- 2018-6-12
- 特集_維新回天(全体編)
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明治維新期の世界情勢と、関連していく日本を見る
明治維新を見る上で、当時の世界情勢の理解なしには正しい見方ができない。明治維新の頃は、日本だけが大変革の中にあったわけではない。西欧列強は産業革命を経て、ものすごい勢いで世界各地を植民地化していった。そうした世界情勢と、それに連動する日本をまとめた。明治維新の理解のためにも、是非ご覧いただきたい。
(シリーズ記事)
➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い
➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】
➡維新回天 全体編【3】明治維新の流れを追う②【倒幕期】
➡維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③【政府形成期】
➡維新回天 全体編【5】明治維新の頃の世界情勢と日本との関わり
➡維新回天 全体編【6】維新の原動力となった思想家たち
ページ目次
1.世界に広がる西欧列強
明治維新は私の定義でいえば、1840年のアヘン戦争から1888年の大日本帝国憲法の公布までの期間の、日本の変革である。では、その頃の、19世紀の前半から後半にかけての世界はどのような動きであったのだろうか?
下記は、19世紀の主な世界の紛争・戦争である。
19世紀に入って、世界はまさに西欧列強の植民地化が進み始めていた。決してアジアだけではない。アメリカはもちろん、アフリカ、中東、西アジア、南アメリカ、と、まさに世界中を席巻していった。
当時、世界の5大国といえば、イギリス・ロシア・フランス・オーストリア・プロイセン(後のドイツ)である。その中でも最強のイギリスは1国で他の4ヶ国が束になっても勝てないほどの力を持っていた。上記の地図を見てもわかるように、イギリスはまさに世界中に植民地を持っていた。現在の「英連邦」と言われるものは、この頃の植民地支配に基づく。
まさに、世界中がイギリスを中心とした西欧列強に飲み込まれていく世紀が19世紀であった。
2.西欧列強を更なる植民地支配に向かわせた「産業革命」
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19世紀に入ってから、列強のこれだけの動きがあったのは、列強側での事情があった。それが、「産業革命」である。そこまでの流れを含めて、見てみる。
添付したのは、徳川時代と世界史とを合わせた年表である。
日本では、徳川250年の間に大きな戦争はなかったが、世界、特にヨーロッパ世界では戦争の目白押しであった。その大きい物は3つである。
① 最後の宗教戦争といわれる30年戦争(1618~1648年)
② イギリス・プロイセン連合と他のヨーロッパ諸国との戦いである7年戦争(1756~1763年)
③ フランス革命後の混乱から生まれたナポレオン戦争(1799年~)
それぞれの戦争の詳細については、過去記事(➡江戸時代から見た世界史【2】~ヨーロッパ戦争史~)を参照いただきたい。
このように、ヨーロッパ内で列強同士の戦争が繰り返し行われていた。その中で、フランス革命の少し前からイギリスにて「産業革命」が始まる。一般に、1760年代から1830年代にイギリスで起こったのが最初の産業革命と言われる。産業革命はある日突然はじまったものではなく、長い時間をかけて斬新的に行われていった。そして最初はイギリスで始まった産業革命が、他のヨーロッパ列強にも波及し、ヨーロッパ諸国は経済的・軍事的に大きく伸長していった。
産業革命は、一般的に言われるのは「工場制機械工業が進み、生産能力が飛躍的に増大した」という。実際にそうであるが、もう一つ付け加えておきたいのが、蒸気機関の発達により、鉄道・蒸気船などの飛躍的な交通手段の発達があったことである。これが、もともと植民地支配の動きを強めていた列強に、更に大きな技術的アドバンテージであり要因を与えた。この頃の交通手段の発達は「交通革命」とも呼ばれる。
ただでさえ、産業革命による経済の巨大化により市場を求めて外に出る方向性を強く持っていたところに、移動手段としての「蒸気船」や「鉄道」が入り、列強は大きく外への支配を強める方向に向かっていった。当然そこには強大な軍事力も伴う。
西欧列強は、経済的には「市場」を求めて、そして軍事的な優位から「搾取」の対象として、植民地を欲した。それが、18世紀後半から19世紀前半の世界情勢であった。産業革命は世界をぐっと小さいものとし、その優位を持った西欧列強が争って植民地を確保していく「帝国主義」の時代へと突き進んでいた。
