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フランス革命とナポレオン時代を追う!【6】革命第四段階:揺れ戻しの政治と対仏大同盟とナポレオンの台頭

テルミドールの反動以降の「揺れ戻し」の政治と一方でヨーロッパに波及するフランス革命戦争、そしてその中で台頭していくナポレオンを追う

フランス革命の最後である第四段階は、テルミドールの反動後からナポレオンのクーデターまでの1795年7月27日から1799年12月25日の約四年間である、この四年間は政治的には苦労の四年間ではあるが、大きな体制の変化はなかった。しかし、国内・国外共に大きな課題を抱えながら進んだ四年間で、その中でナポレオンが大きく台頭する。

(シリーズ記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【3】革命第一段階:憲法成立と国王の危機
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【4】革命第二段階:王政の終焉と、周辺諸国との戦争
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【5】革命第三段階:ジャコバン派の恐怖政治と、テルミドールの反動
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【6】革命第四段階:揺れ戻しの政治と対仏大同盟とナポレオンの台頭
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【7】そしてナポレオンとその後へ

(動画でのポイント解説)

1.混乱を極めるフランス政府と、それを警戒するヨーロッパ世界

第三段階でのフランス国王の処刑は、王政を敷いていた他のヨーロッパ諸国に激震をもたらした。王政側は恐怖を覚え、民衆は同調する考えもあり、当時の啓蒙思想の広がりと共に大きな波紋を投げかけていた。

その第三段階時点で、フランス革命軍はヴァルミーの戦い以来、本来の力を取り戻しつつあった。特にヨーロッパに影響を与えたのが、ロベスピエールによるベルギーの占領である。ルイ16世の処刑の直前の1793年11月に行われている。このように、フランスは混乱しつつも、士気旺盛な軍によって他国からの干渉をはねのけるだけの余裕が出来てきた。

革命第三段階・第四段階
革命第三段階・第四段階

一方、テルミドールの反動により最も急進的なジャコバン派は壊滅した。そして変わって政権を取ったのが、比較的穏健派といえるジロンド派であった。1795年に8月に憲法を成立させ(1795年憲法)、5人の総裁が政治を仕切り、それをチェックする「元老院」と下院にあたる「千五百人会」が設けられ集団指導体制を作った。王政の復古やジャコバン派の独裁のようなことが起こらないように腐心された。この頃からナポレオン帝政までの1795年から1799年の政府を「総裁政府」とよび、フランス第一共和制をになった。

しかし、内情は全くまとまっておらず、安定にはほど遠い状態だった。クーデターに近い活動が何度も起こる。
王政の復古をもくろむ王党派はそもそも共和制に反対し、パリで蜂起する(1795年10月)。その鎮圧を任されたのが、当時から頭角を現しつつあったナポレオン・ボナパルトであった。ナポレオンはこの蜂起を鎮圧し、更なる昇進をする。

また、「バブーフの陰謀」と言われる政府転覆が謀られた。事件は未然に発覚しバブーフは総裁政府により処刑される。バブーフは今で言う「共産主義」に近い考えであり、社会を共産主義体制に持って行こうと考えていた。ヨーロッパにおける共産主義運動の先駆者とも言われる。

2.結成される「対仏大同盟」

不安定に進むフランスの「第一共和政」であったが、軍の士気は旺盛であった。中でも、ジャコバン派独裁の頃の1793年11月に、オーストリア、イギリス・オランダ軍を破りベルギーを占領したことは、特にイギリスを慌てさせることとなった。これには、ロベスピエールが考えた軍の編成方法(アマルガム法)が大きく寄与しているといわれる。ナポレオンもこの頃から、ロベスピエールへの信頼を厚くしていった。

フランス革命戦争の初期
フランス革命戦争の初期

その上、国王ルイ16世を処刑するという大ニュースがヨーロッパを駆け巡り、遂に最強国のイギリスが動き出す。ルイ16世処刑の1794年1月の翌月の2月にイギリスが中心となって、オーストリア・プロイセン・オランダ・スペインなどが結び「第一回対仏大同盟」が結ばれる。
以後ナポレオンが帝位に就いた後の期間も含めると、対仏大同盟は大きいもので4回、小さいものも入れると7回にもわたり結ばれて、フランスに対抗することとなる。それほどまでに、フランスは力を持ち始め、他国に対し「フランス革命の精神を広める」という名の侵略を進めることとなるのである。

「第一回対仏大同盟」はイギリス主導のものであったが、イギリスはルイ16世を処刑したことに危惧したと言うより、イギリスの衛星国とも言えるオランダに迫ってきたことを止めないといけなかった。オランダはイギリスにとって非常に重要なヨーロッパの拠点であったのである。それが隣のベルギーが侵略を受けたことで危うくなったため、「ルイ16世の処刑に対抗する」というスローガンで各国を集め、フランスに対抗した。

3.ナポレオンボナパルトの台頭とブリュメールのクーデター

ジャコバン派の独裁による恐怖政治以降の政治は、1795年憲法に基づき、5人の総裁と二院からなる集団指導体制で進んでいた。その中での、先に述べた対仏大同盟など他国との戦争が政治の主題になりつつあった。

ナポレオン
ナポレオン

このような状況下で、フランス軍はその存在感を国外はもちろん、国内でも持ち始めていた。その代表が、ナポレオン・ボナパルトであった。その天才的な軍事的才能は、対仏大同盟に対するフランス軍をより強大にしていた。第一回対仏大同盟は、ナポレオンがイタリアに遠征しオーストリア軍を破った(1797年10月)ことにより崩壊する。ナポレオンはその後、パリに戻ると熱狂的に迎えられた。

アベ=シエイエス
アベ=シエイエス

そんな中で、総裁政府の5人の総裁の中で先の「シエイエス」が実権を握る。シエイエスは数々の蜂起により安定しないフランスの体制をより強固にしようと、憲法改正をもくろんでいた。しかし、千五百人会がそれを認めないであろう、と遂にクーデターを計画する。その時の協力者としてナポレオンに白羽の矢が当てられた。
ナポレオンは当時29歳。エジプト遠征に出ていた。このエジプト遠征に対してイギリスが1798年にオーストリアと結び第2回の対仏大同盟を結んでいた。フランスにとっては大きな危機でもあった。

ブリュメールのクーデター
ブリュメールのクーデター

そして遂に実行に移されたのが1799年11月のブリュメールのクーデターである。3日間で終わったこの軍事クーデターをナポレオンは巧みに利用し、シエイエスを排除し、憲法が改正され(1799年憲法)「統領政府(執政政府とよぶこともある)」が樹立される。3人の統領がいるが、第一統領のナポレオンが圧倒的権力を持っていた。これを可能にしたのは、戦争に強く啓蒙思想を受け継いだナポレオンに対する絶大な国民の人気があったことが背景にある。

このブリュメールのクーデターによりフランス革命は終わったと言われるが、既にテルミドールの反動の時点で、フランス革命は終わっていたとする説もある。テルミドールの反動の以降の総裁政府は惰性で続いていただけの存在だった。富裕層による政治は大きな変革を作り出すことが出来ず、国内はクーデターが相次いだ。またヨーロッパ各国との戦争にも苦しい状況が続いていた。この閉塞状況を打破するのは、結局ナポレオン個人に頼ることになったのである。

これ以後、ナポレオンは国民からの絶大な人気と天才的な軍事能力と政治力を駆使し、自らの帝政を構築する。そしてヨーロッパ全土を支配下におくという野心を見せ始めながら、フランス革命の精神を広めていくこととなる。

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