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維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~

名古屋城

維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~

明治維新の見方はいろいろある。それを「徳川御三家」の視点から見てみたい。普通に考えれば、徳川御三家と言ったら江戸幕府の中枢中の中枢のはずである。しかし御三家は、幕末における幕府の危機にあって、それぞれで考えてそれぞれで日本のためにと違う動きをした。そうした先人達の判断・行動から、明治維新、更には現在の日本を考えたい。是非、お付き合いを。

(シリーズ記事)
➡維新回天と徳川御三家① ~尾張徳川家はなぜ倒幕に走ったか?~
➡維新回天と徳川御三家② ~水戸徳川家はなぜ「尊皇攘夷」の祖となった?~
➡維新回天と徳川御三家③ ~紀州徳川家と徳川本家の幕末~

1.徳川御三家ごさんけで対応が大きく分かれた明治維新

明治維新というと、ヨーロッパ列強に対抗するために、徳川幕府(江戸幕府)に対して「雄藩」と言われる有力藩が反抗し、徳川幕府を倒し近代化を進めた改革、と思われがちである。

しかし、徳川幕府を支えていた有力藩の中でも対応が分かれていたことは、明治維新の成功の大きな要因なのにあまり注目されない
すなわち、徳川幕府の中枢中の中枢であるはずの「徳川御三家ごさんけ」のうち、なんと2つもの「家(藩)」は徳川幕府側ではなく、新政府側につくことになった

そしてその理由は、それぞれの藩や家が持った歴史を見ていくと見えてくる。もちろん、単純な話ではなく、「これが理由で新政府側についた」と語られるものではない。しかし、御三家ごさんけの歴史を見ることで江戸時代の一つの側面を見られるし、明治維新が違う角度から見えてくる

今回はその中でも、「御三家ごさんけ筆頭」と言われる尾張徳川藩の歴史と幕末での動きを見ていきたい。

名古屋城
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2.徳川御三家とは

そもそも「徳川御三家ごさんけ」とは何かを知らないといけない。

徳川御三家ごさんけとは
・徳川御三家
は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ。
・徳川の名字を称することを認められていた三つの分家のこと。
尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家の三つの家を言う。
将軍家の世継ぎがない場合には、尾張家か紀伊家から養子を出す、ということになっていた。
徳川本家と徳川御三家
徳川本家と徳川御三家

御三家ごさんけは、江戸時代の中でも定義が変わったりするが、一般的には上記を「御三家ごさんけ」という。

この御三家ごさんけは他の大名と別格の地位にあり、あえて将軍家を補佐する家として存在させた。また、御三家ごさんけは、徳川の時代に混乱をきたさないよう、将軍を継嗣する仕組みとしても存在した
このように、徳川の体制を安定させる仕組みは、世界でも類を見ないほどの長い期間の「平和の江戸の260年」を維持した原動力の一つとなったともいえる

しかし、これが幕末の維新回天期では、その対応はそれぞれで違っていった。

3.御三家ごさんけ筆頭 尾張徳川家の始まりの「家祖かそ」徳川義直よしなおとは

尾張徳川家 徳川義直(よしなお)
尾張徳川家 徳川義直(よしなお)

まずは、御三家ごさんけの中でも「筆頭」の家格を持つ、尾張藩(現在の愛知県:名古屋市)を見てみたい。

尾張徳川家は、御三家ごさんけの中でも筆頭ということで、徳川本家を除けば最高の「格式」を持った家として存在していた。その最初である「家祖かそ」は徳川家康の9男の徳川義直(よしなお)だった。

徳川義直よしなおはとにかく勉学に熱心で、特に儒教の考えに深く傾倒し研究した人だったといわれる。

徳川将軍8代と徳川義直と水戸光圀
徳川将軍8代と徳川義直と水戸光圀

その義直よしなおが集めたといわれる「軍書合鑑」には「王命によって催(もよお)さること」とある。その意味は「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」ということであり、その思想は歴代藩主に語り継がれ尾張徳川家の藩訓となったとも言われる。
つまり、初代の義直よしなおからすでに将軍家よりも朝廷すなわち天皇にこそ「権威」がある、という今の日本と同様の「国家意識」を持っていた、ということが言える。

