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聖徳太子の「和をもって貴(とうと)しとなす」の真意

聖徳太子の17条憲法の「和をもってとうとしとなす」の真意に迫る!

聖徳太子の十七条憲法で最も有名な「和をもってとうとしとなす」は、全く誤解されて認識されている言葉の一つといえる。一般的には「みんな仲良く」と言った文脈で理解される事が多い。しかし、それについて勉強することで意味が全く違うことを気づかされた。全文を見ながら、聖徳太子の考えをまとめてみた。是非、ご覧を。

1.聖徳太子と十七条憲法(604年)

聖徳太子
聖徳太子

まず、十七条憲法について少しふれておきたい。

最も古い「憲法」と言われるものが、聖徳太子「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」である。聖徳太子の偉業は大きく、いくつもあるが、その偉業の柱の一つが十七条憲法である。ここでは聖徳太子と時代背景を簡単に触れるのと、十七条憲法に絞って記述したい。

聖徳太子の時代(574年~630年)は、飛鳥時代で、日本の国を形作る上で重要な頃であった。大陸のChina(中国)では「隋(ずい)」という強大国ができ、そのせめぎ合いも激しかった。遣隋使を送っていたが、隋の皇帝「煬帝(ようだい)」に対して送った国書により、煬帝ようだいを激怒させている。

日出(いず)る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや。

煬帝ようだいがこれを見て激怒したのは「日出ずる国より」とあったからではない。国書に「天子」という言葉が日本に対して使われていたことにある。これは、皇帝と同じ位置にあることを表現していて、太子としては、日本の位置づけを高めることを狙っていた。当時、隋は朝鮮の高句麗と戦っていたため、隋は戦争をできる状態に無いことを知った上での国書である。それほどまでに、日本という国の確立に腐心していた。

こうした「国体」を強く意識した中で作られたのが「十七条憲法」である。添付の表は、すべての条文の抜粋とその部分の現代語訳である。

十七条憲法
十七条憲法

これが6世紀の、すなわち1500年以上も前に定められたものかと、感嘆する。今でも十分通じる内容と思う。
もともと「十七条憲法」は、役人が守るべきことをまとめたものである。日本最古の「成文法」と言われる。読んでみると内容は深いので、じっくり読んでみたい。
なお、西暦だけで計算すれば聖徳太子はこの時30歳。いかに若くして国を引っ張っていったか、またその深い内容と考えに、現代人としても深く感じ入る。

先の添付の全条文はあくまで条文の文言を抜粋したものなので全容ではない。一つ一つの条文には全文がある。それを見ると、更に深い内容に驚く。また、意味が違う形で知られているものも多い。

2.「和をもってとうとしとなす」の真意

ここで、最も有名な第1条の和をもってとうとしとなすを掘り下げてみてみたい。よく言われる「和をもってとうとしとなす」は、十七条憲法の第一条を部分的に取り出したものである。全文ではない。
では、全文を見てみたい。

第一条「和を以てとうとしとなす」の全文
【全文の読み下し文】
一にいわく、和をってとうとしとなしさからうこと無きをむねとせよ。人みなたむらあり、またさとれるもの少なし。ここをもって、あるいは君父くんぷしたがわず、また隣里りんりたがう。しかれども、上和かみやわら下睦しもむつびて、事をあげつらうにかなうときは、すなわち事理じりおのずから通ず。何事か成らざらん。
【現代語訳】
和というものを何よりも大切にし、いさかいを起こさぬように心がけよ。人は仲間を集め群れをつくりたがり、人格者は少ない。だから君主や父親にしたがわなかったり、近隣の人ともうまくいかない。しかし上の者が和やかで下の者も素直ならば、議論で対立することがあっても、おのずから道理にかない調和する。そんな世の中になると何事も成就するものだ。

上記の通り、太子のいう「和を以てとうとしとなす」とは、単に「争いごと無く、仲良くしよう」というものではない。「和」とは「調和」のことである。その上で、たとえ対立があっても上の者が「和」を重んじ下の者がそれに倣えば「調和」に至る、と説いているのである。更に、そうした「調和」ができる世の中であれば何でも成就する、と言っている。

みてのとおり、決して「みんなで仲良くしましょう」などという文ではない。互いの違いがあっても「和(調和)」に至ることが大切であると説いている。それを、特に上の者は目指すことを説いているのである。

「仲良く」と説いているわけでは無く、いかに「調和」に至る努力が重要か、そしてその「調和」ができれば世の中は何事も成就する、という力強い条文である。また、それが第一条に来ていることに、聖徳太子の強い意志が現れていると思う。

3.古事記の「天岩戸(あまのいわと)」の話と「和をもってとうとしとなす」

少し話はそれるが、古事記にある「天岩戸(あまのいわと)」の話に触れたい。天岩戸の話は有名な話だが、単なる物語ではないようである。当時の時代背景や、その出来方を見ていくと、非常に重要なメッセージが込められている物語であることがわかる。

非常に簡単にではあるが、天岩戸の「岩隠れ」の話を紹介したい。

天照大神の岩戸隠れ
天照大神の岩戸隠れ

天照大神(あまてらすおおかみ)の岩戸隠れ

神様の国で、弟の須佐之男命すさのおのみことの悪行にたまりかねた姉の天照大神あまてらすおおみかみ(以下「アマテラス」)は、岩に入って閉じこもってしまった。アマテラスは太陽の神様のため、それにより神様の国は真っ暗となり、神々は困ってしまった。

そこで皆で集まり協議した。結果、知恵者の思金神おもいのかねが中心となり、それぞれの役割を決めた。女神である天宇受売命あめのうずめのみことに裸踊りをさせて大騒ぎをして、アマテラスがそれに惹かれて岩戸を開けたら、天児屋命あめのこやねのみこと布刀玉命ふとだまのみことが鏡(八咫鏡やたのかがみ)を用いて誘い出し、力持ちの天手力男神あまのたじからおがアマテラスを出して岩を閉じる、というもので、見事その通りになり、アマテラスは以後岩戸に閉じこることはなくなった。

実際の話はもっと詳細であり、生々しくて面白い。興味のある人は是非見てもらいたい。
古事記についてはいろいろな解釈があるが、一つの例として、古事記がこれにより表現したかったことは、これが日本最古の「国会」であると理解されている。話し合いによって物事を決めて、役割分担をしっかり担うことでことが事が成就する、ということを物語で表現しているという。

まさに、聖徳太子の「十七条憲法」の第一条の「和を以てとうとしとなす」と意味が一致する。
違う時代に作られたものが、ここまで一致することに驚く。古事記が変遷されたのは、712年で、聖徳太子の時代(574年~630年)から100年近く後である。変遷したのも、聖徳太子とは関係の無い太安万侶(おおのやすまろ)であるにも係わらず、このように変遷されている。

4.「和をもってとうとしとなす」と聖徳太子を見て

このように、「和を以てとうとしとなす」は、単なる「皆で仲良くしていこう」というものではない。『議論を尽くして物事を決めていき、それにより「調和を形成する」こと』を解いている。より現実的で、実際の場面を考えた場合の行動指針のような要素を含んでいる。

聖徳太子が伝えたかったものが十七条憲法であるとすれば、その第一条にあるこの文章が最も重みがあるといっていいと思う。それにこのような意味があることは、深く心に刻んておきたい。

現代社会においても、管理者のみならず人の生き方として十分意識すべき内容と思う。日本の出発点からの「教え」として大切にしていきたいと思う。

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