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維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①「決起期」

阿部正弘

明治維新の流れを追う!【決起期】のアヘン戦争(1840年)から安政の大獄(1859年)までを見る。

明治維新の「全体編」シリーズの第2弾である。まったく私的な区分だが、明治維新を【決起期】【倒幕期】【政府形成期】に分けて、その内情を見ていきたい。今回はその最初である【決起期】である。教科書に出てくるようなキーワードはできるだけ押さえつつ、その時の人間エピソードを交えながらまとめてみた。是非ご一読を!

(シリーズ記事)
➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い
➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】
➡維新回天 全体編【3】明治維新の流れを追う②【倒幕期】
➡維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③【政府形成期】
➡維新回天 全体編【5】明治維新の頃の世界情勢と日本との関わり
➡維新回天 全体編【6】維新の原動力となった思想家たち

1.明治維新の3つの区分

前回の記事でも示したが、明治維新を三つの区分に分けてまとめた年表を下記に示す。

明治維新 全体年表

明治維新 全体年表

このように3つの区分に分けてみてみる。理解のためには、その方が全体の区切りがあって分かりやすい。まったく私的な区分ではあるが、理解のためにご参考いただきたい。

【決起期】
アヘン戦争(1840年~:天保11年~)から安政の大獄(1859年:安政6年)までの19年間
【倒幕期】
安政の大獄(1859年:安政6年)から鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)までの9年間
【政府形成期】
鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)から大日本帝国憲法公布(1889年:明治22年)までの21年間

この区分の方法の詳細は、前回記事(➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い)を参考いただきたい。
ここでは、各期に分けてそこで起こった出来事・当時の流れを記述していく。

2.【決起期】の出来事 ~草莽崛起の胎動。明治維新が動き出す~

(1) ひたひたと迫る列強の脅威と強烈な反面教師となった「アヘン戦争」

19世紀半ばのアジアの状況

19世紀半ばのアジアの状況

産業革命を経た列強の進出は、全世界的に起こってきていた(➡前回記事の「7.維新の頃の欧米列強」参照)。アジア諸国を経て、日本でもその影響はひたひたと迫ってきていた。「鎖国」と言われた江戸時代(実際には鎖国ではない)でも、日本も世界情勢と無縁では全く無かった。特に産業革命を経た後の西欧の動きは激しくなってきた。

文化5年(1808年)の「フェートン号事件」は、長崎にイギリスの軍艦「フェートン号」が来た事件である。この事件は、ナポレオン戦争におけるイギリス・オランダ戦争の余波で起こっている。また、水戸藩領の大津浜にイギリス人12人が漂着し、それを水戸藩がうやむやの後に返してしまった「大津浜事件」(文政7年:1824年)は、当時の水戸藩においても、大きく議論を巻き起こした。また、同年に起こった当時の薩摩藩領の「宝島事件」もイギリス人の漂着により起こっている。これらの事件を受けて幕府は翌年の文化6年(1809年)に「異国船打払令」を出し、対応に苦慮している。更にその3年後にはドイツの医師シーボルトが日本の地図などを国外に持ち出そうとした事件「シーボルト事件」が起こるなど、西欧列強による脅威はすでに日本に来ていた。幕府そして各藩の知識層は、海外の情勢が大きく変わっていたことを十分に知り始めていた。

シーボルト

シーボルト

シーボルトとその娘
シーボルト事件シーボルトは、日本地図を持っていたことから逮捕されているが、あまり考えずに日本の地図などを持っていたようである。もともと日本に対する強い関心から、自分で日本を志願したといわれた人である。捕まったときも他の日本人に類が及ばないよう、自分のみの罪と主張し、また残りの人生は日本のために尽くす、とまで言った人ではあった。ただし、スパイ疑惑も消えていない。
シーボルトは投獄を経てプロシアに返されるが、安政5年(1859年)に息子と共に再来日し、幕府の外交顧問となっている。ただし、女性に手を出すのは早かったようで、どうもそのあたりのエピソードにも事欠かない人物であった。

楠本イネと高子

楠本イネと高子

このシーボルトの子供が、日本初の女医となった楠本イネである。楠本イネは、当時珍しいハーフとして差別を受けながらも、医の世界に進んだ。日本の陸軍の創始者である大村益次郎と恋愛関係にあったと司馬遼太郎の小説では言われるが、定かではない。楠本イネは相当な実力者で、医学の世界でも大きく活躍している。

