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江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代

貨幣の鬼

徳川将軍4代~7代の「文治政治」とよばれる時期の江戸時代を見る

江戸時代シリーズの3回目である。

今回は、徳川時代の前半である7代までを見るとともに、特に4代から7代までの治世を詳しく見る。

(シリーズ記事)
➡江戸時代に挑む!【1】江戸時代の歴代将軍と治世の流れ
➡江戸時代に挑む!【2】(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治
➡江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代
➡江戸時代に挑む!【4】(8代~13代)江戸時代後半の「3大改革」と幕末への道
➡江戸時代に挑む!【5】江戸時代の思想史 ~「武士道」を探る~

(動画でのポイント解説)

1.徳川15代将軍と初代家康から7代家宣までを見る

まず、徳川15代将軍の表を見てほしい。前回に解説した表である。

徳川15代将軍 系譜図
徳川15代将軍 系譜図

先に述べたとおり、7代までの政治の状況はというと、3代家光までの時代と、その後の4代家継から7代家継までの時代の2つに分けられる。前半の治世については前回詳しく述べたとおりである(➡江戸時代に挑む!②(初代~3代)徳川幕府の創世期と武断政治)。家康・秀忠・家光の時代に、かなり大きな制度改正がどんどん行われている。

そして、次に将軍となったのは若干11歳で病弱の徳川家綱である。それからの状況を見ていきたい。下に江戸時代前半の年表を示す。

徳川幕府年表① 武断政治と文治政治
徳川幕府年表① 武断政治と文治政治

表にはその頃の元号をすべて入れてある。元号も意識して江戸時代を見ると少し味がでる。見ていただきたい。

今回は右側の時代(家綱・綱吉・家宣・家継)の時代である。後半の4代は、その年齢から見ても、なかなか難しい時代だったことに気づく。4代家綱は確かに29年という長い治世であったが、就任時にはわずか11歳。従って、その治世の前半は実質的には行っていなかったことが推測できる。また6代家宣・7代家継の政権の短さ及び家継の若さなど見ると、将軍家の後継問題が生じていたことが推測できる。それは当時の時代を見る上でも重要な要素となる。

それでは、以降、それぞれの時代について詳細に見てみる。

2.家綱と慶安事件

4代将軍 徳川家綱
4代将軍 徳川家綱

徳川家綱は、11歳で即位している。父の徳川家光は長年男子に恵まれず、家綱が生まれるのも大分遅い頃であったためである。幼少の家光を支えるべく、叔父の保科正之(ほしな まさゆき)、大老酒井忠勝(さかい ただかつ)、老中松平信綱(まつだいら のぶつな)など、名臣達がしっかり活躍した。家光が、家綱を補佐するよう用命したといわれる。

家綱が即位した年の1651年の慶安4年、家綱がわずか11歳であることから、その権力の空白を狙って一つの事件があった。後に「慶安の変(けいあんのへん)」「由比正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)」といわれる事件である。由比正雪(ゆいしょうせつ)が計画した幕府の転覆計画である。由比正雪は軍学者で、塾も開いており門下生が多かった。
この頃は関ヶ原の戦い、大坂の陣、また家光の武断政治等により、大名の改易(取り潰し)が頻繁に行われていた。戦いがなくなりまた大名の勢力が大きく削がれていく中、大名が取り潰されることで武士も職を失い、町には浪人があふれていた。徳川幕府に対する不満も大きくなっていった。

由比正雪の銅像
由比正雪の銅像

そんな中で、幼少家綱への将軍継嗣が行われたタイミングで、浪人からの支援も大きかった由比正雪が計画したのが、慶安の変である。計画は、江戸城の焼き討ち・将軍の誘拐・天皇の擁立等まで考えられていた。結果的には、計画は内通者から発覚し、失敗している。正雪は駿府で取り囲まれ自刃し、共謀者は捕らえられ死罪となっている。また、由比正雪の遺品から、徳川御三家の紀州藩主の徳川頼宣(よりのぶ:家康の10男)の書状があったため、御三家を巻き込んだ大事件となった。しかしこれも偽書と判明し、頼宣は許されている。

