江戸時代に挑む!【1】江戸時代の歴代将軍と治世の流れ

徳川将軍一覧

徳川歴代将軍の治世を中心に、江戸時代を見る。

これから何回かにわたりシリーズで、江戸時代の日本を見る。明治維新・近代日本、そしてひいては現在の日本を見る上で、実は江戸時代は非常に重要である。この250年が明治維新の爆発力を生み、列強に対抗できるまでになる国力を生んだと言ってよい。その中身について、教科書とは違う切り口でまとめてあるので、是非ご覧いただきたい。今の日本を見る上でも、非常に面白いし興味深い時代である。歴史に興味の薄い人、江戸時代に苦手な人も、是非、見てほしい。

また、学校の勉強で江戸時代で苦しんでいるお子さんがいる方々は、よかったら見せてあげてほしい。教科書チックな内容も入っているので学校の勉強の理解の補助にもなると思う。興味のきっかけになれば光栄である。

1.不遇の時代となってしまっている江戸時代に挑む!

江戸時代という時代は、誤解されがちな時代となってしまっているように思う。理由はやはり、学校での授業が退屈だったからに他ならないだろう。私も多分に漏れずそうであったように、江戸時代を単なる記憶のための時代、退屈な時代、という印象の人は多いだろう。
また、江戸時代はちょんまげであったり、着物であったり、今の日本人の生活とビジュアル的に違うので、どうしても感覚的に明治維新前と後の歴史では別の世界の人達のイメージを持ってしまっている人も多いのではないだろうか。

しかし明治維新を勉強すると、江戸時代の流れを理解しないと明治維新の本質にたどり着けないことに気づく。また、江戸時代をよく見ると、単なる「平和ぼけ」の250年では決してなく、工夫と苦労に満ちた、今の日本人にもしっかり通じる日本人らしい側面がよく見れる興味深い時代であることがわかる。明治維新・日露戦争・世界大戦へと行く日本の流れを知る上でも、重要だと思う。

そんな江戸時代を理解し楽しむためにも、私の認識も改めるべくまとめてみようと思ったのが、今回のシリーズである。「挑む!」とあるのは、江戸時代を退屈と思い込んでいる自分の認識に対してである。結論から言えば、全く退屈な時代ではなく、非常に面白く奥が深いことを思い知らされる。まだまだ勉強しがいがありそうである。

なお、過去の記事で特に江戸時代の将軍に着目してまとめた物がある。将軍に特化した内容で一部この記事ともかぶるが、そちらも是非ご確認を(➡江戸時代への誘い①➡江戸時代への誘い②➡江戸時代への誘い③)。

2.徳川15代将軍の在任期間と「家」から見た分析


江戸時代を理解するには、徳川幕府の将軍の理解なしでは進めないだろう。添付の表は、徳川15代の将軍のリストである。

徳川15代将軍一覧

徳川15代将軍一覧

この表は、前の記事でも使ったものだが、徳川15代将軍を、その在任期間・在任年齢に着目してまとめてある。
このように並べることで、徳川15代将軍と一口に言っても、いろんなケースがあることが見えてくる。

特に、在任期間に注目してほしい。オレンジで着色したのが20年超将軍についていた人である。特筆すべきは、11代将軍の家斉は50年もの長期にわたる政権となっている。家斉に限らず、この「在任期間が長い」というのは、やはり長期政権であり思い切ったことがやりやすい環境にあると言える。実際にこの長期政権時代が江戸時代の重要な改革期にあたっている。

その上で、次の表を見てほしい。同じく15代の将軍を「家」に着目して作った系譜図である。

徳川15代将軍 系譜図

徳川15代将軍 系譜図

少し複雑に見えるかも知れないが、これで理解するのが一番わかりやすい。覚える上でのポイントは「直系で継がれたかどうか」、つまり次の将軍になるのが自分の息子かどうかである。その視点から見た時、徳川幕府の時代は次の5つの時期に分類できる。将軍の代替わりのエピソードを含めながら、その時代を見てみる。