また余談だが、その娘、楠本高子は幼少期の写真があまりに美人のために有名となった。後の世で、その美しさを見た漫画家松本零士氏が、「銀河鉄道999」のメーテル、「宇宙戦艦大和」のスターシャ、のモデルにしたと言われる。ただ、楠本イネも高子も混血としての差別を受け、強姦を受けるなどつらい経験を経ている。それでもたくましく生きて時代を過ごした人達であった。

この列強の脅威の中で、日本にとって決定的な衝撃を与えたのは、【決起期】のスタートとして私が上げた「アヘン戦争」である。この戦争は、世界超大国のイギリスがアジアの大国であった「清」に対して仕掛けた戦争で、1840年から約2年間行われた。結果的に言えば、この戦争の結果イギリスにまったく敵わなかった清は、もともと弱体化していた体制が更に弱体化し、ほとんど無政府状態に近い状態になっていく。地図上での版図は広かったが、アヘン戦争の舞台となった「中国大陸」とよばれる当時のChina(中国)大陸は、半植民地化され完全に清の支配力は失っていき、人々は列強の言いようになっていた。

イギリスの清への進出

イギリスの清への進出

このアヘン戦争は、まさにひどいものであった。戦争のスタートからして、当時でも違反であったアヘンを売りつけ、それを拒み破棄した清に対して、「その取り締りがおかしい」として戦争をしている。イギリスの清との貿易赤字を是正する手段として「アヘン」が使われた。

さすがにイギリス議会でも問題となったが、それでも僅差で戦争は承認され、軍事的に圧倒的優位に立つイギリスは、あっという間に勝利し、清政府に無理な条約を押しつけている。これを推し進めたのが、当時の首相パーマストン卿である。

この戦争後に締結された南京条約により、イギリスは清に不平等な条約締結を迫り、いくつもの港を開港させている。更に言えば、この後のアロー戦争(1856~1860年)は「第二次アヘン戦争」ともよばれ、更にイギリスは清に対して圧力を強め、香港の割譲含め、大きく植民地化を進めた。更に、他の列強もこの年(1860年)にこぞって清に対して不平等条約の締結を推し進めている。もはや「清」はまったく無力になりつつあり、ほとんど統一国家としての体をなしていない状態になっていった。

吉田松陰

吉田松陰

このアジアの大国、清の敗北は、計り知れず、日本に大きく影響した。ここまでの力の差があることを見せつけられたのである。アヘン戦争の後に清の魏源が書いた「海国図示」は、1843年には発行されている。清ではあまり読まれなかったが、日本では吉田松陰や佐久間象山を始め、広く読まれた。魏源は「夷の長技を師とし以て夷を制す」とし、列強の技を学んで自分の物として列強に対抗すべきと説いたが、清では「香港を与えておけば列強は静かになる」、くらいの認識しかなく、あまり広まらなかった。そうした状況をまともに受け止め、他山の石として、アジアで唯一大きく動き出したのが、日本であった。この頃から、志士たちの動きが活発化し、まずは各藩で、そしてそれが倒幕へと向かい、「維新回天」が動きだすのである。

吉田松陰が言った言葉に「草莽崛起(そうもうくっき)」がある。「志を持った人々が立ち上がり、大きな物事をなしとげよう」、という考えであった。幕府・藩の旧勢力の無能ぶりを見て唱えた言葉であるが、まさにこの言葉通り、「草莽崛起」が日本中で起こり始めたのである。

(2) 開明的老中 阿部正弘(あべまさひろ)

阿部正弘

阿部正弘

ペリー来航の10年前に、江戸幕府ではまだ若い25歳の阿部正弘(あべまさひろ)が老中に抜擢された。天保14年(1843年)である。備後福山藩(今の広島県)の藩主であった阿部正弘は、正確は非常に温和で、決して政治的にも剛速球タイプではなかった。一方で、学問を広く好み非常に深い教養と知識を得ていて、日本と世界の状況もある程度わかる人物だったといわれる。

その阿部正弘が、天保の改革で失敗した水野忠邦みずのただくにの復帰を阻止し老中首座に立つのが、天保が終わった後の弘化2年(1845年)である。老中首座と言えば、今で言う総理大臣である。わずか27歳の最年少総理大臣として、阿部正弘という人物が幕府のトップとなっていた。