このように事件自体は未然に終わったが、幕府の政治に与えた影響は大きかった。当時は大名の取り潰しにより武士は職を失い、浪人が激増していた。そんな中でのこの反乱を受けたこと、また幕府の体制も盤石のものとなってきた中で、幕府は大名に対する統制を緩めることをすすめた。

特に保科正之や酒井忠勝などが中心となって、大きく政策の改革を進めた。これらの政策の学問的バックボーンは、林羅山が確立した朱子学の系譜である。武断政治と呼ばれる初代家康から家光までの政治から、戦争のない時代への転換が大きく図られていく。4代家綱から7代家宣までの政治が、後に「文治政治」と位置づけられる政治である。
具体的な政策の変換の主要なものは、次の通り。

「末期養子(まつごようし)の禁」の解禁(慶安4年:1651年)
「末期養子の禁」は徳川幕府が幕藩体制確立のために禁じたものである。「末期養子」とは、大名が跡取りがいないまま死去した場合に緊急的に結ぶ養子縁組のことである。これを認めないとしたことで、徳川の権威は強力なものになり各大名への統制を強めることができた。幕藩体制確立において、非常に有効に機能したと言える。しかし、家康から家光の3代にわたり、跡取りがいないために取り潰される大名が続出し、浪人が増えたことにより社会不安が増大していた。
これを、解禁したのである(慶安4年:1651年)。この改正は各大名に大きな影響を与えることとなる。
ただし、全く解禁というわけではなく幕府の承認が必要であった。
武家諸法度の改正【寛文令】(寛文4年:1664年)
武家諸法度は、8代将軍吉宗の代まで将軍が変わるごとに改正された。家綱の時の改正は「寛文令」と言われる。その中で、「殉死の禁止」(主君などが死んだときに追って死ぬっことの禁止)、「大名承認制度の廃止」(江戸に大名の人質を出す制度の廃止)など大きな改革が行われた。特にこの二つの改正を、「寛文の二大美事」と呼ぶ。

こうしたこの当時の幕府の施策の柔軟な変更が、徳川幕府が続いた上での重要な要因と言える。これを進めた保科正之について、「保科正之がいたから徳川幕府が続いた」とまで言う識者がいるのは、こうした思い切った政策の変更を行い、大名を救ったためである。

3.江戸時代最大の火事 明暦の大火とその復興

明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年(1657年)に起こった江戸時代最大の火事であり、戦争や震災を除いた火事では日本史上最大の火事である。死者は3万人から10万人まで言われ、江戸の大半が焼けたという大火災である。出火原因の逸話から「振り袖火事」とも呼ばれる。
余談だが、林羅山は明暦の大火の4日後に亡くなっている。書庫が焼失した衝撃と落胆が遠因とまで言われた。

この火事により大半が焼けた江戸の町の再建が必要となる。幕府は江戸の都市改造を進め、御三家の屋敷を江戸城から外に出し、川や橋の建設も進んだ。

保科正之
保科正之

これらを取り仕切ったのが保科正之(ほしな まさゆき)である。保科正之はこの困難にあって果断に進めた。参勤交代で江戸にいる大名に帰国命令を出し、被災した江戸の民衆には救助金を支給した。炊き出しも行い、積極的に財政出動を行った。財政を心配する幕閣に対し、保科正之は「幕府の貯蓄はこういうときにこそ使うものである」と一喝したという。また、一方ではこうした混乱期による米価の変動にも気をつかい、物価の安定に努めたという。

消失した江戸城の再建の際、天守閣の再建に対し反対したのも正之である。当時で考えれば権威の象徴であるはずの江戸城は最優先課題であろうものを、正之は町の再建を優先した。なお、江戸城すなわち今の皇居にある天守閣の台は、今も再建されずそのままである。