3.「ヴィクトリア朝」の頃の最強のイギリスの状況
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1800年頃のイギリスは、まさに最強国家であった。列強の中でも頭二つくらい抜きん出ていて、世界は「大英帝国」を中心として動いていた。「海洋国家」としてのイギリスは、産業革命を経て更に「蒸気船」を得ると、飛躍的に交通方法が伸びることとなる。また、産業革命による生産力の増加はそのまま軍事力の強化につながり、先に植民地支配を進めていたことも大きく貢献し、経済圏の確立と更なる軍事大国へと進んでいた。下記は、当時のイギリスの動きを中心とした、紛争の流れと地図である。
地図の赤いところがイギリス支配である。アメリカ独立戦争によりアメリカという地は失ったが、カナダ・オーストラリア・インド・南アフリカと、世界を股にかけて植民地化を進めている。国内では議会制民主主義も確立し、経済は、産業革命と植民地支配の増加により、文字通りの右肩上がりで大きく飛躍していた。この、産業革命(1760~1830年)を経た後の植民地支配から第一次世界大戦(1913年~)までの期間のイギリスは、イギリスの「第二帝国」とも呼ばれ、世界での最強国家たるイギリスの全盛期とも言える時代であった。軍事力は圧倒的であり、他の列強もイギリスの様子をうかがいながら動いていた。
アメリカ・ドイツ・ロシアなどとのせめぎ合いが続く。なお、この頃がちょうど「ヴィクトリア女王」の時代と重なるため、「ヴィクトリア朝」とも呼ばれ、イギリスの隆盛を表していた。
アジアでは、まずはインドを足がかりにして支配を強めていった。そして遂に「眠れる獅子」と言われていたChina(中国)の「清」に侵略を始める。アヘンを売りつけて、それに反抗する「清」政府に抗議する形で戦争を始める。アヘン戦争である(1840年~1843年)。主導したのは、当時は外相のパーマストン卿である。
その後の清とイギリス・フランスとの戦いである「アロー戦争」(1856~1860年)(第二次アヘン戦争とも呼ばれる)により、清は無力をさらけ出し、国内はほとんど植民地化され、無政府状態に近い状態になっていった。圧倒的な軍事的・経済的優位を持つイギリスに対して、清はなすすべもなかった。
(この頃の詳細は過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本)を参照)
4.シベリア鉄道により、東アジアに迫るロシア
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この頃のロシアを見てみる。
江戸時代を通じてヨーロッパでの大きな戦争は「3つ」と記述したが、明治維新期に入っていた1853年、すなわち日本にペリーが来航したその年に、ヨーロッパで大きな戦争が生じている。それが「クリミア戦争」である。1853年から1856年までの3年近く行われた。戦争は産業革命を経た後の初めてのもので、殺傷能力が飛躍的に上がっていた頃の最初の戦いと言われる。戦争は悲惨を極めた。
基本的には、念願である南への進出を目指すロシアとトルコとの戦争であったが、他のヨーロッパ諸国がロシアの伸長するのを止めるべく参戦した。特に、イギリスの参戦が大きく影響し、ロシアはここで破れ、結果、ロシアのいわゆる「南下政策」はここで大きく挫折する。
このクリミア戦争は日本にとって2つの意味で大きかった。
一つは、この頃にクリミア戦争という形でヨーロッパが混乱している「隙」ができたことである。この頃ヨーロッパが戦争に集中してくれていたおかげで猶予期間を得られたことは、「明治維新」の中にあった日本にとって本当に大きかった。また、そもそもペリーの来航は、クリミア情勢によりヨーロッパが動けなかったことが要因でアメリカが動いたとも言われる。
もう一つは、クリミア戦争の敗北に伴う、ロシアの政策変更である。ロシアはクリミア戦争により、特にイギリス・フランスに散々やられた。その結果、凍らない港(「不凍港」)をヨーロッパで持つことの方針転換をせざるを得なかった。そこでアジアに目を転じ、ハバロフスクやウラジオストックを経由し、東アジア(今の朝鮮半島)獲得に動き出す。そのためのインフラとして、ロシアを横断する「シベリア鉄道」計画が進められるのである。「ロシアは陸から日本の近くまで迫ってくる」、という事態であった。
(この頃の詳細は過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【3】 ロシア・アメリカの動きと日本)を参照)
5.新興国家として着々と勢力を強めるドイツ(プロイセン)