阿部正弘は、後に述べるペリー来航(嘉永7年:1853年)を経て大きく幕府の改革に乗り出す(安政の改革)が、そのわずか2年後に39歳の若さで急死する。開明的な藩主たちとも交流があり、人望もあったこの人が生きていれば、明治維新はまったく違った形になっていただろう、と思う人の一人である。

(3) 動き出す有力諸藩

上記の通り、日本を取り巻く世界は大きく変わりつつあり、幕府もすこしずつではあるがその動きが始まっていた。一方、各藩は更に動きが活発であった。特に影響を与えた藩主として、薩摩の島津斉彬(しまづなりあきら)、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)、長州の毛利敬親(もうりたかちか)が上げられる。

有力諸藩

有力諸藩

それぞれ優秀な藩士を従えて、藩主として現体制の矛盾を感じつつ、列強の脅威に対抗すべく藩の改革を行っていた。ひいてはその流れは、江戸幕府そのものにも限界を感じることとなり、倒幕の中心へとなっていく。皆、明治政府が成る前か成った直後に亡くなっているが、後の日本に計り知れない影響を与えている。

薩摩藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)

島津斉彬 公

島津斉彬 公

明治維新において、開明的藩主としてあげれば筆頭で上がってくるのが、薩摩藩の28代藩主、島津斉彬しまづなりあきらであろう。島津斉彬は幼少の頃から祖父の影響をうけて蘭学(西洋学)に強い興味を持つ開明派であった。当時下層の藩士だった西郷隆盛、大久保利通など、明治維新になくてはならない人達を登用し藩の改革にあたらせたのは、まさにこの人であった。また、人脈も広く、水戸の徳川斉昭や、老中の阿部正弘とも連携のとれる人であった。
まさに、日本を引っ張る大人物であったが、安政の大獄の最中の安政5年(1858年)に急死している。西郷隆盛はその死を聞いて殉死しようとしたほど、その死を悼んでいる。それほどの人物であった。また、その死は、安政の大獄で開明志士を処分する幕府に対し挙兵するところでの急死であったため、暗殺説も根強い。

水戸藩主 徳川斉昭(とくがわなりあき)

徳川斉昭 公

徳川斉昭 公

水戸藩は、尊皇攘夷そんのうじょういという言葉を生み出した藩である。幕末の時には、藩の内輪での内部抗争が激しすぎて藩の力が落ち、新政府に対する影響力は小さくなってしまったが、明治維新の志士たちへの思想的影響を与えた意味では、明治維新の重要な原動力を発揮した藩であることは間違いない。その藩主である徳川斉昭とくがわなりあきもまた、精力的な人であった。

「尊皇攘夷」とは、「君主(天皇)を尊び、夷狄(外国)を取り除く」というスローガンであり、それを最も早く急進的に主張していたのは水戸藩であった。その原動力は、やはり水戸における「水戸学」の発展がある。

これは江戸時代の初期から発祥したものであるが、列強の脅威が近づくにくれどんどん先鋭化されていった。徳川斉昭もまた、そうした水戸の血を引く人である。徳川御三家の水戸藩の藩主としても、強く「攘夷」(外人の排斥)を主張し、幕府から謹慎を命じられるほどであった。教育にも熱心で、「弘道館」という藩校を作り、広く勉学にあたらせ、また人材の登用にも務めた。ここでは「学問は一生行うもの」として卒業はなかったそうである。今は「生涯学習」などという言葉で言われるが、150年以上前から水戸藩は実践していた。

しかし徳川斉昭は、あまりに精力的すぎて度が過ぎて主張が強すぎることと、女癖が悪いことでも有名だった。子供は37人も設けている。そのうちの一人が最後の将軍となる徳川慶喜である。
徳川斉昭は、大老の井伊直弼が暗殺されるという大事件の「桜田門外の変」の年の万延元年(1860年)に。脳梗塞のうこうそくで亡くなった。ただし、「桜田門外の変」は水戸藩士が直接の下手人であり、あまりにタイミングが良すぎて暗殺説は消えない。

長州藩主 毛利敬親(もうりたかちか)

毛利敬親 公

毛利敬親 公

毛利敬親もうりたかちかは、先の二人の藩主と比べて影が薄い。亡くなったのは明治4年(1871年)と明治の時代になるまで生きている割には、長州藩の藩主としての名前はあまり聞かれない。しかし、そのエピソード、また毛利敬親を慕う人達を見ると、非常に魅力のあった人物として、私の興味も尽きない。