4.綱吉の政治 ~「天和の治(てんなのち)」から生類憐れみの令~

(1) 5代将軍綱吉と天和の治

家綱は病弱であった。また、跡継ぎとなる子供がいなかったため、次の将軍はその兄弟からということになった。家綱の兄弟は何人かいてその中で綱吉は4男であったため、その可能性は低かったのだが、兄達がなくなっており、結果的に綱吉が将軍となる。

5代将軍 徳川綱吉
5代将軍 徳川綱吉

綱吉は、父の家光から綱吉に儒教的思想をよく教育されたと言われる。それは、兄である家綱に逆らわせないため、という側面もあった。儒教すなわち朱子学的考えでは、必ず上下の関係を強く重んじるためである。
そうした綱吉が将軍になり、推進したのも儒学である。綱吉自身が大変学問に熱心であり、また、家綱から引き継がれる文治政治の流れも相まって、そうした儒教の特に朱子学に基づく政治が進められた。結果、そうした幕閣や学問が大いに栄えた。こうした儒学を重んじた綱吉の施政は、後の政治・思想を形作る学者の輩出を多く生む。新井白石を筆頭に、荻生徂徠山鹿素行など、後に大きな影響をもたらす思想の大家が出てくるのもこの頃である。

徳川綱吉が将軍となったばかりの頃の元号は「天和(てんな)」である。この頃の綱吉の儒教に基づく統制は「天和の治(てんなのち)」と呼ばれ、善政が行われた時期として認識されている。これを進めたのが、大老 堀田正俊(ほった まさとし)であった。

大老 堀田正俊(ほったまさとし)
堀田正俊は、家綱の末期に綱吉を将軍に推していたため、綱吉が就任した後は重用されている。綱吉就任後間もなくして大老となる。特に「天和の治」時代は、綱吉を補佐し政策を進めた。
しかし、大老になってわずか3年後の貞享(じょうきょう)元年(1684年)に江戸城内で刺殺された。大老が江戸城内で殺されるという大事件についいていろいろ憶測を呼んだ。綱吉が黒幕であったという説であったり、淀川の治水工事に関わる問題が発端であったり、ということが言われたが、真相は全く闇の中のままである。堀田正俊の死後は、綱吉は「側用人(そばようにん)」を重用し、悪名高い「生類憐れみの令」と呼ばれる政策が行われていく。綱吉の治世は、堀田正俊がいるときとその後とで分けられるのである。

(2) 側用人政治と生類憐みの令

大老 堀田正俊が刺殺されるという大事件の後には、綱吉は「側用人(そばようにん)」を重用するようになる。側用人は内閣たる老中と将軍との間に入る存在となり、将軍の申しつけを伝える存在であった。その側用人として特に重用されたのが、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)であった。そしてその頃に行われていたのが、天下の悪法と言われる「生類憐れみの令」である。

生類憐れみの令、は1つの法律ではない。135回も出されたお触れ書きの総称を指す。綱吉の政治と言えばこの「生類憐れみの令」というイメージが強い。実際、かなりの不評であったにもかかわらず、綱吉は執拗に推し進めていった。死の間際には、「生類憐れみの令」の継続を、次の家宣に念を押したほどである。

側用人の柳沢吉保は、とかく将軍の力をかさにした悪役のイメージが強い。しかし、綱吉の方針に忠実に行動した結果であり、綱吉の信頼が厚かったのに比例して、やはり批判も高くなっていったようである。実際には、よく綱吉の意見を聞きながら、政策を進めている。
柳沢吉保は、綱吉の文治政治の方針通りに、荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの儒学者を登用・支援し儒学の発展に大きな影響を与えた。また、逼迫する幕府の財政に対して、かなり大胆な政策であった「貨幣改鋳」を主張した荻原重秀(おぎわら しげひで)の案を採用し貨幣改鋳を押し切ったのは、柳沢吉保である。この効果は大きく、江戸は大きく栄え幕府の財政危機も大きく改善された。そして元禄文化といわれる江戸時代の一つのピークは、この時期に象徴されているために名付けられている。

