「志(こころざし)のない人間は魂のない虫と同じで、いつまでも発展することはない」という、橋本左内の言葉に思う
幕末の江戸から明治へのいわゆる「維新回天」の時期に、早くに処刑された人の中に橋本左内がいる。わずか26歳で処刑された橋本左内であるが、薩摩藩の西郷隆盛すらも年下の彼に一目おいていた。その若い橋本左内の情熱が込められたこの言葉を取り上げたい。
1.「志(こころざし)」にかける橋本左内の思い
橋本左内(はしもとさない)という人物は、江戸から明治に変わる幕末に活躍した人で、医者という側面を持ちつつも優れた思想家であり情熱家であった。越前藩(今の福井県)で生まれ、藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に重用された。
井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄により、安政6年(1859年)にわずか26歳の若さで切腹により亡くなっている。
それだけ若くても、激動の時代にあって医者としての自分に満足せず、蘭学を学び他の藩の名だたる人達との交流を積極的に行っていた。薩摩藩の西郷隆盛、水戸の藤田東湖、小浜の武田耕雲斎など、枚挙にいとまが無い。また、地元の越前藩では若くして藩校の校長ともなり勉学を広めた人である。
橋本左内の名言は数々あるが、今回は「志(こころざし)」についてのこの一節を取り上げたい。
志(こころざし)のない人間は魂のない虫と同じで、いつまでも発展することは無いのだ。
しかし一旦、何物にも負けないほどの志が立てば、それ以後は日夜発展するものである。天下に名を残した人物も、特別な人間であったわけではなく、その大志と堅固な意志とによって名を残したのである。
出だしの言葉は少しきつく聞こえる面もある。しかし、「志(こころざし)」の重要性を強く意識し、それを他人ではなく自分に対して戒(いま)しめている言葉と感じる。
橋本左内に限った話ではないが、維新回天の時期における明治の志士たちは、まさに「志士」だったと思う。強い意志とそれぞれの立場での「志(こころざし)」をもって、日本の国難に立ち向かった。
そして若くして亡くなってはいるが、そうした志士たちの中心人物の一人が橋本左内だった。その橋本左内の「志(こころざし)」に対する強い思いを、今を生きる自分も大事にしたいと思う。
2.橋本左内と「啓発録」
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橋本左内は、「安政の大獄」安政6年(1859)により切腹を命じられ、わずか26歳の若さで亡くなっている。維新三傑の一人、薩摩の西郷隆盛が、8歳年下の橋本左内を評して「同輩にしてかなわない」とまでたたえていた人である。10代の頃から才覚を発揮し、越前藩主の松平春嶽から重用されて才能をいかんなく発揮した。本人は医者であったが、その開明的な視点は経済・政治・外交にまで及び、志士たちとの交流も行っている。水戸の藤田東湖とも接点があり、藤田東湖も橋本左内を高く評価していた。また、藤田東湖が亡くなったのちに橋本左内と接した藤田東湖の盟友の武田耕雲斎をして、左内の才能に触れた後に「東湖の死後に東湖あり」とまで評価している。
橋本左内が15歳の時に自分に宛てて示した、「啓発禄」はその内容を見れば、いかに卓越した人か見て取れる。そこでいわれる「五訓」の一つを示しておきたい。
自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。
このような文を15歳の時に、自分に宛てて書いたのが、「啓発禄」である。それを見た24歳の橋本左内は、若い頃の自分の未熟さとともに当時の情熱を失わないようにしたという。「啓発禄」の「五訓」はぜひ見てほしい内容である。私も初めて見たときには本当に心に響く言葉だった。
しかし、わずか26歳で井伊直弼の「安政の大獄」により安政6年(1859)切腹を命じられる。幕閣の一人は、「井伊大老が橋本左内を殺したという一事をもって、徳川を滅ぼすに足る」と言ったという。まさに日本にとっての大きな損失であったといえる。
3.いくつになっても「志(こころざし)」を
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この言葉は、橋本左内という「血気盛んな若者」だからこその言葉とも言えるかも知れない。しかし、年を重ねた自分にとって、いくつになってもこのような情熱を持ち続けられる存在でいたいと思う。
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