(1) 初代家康~4代家綱(家康の直系4代)

4代将軍 徳川家綱

4代将軍 徳川家綱

まず初代からの4代は、①家康→②秀忠→③家光→④家綱、と直系でつながっている。この中で、特に家康・秀忠・家光の時代は徳川幕府の創世期と言える時代である。まだ戦乱の世の平定の色あいが強かった。この3代によりほぼ幕府の体制は盤石となり、平和の基礎が作られた。4代家綱よりその方向がより「政治」に向くようになる。
しかし、④の家綱は本人が病弱であり子供にも恵まれなかった。そのため次の将軍には異母兄弟の⑤綱吉を養子に迎えて充てている。これにより、家康直系の縦の流れはここで途絶えることとなった。

(2) 5代綱吉~7代家継(非直系時代)

5代将軍 徳川綱吉

5代将軍 徳川綱吉

5代将軍綱吉は「生類憐れみの令」でしか有名でないが、その治世の前半は、平和を維持すべく儒教に根ざした文化的な善政であったと言われる(「天和の治」)。しかし綱吉にも子供がいなく、おいの⑥家宣に将軍を譲るも、その家宣もその後まもなく死去。その後は、家宣の子⑥家継が継ぐが、家継も早逝でわずか3年後の7歳で亡くなっている。その後は、後に「中興の祖」とも言われる紀州の吉宗が将軍となる。

このあたりでの徳川家の将軍にからむ重要人物の死は、非常に不自然と言わざるを得ない。詳細は後述するが、吉宗の陰謀説は消えない。確かに、紀州藩での相次ぐ不信死、そしてライバルの尾張藩での藩主の死はこの時期に続いている。とはいえ、すべてを吉宗の差し金とするとあまりに規模が大きすぎるが、結果として一番得をしているのは吉宗である。また、「御庭番(おにわばん)」と呼ばれる諜報部隊を創設し、大奥への根回しも抜かりなかったと言われる吉宗が、相次ぐ不信死に全く関係ないとは思えないが・・・。
とにかく紀州の4男で紀州の藩主になることも奇跡であった吉宗が、次の将軍となるのである。

(3) 8代吉宗~10代家治(吉宗の直系3代)

8代将軍 徳川吉宗

8代将軍 徳川吉宗

その後は、初めて御三家から養子を迎えることとなった。紀州の⑧吉宗が将軍となり、大きな改革を行う。江戸の3大改革のうち唯一成功したと言われる「享保の改革」である。まさに中興の祖、といわれる活躍であったが、それは御三家から養子を迎えるということにより実現したのである。
吉宗以降はまた直系となり、その後の家重、家治と続いている。安定して続いているように見えるが、吉宗の子家重は障害をもっていて言語不明瞭だった上に酒色にふけり、将軍としては元々不安視されていた。一方、家重の弟の宗武(一橋家当主)が非常に聡明だったため、家臣の中でも割れるほどだった。しかし、吉宗は神君とあがめる家康に習って長男の家重を将軍とした。その上で、吉宗にとって孫に当たる家治が優秀とみられていたため、吉宗は引退した後に大御所として存在し、家治に帝王学を仕込んだと言われる。

(4) 11代家斉~13代家定(家斉の直系3代)

11代将軍 徳川家斉

11代将軍 徳川家斉

しかし、⑩家治は子供は設けたのだがその子が早逝していたため、次の代には一橋家から養子を取っている。それが⑪家斉である。

この家斉が「大御所政治」といわれる50年にもわたる政権を維持することとなる。設けた子供は50人以上という人だった➡江戸時代への誘い①)。この頃に「寛政の改革」がおこなれている。その後は直系が3代続き、⑪家斉→⑫家慶→⑬家定となる。
家慶の治世の頃には幕末の様相を呈しており、列強の進出が迫っていることは伝わってきていた。その家慶の治世の中で「天保の改革」が行われているが、大きな成果は得られないままであった。また子の家定は障害を持っており、治世にも向かなかった。それが早晩わかっていたため、家慶は家定を将軍にするかどうか本気で悩んだそうである。後に将軍となる慶喜に家慶と同じ「慶」の字が使われているのは偶然ではない。家慶が、当時英明で知られ水戸にいた慶喜を、一橋家に迎え入れるときに偏諱(かたいみな)を与えているのである。家慶は一時期、次期将軍に慶喜をと考えたことがあったが、老中阿部正弘に止められたというエピソードがあるほどである。