細かいことに口を出すことなく、家臣にたいしてほとんど口を出さず、聞かれれば「うん、そうせい」といつも言っていたことから「そうせい候」と呼ばれていたという逸話がある。しかし、重要なことは自らで決断し、更に藩政改革を実行。教育や近代化に非常に力を入れていた。長州藩は先んじて幕政改革を行ったが、それは村田清風むらたせいふうという人物を抜擢し信頼して任せたことによる。それを行ったのが、まさに毛利敬親であった。村田清風は、傾きかけていた長州藩の財政を大きく改革すると共に、清に対する列強の支配も認識していたため、早く国防を高めることを主張していた人である。その思想は毛利敬親だけでなく、吉田松陰・高杉晋作などにも大きく影響していた。

毛利敬親は、吉田松陰を早くから認めており、自ら松蔭の門下生になるほどの入れようであった。桂小五郎(後の木戸孝允)や高杉晋作、そして吉田松陰からも絶大な信頼を得ていた人徳の人であった。あれほど過激に揺れた長州藩の藩主として、毛利敬親のような人でなければ長州藩の成功はなかっただろう、といわれる。微妙なバランスを取りながら、維新志士たちからも絶大な信頼を得た毛利敬親という人物には、個人的な興味は尽きない。

(4) この頃の思想の形成過程

江戸時代は、藩による教育は非常に盛んであった。その内容は、幕府からいわれた「朱子学」が中心であった。「朱子学」は簡単に言えば、役人になるための学問で、「上の言うことには従う」とする「儒教」の考えに根ざしていた。しかし、江戸中期から、陽明学や国学の発展に伴い、日本独自の考え方・学問が体系化されていった(詳細は ➡江戸時代に挑む!【5】江戸時代の思想史参照)。

そんな中で、列強の脅威が知られ始めると、特に外国勢力の影響を感じ始めた開明的藩主の藩から、藩を強くするための教育が盛んになっていく。それは、精神的には「尊皇(そんのう)」(天皇を中心とした統一国家)への考えへの傾きであり、技術的には「蘭学(西洋学)」に学ぶというものであった。
先ほども述べたとおり、開明的藩主は特に人材育成が急務と、藩の改革の中に教育改革を必ず入れている。その時に求められるのが、それを教える教師である。その教師の中に卓越した人が何人もいて、その下での門下生が後の明治維新の中心人物となっている。また、その時の交流による人脈が、明治維新を成功への結びつけている。その代表例の一人として、佐久間象山さくましょうざんを記述したい。

佐久間象山

佐久間象山

佐久間象山

佐久間象山は、文化8年(1811年)に生まれ、元治年(1864年)に54歳で暗殺され亡くなってる。松代藩(現在の長野県長野市)の人で、蘭学(西洋学)の第一人者であった。象山は早くからその才能が高く評価され、松代藩でも登用されていた。当初は儒学者としてであったが、アヘン戦争において清の惨状をみた幕府が松代藩の当主に国防についての研究を命じたことから、象山が国防について深く研究することとなった。

佐久間象山のすごいところは、その後は技術屋、いわゆる理系の学問に邁進していきその第一人者になっているところである。近代洋式砲術を学び、数々の実験や研究をしている。単なる思想家ではなく、更に西洋の軍事専門家でもあったのである。しかし、儒教者たる思想を捨てることはなく、あくまで「日本」としてどうしていけばいいか考える人だった。江戸にて塾を開き(象山書院(1839年)、五月塾(1853年))広く門下生を取っている。その時の門下生には、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟、橋本左内、など、明治維新になくてはならない人達が大いに参加し、優れた人材を輩出している。また謹慎中は高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎の訪問を受けるなど、まさに思想家・軍事専門家として第一人者であった。勝海舟の妹を妻とし、勝海舟の「海舟」は佐久間象山の書斎にあった掛け軸から取っている。

