維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③「政府形成期」

西郷隆盛と勝海舟の交渉

明治維新の流れを追う!【政府形成期】とした、鳥羽・伏見の戦い(1868年)から大日本帝国憲法の公布(1889年)までを見る。

明治維新の「全体編」シリーズの第4弾である。明治維新を【決起期】【倒幕期】【政府形成期】に分けて、その内情を見ている。今回は最後の【政府形成期】である。一般的なイメージで言うと、「江戸城無血開城」で徳川幕府が倒れたことをもって、維新が終わったかのように思われている。しかし、明治天皇の即位後に矢継ぎ早に政策が出されていく過程は、近代日本が形成されるまさに「政府形成」の非常に重要な時期である。是非ご一読を!

(シリーズ過去記事)
➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い
➡維新回天 全体編【2】明治維新の流れを追う①【決起期】
➡維新回天 全体編【3】明治維新の流れを追う②【倒幕期】

1.明治維新の3つの区分

明治維新を三つの区分に分けてまとめた年表を下記に示す。

明治維新 全体年表

明治維新 全体年表

このように3つの区分に分けてみてみる。理解のためには、その方が全体の区切りがあって分かりやすい。まったく私的な区分ではあるが、理解のためにご参考いただきたい。

【決起期】
アヘン戦争(1840年~:天保11年~)から安政の大獄(1859年:安政6年)までの19年間
【倒幕期】
安政の大獄(1859年:安政6年)から鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)までの9年間
【政府形成期】
鳥羽・伏見の戦い(1868年:明治元年)から大日本帝国憲法公布(1889年:明治22年)までの21年間

この区分の方法の詳細は、過去記事(➡維新回天 全体編【1】明治維新への誘い)を参考いただきたい。
ここでは、各期に分けてそこで起こった出来事・当時の流れを記述していく。今回は最後の【政府形成期】である。

2.【政府形成期】の出来事 ~日本史上最大の内乱を経て、世界列強に追いつく力を~

(1) 戊辰戦争① ~鳥羽伏見の戦いから、江戸城無血開城へ~

先の記事にて、「鳥羽・伏見の戦いが徳川幕府にとどめを刺した戦い」と記述した。しかし軍事的には、「鳥羽・伏見の戦い」(明治元年:1868年)では徳川慶喜は戦わずして江戸に戻っただけであり、最強・最大の軍隊をもつ徳川の力は江戸に十分に温存されていた。しかし、それでも「とどめを刺した」と表現したのは、徳川慶喜が「朝敵」となった時点で、戦意をまったく持ち得なかったためである。

徳川慶喜

徳川慶喜

それには、徳川慶喜の生い立ちも大きく影響している。徳川慶喜の父は、水戸藩で英明の名高い徳川斉昭である。水戸藩と言えば、まさに「尊皇」の急先鋒であった藩であり、脈々と「天皇を守ることが使命である」と伝えられてきた藩である。
その慶喜にとって天皇陛下から「朝敵」として追われるなどと言うことは、一大事であっただろう。また、先代の孝明天皇の信頼は勝ち得ていた慶喜であったが、その孝明天皇が慶喜の将軍就任後に間もなくして崩御された(慶応4年:1868年)ことは、慶喜にとって大きな痛手であった。孝明天皇の暗殺説が消えないのは、その死が倒幕派にとってあまりにタイミングが良すぎたためである。
しかし、この慶喜の「朝敵となったら信念を失う」姿を見ると、先に京都を追い出された長州藩に比べて貧弱に見えることは否定できない。長州藩は「朝敵」となろうと、信念により「尊皇攘夷」を貫き通している。これは、慶喜が考えていたのはあくまで「徳川家」であり、長州の見ていた先は「西欧列強」という世界であったことが、その後の行動の差になっていると思う。