(5) 14代家茂、15代慶喜(幕末の将軍継嗣問題)

15代将軍 徳川慶喜

15代将軍 徳川慶喜

この頃になると、すでにペリーは来航しており完全に幕末である。⑬家定は障害をもっており、治世はできないことは⑫家慶の時点で言われていた。そのため、いわゆる「将軍継嗣問題」が大きな政治課題となり、明治維新とからんで⑭家茂が決まり、その後⑮慶喜が江戸幕府最後の将軍となるのである。慶喜は江戸幕府の将軍として就任するが、世はすでに薩長同盟が成っており、江戸幕府の体制は瓦解のさなかにあったと言える。

3.江戸時代の将軍と政治の流れ

先に示したとおり、江戸時代はやはり徳川将軍時代である。従って、徳川将軍を理解した上で、その政治を見ていくとわかりやすい。

その上で江戸時代の政治のあり方に着目すると、次の5つの政治の流れの区分に分けられる。

(1) 徳川幕府創世記(1603年~1651年:①家康,②秀忠,③家光)

武断政治時代(徳川家康・秀忠・家光)

武断政治時代(徳川家康・秀忠・家光)

徳川家康直系で特に江戸幕府の基盤を作っていく過程の政治。家康・秀忠により豊臣方がほぼ無力化され(大坂夏の陣)、その後の家光が体制作りを進めた。特に重要なのは、武家諸法度や参勤交代の制度と言われるが、その他にも日本の体制作りのためにいろいろな制度が作られている。
特に家光の時代には、逆らう旗本の取り潰しが多発した。そうした強権的な手法から「武断政治」時代とも言われる。

(2) 文治政治時代(1651年~1716年:④家綱,⑤綱吉,⑥家宣,⑦家継)

文治政治時代(徳川家綱,綱吉,家宣,家継)

文治政治時代(徳川家綱,綱吉,家宣,家継)

幕府の体制は固まったが、幕府の武威を振るった政治に対する不満が高まっていた。そのため、武威による政治ではない政治が求められ、病弱の家綱、その次の綱吉の代には特に儒教に根ざした政治が行われ「文治政治」と呼ばれる。この頃は、将軍より老中・側用人等が重要となる。

江戸時代前半の文化は、5代将軍の綱吉の頃の元号「元禄」を取って「元禄文化」と名付けられている。文治政治の時代を象徴するこの頃、平和の時代が維持されるようになり、町人文化が大いに栄えた。

(3) 中興の祖 徳川吉宗とその後の田沼意次の政治(1716年~1787年:⑧吉宗,⑨家重,⑩家治)

徳川吉宗直系(徳川吉宗、家重、家治)

徳川吉宗直系(徳川吉宗、家重、家治)

財政危機や様々な問題が生じていた中で、ついに御三家から迎え入れざるを得なくなって誕生した吉宗の政治。江戸の3大改革で唯一成功したと言われる「享保の改革」の時代である。そしてその後の田沼意次による政治は「重商主義」と言われ、経済の発展に力を注いだ。なお、田沼意次は長年「わいろ政治」というレッテルが貼られていたが、近年は見直されその評価の誤りが認められている。実際には経済に着目した貨幣経済を進め、更にロシアとの貿易や蝦夷地の防衛等、広い視点を持った政治家であったようである。

(4) 超長期政権となった家斉と家慶の政治(1787年~1853年:⑪家斉,⑫家慶)

徳川家斉直系(徳川家斉、家慶、家定)

徳川家斉直系(徳川家斉、家慶、家定)

