- 2018-6-21
- 特集_維新回天(全体編)
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明治維新の原動力である「思想」を形成していった志士たちを見る!
幕末・明治維新は、非常に危ない時期であった。情勢は二転三転して、国の体制をどの勢力が最終的に握るのか、大きく揺れながら進められていた。しかし、全体から見れば、列強の植民地とならないように「日本」のために変革する、という目的はぶれることなく進められた。それを「思想的に」導いた志士たちに着目してまとめてみた。今にも通じる、先人達の知恵と情熱の歴史の事実をご紹介したい。是非、ご覧を!
(シリーズ記事)
➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い
➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】
➡維新回天 全体編【3】明治維新の流れを追う②【倒幕期】
➡維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③【政府形成期】
➡維新回天 全体編【5】明治維新の頃の世界情勢と日本との関わり
➡維新回天 全体編【6】維新の原動力となった思想家たち
ページ目次
1.明治維新における国家体制の変革の内容
明治維新は、列強の植民地支配という大きな課題を突きつけられた日本が、列強に互角に応じられるまで力をつけるために起こした国内の体制変換であった。日本の政治体制としてそれまでバラバラの藩であった幕藩体制から、統一国家「日本」になるための大きな変革を進めたものである。そうしなければ、列強の植民地支配に対して、対抗できないことは知識層・支配層にとって明確であった。
それは、250年の江戸幕府どころか、それまでのどの政治体制にもなかった、「統一国家としての日本」へ向かう大きな変革であった。
その変革の柱となったのは、「天皇」である。「天皇」という当時から数えても、1500年以上もの間維持していたこの「制度」を一つの合い言葉として、国がまとまっていった。「天皇陛下」の存在なくして、明治維新の変革のスピードと犠牲者の少なさはなかったと、断言できる。しかし、天皇や朝廷自身が動いたというわけではない。「尊皇」という言葉は「尊皇攘夷」のセットとして使われてしまうが、「尊皇」という合い言葉により、バラバラの藩や藩士たちは共通の目標を持てたのである。
そして、その「尊皇」という合い言葉と相まって志士たちに大きく影響を与えたのが、当時の「思想家」とも言える儒教者や私塾の教育者たちの、「哲学思想」であった。「儒学者」と言ったりするが、いまでいう「哲学」の議論は、江戸時代から非常に盛んであった(➡江戸時代に挑む!【5】江戸時代の思想史 ~「武士道」を探る~)。武士とはどう生きるべきか、商人としてのモラルとは、といった議論は、江戸時代の中でも盛んに行われているのである。それがあったからこそ、「列強の脅威」という危機に直面したとき、志士たちはひるむことなく、高い目標と並外れた行動力を発揮したのである。
2.日本全国に散らばる思想の大家の面々たち
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ここでいう「思想家」とは、思想だけを説いていた人ではなく、大きく人にそして時代に影響を与えた人達として、とらえたい。私塾や藩の学校の講師になっていた人もいれば、政治家や軍人・医者ではあるがその思想が大きく人を動かした人達も、あえて「思想家」として挙げてみる。まったく私的な人選であることを先に断っておきたい。
(1) 維新前に全国レベルでの影響を与えた人達
維新回天として、情勢が動き出す前から思想家の大家としてあげられる人々がいる。「維新思想家の先駆者」とも言える人々で、当時からその名声は広まっており、藩を超えた影響力を持っていた。
佐藤一斎は、江戸で生まれた人である。儒学の大家であるがその見識は広く「陽明学」にも及んでいた。門下生は3,000人とも言われ、佐久間象山・横井小楠も学んでいたという、まさに大家である。佐藤一斎の残した「言志四録」は幕末志士の「バイブル」とも言えるものであり西郷隆盛が終生愛読書としていた。現代語訳でもあるので、興味のある人はぜひ読んでほしい。いまにも通じる示唆に富んだ名著といえる。
大塩平八郎は、大塩平八郎の乱を起こした人である(詳細は ➡江戸時代に挑む!【4】(8代~13代)江戸時代後半の「3大改革」と幕末への道参照)。もともと幕府の役人であったが儒学・陽明学に通じていて、天保の大飢饉があっても無策の幕府に反旗を翻した情熱の人である。まさに陽明学の「知行合一」を実践した人で、江戸幕府始まって以来の反乱が与えた衝撃は、大きかった。特にこの反乱で大塩平八郎が民衆に対して書いた「檄文」は有名で、民衆の心を大きく動かしたとともに全国にも広まり、幕末の機運を高めることとなった。