とにかく、その下地がある中で「鳥羽・伏見の戦い」が始まる。戦いの発端は西郷隆盛のかなり黒い「挑発」にある。西郷隆盛率いる薩摩藩が江戸で狼藉を働いてまで行った挑発に、遂に徳川慶喜が乗ってしまった。慶喜自身はこの時点で政治的な有利を十分確保していたので、下手に戦争をすることには消極的だったが、仕方の無いところまで来てしまった。それが「鳥羽・伏見の戦い」である。「戦い」といっても総大将の慶喜は、すぐに大阪城から江戸へ船により逃げ帰る。しかし明治政府および朝廷はそれでも「慶喜討伐」を打ち出す。徳川慶喜は完全な「朝敵」となる。
しかも、明治政府は徳川慶喜に従う藩も含めて、白か黒かを迫った。近代兵器と明治天皇をいただく明治政府は、圧倒的有利に見えるが実際にはかなり強引かつ拙速に進めた。理由はただ一つ、「日本」という単位で行動していたからである。列強の植民地化を防ぐためには内戦をしている場合でなかったことを、少なくとも「維新三傑」と言われる、薩摩の西郷隆盛・大久保利通、長州の木戸孝允(桂小五郎が改名)の3人はしっかり認識していた。更に、その最大の抵抗勢力である旧幕府側でも、勝海舟を中心に幕府の限界と内戦の愚かさをわかっていた。しかしそれでも、新政府側は最大勢力をねじ伏さないといけない、と認識していた。

新政府軍の江戸への進路

新政府軍の江戸への進路

そんな中で、慶喜討伐の明治天皇の命をうけて、「鳥羽・伏見の戦い」を終えて江戸へ上っていく新政府軍は、各地で処理をおさめて江戸へたどり着く。
そして新政府軍は、慶応4年すなわち明治元年の3月15日に総攻撃をする、と決定する。そのギリギリで、政府軍の参謀である西郷隆盛と幕府の陸軍総裁となっていた勝海舟との間で交渉が行われたのは3月13日と14日である。まさにギリギリの中で、結果的に江戸の総攻撃は取りやめられ、江戸城は新政府軍に明け渡された「江戸城の無血開城」である。

西郷隆盛と勝海舟の交渉

西郷隆盛と勝海舟の交渉

政府側は完全に西郷の独断で行われた。主戦派だった西郷の決断に、京都の大久保利通、木戸孝允は驚いたという。しかし、日本を大きな混乱と殺害から救ったこの大英断は、後々に西郷の政治的立場を危うくするきっかけとなってしまう。
一方の勝海舟は、どうしても駄目ならば、ナポレオン戦争時のロシアがとったモスクワでの戦術を参考にした「焦土作戦」を考えていたという。江戸の町から人々を避難させつつすべて焼く、という、勝海舟ほどの開明的な人物でもそこまで考えざるをえないほど、緊迫した場面であった。

一般的には、「江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟という二人の英雄により行われた大英断であった」、と伝えられる。実際にこの2人なしではあり得なかった決断であり、世界的に見てもこれほどまでに平和裏に政権交代が進められたのはなかっただろう。しかし、これほどの偉業は2人だけでなしえたことではない。西郷隆盛が勝海舟と折衝する前に交渉を始めていたのが、幕臣の山岡鉄舟やまおかてっしゅうであり、その交渉なくして勝と西郷の決断はなかった。また、イギリスの大使パークスは、「降伏の意を示している慶喜を討つとは、万国公法にも反する。慶喜をイギリスに亡命させてもいい」とまで言っていて、西郷の決断に大きく影響したと言われる。日本の混乱を嫌うイギリスの影響は大きかった。

山岡鉄舟(若い頃)

山岡鉄舟(若い頃)