義直よしなおの考えは、弟の息子でありそして後の水戸藩の藩主となる水戸光圀みつくににも、大きく影響を与えたといわれる。後の明治維新ひいては日本に大きな影響を与えた、といえる水戸学の祖といえる水戸光圀みつくには、叔父にあたる義直よしなおを慕い、学問において尊敬していたという。

尾張徳川の初代義直よしなおは、すでに最初から徳川という枠にとらわれず「日本」というものを歴史的観点から見ていたのかも知れない。そして、それが確実に引き継がれていった。

4.8代将軍吉宗と真っ向から逆らい、名古屋を空前の好景気にした7代藩主徳川宗春むねはるとは

(1) 不審死が相次いだ将軍継嗣しょうぐんけいし問題

尾張徳川と将軍家との関係において、将軍家の8代将軍 徳川吉宗の頃についての尾張徳川家に触れたいこの時に尾張徳川と将軍家との決定的な「確執」が生まれた、ともいえる。

一つは、これはあくまで結果論に過ぎないし真相はわからないが、8代将軍吉宗の前の、6代将軍家宣・7代将軍家継の「将軍継嗣しょうぐんけいし問題」とそれをめぐる不審死である。病床の6代家宣が、次の将軍を考えたとき、自分の子供である家継は幼少であり病弱であったため、尾張の4代藩主の徳川吉通を推した、という話もあった。新井白石によりそれはなくなり家継が7代将軍がわずか5歳で将軍となるが、その家継も3年で亡くなる。

この7代将軍になった頃、なんとその尾張徳川家の吉通(よしみち)が25歳の若さで変死している。徳川吉通は尾張柳生流を極め、勉学にも励み名君と言われたほどの人物だった。
また、こうした「不審死」は少し前の年に紀州藩でも相次ぎ、結果的に紀州の徳川吉宗が、8代将軍となるのである。

そしてこの後、御三家ごさんけ筆頭である尾張徳川家から将軍になった人は一人もないまま、幕末を迎えることになるのである。その後の将軍家が紀州の流れが続くため、尾張藩の将軍家に対する不信は大きかったといわれる。

吉宗就任までの徳川家連続死
吉宗就任までの徳川家連続死

(2) 8代将軍吉宗に逆らい今日の「名古屋を作った」第7代藩主 徳川宗春むねはる

徳川宗春伝
徳川宗春伝

そしてもう一つが、その8代将軍である吉宗の「質素倹約」に真っ向から反対し、「名古屋の繁華に京(興)がさめた」と言われるほどの好景気をもたらし、尾張・名古屋の文化・経済を大いに育てた尾張の7代藩主である徳川宗春むねはるの政治と、それに対する将軍家(吉宗)との確執は、尾張藩と将軍家との決定的な「対立」だった
徳川宗春むねはるは、4代藩主で先に変死で述べた吉通(よしみち)の弟である。

徳川宗春むねはるは名古屋に入るときに、そのド派手な衣装と奇抜な行動で語られ、歌舞伎の題材にもなっている。宗春むねはる一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。そして、その恰好のみならず、宗春むねはるは当時の将軍吉宗の方針に逆らうかの如く、質素倹約と真逆の政策を実施していった

こうした宗春むねはるの「印象」から、「奇人」「幕府に反発した人」というイメージがつきまとう。
しかし宗春むねはるは、単に「反幕府」とか「反吉宗」という考えではなく、凛とした信念があった。その政治信条をつづった「温知政要(おんちせいよう)」に示されている。

宗春むねはるの考えで一貫した物として、下記の二つを挙げたい。

徳川宗春むねはる公の考え
・ 行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる

・ 規制を増やしても違反者を増やすのみ

これは明らかに当時の幕府と方針が異なるものであるが、現在の経済でも言える「正論」である。Wikipediaにあるとおり、吉宗以降も続く「幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春むねはるだけである」、と言える
現在で言えば、積極的な公共投資を行い、また規正を緩和し商売をしやすくしていった。

この結果、名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春むねはるの治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春むねはるは、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている。