それほどの人であり、後年は日本随一の知見を持った人としても知られていた。西郷隆盛も頼りにしていた。これだけの知見を持った象山も、外国を打ち払うという「攘夷」(外国人の排除)は無理であり無駄と考え、開国して学ぶべきと言う考えであった。主流だった「攘夷」の議論がだんだん変わり、象山と同じような考えが開明派の志士たちの共通認識になることに、象山の果たした役割は計り知れず大きい。幕府に命じられ、国防の任にあたっていた佐久間象山は、朝廷の高官や将軍の家茂にも、公武合体・開国論を説いていたという。西郷隆盛にも認められ、長州や土佐から講師に招かれるなど、日本随一の知識を持った人物であった。

にも関わらず、自分に警備をつけることはなく、名だたる人から暗殺の心配を受けていた。結果、攘夷派で「人斬り彦斎」の異名を持つ、川上彦斎(かわかみげんさい)に切られ亡くなる。川上彦斎は、マンガの「るろうに剣心」のモデルとして知られるが、象山を切った後に象山の功績を聞いて驚愕し、それ以降人斬りをやめたという。佐久間象山はこれだけの才能を表に出すタイプで、自信過剰なところがあり、あまり人望はなかったようである。そのため後世で変人扱いされている節がある。しかし、間違いなく日本を大きく動かした大人物の一人であった。

(5) 幕府の動き 開明的老中から守旧派のドン井伊直弼へ

ここまで、【決起期】として、列強の脅威から各藩・志士・思想家たちの動きをかいつまんで記述してきた。列強の植民地支配への脅威という、清とイギリスの「アヘン戦争」にて突きつけられた現実に対して、どう対処すべきかの議論が日本中で沸騰していた。そんな中、行政側の幕府はどのように動いたのだろうか?

幕末における幕府の体制は、将軍というトップはいるが、基本的には「老中」が内閣で行政を取り仕切っていたと言っていい。老中は3名から5名程度で集められ、徳川幕府に近い藩で固められていた。老中というと老人がやっているように思えるが、そうではなく、将軍が徳川家に近い「譜代(ふだい)」の藩から優秀な藩主を「老中」として任ずるものである。
この老中のトップが、「大老たいろう」であったり「老中首座ろうじゅうしゅざ」であったりする。なお、大老は常にある役職ではなくまた大老になれる家は決まっていて、あくまで臨時の職である。そしてどちらも、今で言えば「内閣総理大臣」といえる。
その内閣総理大臣に、若くして阿部正弘が就任したことは先に述べた。幕府もアヘン戦争などの状況は把握しており、その対応を考えることを進めようとしていた。阿部正弘は若くして老中として取り入れられた上に、すぐに老中首座となっている。まさに日本の舵取りは、阿部正弘に課せられた。

ペリー

ペリー

そんなときに、ついにアメリカから東インド艦隊司令長官のペリー率いる黒船が日本に来た。嘉永6年(1853年)である。ここから、明治維新は一気に回天を早め出す。浦賀(今の横浜)につけられた艦隊を見て、江戸の街は大いに騒ぎとなった。しかし、問題の本質はペリーの持ってきた「条約」を承認するかどうかにあった条約を承認すれば、港を開けることとなりいわゆる「開国」となる。しかし、これを拒否すれば清と同様のことになるのでは、という恐れと現実的な脅威があった。まさに「砲艦外交」といわれる脅しをかけられながらの判断を迫られていた。

ここで阿部正弘が取った手法が、徳川幕府始まって以来の異例なものであった。今まで徳川幕府に近い「譜代」大名のみで行われた政治の中で、なんと、この条約承認についての意見を外様大名はおろか、庶民にまで意見を広く聞く、という手法をとったのである。これ以降、幕府はその政策について、諸藩や天皇にお伺いを立てざるを得なくなっていく。後世では、「自信のない阿部正弘が責任逃れの言い訳のために意見を募った」、という評価もあるが、阿部正弘の政策を見れば、確信的に信念に基づいて行われたことであることがわかる。「安政」というと、井伊直弼の「安政の大獄あんせいのたいごく」がすぐ連想されるだろうが、阿部正弘が行った大改革の「安政の改革あんせいのかいかく」が後の世に与えた影響は非常に大きい。
阿部正弘が、ペリー来航前後に行ったこの改革は、大きくは

(1) 挙国一致体制を作る
アメリカの条約締結について、広く意見を募り、日本全体の問題として提起する。
(2) 人材の登用を行う。
幕臣などに、身分や家柄に縛られずに人材を投与する。勝海舟などの重要人物がここで多く取り入れられている。
(3) 近代化政策を進める。
国としての実力を備えるべく、それまで諸藩に禁じていた造船の許可、洋式軍艦の国内建設、海外留学計画、蝦夷地の五稜郭の建築、などを推し進める。