「幕末の三舟」の一人「山岡鉄舟」(てっしゅう)
山岡鉄舟は、私が日本史の中で最も好きな人の一人である。「幕末の三舟」として、勝海舟高橋泥舟と共に上げられる人である。あまり語られないが、非常に重要な役割を果たしている。剣の腕は「超」がつく一流で、数々の流派を学び明治維新後は流派を開くほどの腕前である。また人格形成において「禅」が重要とし、「剣禅一致」(「剣」の究極の境地は「禅」の無の境地に至る、という考え)の考えを体現する人だった。まさに「最後のサムライ」と呼べる人物であった。
慶喜の危機の中で当時慶喜の護衛隊に属していた山岡鉄舟は、陸軍総裁の勝海舟を訪ねている。勝海舟は山岡鉄舟とは初対面だったが、すぐ人物を見込み、西郷の交渉役として抜擢している。西郷隆盛との交渉は勝の紹介があったために実現したものだが、西郷隆盛は山岡鉄舟と出会い、すぐにその人物を認めることとなる。
非常に厳しい交渉だったが、慶喜が完全に降伏の意を示しても厳しい態度を示し、慶喜を他藩に預けるという西郷に対し、山岡鉄舟は「もし立場を入れ替えて島津の殿様を他の藩に預けろといわれたらあなたは従うのか」と堂々と説き、西郷の心を大きく動かしている。西郷が残した有名な言葉の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難かんなんを共にして国家の大業は成し得られぬなり」は、山岡鉄舟の事を指していったものである。

山岡鉄舟(晩年)

山岡鉄舟(晩年)

明治維新後は、西郷の強い希望により期限付きを条件に、明治5年(1872年)に明治天皇の侍従(家庭教師)となっている。西郷との約束どおり10年の期限をしっかり務めている。明治天皇の人格形成に山岡鉄舟の実直・誠実な信念は大きく影響したと思う。

剣の達人ながら質素倹約につとめ、無益な殺生を好まず家のネズミすら殺さなかったと言われる。明治21年(1888年)、まさに大日本帝国憲法の発布の年に、59歳でガンのために亡くなっている。その死を悼み「鉄舟のいない世にいても仕方が無い」と、後を追って割腹自殺した人もいる。

勝海舟と西郷隆盛という天下の大人物達が一目でその人物を認め、江戸城の無血開城を実現させ、その後明治天皇を補佐し教育した。日本の大転換である「維新回天」の陰の功労者であったと思う。あんパンを好み、敵からも味方からも認められ、主張すべきは主張する、私の目標とする人物像の一人である。

江戸城無血開城により大きな戦争なく、明治政府は完全にその勢力を確定させた。しかし、徳川家の処分は終わったとしても、それに従っていた勢力や新政府軍に対し反発する勢力をねじ伏せる必要があった。戊辰戦争は、メインである江戸での戦いを終えた後、舞台は北へ移動していく。

(2) 戊辰戦争② ~日本各地で行われたその後の戊辰戦争~

戊辰戦争

戊辰戦争

その後、戦争は北へと移動していく。その主眼は、会津の征伐であった。会津を朝敵としてそれに対する武力解除を迫ったが、東北で最大の仙台藩がそれに従わなかった.そうした情勢の中で、新政府軍は討伐を進めていく。それに対しては、最終的に31藩からなる「奥羽越列藩同盟」が結ばれ、新政府軍に対抗した。しかし、この同盟はあくまで寄り合い所帯での同盟であり、戦略・目的にかけており、近代化を進め、政府を樹立していく新政府軍との間では大きな戦力・哲学の差があったと言わざるを得ない。

結果、最後には当時蝦夷地と呼ばれていた今の函館にて行われた「箱館戦争」を最後に、戊辰戦争は終結する(明治2年:1869年)。これだけの戦争ではあるが、わずか1年半で終わり、特に江戸城の無血開城をもって明治政府は新しい制度改革に着手を始めている。西郷が戦争を担い、大久保・木戸が政府の構築に入るという体制であった。