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プロイセンは着々と力をつけ、産業革命も経て、ヨーロッパ列強として数えられていた。特に19世紀に入ってからのプロイセンは、「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクによって、大きく飛躍した。ビスマルクはその巧みな外交能力と軍事力を生かし、時には強権的に、時には複雑な同盟関係に基づき、列強に対抗すべく植民地拡大路線を走っている。
ビスマルク率いるプロイセンが、ドイツ地方の諸侯を統合し「ドイツ帝国」を作ったのは1871年のことである。日本で明治となったのが1868年であるから、日本で明治維新により新政府が立ってすぐに「ドイツ連邦」は発足している。明治政府とドイツ帝国は同時期の成立であった。
ここで、ビスマルク以外の重要人物に触れておきたい。ビスマルクとそりが合わずビスマルクを失脚させたドイツ皇帝のヴィルヘルム2世である。ヴィルヘルム2世はドイツ帝国成立後に3代目の皇帝となっている(1888年)。この人が、アジアに対しては「黄禍論」を唱えあからさまな人種差別政策をとると共に、ドイツを拡張させようとイギリスや他のヨーロッパ諸国とも緊張を高めていく。ビスマルクの作った芸術的な勢力均衡の同盟関係は崩れ、ドイツは第一次世界大戦への道を歩み始める。ヴィルヘルム2世は好戦的な側面が言われ、第一次世界大戦の原因を作った人としてあげられることが多い。第一次世界大戦を語る上では欠かせないキーマンであることは間違いない。
(この頃の詳細は過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【4】 ビスマルク外交とその終焉・奇跡の日英同盟と柴五郎)を参照)
6.南北戦争を経て、超大国の道を行くアメリカ
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この時代の大きな要素として、アメリカの存在がある。アメリカは、独立戦争(1775~1783年)により建国されている。その時の先住民の虐殺はひどいものだが、とにかくこれから世界を引っ張っていく超大国が生まれつつあった。しかし、今のアメリカを想像すると間違いである。建国自体が1783年頃と若く、江戸幕府は11代将軍の家斉の初期であり末期に入っている。しかも、建国と言ってもまったく今の状況とは異なり、まだまだ東海岸の一部が「アメリカ」と言われただけである。それが西海岸のカリフォルニアを領土とするのは、1848年である。すでにアヘン戦争は始まっている頃であり、アメリカは19世紀前半においては、まったくの新興国であり、国としての形作りの最中であった。
しかもそんな中で、アメリカ内部で大戦争が起こる。「南北戦争」である。
アメリカ南北戦争は、アメリカ史上最大の内戦と言われる。1861年から1865年にかけて行われた。日本では大老井伊直弼が殺される「桜田門外の変」の直後の頃である。
犠牲者は60万人以上ともいわれる。第二次世界大戦でのアメリカの犠牲者が35万人と言われるから、それをも上回る内戦だった。内戦というより、戦争という表現の方が正しいのかもしれない。奴隷制の廃止を主張するリンカーンがアメリカ合衆国(USA)の大統領に就任すると、続々とそれに反対する州が合衆国から脱退しアメリカ連合国(CSA)を結成しその大統領も選出した。アメリカ合衆国(USA)から分離した、アメリカ連合国(CSA)との戦争、が、南北戦争の構図である。
奴隷解放が象徴のように言われるが、もともとあった北部と南部の地域的な性質の違いに根付いており、対立は抜き差しならないものであった。
結果から言えば、リンカーンが率いる北部が勝利した。しかし、戦争時のリンカーン率いる北部には軍資金の余裕もなく、かなり苦しい状況だった。それがなぜ勝てたのか?実はその資金元として、先の日米修好通商条約が大きく寄与していたのである。
ハリスが日本と通商条約を結んだのは1858年であり、南北戦争はその3年後の1861年から始まっている。ハリスは、リンカーンの部下でもあった。
そして、その通商条約の第5条に「金と銀の等価交換」がある。今で言えば為替レートの設定の部分であるが、ここに大きなカラクリがあった。細かくは割愛するが、世界のレートとかけ離れたレートでの換算となり、日本の金・銀が大量に流出し、それを世界レートで換金すれば何倍にもなる、という状態となっていた。徳川幕府も気づき手を打とうとしたのだが、ハリス側も知っており、かなり利用されてしまった。結果、日本の金・銀は大量に流出。幕府は一気に財政難に陥り経済は混乱した。(これらについては、上念司氏の「経済で読み解く明治維新(ベストセラーズ)」に詳細があるので、興味ある方は是非。)