藤田東湖は、水戸学の大家である。藤田幽谷の息子で、あの徳川斉昭の師であり全幅の信頼をおかれていた。長州の吉田松陰も、藤田東湖に学びに行ったという全国区での信頼を持った人だった。しかしペリー来航の直後の1855年の安政の大地震にて圧死してしまった。水戸藩の内紛は藤田東湖の死後に起こっており、藤田東湖が生きていれば水戸藩も大きく変わっていたと思われる。
佐久間象山は「思想家」というより、「発明家」「兵学者」と言ったほうがいいかもしれない。どちらかと、今でいう「理系」であり、その知識は群を抜いていた。勝海舟もこの人の影響を大きく受けており、門下生は吉田松陰(寅之助)・河井継之助・橋本左内など、のちの幕末になくてはならない志士達を生み出している。
(2) 全国に散る思想家たち
先にあげた4人などの影響を受けて、幕末において人々を大きく動かす思想家が、全国にいた。下記に、その後の明治政府形成の中心となった、いわゆる「薩長土肥」を中心に思想家たちを挙げてみた。添付を見てほしい。
こうしてまとめてみて思うのは、各藩にいる維新を先導していった志士たちの上には、必ずそれをバックから支えた開明的な「藩主」の存在がある、ということである。「幕末の四賢候」としても挙げられている面々でいえば、薩摩の島津斉彬・土佐の山之内容堂・越前(福井県)の松平春嶽の下では、添付のようにまさに幕末そのものを作った志士たちが育っている。また、幕末の中心であった水戸学は、徳川斉昭の存在なくしてその発展はなかった。そして、幕末と明治の2大勢力の一つである長州藩は、「そうせい候」といわれる毛利敬親が「黙認」に近い形で荒くれ者の長州志士達を見守り、育ててきている。特に、薩摩・水戸・長州の藩主については、過去記事(➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①「決起期」)の「動き出す有力諸藩」を参照いただきたい。
更に幕府側でも、老中の阿部正弘などは開明的な視点を強く持ち、勝海舟の大抜擢を行っている。勝海舟のその後の活躍を見れば、それを抜擢した阿部正弘の功績は非常に大きいと思う。また、阿部正弘以降、14代将軍の徳川家茂も、15代将軍の徳川慶喜も、勝海舟を重用している。
幕末志士のバックボーンとなった思想家たちの活躍は、こうした開明的な藩主などのリーダーなしにはあり得なかったことを、忘れずにいたい。また、こうして名前をあげてみると、思想家として活躍した人の多くがとても早い段階で亡くなってしまっていることに気づく。彼らが長く生きていれば、幕末及び明治期の日本に大きなプラスの影響を与えたであろうことは、想像に難くない。急激な近代化、あるいは急ぎすぎた近代化の中にあって、このような思想家たちの考えがもっと国全体で共有できていれば、近代の日本そして現代の日本が、また変わった形であったように思う。
3.それぞれの志士たちのエピソード
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先ほど上げた志士たちの中から、このシリーズであまりふれていなかった何人かについて、その人となりについて紹介したい。他の人も、魅力・エピソードは枚挙にいとまが無い。興味のある方は、是非、インターネットや書物などで読むことをお勧めしたい。
① 橋本左内(越前藩)
橋本左内は、安政の大獄により切腹を命じられ、わずか26歳の若さで亡くなっている。西郷隆盛が、8歳年下の橋本左内を評して「同輩にしてかなわない」とまでたたえていた人である。10代の頃から才覚を発揮し、松平春嶽から重用されて才能をいかんなく発揮した。本人は医者であったが、その開明的な視点は経済・政治・外交にまで及び、志士たちとの交流も行っている。水戸の藤田東湖とも接点があり、藤田東湖も高く評価していた。また、藤田東湖が亡くなったのちに橋本左内と接した藤田東湖の盟友の武田耕雲斎をして「東湖の死後に東湖あり」と評価している。
橋本左内が15歳の時に自分に宛てて示した、「啓発禄」はその内容を見れば、いかに卓越した人か見て取れる。そこでいわれる「五訓」の一つを示しておきたい。
【勉学(学に勉めよ) 】物を学ぶことは 、人間として成長するためである。学問・技能の習得を通じて道徳心を磨き、人格を高めよう。
このような文を15歳の時に、自分に宛てて書いたのが、「啓発禄」である。それを見た24歳の橋本左内は、若い頃の自分の未熟さとともに当時の情熱を失わないようにしたという。「啓発禄」の「五訓」はぜひ見てほしい内容である。私も初めて見たときには本当に心に響く言葉だった。
しかし、わずか26歳で井伊直弼の「安政の大獄」により切腹を命じられる。幕閣の一人は、「井伊大老が橋本左内を殺したという一事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と言ったという。まさに日本にとっての大きな損失であったといえる。