綱吉の時代は「生類憐れみの令」のみが印象にあるが、経済は大いに栄え、朱子学を中心とした学問の発展も著しく、江戸時代全体を通じても大きな繁栄を生んだ時期でもあったのである。

(3) 勘定奉行 荻原重秀

荻原重秀(おぎわら しげひで)について少し深く見てみたい。

荻原重秀は、若くからその才覚を発揮していた。徳川家綱の時代に、わずか17歳で勘定方に抜擢され、豊臣秀吉以来実施していなかった「検地」を見事にこなしている。綱吉の時代となってもその実力は認められていて、特に経済政策を担っていた。
その中でも、貨幣の改鋳(元禄8年:1695年)に見られる経済的知見の高さは、群を抜いている。当時、金・銀が貨幣として使われていたが、幕府に貨幣を発行するだけの金・銀が亡くなりつつあった。デフレに陥ろうとしていたのである。
そこで荻原重秀が主張したのが、金・銀の含有量を減らして貨幣を増やす、という、まさに今で言う金融政策であった。現在の日銀の金融緩和そのものである。しかし、家康以来の貨幣を変更することは非常に慎重論が多く、また荻原重秀の経済理論を理解できる者は少なかった。しかしそれでも、柳沢吉保が採用し、結果江戸の町は大きく潤った。綱吉時代を象徴する元号「元禄(げんろく)」の好景気を生んだのは、紛れもなく荻原重秀の政策によるものであった。

このときの、荻原重秀の考え方は「貨幣の素材などなんでもいい、陶器片や瓦礫(がれき)でできていてもいいのだ、要は政府が信用を保障すればいい」というもので、まさに現在の貨幣経済の理論そのものであった。「三王外記」の原文では

「貨幣は国家が造る所、瓦礫(がれき)を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。」

とある。まさに今の「貨幣」と同じ考え方である。経済学の権威である「ケインズ」を待たずともその200年前に貨幣経済を理解していたのである。世界的に見ても、まったくの先進理論であった。あまりに先進過ぎてそれを理解できる人間は少なかった。それほどの天才であったと言える。

「貨幣の鬼」
「貨幣の鬼」

なお、荻原重秀は、なぜかその後の新井白石から目の敵にされて、最終的には勘定奉行を罷免され、その後すぐに亡くなっている。新井白石は荻原重秀とほぼ同年代で、相当のライバル心があったと言われる。儒学者の新井白石がそこまで露骨に個人を非難するのは珍しく、荻原重秀の理論を理解できなかったことによる嫉妬だとも言われている。

荻原重秀はなかなか歴史上語られないが、興味の尽きない人である。当時の世相も含めた本が小説で「貨幣の鬼」として出ているので、興味のある方は是非ご覧を。

(4) 赤穂浪士の討ち入り事件と当時の議論

綱吉の時代について、赤穂浪士の討ち入り事件を抜きには語れないだろう。主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が切腹を命ぜられお家断絶となった赤穂藩の47人の志士が、主君の敵である吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切ったという事件である。

私がこの事件で注目するのは、事件そのものより、その後の論争等から見る当時の世相である。討ち入りは元禄15年(1703年)で、47人の処罰をどうするかということで、幕府で大論争となった。江戸の町は、47人に対して大きく同情的であったためである。

荻生徂徠
荻生徂徠

また大学頭である朱子学者の林鳳岡(ほうこう)などもその潔さから助命を求めたが、荻生徂徠の意見は全く異なっていた。すなわち、

「もし浪士達を許せば、今度は吉良の息子たちが浪士達を討つ事を止める理由が無くなる。浪士達の義に応えるには、武士としての礼をもって切腹させるのが良い」

とし、切腹を主張した。結果的にこれが採用され、47人全員切腹となったが、斬首でなく名誉の切腹としたところも、幕府の苦しい決断が見て取れる。

荻生徂徠は、儒学の中でも朱子学派と一線を画する「古学派」の流れの学者である。一方、林鳳岡は朱子学の本流の大家である。それらの意見が異なって論争があったことが、非常に興味深い。

