりつつあった。

① 最強国家イギリスは「光栄ある孤立(Splendit Isolation)」として独自路線を貫きつつ、圧倒的な国力による植民地支配を進める
② フランス・プロイセン・オーストリア等の列強は、重商主義に入りながらヨーロッパでは勢力均衡を保ち、植民地支配を進める
③ ロシアは、近代化政策と共にバルト海からの南下はいったん諦め、中央アジアそして東アジアに目を向けた南下政策を進める
上記3つのすべてが、アジアそして日本にそのままのしかかってくる。また、このクリミア戦争が1853年であり、ペリーが日本に来航した年と同じであるのは、偶然ではない。アメリカは、クリミア戦争でイギリスがヨーロッパに向いているうちに日本にペリーを派遣して、条約を結んだのである。

3.「ランドパワー」ロシアの南下政策とシベリア鉄道

クリミア戦争の敗北により、ロシアの南下政策は変更を余儀なくされる。国内の体制変化を伴いつつ、オスマントルコを中心としたバルカン半島からのアプローチはいったんやめる(すぐにまた始まるが)。1860年代には、「中央アジア」「東アジア」からの南下政策を強める。

1860年頃のロシアの南下政策

1860年頃のロシアの南下政策

中央アジアは、クリミア半島から更に東の位置のあたりで、いまでいえばカザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・キルギス・タジキスタンの5ヶ国あたりである。そのすぐ南が、アフガニスタンである。そこはイギリスが制圧したことは前回記述したとおりであり、イギリス・ロシアとのせめぎあいが続く。
一方、東アジアとは、まさに朝鮮半島にせまる「ハバロフスク」「ウラジオストク」である。これこそが、日本のみならず、清・朝鮮半島の脅威であり、日本としては北海道も含めたとてつもない脅威であった。

シベリア鉄道

シベリア鉄道

更に、地政学的にアジアにとって大きかったのが「シベリア鉄道」の建設である。1891年に開始され、1905年に完成している。これはロシア国内の鉄道と言えど、その目的は明らかで、ロシアの物流を一気に進め、軍事戦略上非常に重要なものとなる。東アジアの侵略において、実際に日露戦争では文字通り人の移動・物流の要となり、ロシアの東アジア展開に大きく寄与するものだった。

 

 

4.ペリーの日本来航とアメリカの状況

アメリカ領土拡張

アメリカ領土拡張

ペリーの来航は、先にも触れた通り、クリミア戦争と同年である。ペリーは「アメリカ合衆国海軍東インド艦隊」の代表であり、インド経緯で日本にやってきている。

少しさかのぼるが、アメリカの独立は7年戦争の終わった後の1776年で、建国からまだ100年にも満たない。また、メキシコからテキサスを併合したのは1845年であり、西海岸まで到達したのは翌年の1846年である。まだまだ、列強というより国内の体制が安定していない状況での、開国要求であった。

アメリカは二つの「不平等条約」と言われる条約を江戸幕府(将軍は徳川家茂)と結んだ。
① ペリーが開国を要求した「日米和親条約」(1854年)
② ハリスが通商等を定めた「日米修好通商条約」(1858年)

日本というより江戸幕府は、不平等の内容を大枠で知りつつもその優柔不断ぶりから、結局飲まざるを得ず、という安易な結論に達し、それが江戸幕府そのものを瓦解させた原因となったと言える。一般的には①の港の開放が、日本という国の開国のように思われるが、②の修好通商条約の影響力も大きかった。次にそれを見ていきたい。

5.アメリカ南北戦争と日米修好通商条約

アメリカ南北戦争は、アメリカ史上最大の内戦と言われる。1861年から1865年にかけて行われ、犠牲者は60万人以上ともいわれる。第二次世界大戦でのアメリカの犠牲者が35万人と言われるから、それをも上回る内戦だった。内戦というより、戦争という表現の方が正しいのかもしれない。奴隷制の廃止を主張するリンカーンがアメリカ合衆国(USA)の大統領に就任すると、続々とそれに反対する州が合衆国から脱退しアメリカ連合国(CSA)を結成しその大統領も選出した。アメリカ合衆国(USA)から分離した、アメリカ連合国(CSA)との戦争、が、南北戦争の構図である。
奴隷解放が象徴のように言われるが、もともとあった北部と南部の地域的な性質の違いに根付いており、対立は抜き差しならないものであった。