この内戦には、この後に日本を担っていく多くの人が参加している。伊藤博文の後に2代目の内閣総理大臣となる薩摩の黒田清隆は箱館戦争にて榎本武揚を負かし、その人物を認めたことから政府に対して頭を丸めて助命をしている。また後に桂園けいえん時代といわれ明治後期から大正初期に総理大臣を入れ替わり担った長州藩の桂太郎は奥羽各地を転戦、もう一人の公家の西園寺公望さいおんじきんもちは会津討伐に参加していた。皆、近代日本を象徴する人物達であり、明治維新・戊辰戦争にも大きく関わっていた。

なお戊辰戦争の構図として、イギリスが新政府軍を、フランスが旧幕府軍を、両国に出遅れたプロイセンが奥羽越列藩同盟をサポートしていたことも重要である。当時の状況からして、こうした列強の干渉により日本の分裂が進む可能性は十分にあった。しかし、このようにスピーディーかつ犠牲の少ない形で進められたことで、列強がつけいる隙を与えなかったのである。
これには、天皇という存在が大きかった。新政府は明治天皇を擁してその威光をフルに利用した。「官軍」となった新政府軍に対し逆らえば「朝敵」となるため、各藩は戦わずして降伏していった。「天皇の政治利用」と今では言うだろうが、平和のための政治利用であり、多くの日本人を救ったことは間違いない。そして国力を大きく落とすことなく政治体制を変えたことが、アジアで唯一、列強の対抗できるまでの近代化をなしえた原動力であった。

(3) 「五箇条の御誓文」と矢継ぎ早に行われる近代化政策

五箇条の御誓文

五箇条の御誓文

明治政府の政策は、矢継ぎ早に出された。先ず第一に、幕府中心から脱却しつつ「日本」という国の単位をしっかり確立するために、天皇を元首とした政治を行う方向を推し進めた。それが「五箇条の御誓文」(慶応4年(明治元年)3月14日)である。これは天皇が神仏に誓う、という形で行われたものである。まさに、国としての規範を示すものであり、同時に明治政府の方針であった。文を見ても今に通じるものである。特に第一条の「万機公論に決すべし」などは、聖徳太子の十七条憲法の「和をもって貴しとすべし」にも通じる。日本の伝統を意識したまさに憲法と言えるものである。原文を添付したので、興味のある人は是非。

これは、草案は越前藩(福井県)の由利公正ゆりきみまさと言われる。それを木戸孝允が加筆した。由利公正は坂本龍馬とも親交があり、仲が良かったようである。

由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正(ゆりきみまさ)

由利公正は、熊本の横井小楠の教えを受けて経済を学び、広い見識を持った人だった。明治4年(1871年)には東京府知事になるなど、政治家としても活躍している。

明治政府が行った政策の中で、非常に大きいものが「版籍奉還(明治2年:1869年)」「廃藩置県(明治4年:1871年)」「地租改正(明治6年:1873年)」である。革命的な体制変更であったと言える。版籍奉還はんせきほうかん」は領地・領民を天皇に戻す、ということであり、その後に行われた廃藩置県はいはんちけんは「藩」の単位をやめて「県」とした。これにより地方が、「藩主が直轄する半独立体制」から、「明治政府が管理の権利を持ち、その委託を受けた知事が統治する」という形となった。
また、地租改正ちそかいせいは大化の改新の律令時代からの大改革である。それまで「年貢」として米を税金として物納していたが、これを「貨幣」に変えた。地租改正の目的は、①税金の仕組みを変えることで安定財源を確保する、②全国統一の仕組みを作る、という2点にあったと言える。①は米での物納だと米の物価の変動を政府が受けることになるため、税金を「米」から「貨幣」に変えることで解決させた。しかしこれは、価格変動リスクを民衆に移したことに他ならない。また、②の全国統一の仕組みを作る、という点だが、これは江戸幕府が国内すべてを取り仕切れていなかったことを示す。

木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎)