また、1700年頃の論争がこれほど平和的なものであることは特筆すべきである。現在の裁判やワイドショーのネタでもありそうな内容であり、支配層である幕府が民衆の意見を取り入れながら決断をすることは、当時の世界でもなかなか見当たらない。ヨーロッパは、イギリスはピューリタン革命の頃であり、スペイン継承戦争が行われている真っ最中である(過去記事参照 ➡明治維新とヨーロッパ世界①)。戦争という全く生産性のない負のらせんを、いち早く抜け出ていた日本ならではの事件であり、論争であると思う。

5.徳川家宣・家継の時代

(1) 新井白石と正徳の治(しょうとくのち)

結局、徳川綱吉には継ぐべき男子がいなかったため、第6代の将軍には、綱吉の兄の子供である、徳川家宣、がついた。家宣は当時は甲州藩の藩主で43歳であった。甲州藩は取りつぶしとなり、その家臣団はそのまま登用された。すなわち柳沢吉保の体制は大きく変わり、新たに政治を動かしたのが、側用人 間部詮房(まなべ あきふさ)と、侍講(家庭教師)新井白石(あらい はくせき)である。

朱子学者の新井白石は、学者として優秀で数々の改革を実行していく。この頃の元号である「正徳(しょうとく)」から、新井白石が実行していった数々の改革を「正徳の治(しょうとくのち)」と言われる。主な内容は以下の通り。

① 正徳金銀の発行
② 勘定吟味役の復活
③ 朝鮮特使待遇の簡素化
④ 閑院宮家(かいいんのみやけ)の創設
⑤ 武家諸法度の改訂(「宝永令」)
⑥ 生類憐れみの令の廃止(順次緩和)
新井白石
新井白石

①、②は先の荻原重秀が行ったことを改訂している。特に①の影響は大きく、経済はデフレとなり、大混乱を生じさせた。新井白石は荻原重秀をことごとく嫌い、彼の行った政策を否定し続けた。しかし、経済に関して天才とも言える荻原重秀に対し、新井白石といえども超えることができず、経済は大いに混乱することとなった。
④の閑院宮家(かいいんのみやけ)の創設は、幕府のみならず朝廷の繁栄も重要であるとする新井白石の考えが良く出ている。1710年に創設された閑院宮家だが、わずか50年後には閑院宮家から天皇を継いでおり今の今上天皇に続いている。皇継の断絶を救ったといえる。
そして、⑥の「生類憐れみの令」の廃止は、天下の悪政を改正するという大きな転換であった。しかも、前将軍の綱吉はその臨終の間際に家宣にその継続を指示している。いくら悪政とはいえ、それを変えるのは難しかったであろうが、家宣の決断により断行されていく。

このように、様々な改革が実行されていくのだが、家宣がわずか3年後に亡くなるため、その改革の行方は、また混沌とすることとなる。家宣の息子はわずかに5歳のため、間部詮房・新井白石体制は維持されていくことになるが、新井白石の強引な改革の実行により、老中を中心とした幕閣との軋轢は大きくなるばかりであった。

(2) 徳川家継の頃の政治と限界

徳川家継はわずか5歳で将軍職に就く。当然この年でまともに政治を行えるはずはなく、側用人 間部詮房、侍講 新井白石の体制は維持された。しかし、そもそも一介の旗本に過ぎない新井白石が「侍講」という立場で政治を行うことには無理があり、それが幼少の将軍となればなおさら批判は高まる。もともと新井白石の原理主義的な性格は、老中や譜代の大名との軋轢を生んでいたが、もはやそれが抜き差しならないところまで来ていた。

そんな中で、家継も就任後わずか3年で亡くなる。このときの将軍継嗣問題は混沌を極め、結果的に、紀州の四男である徳川吉宗が将軍として迎え入れられる。初めて御三家からの将軍となり、江戸幕府の体制は大きく変わることとなる。