徳川時代でも特筆すべき在任が50年にもなった家斉の政治と、その子家慶の政治の時代である。家斉は引退後も大御所として長らく実権を握っていたことから、「大御所政治」とも言われる。家斉の時代になると、ヨーロッパ列強も産業革命(1789年)を経た後となり始め、フランス革命(1789年)・アメリカ独立戦争(1775年)が行われており、列強の植民地支配が現実のものとなってきている。その中での「寛政の改革」が行われる。
江戸時代後半の文化は「化政文化」と名付けられている。家斉の頃の元号である「文政」と「文化」時代が全盛のためで、江戸時代後期の象徴となっている。大御所政治の安定政権時に、本居宣長の「国学」や伊能忠敬の全日本地図など、学問が大いに栄えた。

また、家慶の時代には「天保の改革」が行われるが、寛政の改革とともに両者とも問題の抜本解決にはならなかった。家慶の時代には、すでにアヘン戦争は起こっており(1840年)、列強の進出はもはや目の前まで来ていた。更に家慶は自分の子家定が病弱の上に能力にかける(脳性麻痺で言語不明瞭だったと言われる)として、将軍にするかどうかすら迷ったほどであり、幕府は大揺れに揺れていた。家慶が亡くなるのは1853年ペリー来航の年で、混乱に拍車をかけることとなる。

(5) 幕末期の家茂と慶喜の政治(1853年~1868年:⑭家茂,⑮慶喜)

幕末将軍継嗣問題時代(徳川家茂、慶喜)

幕末将軍継嗣問題時代(徳川家茂、慶喜)

まさに幕末期であり、家定の後の将軍として候補に挙がった二人の時代である。議論は百出したが、結局まだ13歳と幼かった家茂が将軍となる。しかし家茂もその後9年で死去する。その死を聞いた幕臣のあの勝海舟が日記に、「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」と嘆いたほどの人望があったようである。その後、慶喜が1867年に将軍となる。しかし時はすでに薩長同盟がなっているころであり、時代はもはや江戸幕府ではなくなっていた。

上記の通り、江戸時代の政治を徳川将軍とその血筋で区切ると、流れが見えてくる。5段階に分けた時重要なのは、その時々の政治課題と、それに対応した政治手法となる。
今回のシリーズでは上記のうち(1)~(4)まで取り上げる。(5)はすでに幕末のため、幕末の維新回天の記事を書くときに記述したい。
次の表は上記を一覧で表した物である。参考にしてほしい。

15代将軍 系譜図2

15代将軍 系譜図2

4.維新の原動となる江戸時代の思想・学問の系譜

江戸時代の思想・学問について、昔の学校の授業では退屈以外の何物でもなかった分野であると思う。しかし、明治維新を学びその時の志士や幕府の動きを見ると、どうしても理解する必要が出てくるし、興味がわいてくる。

「尊皇」「攘夷」という思想はいつからどのように発生したのか無数にあった私塾の思想的支柱はどのように形成されたか、ということを見ていくと、明治維新の原動力が見えると共に、それを育んだ江戸時代のすごさを理解できる。ひいては、江戸時代のみならない日本の歴史のすごさに気づくことがある。
また、江戸時代は当初から「武士はどうあるべきか」というテーマと直面している。平和な戦のない世界、ということの中で、刀の時代でなくなった武士のよりどころは何とすべきか、というテーマに向き合うこととなる。そしてそれに対する大きな方向性として「学問を修める」ということに力を入れていった。

江戸時代の学問の流れは、大きく3つに分類できる。ここでは概要のみ触れる。詳細は後の記事にて記述する。

① 儒学(朱子学・陽明学・古学)

徳川家康が奨励したのが、儒学、とくに朱子学である。朱子学は儒教をより制度化した学問であり、上下関係を重要視し、主君に使えるべく知識・学問を身につけることが、社会のありようだと説くものである。為政者に都合がいいために広めた、とも言えるかも知れないが、戦のない世界にするために武士はどうあるべきかを考えたときに、まず学問を修めよ、と考えてこれを推し進めた徳川家康の教育観は、やはり特筆すべきものであると思う。