特に「版籍奉還」は木戸孝允が中心となって進めたと言われる。これこそが、江戸時代どころか封建時代からの大改革である。お世話になっている各藩主から版(「版図」すなわち「領土」)と籍(「戸籍」すなわち「領民」)を天皇に渡すというものである。これには、各藩は大きく反対するだろうと思われたし、その危険は大いにあった。しかしそれでも押し進め、すべてつつがなく終わった。まだ箱館戦争は終わっていない非常に流動的なである。
木戸はこのとき、版籍奉還の実現を慎重に進めている。まずは、有力4藩(薩摩・長州・土佐・肥前)の藩主をそれぞれが説得するところから始めたのである。それぞれ苦労したがそれが成ると、意外なほどにすんなりと事が進んだ。

木戸は、信念を持ってこれを進めた。同じ長州藩でも、「大恩ある藩主毛利敬親に対して領土・領民を召し上げるとは何事か」、と大きな問題となった。それでも進めたのは、やはり木戸が世界を見ていたことが大きい。アメリカの南北戦争は、1861年から1864年にかけて行われており、アメリカの内戦というより国を2つにわけた戦争は悲惨を極めた。死者は60万人にもなり、アメリカ人の死者数で言えば、後の第二次世界大戦より多かった。木戸はそうした内戦の愚かさを良く熟知していて、それを防ぐためにも天皇を中心とした政治を推し進めることが全ての始まり、と強い信念を持っていた。当然これには、大久保利通も同じ考えであった。
なお、この3つの大改革は順番が重要である。「版籍奉還」があってはじめて「廃藩置県」がある。また「廃藩置県」で国土の区分がはっきりしてはじめて「地租改正」が行えた。

(4) 岩倉使節団と「留守政府」との対立、そして明治六年の政変

岩倉使節団

岩倉使節団

こうした大改革が行われる中、大きな動きがある。「岩倉使節団」である。明治4年(1871年)の12月23日から、明治6年(1873年)の9月13日までの実に3年弱もの間、政府の名だたる首脳が日本を離れ、アメリカ・ヨーロッパ各国を視察したものである。主なメンバーは、岩倉具視を団長に、大久保利通木戸孝允伊藤博文という面々である。このような時期に、しかも政府の名実ともにトップといえるメンバーが長期にわたり国を空けて外国を視察するなどと言うのは、当時でも異例であった。一番の目的は、「不平等条約の改正」である。

余談だが、このとき岩倉は46歳、大久保は41歳、木戸は38歳、伊藤はなんと30歳である。今の平均寿命とは違うが、この年の面々が日本を引っ張っていたのを思うと、その年の自分・今の自分と比較して、自分はどうかと考えてしまう・・・。

思いはいろいろであったろうが、やはり純粋に西欧諸国を見ることの重要性を強く思ってのことと思う。大久保利通は自ら志願したと言われる。実際にこのメンバーの帰国後の活躍を見れば、やはり、その後の日本のために重要な視察団であったと言えると思う。

しかし、この視察団は一番の目的であった不平等条約の改正に失敗しており、また、木戸と大久保の不仲で苦労も多く、当時から批判があった。更に、この使節団の派遣により決定的な問題を生じさせたのが、「留守政府」との対立である。

岩倉使節団と留守政府

岩倉使節団と留守政府

「留守政府」とは、当時のトップ3とも言える岩倉・大久保・木戸が抜けた中でその留守をあずかっていた政府を指す。人事は絶対に動かさない、などの制約をした上で三条実美をトップとして組織されたが、実質は西郷隆盛の政府と言っていい。

岩倉使節団が出航したのは明治4年(1871年)と、まだ明治政府ができて本当に間もない頃である。「版籍奉還」・「廃藩置県」など矢継ぎ早に政策が出ているこんな時にトップがいなくなるというのもどうかと思うが、残った「留守政府」と言われる人達も、何もしないわけにはいかない。ましてや、あの西郷隆盛がいる限り、「留守政府」といっても実行力は十分備えていた。そして、内外の諸問題を解決すべく、果断に政治を進めたのである。地租改正を筆頭に、学制を定め今の義務教育のひな形をつくり、太陽暦(グレゴリオ暦)の採用徴兵制司法制度の整備キリスト教の実質解禁、などめまぐるしかった。実は、明治維新期の重要な政策は、この「留守政府」が実施したものが多かった。こうした政策の全てを西郷が取り仕切った訳ではない。西郷が反対した政策も入っているが、このように果断に進めることが出来たのは、間違いなく西郷隆盛の存在があったからであろう。