という政策であった。阿部正弘は途中で老中首座を、堀田正睦ほったまさよしに譲っているが、これは阿部正弘の進める政策があまりに危険なため、その批判をかわすためである。堀田正睦も安倍に劣らず開明的思想の持ち主であったため、改革はぶれることなく進められた。

将軍継嗣問題

ペリー来航の数ヶ月後には、12代将軍の徳川家慶とくがわいえよしが急死している。大混乱のこのときに、混乱に拍車をかけたのは間違いない。家慶の子「家定」は病弱で、しかも早くから将軍は難しいと言われていた。一節には脳性麻痺とも言われ、松平春嶽にして「凡庸の中の最下等」とまでこき下ろされていた。父の家慶は、本気で家定には将軍を継がせずに、当時、英明の評判が鳴り響いていた後の「慶喜よしのぶ」に譲ろうとしたこともあったようである。

しかし、結果的に第13代将軍として徳川家定が就いた。しかし、病弱なのは誰に目にも明らかで治世が出来る状態ではない上に、次の将軍をすぐに考えないといけない状態であった。そこで候補としてあげられていたのが、紀州の慶福よしとみと一橋家の慶喜よしのぶであった。いわゆる「将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだい」である。そんな中での、条約締結問題であった。

阿部正弘

阿部正弘

その時の阿部正弘の多忙たるや、想像することすら難しい。しかし、阿部正弘はこの難しい局面にあって、愚直に信念を貫いたと言える。先の「安政の改革」という政策は、後の日本に大きなプラスの影響を与えることとなるし、まさにその後の明治政府が進めようとした政策そのものであったと言える。しかし、阿部正弘は、この最中の安政4年(1858年)に、39才の若さで急死する。激務の中、どんどんやせていったいうからガンの可能性もあった、という説もある。この人が生きた中での明治維新を見てみたかった気もする。

そして、阿部正弘の死の翌年に「大老」として政治のトップに躍り出たのが、「井伊直弼いいなおすけ」である。この人の登場が、阿部正弘とまるで真逆のため、当時において大きな衝撃となった。井伊直弼は近江彦根藩の藩主である。戦国時代の「徳川四天王」の一角を占めた井伊直政を始祖にもつ名門「井伊家」の藩主であり、「大老」と名乗れる数少ない家柄であった。

(6) 大粛正となった安政の大獄とその影響

大老 井伊直弼

大老 井伊直弼

大老となった井伊直弼いいなおすけは、まず「将軍継嗣問題」に片をつける。阿部正弘の死で一橋派の勢力は大打撃を受けていた。そこで、将軍を決めるのは能力の優劣ではなく、血統であると、として、より家柄が将軍家に近い、紀州の慶福よしとみを次期将軍とする、として第14代将軍 徳川家茂とくがわいえもち、として決めた。また、それに伴い一橋慶喜よしのぶを押していた勢力の粛正に入る。代表格が水戸の徳川斉昭で、蟄居を命じられている。

そしてその後には、アメリカのハリスと日米修好通商条約を結ぶ。そしてその後、列強各国と同様の条約を結ぶこととなる。安政5年(1858年)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと結んだこの条約は、「安政五カ国条約」と呼ばれる。
この条約締結問題には、もう一つ大きな混乱要素があった。それは「勅許ちょっきょ」である。勅許とは、天皇の許可を得ることを言う。本来幕府は、征夷大将軍として内政・外交においての独裁権を持っていたため、天皇の許可などもらったこともなかった。しかし、この国難に当たり幕府だけの判断では国論を押さえられなくなってきた。そこで、天皇陛下の採決を仰ぐ、という「勅許」問題が浮上していたのである。先の老中首座の堀田正睦は、勅許を得るべきだとして、孝明天皇のところまでお伺いに行っている。しかし、ここで更に問題を複雑化させていた要素があった。それが、孝明天皇である。
孝明天皇は徹底的に外国嫌いであった。また、朝廷もそれに乗り孝明天皇を利用したようである。とにかくこれにより、外国すなわち列強に対して徹底的に排除する方向が朝廷で固まっていた。これにより、幕府は常に足を引っ張られる形となる。