北軍の資金がすべて日本の金・銀とはいわないまでも、かなりの量であったようである。しかもこの話にはおまけがある。
南北戦争が終わったのは1865年、日本ではその後、戊辰戦争が1868年から1869年にかけて行われる。新政府である明治政府は、フランス経由も含めてアメリカから武器を購入している。それらは、南北戦争の余剰品や中古品であった。つまり、日本は2重に金を吸い取られていたことになる。
また、アメリカのロシアからのアラスカ購入は1867年。北軍たるアメリカ合衆国にここまでの潤沢な資金を提供していたのは、結果的に日本であったことが見える。
この南北戦争を経てアメリカの体制は固まり、発展へ大きく進む。また、すでに始まっていたアメリカ版の産業革命もあって、アメリカは格段の発展を見せる。まさに超大国として列強に加わることになる。
(この頃の詳細は過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【3】 ロシア・アメリカの動きと日本)を参照)
7.列強に囲まれながらも、堂々と戦った日本(薩英戦争と馬関戦争)
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まさに、世界が近代になろうとしている中で、日本にも変革が求められた。さもなくば、植民地という切羽詰まった状態の中である。それを乗り切る体制と国力を何とか構築したのが、明治維新であり明治政府ではあるが、江戸時代の蓄積なしにそれは語れない。明治維新の成功の要因は、列強の外圧のみでは決してない。大きくは以下の3つが挙げられると思う。
② 徳川250年で培っていた技術力により、「列強に追いつくことが可能」という目算
③ 「尊皇攘夷」というスローガンの下、「尊皇」という明確かつ、日本全体でまとまることができる天皇陛下の存在、そしてそれを後押しする思想学(水戸学、国学等)の存在
やはり、①が最も大きな要因であることは間違いないが、それを支えた②・③を理解しないと、明治維新と言われる、この時期の政変を見誤ると思う。決して突然「維新志士」たちが発生し、突然変異のごとく国が生まれ変わったわけではない。長らく②・③の下地があって、それらを利用して奇跡的に政治体制を「江戸幕府」から「明治政府」に、世界的にみても類を見ないほどのスピード及び犠牲者数で、変革させたのである。西欧列強とのぎりぎりの交渉でも、やはり②・③の力が発揮されている。
そんな中で、偶発的とも必然的とも言える日本と世界との戦争が起こる。1864年(元治元年)に起こった、薩摩藩とイギリスとの戦いである「薩英戦争」と、長州藩と四ヶ国連合(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)との戦いである「馬関戦争」である。この戦争は当然どちらも圧倒的に外国勢力の方が上であった。戦争の勝敗ははっきりしていたし、当事者達はそれを理解した上での戦争であった。それでも、国内情勢からも行う必要があった戦争であり、あえて行った戦争とも言える。また、このときの堂々とした日本の対応は列強に大きく印象づけられ、その後の日本の開国・明治維新に進む上で、大きなステップと言えるものとなっている。薩英戦争・馬関戦争のその後の堂々たる講和交渉は、列強を大いに信用させた。薩英戦争における薩摩の堂々ぶりは、当時のニューヨークタイムズ紙で「この戦争により西洋人が学ぶべき事は、日本を侮るべきではないということだ」と言われたほどである。下関条約においても、若干24歳の高杉晋作の堂々たる交渉ぶりは、当時の列強に大きく刻まれている。また、日本国内においても、戦争の当事者である薩摩藩・長州藩が大きく倒幕そして開国へと進んだのは、この戦争を経たことが大きい。
(この頃の詳細は過去記事(➡明治維新とヨーロッパ世界【2】 世界帝国イギリスと日本)を参照)
8.19世紀の世界情勢と日本との関わりを見て
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このように19世紀の世界を見ると、産業革命を経て世界中が大きく動いていた時代であることがわかる。
世界の流れの中に日本もいて明治維新があった。めまぐるしく変わる世界情勢の中で、江戸幕府も無関係ではなかった。ひたひたと迫る列強は江戸中期から日本に来ていたし、それに対応する政策も行っていた。「鎖国」と呼ばれるが、日本は決して閉じた国ではなかった。
フランス革命もアメリカ独立・南北戦争も、ドイツの建国も、時期は集中している。日本の明治維新のみが世界に遅れて行われたかのように言われるが、決してそうではない。世界全体の変革の中の一つが日本であり、明治維新であった。
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