従って「留守政府」などという存在ではなく、数々の改革を実施し後の日本を支える重要な基礎を作った、「実力派」の政府であった。そこへ、岩倉使節団が帰ってきた(明治6年:1873年)。人事を動かさない、という約束も破り、どんどん政策を進めた「留守政府」に対し岩倉使節団は対立したが、根本的には、この重要な時期に3年近く日本の舵取りをしてきた「留守政府」側と、西欧を見てその実力を肌で感じてきた岩倉使節団との間に、大きな認識の隔たりがあったことが重要であろう。そして、直接的な対立となるのが、現在に「征韓論」と間違って言われているが、西郷隆盛を特使として韓国に派遣することの問題である遣韓けんかん論」であった。

西郷隆盛

西郷隆盛

この「西郷隆盛の征韓論」ほど、間違って認識されているものはない。一般的には「西郷隆盛が士族の不平をそらすために、武力を持って朝鮮に国交樹立を迫る」とされている。しかし、歴史の事実として、西郷隆盛が朝鮮を攻めるなどと言った証拠はどこにもない。軍事のプロであり大政治家たる西郷ほどの人は、出来たばかりの明治政府が戦争など出来るわけがないことを知っていた。だからこそ、自分が行って腹を割って話をつけてくる、といったのである。
ただ、この当時ですら「西郷が朝鮮を攻めようと考えている」と広まるほど、事態は深刻であった。当時、朝鮮半島との関係は重大な政治課題になっていた。ことごとく、当時の李氏朝鮮がこちらから言えば無礼な対応をしていたため、政府内は「朝鮮討つべし」という議論が高まっていた。
そして太政大臣の三条実美が認めたことで、正式に西郷の派遣は決まっていた。そこへ、帰ってきた岩倉使節団が反対してきたのである。理由はそれぞれあるが、結果的にはそれを「西郷が朝鮮を攻めたがっている」という話にすり替えた上で、西郷派遣を取りやめさせた。

明治六年の政変

明治六年の政変

この、「西郷派遣」を巡って、岩倉使節団と旧留守政府側とが激しく対立した。西郷隆盛は盟友であった大久保利通とも、ここで大きく離れていってしまった。なお、大久保は西郷が朝鮮を攻めるから、などという理由で反対したのではない。たとえ西郷でも李氏朝鮮が開国をするとは思えず、そうなると西郷が殺されかねない。結果、戦争となる訳にはいかない、という考えであった。
この「西郷派遣」を覆したのは木戸孝允や伊藤博文、そして大久保利通の政治的画策によるものであるが、かなりギリギリの闘争であった。そして、「西郷派遣」が否定された翌日の明治6年(1873年)の10月24日、「西郷派遣」に賛成する西郷、板垣、後藤、江藤、副島の5名が辞表を提出。翌日に受理された。これが「明治六年の政変」である。

このように、今教えられている「征韓論」は「西郷隆盛が」という主語の時点で間違っているし、全くのでたらめと言える。明治維新全体を見て西郷隆盛という人を知れば、そのような短絡的な結論を導く人ではないことは、研究者では共通した認識である。江戸城無血開城では味方の批判を浴びながらも、戦争を回避した人である。しかも、明治政府といっても岩倉使節団が帰ってきたばかりで、まだまだ課題山積の状態の時に、西郷が朝鮮を攻めるなどと言うとは、到底あり得ない。

しかし、朝鮮との外交問題があったことは間違いない。日本は列強の脅威から身を守ることを主眼にここまで来ている。となれば、戦略上朝鮮という地理的要素をどのように解決しなければならないか、議論が起こるのは当然であった。しかし、しばらくは、その議論は中心から外れる。日本最後の内乱があるなど、国内がまったくまだ揺れていたためである。

