- 2018-9-29
- 特集_フランス革命
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フランス革命において、絶対王政が倒れて憲法が制定され「立憲君主制」になる一方で王族に危機が迫る、第一段階を見る
フランス革命の第一段階としたのは、1789年7月14日から1791年9月3日の約2年間である。バスティーユ牢獄襲撃事件からめまぐるしく情勢が動き始め、遂にフランス初めての憲法が成立するまでである。一見、フランスは順調に変革を遂げているように見えるが、不満と混乱の中から生まれたものであり、このフランス初の憲法成立はあくまで「第一段階」という区切りに過ぎなかった。その過程である第一段階を詳しく見ていく。
(シリーズ記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【3】革命第一段階:憲法成立と国王の危機
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【4】革命第二段階:王政の終焉と、周辺諸国との戦争
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【5】革命第三段階:ジャコバン派の恐怖政治と、テルミドールの反動
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【6】革命第四段階:揺れ戻しの政治と対仏大同盟とナポレオンの台頭
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【7】そしてナポレオンとその後へ
ページ目次
(動画でのポイント解説)
1.(第一段階概要)どんどん衰退する王権と、混乱から芽生え出す「市民政府」
バスティーユ牢獄襲撃事件(1789年7月14日)自体は、それほど大きい規模の暴動ではなかった。しかし、王族や貴族に対する不満高まる議会とそれを指示する「第三身分」の不満が頂点に達したところでの暴動事件だったため、これを機に、フランス全土でまさに「革命」の波が起き始める。
革命の第一段階は、1789年7月14日から1791年9月3日の約2年間である。たった2年間であるが、フランス国家を大きく変革へと導いた。
バスティーユ牢獄襲撃事件の報が知られると、地方の農民が貴族の家を襲撃する事件が相次ぐ。ただでさえ飢饉で飢えているところに、特権帰属の特権意識を目の当たりにした農民達の反乱であった。「大恐怖」(フランス語:グランド・プール)と呼ばれる。これにより慌てた特権階級は、プロイセンやオーストリアに亡命した。また、政治上での妥協をせざるを得なくなってくる。フランス革命の大きなうねりとなっていった。
一方議会では、「テニスコートの誓い」以来、憲法を制定し国王の権利を大きく制限する方向で進んでいた。そこに、「大恐怖」の状況が加わったため、改革はより急進的に進められた。結果として、「封建制度の廃止」「フランス人権宣言の確立」「十分の一税(教会に支払う税金)の廃止」など、かなり先進的な制度が次々と打ち出された。中でも、「国王の停止拒否権」を確立したことは、裏を返せば政治は国王から離れていくことを示していた。
しかし「議会」といっても、全く一枚岩ではなかった。国王をいただいた上で憲法に基づいての政治を行う「立憲君主制」を目指す勢力(フイヤン派)と、さらに王政を廃止するまで進めるべきと言う「共和制」を目指す勢力(ジロンド派)更に過激なジャコバン派、といった勢力がなんとなく存在し、激しく衝突しながら政治は進められる。
そんな中で、国王の立場はどんどん危うくなっていく。大きなきっかけになったのが、1789年10月のいわゆる「ヴェルサイユ行進」である。国王に対する不満をぶつけた民衆が、ヴェルサイユ宮殿にいたルイ16世一族を、無理矢理パリに連行したのである。そして更に国王は決定的な事件を起こす。その後身を案じた国王とその一家がパリから逃亡を図る「ヴァレンヌ逃亡事件」である(1791年6月)。これは民衆に対する国王の評価を決定的にしてしまった。それまで比較的王権そのものには肯定的だった民衆の心は、完全に離れてしまった。これにより、革命の方向性は王政停止へと大きく決定づけられたといえる。
そして、対立深い議会ではあるが、遂に1791年9月3日、1791年憲法の成立を行う。これにより王権は大きく制限され、絶対王政から、立憲君主制と完全に移行した。一方で王政をのこすべく国王には大きな「拒否権」が認められていた。しかしこれが逆に国王及びその一族を滅ぼすきっかけになってしまう・・・
ここで、革命は一つの区切りを迎えたかに見えた。しかし、あくまで「立憲君主制」になったという、一つの段階を迎えただけであった。国王側の度重なる対応のミスと民衆の怒りとが相まって、まだまだ、革命は足りなかったのである。
以下、この第一段階を細かく見てみる。