 6.徳川吉宗が将軍になるまでの連続死

幼少の家継が亡くなった後に将軍となるのは、紀州の4男の吉宗である。吉宗はまさに江戸時代において大きな役割を果たし、「中興の祖」というべきにふさわしい活躍をしている。

それらについては次の記事で述べるが、ここでは吉宗が将軍になるまでに起こった、徳川家を襲った連続死について述べておきたい。全部で7人が連続して死んでいる。まずは表を見てほしい。

吉宗就任までの徳川家連続死
吉宗就任までの徳川家連続死

まずは、1705年の紀州で起こった連続死である。3代藩主である長男の綱教(つなのり)が39歳で突然亡くなった。綱教は将軍綱吉の後継候補であった上に、その時の健康上の問題はなく突然死であった。それがその年の7月であり、その後すぐに、父の光貞が9月に亡くなる。更に綱教の後を継いだ4代藩主の頼職(よりもと)も藩主に就任してわずか3ヶ月後の10月に亡くなった。
頼職は妻も子もいなかったため、結果的に4男の吉宗が紀州藩主となるのである。吉宗は江戸幕府の将軍になる以前に、紀州藩主となったのも奇跡的とも言える状況であった。
その後、将軍家も綱吉から家宣・家継と非常に早いスパンで亡くなっている(1709年、1712年、1716年)。しかも、将軍家は御三家筆頭の尾張藩が最有力のはずだが、その有力候補の一人であった徳川吉通(よしみち)も亡くなっている(1713年)。その結果、紀州の吉宗が将軍となり、江戸に入ることとなった。

これらの連続死がすべて吉宗の策略とは思えないが、何らかの力が働いた、もしくは吉宗の力が働いたと推測される状況であったとは言える。吉宗は将軍についた後「御庭番」というCIAか特殊部隊か、ともいえる諜報活動部隊を作っているし、大奥等への根回しも入念に行う人であった。暴れん坊将軍のイメージとは遠く離れ、策略家・政治家としての一面を持った人であることを知っておくと、その後の活躍も理解できる。

吉宗の「吉」は綱吉からもらった文字である。徳川家康を尊敬して病まない吉宗であり、綱吉の善政も見習うべく江戸城に入る。江戸の3大改革の中で唯一成功したと言われる「享保の改革」をやってのけ、日本を大きく導く人のバックボーンを少し紹介した上で、次回にその治世の内容を見ていきたい。

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コメント

    • ゆかり
    • 2018年 2月 27日 1:29pm

    凄く分かりやすい!!
    流れが掴めるし、人となりも、周りの人間関係も、時代の雰囲気も、代表的な出来事も◎
    ありがとうー!!
    しかし、賢い人、活躍した人、沢山いるねー。

      • てつ
      • 2018年 2月 28日 8:39am

      「わかりやすい」と言われると、本望だねぇ。

      江戸時代もなかなか面白い時代でしょ。教科書に出るような重要事項はなんとか網羅すべく頑張ってまとめてます。

    • ゆうじ
    • 2018年 2月 18日 5:24pm

    家宣が長生きしていれば、間部詮房・新井白石とのトロイカ体制で歴史に名を刻む将軍になっていたのでしょうかねぇ。
    デフレ脱却の荻原重秀vsインフレ抑止の新井白石。
    見方によって優劣が分かれますが、天変地異や悪政?(寺院改修や生類憐みの令)の中、一人で財政再建に立ち向かう荻原重秀に惹かれますね。
    いよいよ吉宗!次回も楽しみです。

      • てつ
      • 2018年 2月 20日 10:31pm

      「家宣が長生きしていれば」というのは、斬新ですね。考えたこともなかったです。確かに家宣はなかなかの人物で、新井白石の強引さを上手にいさめていたようです。荻原重秀を守ったのも、家宣らしいのです。そう考えると、確かに長期政権を見たかった気もします。

      新井白石は正義感は強いのですが、どうも人望がないのと経済音痴なので、私も荻原重秀派ですな。

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