(5) 西郷隆盛の西南戦争と「維新三傑」の立て続けの死

この「明治六年の政変」により、西郷隆盛は薩摩に戻り、政治の一線から退いた。そして、政治の中心は大久保利通・木戸孝允の2人となる。しかし、前の「岩倉使節団」の頃から決定的に仲の悪かった2人であった上に、薩摩・長州の派閥争いも加わって、政府の内情は混乱していた。とはいえ、大久保は明治6年に内務省を設置し、自ら「内務卿」として任にあたった。まだ発足間もない内務省だったが、国内のほとんどを仕切る超巨大な官僚組織となっていく。今で言えば、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省が一つになったようなものといえる。

西南戦争(田原坂の戦い)

西南戦争(田原坂の戦い)

こうして近代化政策は進められていくが、この間、以前の武士達である「士族」は大きく不満を持っていた。突然権力と財産を奪われ、それまでやったこともない商売の世界に入れといわれてもどうしようもなかった。一方、政治の一線から退いた西郷隆盛だが、薩摩(鹿児島)では教育が重要と、私学を作り、西欧列強に追いつくべく、外国人講師を招いたり留学もさせたりして、近代化を進めていた。しかし、こうした薩摩の動きが不平士族を集めて戦争をしようとしている、という論争に変わっていくようになっていった。

これに対して、政府が危機感と不信を持ち始めたために、両者が引けないところまで来たため、戦争となった。明治10年(1877年)の西南戦争である。しかも士族側の総大将はまさに明治政府を作った本人の西郷隆盛であり、これ以上の皮肉はない。結果から言えば、明治政府に薩摩軍は善戦はするが、やはり中央政府が確立した後での戦争としては力の差は歴然で、旧薩摩藩の軍隊は破れ、西郷隆盛は切腹した。

西南戦争と維新三傑、及びその死
西郷隆盛は、戦争に消極的であった。もともと西郷は明治政府に対して「行き場のない士族たちに、明治政府で役割を与えてほしい」と考えていた。しかし、明治政府が、自分を討つ、というのなら受けて立つしかない、というスタンスになっていった。しかしこれには、誤解に基づくものという逸話がある。薩摩の動きを不安に思った政府が、「視察に行く」といったのを「(西郷を)刺殺に行く」と言ったと誤解された、という。しかもこれを言ったのが、盟友の大久保利通とされ、西郷は悲嘆し憤慨したという。

維新三傑

維新三傑

一方の大久保も、どうも当初から戦争には反対だったようである。戦争前には伊藤博文に宛てた手紙で「西郷がいれば薩摩は軽はずみなことはしない」と言っているほど、西郷を信頼していた。大久保は戦争が始まっても、薩摩に行きたい、と説得を試みている。しかしそれを拒んだのは、木戸孝允・伊藤博文を中心とした長州勢であった。長州の薩摩への対抗意識もあったろうが、政府という視点でも薩摩をたたいておくことが必要と判断したためであろうといわれる。戦争が終わり西郷が切腹したことを聞くと、大久保は号泣したという。
なお、木戸孝允は西南戦争の最中に、西郷の切腹とほぼ同時期に病気で亡くなっている。有名な、「西郷、もういい加減にせい」と病床で言ったという。これは西郷のことを思っての言葉という説もある。43歳であった。
切腹した西郷隆盛は、このとき49歳。このときには、政府・朝廷に逆らった賊軍として扱われたが、明治天皇を含む西郷を慕う人々の活動により明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布の恩赦に伴い、赦された。明治天皇はその死を聞いたときに「西郷を殺せとは言っていない」と深く悲しんだという。
また、大久保利通は、木戸・西郷が死んだ翌年の明治11年(1878年)に、不満を持つ士族により東京の紀尾井坂にて襲撃され命を落とした。数え年で47歳であった。常に政治の中心にいた大久保だったが、その私財はほとんど無く、まさに国を思ってのみ行動した政治家であった。