(橋本左内のエピソードは、➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①「決起期」の「(6) 大粛正となった安政の大獄とその影響」にもあるので、参照いただきたい)
② 吉田松陰(長州藩)
吉田松陰を呼ぶときは「先生」とつけないといけない、と感じる人である。その見識・知識は群を抜いていたが、何よりもその「情熱」たるや、高杉晋作ですら陰になるほどの人であった。安政の大獄にて、わずか29歳で命を落とすが、本当に惜しい人であった。
単なる過激派ではない。科学的に論理的に結論を導き、当時の日本を世界情勢を見ながら大きく憂いた結果として、脱藩やペリー艦隊への乗り込みなどの行動をした。幕府に捕まった時に、まったく隠すことなく応じたため、どうしても重罪にせざるを得なかったという経緯がある。ペリー提督が、「勉強熱心なこの若者を許してほしい」と、幕府に要請していることは知られている。安政の大獄にて切腹を命じられるが、幕府側としてもそこまでの罪ではなかったため、切腹までは考えていなかったが、せざるを得なかったようである。
吉田松陰のエピソードとして、萩の「野山獄」(今でいう刑務所)に幽閉された時のことに触れたい。松蔭が入った萩の野山獄には、十数年、中には40年以上も繋がれている罪人がいて、最年長は76歳、若くても40歳。将来に絶望した人々ばかりである。そんな中でも松蔭は猛烈な読書を行い、一方で食費を切詰め、黒船密航計画で行動を共にし獄中で死んだ弟子(金子)の墓へ供え物を贈る。こういう姿に、他の囚人達は驚きの念を禁じ得ず、尊敬の念に変わっていき、なんと松蔭の「勉強しよう」 という呼びかけに応じて勉強会が始まるのである。最終的にはその責任者までもが、松陰の講義を楽しみにしていたという。これが「松下村塾」の前身ともいえる、松陰の勉強会であった。
松下村塾は、松陰の開いた私塾として有名である。しかし、その期間はわずか1年4ヶ月と短い。しかし、そこで教えた50人に与えた影響、そしてそれらの人々が日本を引っ張っていった実績をみるにつれ、吉田松陰先生の情熱が大きく人を動かしたことを物語っている。
③ 藤田東湖(水戸藩)
藤田東湖という人は、水戸藩での「水戸学」の大家でもあるが、非常に実力のある政治家でもあった。この人も学者でありながらも、群を抜いた情熱家であり、実行力の人であった。藩主の徳川斉昭はむしろ弟子のような存在であり、藤田東湖を深く信頼していた。幕末において徳川斉昭が水戸藩の藩主となると、徳川斉昭は藤田東湖の考えに沿った大胆な改革を行っている。
藤田東湖は、早くから思想のリーダー的存在として名をとどろかせていた。西郷隆盛も、深く藤田東湖を信頼していた。影響を与えてた人は、吉田松陰、木戸孝允、佐久間象山、横井小楠、橋本左内、山之内容堂、松平春嶽、など、一線級の人々ばかりである。
④ 井伊直弼(幕閣:彦根藩)
井伊直弼は、いうまでもなく大老にまでなった幕府側の大物である。安政の大獄にて数々の志士を殺害・幽閉し、日本を大激震に見舞わせた「守旧派のドン」のような存在であったことは間違いない。「安政の大獄」により開明的な藩主も幽閉し、吉田松陰・橋本左内など2度と得られないような貴重な人材を死に追いやっている。あきらかに、明治維新に大きなブレーキをかけた人といえる。しかし、その井伊直弼を「思想家」としてあえて取り上げてみたい。
「井伊家」というのは、戦国時代に「徳川四天王」といわれた「井伊直政」の直系で、由緒ある家柄である。その井伊家にあって14男であった直弼は、養子に出される口もなく、ひたすら武芸・学問に精を出している。実に15年もの間、ほとんど屋敷に幽閉されている状態に近い形で時間が過ぎるが、その際の学の広さに至っては、右に出る者がいないほどであった。もともと家督を継ぐことが期待されていなかったため、自身もそれで終わると思っていたところに世継ぎの死などが重なって藩主となった人である。
こうした背景にあって、老中そして大老にまでなった井伊直弼にとって、徳川家は神格化されるほどの特別な存在であった。したがって、「将軍継嗣問題」については、「血筋を優先しなければ国が乱れる」という信念を持っていた。そして、強引にまだ若い家茂を将軍にするように持っていった。また、アメリカとの条約締結において、天皇に許可をもらう「条約勅許」問題については、幕府の専権事項としてこれも強引に進めた。こうした行動に大きく反発した結果が、「桜田門外の変」によるテロ行為となった。
確かに歴史から考えると、井伊直弼が行った「安政の大獄」という弾圧は大きなブレーキとなった。しかし、由緒正しい家にあって学問にふけっていた井伊直弼にとって、自分の信じるところを貫き通すという信念に基づいての行動だったと思う。その点においては、他の維新志士とも変わらない情熱を感じる。
4.歴史に「IF」があれば・・・。生きていれば歴史が変わったと思う人、ベストスリー