2.矢継ぎ早に作成される「フランスの骨子」
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この第一段階では、後のフランスを形作る重要な動きが相次いでいる。その中でも「人間と市民の権利の宣言」いわゆる「フランス人権宣言」は、啓蒙思想が色濃く反映された先進的なものであった。第一条では「人は皆生まれながらにして自由にして平等である」という有名な宣言から始まる。主な宣言は以下の通り。
第1条 人は皆生まれながらにして自由にして平等である。
第2条 自由・所有権・安全・圧政への抵抗は、人間の生まれながらにして取り消し得ない自然権である。何人もこれを侵してはならない。
第3条 あらゆる主権の根源は国民である。
第17条 所有権は神聖にして不可侵名権利であり、何人もこれを侵してはならない。
これらは、啓蒙思想家の考えを色濃く反映している。ルソーの社会契約説、ロックの抵抗権と国民主権、モンテスキューの三権分立といった当時の政治的主張の重要な部分が取り入れられている。日本の現行憲法にも大きく影響を与え、反映されている。
また、フランス国旗はこの頃に決められた(1790年10月21日)。決めたのはラファイエットとパリ市長のバイイと言われる。この「3色旗(トリコロール)」は、自由・平等・博愛を表す、といわれるが、その由来は俗称であるようである。実際には、フランス革命軍のバッチの色が赤と青で、それにブルボン王朝の象徴である白(白百合)を加えたとされる。
こうして、革命は一つの大きな成果を残した。しかしこれも一つの段階でしか過ぎない。ここで決められた憲法は、一年も経たず変更されるし、人権宣言を巡っても、大きく争いが生じていく。革命は始まったばかりである。
3.10月事件(ヴェルサイユ行進)とヴァレンヌ逃亡事件
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この頃の王権は、市民の不満は高まる中にはあったが、まだ純然たる力を持っていた。この頃の王の対応一つで、大きく王権そのものとフランスの運命は違っていたと思われる。しかし、国王ルイ16世と、ルイ16世に絶大の影響力を持っていたと言われるマリーアントワネットの対応は、ことごとく民衆の怒りと不信を買う方向にでていた。
その決定的な物が「ヴァレンヌ逃亡事件」である。パリを逃げて他国(オーストリア:マリーアントワネットの兄が皇帝)に助けを頼むなどと言う行為は、完全に国民の信頼を失ってしまう。これにより、それまで王権そのものには比較的寛容であった国民が、王権に対する不信を決定的な物にし、王権の廃止まで突き進んでいくのである。
ヴァレンヌ逃亡事件の前に、その伏線と言える王権に対して起こった大きな出来事が2つある。まず一つが1789年10月5日の「ベルサイユ行進」である。これも突発的に起こった出来事だった。民衆は飢えているのに王が住むヴェルサイユ宮殿はでは相変わらず豪勢な晩餐会が行われていた。その際に、ルイ16世が先のフランス国旗を踏んだと言われる。それをきっかけに、主婦を中心とした女性市民などがパリに集まり、国王の住むヴェルサイユ宮殿に行進し、ついには王を引き出してパリに連行したのである。この時に有名な王妃マリーアントワネットのセリフと言われる「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない?」が広まる。しかし、これは王妃が言ったのではなく、しかもこのときの話でもないようである。「なんでもかんでもマリーアントワネット」といった風潮は「首飾り事件」でも一緒であり、当時から世論誘導は行われていた。
このヴェルサイユ行進は当時王権の改革を行う事でフランスを導こうとしていた革命政府(フイヤン派)にとっても、まったくの想定外であった。まさか王家がなんの根拠もなく強制的に連行されるなど、前代未聞の大事件であった。革命の「急進化」に疑問が生じ、革命政府の中でも大きな議論が巻き起こっていくのである。なお、王家はパリのデュイルリー宮にて強制的に住むことになり、その後二度とヴェルサイユ宮殿に戻ることはなかった。
当然王家は、身の心配をする。特に王妃マリーアントワネットはルイ16世に対する影響力が強く、また大きな危機感を抱いていた。彼女の兄はオーストリア皇帝 レオポルト2世である。気持ちはそこに傾いていく。そんな中で、王家を守りながら国を建てていこうと、議会と王家とのパイプ役だったミラボーが突然死去する(1791年4月2日)。これが「ヴァレンヌ逃亡事件」の原因とも言える事件の2つめである。王室の保護者で実力者であったミラボーを失ったことは、王室にとっては危機以外の何物でも無かった。急進化していく革命政府とそれに同調するフランス国民に対して、決定的に不信を持っていたためである。これに衝撃を受け、危機感を感じたマリーアントワネットは、オーストリアを頼るようになる。