このように、西郷・木戸・大久保の維新三傑は立て続けに亡くなっている。しかし、維新の主眼である「西欧列強に備える」ことは、まだまだ道半ばであった。西南戦争は「日本最後の内乱」と言われる。これを経て、日本は迫り来る列強への対処という本題に入ることとなる。それは、イギリスによる清やアジア諸国の植民地化、ロシアの「シベリア鉄道の完成」など、列強の迫りくる脅威が全く緩んでいなかったためである。

(6) 日本初の内閣発足、そして「大日本帝国憲法」の作成・発布

伊藤博文

伊藤博文

維新三傑を失った日本を引っ張っていく中心にいたのは、日本最初の内閣総理大臣となった伊藤博文である。伊藤博文は木戸たちより10歳ほど若く、また若くして留学していた経験から英語も堪能であったこともあり、高杉晋作の頃から数々の修羅場をくぐっている。学識も全く他者をしのぐ者があった。そんな伊藤博文が日本最初の内閣総理大臣となるのは、明治18年(1885年)であった。伊藤博文は当時44歳。今でも最年少記録の総理大臣である。初代総理大臣は誰になるのか、対抗馬の三条実美と争っていたがそれを決めたのは、「英語を理解できる」というから面白い。

伊藤博文は、その後、実に4度も内閣総理大臣となる。それほどの知見と政治力を持った人だった。ただし、女にはだらしなく、その手の逸話も多いが・・・。
その伊藤博文が総理大臣に成る前に着手していたのが、「憲法」の制定である。遡ること3年前、明治15年(1882年)に明治天皇の命を受けて、ヨーロッパに憲法の勉強のために渡欧し、一年以上の月日を費やしている。このときの留学と憲法そのものの考察については、過去記事(➡憲法から日本を考える)を参照いただきたい。また渡欧後も憲法制定のために精力的に動いている。それは、近代国家として認められるには憲法が必要、という強い信念に基づくものであり、不平等条約を改正するために必須と考えていたためである。
実に10年以上の月日を、憲法制定に費やした。そしてついに、明治22年(1889年)に黒田清隆内閣の時に、「大日本帝国憲法」が公布されるのである。

4.明治維新の流れを見て

これまで、明治維新を三つの期(【決起期】【倒幕期】【政府形成期】)と分けて見てきた。

かなり駆け足で記述してきた。情勢はめまぐるしく変わるが、大きな方向性は全くぶれることなく進められたことがわかる。西欧列強の植民地化はどんどん進み、日本への脅威は迫ってきていた。そんな中で先人達が自分たちの命も省みず、「日本」という国を考えて動いていたことがわかる。今の日本人として、是非、先人達の熱い気持ちと行動を受け止めたいと思う。

これを書いている2018年は、明治維新から150年の節目の年、といわれる。150年前、まさに難産の「大日本帝国憲法」が公布された。近代化の象徴である憲法の公布を、「歩み」と共にかみしめながら明治維新を見ると、その魅力はつきない。

明治維新の出来事としてのまとめは、この3回で以上である。なお、【全体編】としてはまだ続く。次回以降、明治維新をとりまく世界情勢などを見ていきたい。

関連記事

コメント

    • ゆかり
    • 2018年 6月 08日

    3回にまとめられ、且つ、人物を中心に流れを追えることができて理解が深まりました。ありがとうございます!
    もう一度、いろんな幕末期から明治維新をテーマにした漫画をいろいろ読み直してみようと思います◎

      • てつ
      • 2018年 6月 08日

      こちらこそ、読んでくれてありがとね。そう言ってもらえると嬉しいっす。

      ただ、どうしても書くことが多くて、文書が長くなっちゃうけどね。
      まだまだ、書きたい人物・逸話はたっぷりあるよぅ。お楽しみに。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

Calendar

2018年10月
« 9月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
ページ上部へ戻る
TOP
HOME