こうして、「将軍継嗣問題」と「条約締結問題」に、曲がりなりにも結論をつけた井伊直弼は、次に、将軍継嗣問題で一橋派の本格的な処罰に入る。いわゆる「安政の大獄」である。
これには、条約締結による日本の開国に反対していた志士たちの弾圧も入っていた。処分された人数は100名以上に上り、死刑あるいは獄中死は10名以上にのぼる。その中に、維新の思想の原動力となった、吉田松陰橋本左内も含まれている。列強の脅威から動き出した日本の志士たちや、阿部正弘などが中心にすすめた近代化政策の方向性を、無理矢理にかつ急激に転換させたものであった。

橋本左内と維新回天

橋本左内

橋本左内

橋本左内は、越前国福井藩(今の福井県福井市)の藩士であった。医者の長男として育った左内は、若くして優秀さは群を抜いていた。16歳の頃には緒方洪庵から蘭学と医学を学び、横井小楠や梅田雲浜(うんびん)とも親交を持っている。その後、英語やドイツ語も独力で学ぶと、藩主の松平春嶽に認められ、重用されている。その際に江戸で、薩摩の西郷隆盛や水戸の藤田東湖と交え、交友を広めた。橋本左内と出会った人は、一様にその才能を認めている。西郷隆盛は、終生橋本左内の手紙を肌身離さず持っていたという。

また、橋本左内は藩の学校の明道館の責任者の一人となる。まだ23歳であったから大抜擢である。その際に、自分で15歳の頃に綴った「啓発録」を使った教育は有名である。そのうちの一部を紹介する。
【立志(志を立てよ)】自分を育てるのは自分である。 強く正しい人間になるためには、自ら進んで自分を鍛えよう。

この文を15歳の時に、自分に向けて書き残しているのだから、それだけ見てもその見識と志の高さを感じる。「啓発録」は今も福井県の教育現場で使われるほどの内容である。「学問は実践を伴わないといけない」など、若かりし日の橋本左内の思いがつづられている非常に勉強になる物なので、興味のある方は是非。

その橋本左内が首を切られた。藩主の松平春嶽は大いに嘆き、西郷隆盛は、悲嘆と怒りにくれた文を残している。また橋本左内と面識のあった水野忠徳ただのりという幕閣は、「井伊大老が橋本左内を殺したという一事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と言ったほどである。
橋本左内も吉田松陰も、幕府を倒すなどとは言っておらず、打ち首になるほどの罪はなかった。そうした志士でも弾圧した幕府を見て、志士たちは大いに嘆き、幕府そのものに対する疑念が決定的な物になっていくのである。

では、これだけの粛正をした井伊直弼にその後の展望があったかというと、阿部正弘に比べてその考えはかなり乏しかったと言える。「体制維持が日本のため」、といういかにも現実逃避的な考えの下、まずは粛正をしたというのが、安政の大獄の実態であった。その後の日本のビジョンはなかったのである。
そのため、これにより明治維新の火が消える、という物ではなかった。むしろ、当時はまだ江戸幕府が政権を朝廷に返す、いわゆる公武合体が主流の考えであったのだが、安政の大獄を経てこうした幕府の独断ぶり及び無政策ぶりが露呈し、流れは「まず江戸幕府・徳川体制を倒す」という方向に動き始めていく。安政の大獄は、明治維新が次のステージに入る大きな呼び水となったといえる。

3.【決起期】を見て

このように、明治維新の【決起期】を見てくると、いかに列強の脅威という原動力に基づいて、日本中が動いていたかがわかる。決してペリーの来航で驚いて、反射的に動いたのではない。列強の状況及び、清の状況を見て、日本としてどのように進むべきかを考えて、それぞれが動いていた。

それが、だんだん方向性を一致させ、旧体制を破壊することでしか列強には対抗できないという、「倒幕」という方向になっていくのが【倒幕期】である。次回に記述していく。

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コメント

    • ゆかり
    • 2018年 6月 06日 12:53am

    なるほどなるほど!面白い。
    よくよく理解できました。
    1人ずつの物語を更に掘り下げて読んでみたくなるねー。

      • てつ
      • 2018年 6月 06日 10:24pm

      明治維新はちょっとややこしいけど、全体を理解しておくと、更に面白いよ。

      できるだけ分かりやすく、かつ、正しい歴史を書いてみまっす!

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