フランス革命において、国王も処刑されるジャコバン派による「恐怖政治」とその後のテルミドールの反動の時代を見る
フランス革命の第三段階としたのは、1792年9月21日から1794年7月27日の約二年間である。この二年間はすさまじい虐殺とも言える「恐怖政治」の時代である。ルイ16世とマリーアントワネットの処刑、仲間同士の相次ぐ処刑、革命に反するヴァンデーに対する大量虐殺、と、ジャコバン派政府のすさまじい粛正が行われたのがこの期間である。
(シリーズ過去記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【3】革命第一段階:憲法成立と国王の危機
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【4】革命第二段階:王政の終焉と、周辺諸国との戦争
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【5】革命第三段階:ジャコバン派の恐怖政治と、テルミドールの反動
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【6】革命第四段階:揺れ戻しの政治と対仏大同盟とナポレオンの台頭
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【7】そしてナポレオンとその後へ
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(動画でのポイント解説)
1.(革命第三段階の概要)粛正と虐殺の革命第三段階
1792年9月21日の王権停止により、ブルボン王朝は完全に滅亡し、「第一共和政」となった。絶対君主制から市民の政治へ、という意味では大きな革命の成果であったが、革命政府にとって難題は変わっていなかった。革命に憂慮したヨーロッパ諸国、特にオーストリア・プロイセンとの戦争、そして経済の貧困である。
その難題に対処するために取った手段が、自国に対しては反革命分子と呼ばれる勢力に対する徹底した弾圧と、他国への侵略であった。イギリスへの対抗もあったが、フランスの取った方向性は、明らかに他国への侵略に向けられていった。
革命第三段階においては、その中でも特に「自国への弾圧」が徹底して激しさを増していく。特に国王とその一家の末路は象徴的であった。そうした革命第三段階を見ていく。
2.ジャコバン派(モンターニュ派)の政治
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まずこの頃の革命政府の中心は、当初はジロンド派であった。ジロンド派は「共和制」を主張し王権を否定していたグループではあるが、必ずしも王家そのものを否定はしていなかった。一方で、更なる急進派である「ジャコバン派(モンターニュ派)」は急進的な考えに基づく過激集団とも言える存在であった。「8月10日事件」、「9月虐殺」はジャコバン派によるものである。
このジャコバン派が台頭し、そして没落するのがこの第三段階の2年間である。ジャコバン派の「三巨頭」と言われたのが、J・P・マラー、J・J・ダントン、そしてM・F・ロベスピエールである。
ではこの三人が協力して政治を進めたかというとそんなことは全く無く、マラーは暗殺され(1793年7月13日)、ダントンはギロチンに送られ(1794年4月5日)という有様で、全く統制が取れているものではなかった。政治の素人が政治を行っていて、行き当たりばったりの政府であった。その行き当たりばったりの中で、敵と見なせば裁判にかけてどんどん処刑していくのが、このジャコバン派が政権を握っているこの期間であった。いわゆる「恐怖政治」(1793年9月~1794年7月)である。
そこで最も力を持ったのが、ロベスピエールである。もともと弁護士の彼は、崇拝するルソーの思想に基づいて、王権を完全に否定。あらゆる階層の権利と富を保証しようとした。しかし一方で、それに対抗する勢力に対して容赦なく、相次ぐ処刑により粛正をどんどん進めていった。そして最後には自身も処刑台に送られることとなる。なお、後のナポレオンは、ロベスピエールに心酔し、深く尊敬していた。
ロベスピエールというとフランス革命を象徴する独裁者のイメージがあるが、彼が独裁というほどの権力を握り政治を行ったのは、1794年の4月から7月までの4ヶ月間だけである。ロベスピエールが35歳の頃である。ロベスピエールという象徴的な存在はいたが、ジャコバン派による恐怖政治は個人により行われたものではなく、市民の後押しを受けた政治の全体的な流れであった。
3.王ルイ16世と王妃マリーアントワネットの処刑
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ジャコバン派による恐怖政治の前に行われたのが、国王ルイ16世の処刑である。いくら贅沢を尽くし国民からの反発を受けていたとは言え、カペー朝から続くブルボン王朝800年の王を、ギロチンにかけて処刑するというのは大事件であった。
当時、タンブル塔に幽閉されたいた王家は、殺されるところまでは至っていなかった。この「王」をどうするかが、共和制になった最初の課題であった。そこで激しい議論がなされている。王の責任を追及すべきだというジャコバン派に対し、王は既に退位していることで責任を取っているとしているジロンド派であった。そもそも、ジャコバン派の主張する「王の責任」には法的根拠は全く無かった。ロベスピエールの右腕とも言えるジャコバン派のサン・ジェストの主張は「王は王であることが罪である」というひどいものだった。しかし若干25歳のサンジェストの主張・演説は集団ヒステリー状態のフランス革命政府及び市民の支持を得てくる。
結果、王の死刑(裁判すらさせてもらえない)に対して、賛成361票、反対360票という僅差で可決する(数え方は諸説あり)。そして1793年1月21日、ルイ16世はパリの現在の「コンコルド広場」にて、民衆の面前でギロチンにかけられ死亡した。堂々とした態度であったようである。この悲劇とも言える王は38歳で亡くなることとなった。