こうした宗春むねはるの政策が効果をもたらしても、幕府は自身の方針を変えようとはせず、むしろ威信が揺らぐと危惧した。また、当時の幕府と朝廷との緊張関係も影響し、徳川宗春むねはるは、藩主になって8年を経過した1739年に、ついに幕府から蟄居謹慎の命を受け藩主の座を追われることとなった

宗春むねはるはその後も蟄居謹慎が解けず、1769年に69歳で人生の幕を閉じる30年もの謹慎期間はあまりに長すぎると思うが、一方で、謹慎を命じた責任者の将軍吉宗は宗春むねはるのことを気にかけていたとも言われる。徳川宗春むねはるに対しては、将軍である吉宗よりもむしろ、老中からの反発が大きかったようである
また、実際の謹慎はそれほど厳しいものではなかったともいわれる。しかしそれでも、現在にも通じると思われる宗春の考える「政治」「経済」政策は、尾張藩では実行できなくなってしまった。
名古屋に生まれ名古屋に住む私としては、徳川宗春むねはる公の政治がもっと長く続けば、名古屋もそして日本も違う形の良い国になっていたように思う
Wikipediaからの引用だが、宗春むねはる公の考えの一部が下記である。

  • 形式よりも中身を大切にした(例:仁・「まこと」を重視する 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 意味のある祭りを盛んにし、奨励した(例:東照宮祭・名古屋祇園祭(天王)・盆踊り 等)
  • 人道に反する祭りは禁止した(例:梁川の正月の水掛け、国府宮の裸祭厄男 等)
  • 奪い合うことや義に合わぬことを禁止した(例:條々二十一箇条 等)
  • 自分の身にあった遊びは大切であるとした(例:遊廓・芝居・見世物 等)
  • 法律や規制は少ないほうが良いとした(例:規制緩和 温知政要・條々二十一箇条 等)
  • 簡単なミスの訴状等の書類を差し戻さず受け入れるように指示した(例:條々二十一箇条 等)
  • 衣服・家・持ち物等は禁制のある物以外は自由にした(例:條々二十一箇条 等)
  • ファッションリーダーを自ら担った(例:申楽(能・狂言)・歌舞伎・朝鮮通信使等の衣装 等)
  • 心を込めた贈答・饗応を大切にした(例:條々二十一箇条 等)

そして、この吉宗VS宗春むねはるの確執は、それはそのまま将軍家と尾張徳川家との確執であったといえる。

5.尾張徳川家 14代の藩主、徳川慶勝よしかつと幕末

(1) 徳川慶勝よしかつとは

尾張藩主 徳川慶勝
尾張藩主 徳川慶勝

幕末での尾張徳川藩を率いていたのは、14代の当主、徳川慶勝よしかつである。徳川慶勝よしかつという人はどういう人だったのだろうか。

尾張徳川藩は、10代斉朝、11代斉温、12代斉荘、13代慶臧と4代続いて将軍家周辺からの養子が続いた。徳川本家の13代将軍の家斉は「子だくさん大名」という名を持つほど子供が多かった。そしてその後は、その親族を使った「姻戚関係外交」を展開し各大名に養子にしていった。中には江戸から一歩も出ず、尾張藩に入ることすらなかった当主もいた。
当然、尾張徳川藩の藩士達は面白い訳ではなかった。

しかし、将軍家からの藩主は短命で長続きしなかった。そこで、遂に尾張徳川藩の流れをくむ松平高須家から迎え入れられたのが、慶勝よしかつであった。慶勝よしかつの擁立は何度も試みられた結果であり、尾張藩士の待望であった徳川慶勝よしかつは、ペリー来航が嘉永6年(1853年)だが、その4年前の嘉永2年(1849年)に14代藩主として就任する。まさに幕末の日本の中で、将軍家を除く大名の中で最高の家格をもつ御三家ごさんけ筆頭の当主となった。

尾張徳川家 家系図
尾張徳川家 家系図(徳川美術館HPより

そうした背景を持つ徳川慶勝よしかつは、積極的に政治を動かし、幕末にあって危機感を持って改革を進めた。財政の再建を行うと共に、特に水軍などの国防にも力を入れる。そして、有力諸侯である、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭、仙台の伊達宗城などとも親交を持ち、幅広い人材との交流があった。