林羅山

林羅山

朱子学は11世紀に中国大陸の宋の時代に生まれた考えであるが、日本では藤原惺窩(ふじわらせいか)が体系化した。徳川家康は藤原惺窩に士官するよう要請したが惺窩は断り、代わりに弟子の林羅山(はやしらざん)を推挙している。
その後、林羅山は徳川幕府において大きな影響力を持つ。家康・秀忠・家光・家継の実に4代に仕え、非常に大きな影響力を政権に与えている。有名な話だが、家康が豊臣方が作った鐘の銘文の文言である「国家安康」「君臣豊楽」が、「家康の字を分けているから呪っている」、「豊臣方の繁栄を祈っている」という批判をしたのは、林羅山である(出家して名を道春としている)。
林羅山の影響はその後も色濃く江戸幕府に受け継がれる。特に、「中国」への傾倒は強かったようである。その風貌を見てもらっても象徴しているように思う・・・。

新井白石

新井白石

更に、朱子学者として林羅山の流れをくむ新井白石はその後の綱吉、家宣、家継の時代に侍講(将軍の家庭教師)という地位から、政治に大きく影響を与えている。朱子学は徳川幕府において唯一奨励された学問であり、徳川時代を通じて思想の大きな柱であった。

一方、「陽明学」も中国からのものである。これは朱子学を批判する形での学問であり、知識や秩序を重視する朱子学に対し、心のあり方に従い行動を求める実践的な物である。この学問は広がらないが、幕末の志士には影響を与えているようである。佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛、等々が影響を受けた人としてあげられている。
また「古学」も朱子学批判から生まれている。勢力としては大きくないが、山鹿素行荻生徂徠など社会に大きな影響を与える功績を持っている。

② 国学

国学は、中国偏重の考え方ではなく、日本の歴史・文化の研究から始まり、日本独自の考え方・生き方こそが日本人のあるべき姿という考え方である。具体的には、古事記・日本書紀・万葉集等、より、日本が守り続けている価値観を重視する。結果としてそれは、万世一系を守り続けている天皇重視の考えに至り、「尊皇」という日本独自のスローガンが形成される学問的なバックボーンとなる。

本居宣長

本居宣長

なお、国学が大きく大成するのは、本居宣長が江戸中期(1764年~)に発表した「古事記伝」が、発表されたことによる。日本に計り知れない影響を与えたと言える。それまで「古事記」は文書としてはあったが、読み解いて解説までしたのは本居宣長が初めてであった。本居宣長は世の中の中国偏重に対して相当の反感を持ち、中国的な物をやたらと上げる世の中に対し「漢心(からごころ)」と批判的に論評し、「大和心(やまとごころ)」こそが日本人が進む道である、そしてそれは「古事記」に示されている、として、古事記の解説の「古事記伝」をまとめた。実に、没後も含めて60年近くかけて発表されている。
この本居宣長は、その後の日本そして今の日本に計り知れない影響を与えたと言える。それまで文書としてはあったが読むことが非常に難解であった古事記を、解説をつけて読みやすくしたことで、日本人のアイデンティティーに大きな影響を与えた。神話の時代を含めたの日本のあり方を示した古事記は、江戸時代・幕末の志士のみならず、現在も色あせるものではない。その影響力は計り知れないものであり、そういう意味で本居宣長の功績は非常に大きい。

なお、古事記は、戦後GHQにより危険思想として徹底的に弾圧にあっている。「軍国主義の精神的根拠」という全く理解に苦しむ理由であるが、決してそんな物ではない。古事記は、日本人が守り受け継いできた価値観が非常に躍動的に書かれた、道徳の書であり歴史書であると言える。エピソード一つ一つに意味があり、今にも十分通用する非常に意義深いものであることが、勉強して初めてわかる。そして、それを日本人は実に2000年も守ってきているのである。今の日本でこそ読まれるべきものと思う。興味のある人は、是非、古事記の世界を見てほしいし、このブログでもいずれ記述していきたいと思う。