また、その後王妃のマリーアントワネットも同じくコンコルド広場にてギロチンにかけられる。同年の10月16日である。その罪は、自分の子供(ルイ17世)に性的虐待をした、というまったくデタラメな罪であった。幼いルイ17世が、ジャコバン派からの虐待を受けた中で証言させられたことを無理矢理罪としたのである。マリーアントワネットはあまりの下劣さに言葉を失うが、一応裁判にかけられた彼女は、裁判ではその心情を述べた。その時には、マリーアントワネットに反感を持っていた市民ですら喝采したという。
しかし、結局死刑の判決は下り、処刑となった。マリーアントワネットはこのとき37歳。人気はなかったが処刑されるほどのいわれを受けたのは、あまりにむごいと思う。
また、ルイ16世とマリーアントワネットの子供ルイ17世についても触れておきたい。わずか8歳の彼は、父の処刑後は家族と部屋を分けられ、タンブル塔でひどい虐待を受ける。奴隷のように扱われ、王室を否定し罵倒する教育を受け、精神的に追い詰められていく。売春婦に強姦され性病をうつされたという記録もある。部屋は汚く、汚物もそのままの状態で、ひどい衛生状態であった。
最終的にはタンブル塔を出ることができ、その後環境は改善しつつあったが、衰弱著しい体を戻すことが出来ず、1795年6月8日、母の死すら知らされないまま、わずか10歳で若い命を失った。
国王ルイ16世の象徴的な処刑も王妃マリーアントワネットの処刑も、どう考えても理不尽と言わざるを得ない。確かに贅沢を働いたかも知れないが、少なくとも処刑される罪を犯したとは言えなかった。それでも処刑するという市民の、そして集団世論の恐ろしさを感じずにはいられない。更に何の罪もない子供のルイ17世の悲惨な末路を見たとき、「フランス革命」という一つの歴史の転換期をどのように考えるべきなのか、考えさせられる。
4.吹き荒れる粛正の嵐と「テルミドールの反動」
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国王ルイ16世、そして王妃マリーアントワネットの処刑は象徴的であったが、その後ものすごい勢いで処刑が繰り返される。毎月60~70人が処刑されていき、その後もどんどん増えていく。いわゆる「恐怖政治」である。1793年5月のロベスピエールが権力を握った期間(1794年4月~7月)は4月が約150人、5月が約350人、6月が約500人、7月が約800人と、まさに虐殺であった。
公式記録によれば、ギロチンによる犠牲者は19,723人。しかしこれはあくまでギロチンによるものであり、この頃にあった「ヴァンデーの反乱」という内戦により20万人が犠牲にあったと言われる。フランス革命の代償は、これほどの犠牲者と混乱であった。
「ヴァンデーの反乱」とそれに対するジャコバン派の粛正はフランス革命の一つの側面を象徴する、すさまじいものだった。
ヴァンデーの住民は自主独立の気風を持ってはいたが、特殊な地域集団を構成していたわけではない。それでもジャコバン派のイデオロギーは、彼らを人民のなかから締め出して、特殊な集団とみなして扱っている。一部の著作家が《差別による大虐殺(ジェノサイド)》という言葉を使っているのはこのためである。この《野盗民》は同等に扱われな。人民とは異質であり、人民の敵である。したがって、彼らは、その生殖能力にいたるまで絶滅されなければならない。乳飲み子も容赦なく殺された。女性は(妊婦であろうとなかろうと)《繁殖用の畝溝》として殺戮の対象とされた。数人の王党派を取り逃がすことを恐れて、この地方の共和国軍兵士自身もしばしば虐殺された。結局、反乱を起こした地域の住居のおそらく18%が破壊され、15万ないし16万人、この地方の人口の20%近くが死んだのである。
<ブリュシュ他/国府田武訳『フランス革命史』1992 文庫クセジュ p.124 白水社>
それでも啓蒙思想を受けたロベスピエール中心の革命政府は、平等社会を目指す、という理念だけは持っていた。1793年の6月、7月に行われた憲法制定や封建地代の無償廃止、などは、従来の資本家階層から富を分配する先進的なものであった。
しかし、そうした改革が、逆にジャコバン派の過激主義を指示していた人達を、保守化させていった。つまり、自分たちに富が得られるようになって、これ以上の混乱を求めなくなってきたのである。一方で、ロベスピエール率いるジャコバン派は更に急進的になっていき、支持をどんどん失っていった。
そして遂に、1794年7月27日に国民公会において、反ジャコバン派が蜂起し、ロベスピエールなどの急進派を逮捕する。その後、ロベスピエールやサン・ジェストを含むジャコバン派の政治のおもだった者は、ギロチンによる処刑となる。これが「テルミドールの反動」である。
5.革命政府の政治体制の変遷
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フランス革命は、最初は王党派による改革をもくろみ、次に富裕層のフイヤン派の政治、その後中間層のジロンド派の政治、そして最下層のジャコバン派(モンターニュ派)へと移っていった。第三段階の2年間は、まさにジャコバン派による政治のまっただ中であった。
フイヤン派(上流階層の支持)
⇩
ジロンド派(中流階層の支持)
⇩
ジャコバン派(下流階層の支持)
しかし、そのあまりに急進的なジャコバン派の進め方は大きな反発を生んだ。結果が「テルミドールの反動」である。すでに1793年憲法などにより富を得ていた第三身分の人達は、もはや革命による急進的な変革を望まなかったのである。
これで革命は一つの段階を終えたと言える。王権はもはや戻しようがないところまで破壊され、市民は富を得たことから、経済の状況も大きく変わりつつあった。
しかし、国王を処刑するという大事件はヨーロッパ全土に大きな波及を及ぼす。また、フランス自体もオーストリアとの戦いに勝利したことでベルギーを得るなど、他国への侵略をしていた。火種は全く消えておらず、革命の余波はヨーロッパ世界に更に大きく影響を与えていくのである。
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