(2) 幕末に活躍した「高須四兄弟」とは

ここで高須四兄弟」に触れておきたい。慶勝は、幕末で有名な「高須四兄弟」の一人である。高須四兄弟とは、名門とは言え弱小と言える高須松平家の松平義建の子供のうち、四人の兄弟を指す。
高須家の「高須」は、愛知県と三重県を結ぶ高須輪中の地名で、木曽川・長良川・揖斐川(木曽三川)が作り出した沖積地(濃尾平野)を言う。現在の岐阜県海津市あたりになる。

高須輪中
高須輪中

わずか3万石の高須藩ではあるが、名門で優秀な人を輩出することが知られていた。そして、幕末に翻弄される兄弟4人は、それぞれ徳川ゆかりの藩に養子に出され、活躍し、また兄弟同士で戦うという悲劇となった。

【 高須四兄弟 】
・ 尾張徳川家14代当主 徳川慶勝(よしかつ)
  ・・・ 明治政府側の代表の一人になる。
・ 一橋徳川家10代当主 徳川茂栄(もちはる)
  ・・・ 幕府側。最後の将軍慶喜の後継者
・ 会津松平家9代当主  松平容保(かたもり)
  ・・・ 幕府側。新撰組のオーナーとして、維新の志士を粛清
・ 桑名松平久松家4代当主 松平定敬(さだあき)
  ・・・ 幕府側。松平容保と共に、京都の守護にあたる。

このように兄弟で立場は全く変わるが、明治維新において非常に重要な役割を果たしている。中でも慶勝よしかつは明治政府そのものの実力者となった。
しかも、兄弟仲が良かった。年老いた後の写真が物語るが、実際に明治政府の実力者となった慶勝よしかつは、兄弟達の処分を寛大にするよう、明治政府に相当圧力をかけた。そして、功績のあった慶勝よしかつの言うことは明治政府も聞かないわけにはいかず、兄弟達の処置は寛大なものとなった。

どちらも自分の正義を貫き、日本を見据えた戦いをしたまさに「明治の志士」であった。

高須四兄弟と徳川慶勝
高須四兄弟と徳川慶勝

(3) 長州征伐(第一次)で西鄕隆盛と共に長州藩を救い、幕末の道を開いた徳川慶勝よしかつの英断

尾張徳川家 徳川慶勝(よしかつ)
尾張徳川家 徳川慶勝(よしかつ)

こうした背景を持った徳川慶勝よしかつは、徳川御三家ごさんけ筆頭として当然のごとく、当初は幕府側の有力な代表の一人だった。しかし、

① 高い教育を受け、高須四兄弟だとして育った慶勝よしかつは、幕府の末期的状況を理解していた。
② これまで示したような尾張徳川の伝統を受け継ぐ高須家にあり、家祖かそである「義直よしなお」の「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」は尾張藩の家訓として底流にあった。
③ 上記のことから、幕府の限界を知り幕府に変わる器が必要という認識を持つようになった。

という状況であった。

そんな中で、列強の圧力に対して、有力な藩は危機感を感じそれぞれで日本を守るべく行動をした。当時最も過激に動いた藩の一つが、長州藩だった。
幕府はなおも世界に目をくれず、そうした長州藩に対する圧力に腐心していた。禁門の変でまったくの悪役となった長州に対し、総攻撃をしかけるべく準備を進める。すなわち、西国21藩に出兵を命令、征長総督に尾張藩主の徳川慶勝よしかつを任命し、元治げんじ元年(1864年)の11月18日を総攻撃の日と定めた。いわゆる、「第一次長州征伐」である。
その「第一次長州征伐」の総督が徳川慶勝、であり参謀が西鄕隆盛であった

結論から言えば実際の軍事行動はとられず、長州藩に対して家老3人の切腹、先の七卿落ちで残っている5卿の追放、山口城の降伏を条件に、長州藩の降伏を認めるのである。これには幕府側は大きく不満であったが、総督の徳川慶勝よしかつがその決断を下して、征長軍を解散させてしまった。第一次長州征伐は名ばかりで、実質的な戦闘はなかったのである。