アメリカ南北戦争

アメリカ南北戦争

結果的には、リンカーンが率いる北部が勝利した。これによりアメリカはようやく一つの国としてまとまったと言える戦争であった。これ以前はアメリカ人も外国人も、「The United States are ・・・」と複数形で呼ばれていたという。それがついに一つとなり、また、北部ではすでに産業革命が始まっていたため、それに南部も加わったことで、世界の強大国として大きく一歩を踏み出したこととなる。

しかし、戦争時のリンカーン率いる北部には軍資金の余裕もなく、かなり苦しい状況だった。それがなぜ勝てたのか?実はその資金元として、先の日米修好通商条約が大きく寄与していたのである。

タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス

ハリスが日本と通商条約を結んだのは1858年であり、南北戦争はその3年後の1861年から始まっている。ハリスは、リンカーンの部下でもあった。
そして、その通商条約の第5条に「金と銀の等価交換」がある。今で言えば為替レートの設定の部分であるが、ここに大きなカラクリがあった。細かくは割愛するが、世界のレートとかけ離れたレートでの換算となり、日本の金・銀が大量に流出し、それを世界レートで換金すれば何倍にもなる、という状態となっていた。徳川幕府も気づき手を打とうとしたのだが、ハリス側も知っており、かなり利用されてしまった。結果、日本の金・銀は大量に流出。幕府は一気に財政難に陥り経済は混乱した。(これらについては、上念司氏の「経済で読み解く明治維新(ベストセラーズ)」に詳細があるので、興味ある方は是非。)

北軍の資金がすべて日本の金・銀とはいわないまでも、かなりの量であったようである。しかもこの話にはおまけがある。
南北戦争が終わったのは1865年、日本ではその後、戊辰戦争が1868年から1869年にかけて行われる。新政府である明治政府は、フランス経由も含めてアメリカから武器を購入している。それらは、南北戦争の余剰品や中古品であった。
また、ロシアからのアラスカ購入は1867年。北軍たるアメリカ合衆国にここまでの潤沢な資金を提供していたのは、あの日米通商修好条約が少なくともかなり大きな原因であったようである。

日本からすれば騙され続けているようにみえるが、これが国際政治であり国際経済と考えるべきである。今でも全く通用する話であり、実際に行われている。正しい知識と正しい判断がなければこうなるという、大事な教訓としてとらえることが重要だと思う。とはいえ、現実に見ると悲しくなるが・・・。

6.南北戦争後のアメリカのアジア侵攻

南北戦争を経て、また、産業革命を経たアメリカは大国として、その存在感を見せ始める。その後のハワイの侵攻(1893年)、そしてフィリピンのスペイン支配からの独立をへの侵攻である米比戦争(1899年)と、ヨーロッパ列強同様の領土的拡張を始めていくのである。もはや、「新興国」という文言は当てはまらなくなってきていた。

7.19世紀後半のロシア・アメリカの動きをみて思うこと

前回のイギリスは、インド→清→日本という形で、海を伝ってアジア及び日本に迫ってきていた。一方、今回記述したロシアは、「不凍港」を目指すという目的の下、陸を伝ってアジア侵略を進めていく。そしてそこに、一本の導線である「シベリア鉄道」を建設した。
日本にとっては、こうした国際情勢の中、ヨーロッパ列強の動きを注意深く見つつ、開国というより、列強支配を防ぐ軍事力と、列強の一員となるべく国際的地位をつけることに腐心した。アジア諸国でそれを目指した唯一の国であった。

また、アメリカも独立戦争という非常に厳しい内戦を経ていることがわかる。日本とは違った道ではあり、日本を踏み台にした感はあるが、何十万人という犠牲(ネイティブアメリカンへの虐殺はさらに上回るが)を出しながら、国の形成という意味では、日本の明治維新のスピードと変わらないくらいに思える。
世界的に見ても、まさに激動の時代であったと、改めて思う。

では、プロイセン・フランスはどうであったか。次回に見てみたい。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2017年 12月 18日

    ①から③まで一気に見ましたよ!大作ですねー。地政学的に各国から狙われながら、ここぞという時に煌めく国士が現れ、それを切り抜けていく…(日本の話に脱線したいけど踏みとどまるコメントが笑えます)。
    いよいよヨーロッパに戻り、プロイセン=ドイツですか。楽しみです。

      • てつ
      • 2017年 12月 19日

      世界と比較してまとめていたら明治維新がまた見えてきて、私も楽しかったです。
      明治維新自体を書くのは、別の機会にとっておきます。

      まだ、続きますよぅ。

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