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こうしてみてみると、人に与える影響力が強い人というのは、本当に存在するのだなと思う。そして、幕末においてはそうした人達同士のネットワークが大きく機能し、あれほどの大改革を比較的平和裏の中で進めることに成功した。そこで思うことは、もしこの人たちが長生きしたらという、歴史でよくいわれる「歴史にIFがあれば」の妄想である。
この妄想は言い出したらきりが無い。高杉晋作、吉田松陰がもし長く生きていればと思うし、西郷隆盛があんな形で死することなく、日清戦争・日露戦争に入れば、日本と世界の歴史は全く変わっていたと思う。しかしここでは、こうした歴史上で大活躍した人達の長生きを除いて、活躍前に死んでしまった人達の中で、この人達が長く生きていれば、と思う人を上げてみたい。
ということで、「生きていれば・・・ベストスリー」として、私が挙げたいのは、阿部正弘、橋本左内、藤田東湖の三人である。
阿部正弘は、わずか39歳で「ガン」と思われる病気で亡くなっている。しかし、阿部正弘は老中にありながらかなり開明的な視点と情熱を持っていた。彼が実行していた「安政の改革」を見れば、いかに日本を統一国家として列強に立ち向かえるところに持って行こうとしていたかがわかる。更に情熱を持っていただけでなく、非常に人格者で、薩摩の島津斉彬や水戸の徳川斉昭からの信頼も得ていた。大奥からも大きな信頼を得ていたいようである。このような知識も情熱もあり、また人格者であった阿部正弘が生きていれば、おそらく「倒幕」そのものが全く違った物になっていたと思われる。それほどの人物であり、人材活用に長けた人であったところを見ると、その若すぎる死はいかにも惜しい。
(阿部正弘の記述は、過去記事(➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①「決起期」)の「(2) 開明的老中 阿部正弘(あべまさひろ)」にもあるので参照いただきたい)
橋本左内は、先ほども記述したとおり、非常に若くして亡くなっているが、活躍をあまりすることなく舞台から降りた印象が強い。彼が生きていれば、その思想や生き方に影響を受けた人達が数多く出たであろう逸材と感じざるを得ない。吉田松陰と同じく、またはそれ以上に、その後の人生を見てみたかった人である。なお、福井県の中学校では橋本左内の「啓発録」にならって、学校教育の中で「立志式」という式を行うそうである。そこで、「私の啓発録」として自分自身への「啓発」を行っているという。今も全く色褪せること無い、橋本左内の思いと情熱が受け継がれていることを知り、橋本左内のすごさと共にそれを受け継いでいる福井県に感動した。
藤田東湖は、水戸藩をまとめる存在として生きてほしかった気がする。水戸藩はその後、過激な行動が多すぎて藩を統一できず、幕末においては影響力が発揮できなかった。しかし、もし水戸藩がしっかりと機能し、薩摩・長州・水戸、という連合が生まれていたら、と思うと、藤田東湖の欠けた事実の大きさを思う。ただ、藤田東湖が生きたとしても、水戸藩のその後の流れは変えられなかったかも知れないが・・・。
5.維新の思想の大家たち、そして維新回天を見て
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今回は、「思想家」にクローズアップしてまとめてみた。また、一連のシリーズとして維新回天の「全体編」はこれが最後である。
明治維新は、歴史の教科書上では、いろいろな流れを羅列するにすぎなくなってしまっている。しかし、そこには大きな国際的状況があり、それに対応するための個人の高い意識と情熱があり、それらが大きく入り乱れての改革であった。それらを見て初めて明治維新を理解できるし、その後の日本を知るためにも重要な知識となる。
その後「日露戦争」にて、まさか西欧列強に一応の「勝利」までたどり着く事が出来たのは、決して偶然ではない。また、それは単なる明治維新だけの成果ではなく、日本という国土において、江戸時代だけでなく長く培った日本人の力の結果であった。そうした先人達の知恵と努力と情熱を、しっかりと理解し、受け継いでいければと思う。
コメント
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ベストスリーの人選、いいですねー。というか正直「名前+α」しか知りませんでした。ネットで調べるほど、大活躍した偉人たちに大きな影響を与えた人物のようで、非常に興味がわきます…で、ついつい昼休み終わって、就業時間になっていました(笑
色々壁はありますが、てつログを読むと「狂愚」でありたいと思いますね。特に今回の「維新シリーズ」は。気を引き締めるのに役立出せてもらってます。
ベストスリーは、マニアックな人選になってしまいましたかねぇ。
とはいえ、維新三傑に負けない人達と思います。
マニアックといえば「狂愚」という表現を使われるとは。かなりマニアックですな。
吉田松陰の言葉ですね。深い言葉と思います。