勝海舟と西郷隆盛
勝海舟と西郷隆盛

このように長州藩に対して甘い結論になるように主導したのが、西郷隆盛と言われる。西鄕隆盛は、このときに勝海舟と出会い、日本国内で争っていてはいけない、という広い視点を持つようになり長州を味方にしようとしたと言われる。
もちろんそれは事実だろう。しかし、総督の徳川慶勝よしかつがそれを認めない限り、それは実行されなかった。いくら薩摩藩が強くても、徳川勢は圧倒的な力を持っている。その代表の一人である尾張徳川藩の徳川慶勝よしかつが、幕府に反する勢力を許すという決断は、ある意味で西鄕隆盛よりも重かったといえる

維新回天は、この直後に薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」をもって、急速に回天を始め、ついには江戸幕府は倒れ明治の時代となる。
まさに、徳川慶勝よしかつは「明治維新の立役者」の一人だったことは、間違いない

(4) 江戸城の無血開城の影の功労者だった徳川慶勝よしかつ

明治維新の状況は刻一刻と変わっていくが、決定的になったのが「鳥羽伏見の戦い(明治元年:1868年)」により最後の将軍徳川慶喜が退却したことである。
これにより徳川幕府は一気に「朝敵」となり、新政府は徳川方につく大名を押さえつけに入る。その最も象徴的な物が「江戸城無血開城」である。

この「江戸城無血開城」は世界的に見ても、珍しい現象と言える。弱体化したとは言えまだ最強を誇っていた徳川方は、その力を結集すれば新政府を倒すとまではいかずとも、大いに苦しめる力はあった。しかしそれをしなかった。内戦にならずにまさに「無血で」江戸が降伏したことは、勝海舟や西鄕隆盛などの活躍もあるが、日本での内戦は日本人にとって何も利益をもたらさない、という根本の認識が朝廷を中心とした日本に根付いていたからと思われる

新政府軍の江戸への進路
新政府軍の江戸への進路

その証拠の一つが、尾張の徳川慶勝よしかつがこのときに取った行動にある。江戸城無血開城を行うには、新政府軍は「東海道」を通じて江戸へ入る必要がある。その道中は、尾張徳川家はもちろん、その他有力諸侯が連なる。それらが新政府軍を苦しめれば、更に「日本の内乱」は大きくなってしまう。日本を強くするために江戸幕府を倒したのに、これではまさに本末転倒となってしまう。
徳川慶勝よしかつは、尾張から江戸までの間に所在する大名や寺社仏閣などに、新政府側に付くよう使者を送って説得、500近くの誓約書を取り付けたおかげもあり、新政府軍は抵抗を受けずに江戸に到達できた

このよう見ていくと、徳川慶勝よしかつは江戸城無血開城の立役者の一人である、といえる。江戸を火の海から守り、そして日本に内乱を起こさせない努力をした、英雄の一人と言っていいのではないだろうか。

6.徳川御三家ごさんけと筆頭尾張徳川家の対応に見る明治維新

明治維新を「徳川御三家ごさんけ」の視点から見てきた。今回は中でも、御三家ごさんけ筆頭の尾張徳川家の歴史と共に明治維新を見た。
どうしても、明治維新というと、江戸幕府(徳川幕府)を薩摩藩・長州藩を中心とした有力諸侯が倒した、と思われがちだが、それほど単純な構図ではないことが、徳川御三家ごさんけを通じて見えてくる
本来であれば、最初から最後まで江戸幕府の味方をすべき徳川御三家ごさんけが、それぞれの判断で、また私利私欲ではなくそれぞれの信念に基づいて行動した結果が、明治維新であった。その中でも徳川慶勝よしかつの取った行動は、家祖かその徳川義直よしなおの考えである「敬うべきは朝廷であり朝廷と幕府が争うことがあれば朝廷側に味方せよ」を守った上で、日本に内乱が起らないように腐心した
そしてそれは、結果的に現在の日本を作った大きな決断であった。

改めて、先人達の信念・歴史の重さを感じられる。
次回は、他の「徳川御三家ごさんけ」を見ていきたい。

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