解説の動画で面白いものがあるのでリンクを張っておく。是非、古事記の魅力の一部を見てほしい。

③ 水戸学

水戸学は、むしろ幕末でその名が有名となっている。「尊皇攘夷」のスローガンはまさに水戸学からのものである。その過激思想で知られた水戸藩の精神的支柱が「水戸学」であった。
水戸学は、前期と後期とで分けられる。もともとは、江戸幕府開設間もない頃に水戸黄門で知られる水戸光圀が、日本史の編成を指示したことがスタートである。日本史を探っていく中で、思想史が形作られていった。朱子学を前提として学問がなされていくが、その過程で、国学等とも混ざり合い、日本独自の歴史に基づいた考え方ともあいまって、「尊皇」という思想が形作られていく。
水戸学は、しばらく停滞の時期があったが、江戸の後期になると、ロシアやイギリスの船が着くといった事件があったこともあり、日本という国の脅威が近づきつつある中で議論が活発化されていった。
水戸学は幕末では、会沢正志斎藤田東湖豊田天功、らが有名である。吉田松陰は直接水戸まで来て学んだとも言われ、幕末の思想に非常に大きな影響を与えている。

「徳川御三家」の水戸藩から、倒幕のスローガンたる「尊皇攘夷」が生まれることは、まさに歴史の皮肉と言える。しかし、大きく見れば、日本のためにどうあるべきかを考えて歴史を突き詰めていくと、「尊皇」というスローガンが見いだされたのであって、倒幕はその結果と言えるだろう。

5.江戸時代250年を見て思う「日本」と「日本人」の模索

かなり駆け足で、全体を見てきた。次回以降は、より詳細にそれぞれの時代を見ていく。

江戸時代という平和の時代ではあったが、その間、政治的にもいろいろな模索があった。また、戦争がなくなり「武士」という職業が何をすべきか、また、平和という時代をどのように生きていくか、という議論があったことに驚きを持つ。
徳川幕府は武士に学問を修めるよう奨励し、また将軍含め幕閣もそうした学問に基づいた治世を行うよう努力した。支配層とも言える幕府であり武士が、率先して学問を追究したという姿は、本当に驚く。また、列強の脅威が近づいてきたときには「尊皇」のスローガンが自然に形作られ団結していく姿が見えてくる。
そんな江戸時代を見て、今も学ぶべきことが大いにあるように思う。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2018年 2月 05日

    きましたねー、江戸時代。そして国学。詳細楽しみです。
    子供たちも食いついてきましたよ。「陽明学って、大塩平八郎もそうだよね」って。
    とりあえず、質問はないそうです(笑

      • てつ
      • 2018年 2月 06日

      純粋に日本史だけ書くときは、筆が進みます。やっぱり世界史は苦手だと思い知りますね。

      お子さん、陽明学をご存じとはなかなかですな。大塩平八郎もちゃんと書きますよぅ。
      乞うご期待。

    • ゆかり
    • 2018年 2月 06日

    江戸時代の礎の徳川家康が天海を側に置いたのは、実は今川義元を教育した太原雪斎の関係性を幼少の人質時代に目の当たりにしていたからではないかと、勝海舟が考察しているようです。

    織田信長と今川義元の両家で人質となった経験、戦国時代の智将でトップを争う太原雪斎の元で教育を受けたことがその後の家康に繋がっていくのではないかと。

    それを念頭にこの江戸時代の分かりやすい解説を見ていくと、吉宗が家康を尊敬していたことからの世襲制の在り方や、体系を維持していく強い柱の基礎を何本か予備を用意していくことを守り抜いてきた将軍達には、恐らく表には出ない口伝があったに違いないと思います。

    それにしても、このように振り分けてもらい図も非常に分かりやすいから、するりと15代の流れが掴めますね!竹内むっちゃんみたいに流れで解説してもらえると頭に入りやすい!次回も楽しみです!

      • てつ
      • 2018年 2月 06日

      わかりやすい、といわれるとうれしいっす。次回以降も楽しみにねぇ。

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