その中で、遂に王家がパリを脱出するという計画が持ち上がる。結果的にはパリ郊外のヴァレンヌで捕まり、パリに戻される。これが後の王家の運命を決定づけた「ヴァレンヌ逃亡事件」である。国王が亡命を図り、更に他国に助けを求めるとしたことは、王維の権限を失墜させるのはもちろん、決定的に国民の信頼を失った。しかも、助けを求めようとした相手は王妃マリーアントワネットの兄が皇帝であるハプスブルクのオーストリアであり、王妃が逃亡の際に信頼したのが、王妃の愛人という噂のあったスウェーデン貴族のフェルセンであり、フランス人ではなかった。また、逃亡事件とは言え、豪華に移動し、途中で豪華な朝食をとり、途中で道に迷い、といった状況だったようである。危機感を持って出たのが、あまりに危機感のない逃亡であった。
こうした状況もあって捕まった王家であるが、それにより必死でフランスの舵取りをしていた議会の面々、そして国民の、王に対する信頼は地に落ちたといえる。「ヴァレンヌ逃亡事件」は王家の運命を決定づける重要なターニングポイントであった。
4.革命政府の政治体制の変遷と革命の第二段階へ
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フランス革命において革命政府の政治体制は、大きく変遷している。今回取り上げている第一段階は、既得権益を持った層による政治が、民衆の圧力により衰退し、更に急進的な層に移動していく過程と言える。乱暴に言うと、既得権益を持った特権階級の層である王党派や「フイヤン派」の政治から、「ジロンド派」への移行である。
バスティーユ牢獄襲撃後も、特権階級が政治を握っていた。ラファイエットにしてもシエイエスにしても、彼ら自身はある意味で裕福な層の既得権益側にいて、その中で改革を進めようとした。特に第一段階とも言えるこの2年間は、ラファイエット・ミラボー・シエイエスなど中心とした「フイヤン派」による政治とその限界であった。彼ら自身が特権階級であり、どうしても特権階級にメスを入れるような改革にまで至らなかったのである。
「十分の一税」などはまさに特権階級の既得権益の象徴とも言える税であった。財政危機にあって常にやり玉に挙がる存在であった。しかし、自ら既得権益者であるラファイエットやシエイエスはこの改革に反対していくため、市民や第三身分との軋轢が大きくなっていく。中でも、王政に対する姿勢が大きく隔たりを象徴していた。王政を倒すところまでは、フイヤン派は考えていなかったといえる。
一方で、国民あるいは平民層は、貧困に加えて、ルイ16世やその王妃マリーアントワネットなどへの悪評もあって(もしくはプロバガンダとして利用され)、王権に対する恨み(ルサンチマン)から、より急進化することを求めた。パリ市には「パリコミューン」と呼ばれる自治市会が成立し、さらに急進的な政策や行動をしていく。これが次の政権をにぎる「ジロンド派」へ移行した背景である。ジロンド派は「立憲君主制」ではなく、王室そのものを廃止し「共和制」へと移動すべきという考えのグループであった。
改革そのものは、啓蒙思想を受けて進歩的な面は多く見られた。その象徴とも言えるのがフランス人権宣言であり、フランス国旗であり、といえる。しかし、その一方で王権や貴族への無根拠なまでの怒りが政治の原動力となり、大きな虐殺のうねりもどんどん急進的となっていく。フランス人権宣言の第一条は「人は生まれながらにして平等である」というのは、裏を返せば、平等でないことの不満の高まりを示していた。それが、ついに具体的に他のヨーロッパ諸国を巻き込み始めるのが、革命の「第二段階」である。革命は更に過激になり、かつ広がりをみせていく。
コメント
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・・・それにしても、家斉の治世は長いですねー。
ドンピシャで家斉の時代がフランス革命ですな。
ルイ14世、ルイ15世も同じくらい長いのでびっくりです。
マリーアントワネットの言葉や評価は分かれるところですが、フェイクニュースはいつの時代も危険なものですね。地上波だけでなく、ネットニュースも含め、沢山の情報から正しい理解を導き、行動したいものです。
ただ、それこれも体が資本。その基本は睡眠ですよ!ご注意を(笑
とは言え「てつログ」は楽しみに読ませてもらってますが(大笑
ベルばら愛読者としては、久しぶりにまたベルばらを読みたくなりました。パンがないならお菓子食べればいいんじゃない、と言った事やヴァレンヌ逃亡の際に豪華に移動したり、という事からアントワネット始め王室の人達は民衆の事を本当に何もわかってなかったんだろうなー、と改めて思う。
この時期にフランス国旗ができたとは知らなかった。
色々勉強になりました。
マリーアントワネットの「パン」のセリフは、本人が言った訳ではないようだけどね。
とはいえ、王室の対応はいかにもまずかったね。市民感情を全く理解していなかったと思われます。