フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃

フランス革命の前夜の状況と、スタートと言われる「バスティーユ牢獄襲撃事件」までを見る

フランス革命前の状況と、フランス革命のスタートと言われる「バスティーユ牢獄の襲撃事件」までの状況についてまとめた。フランス革命を知るには、当時の情勢を知ることが重要である。ある意味偶発的に始まった革命で、ルイ16世とマリーアントワネットの若い王と王妃も、後に無残な最後となるが、この頃の行動が違っていれば、と思われる部分も多々ある。是非ご覧いただきたい。

(シリーズ過去記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景

1.革命前夜の18世紀のヨーロッパ列強の情勢と、フランスの苦境

革命直前の頃のヨーロッパの状況は、大きく言えば次の2点が挙げられる。

① オーストリア継承戦争及びそれに続く7年戦争により、イギリスは「第一帝国」とも呼ばれる黄金期となりまさに「世界帝国」を形成するとともに、プロイセンが台頭してきた。
② アメリカ独立戦争がはじまり、アメリカという巨大国が誕生しつつあった。

この2点の中、フランスは特に①の7年戦争の敗戦により大きくその国力を落とした。その講和条約である1763年に結ばれたパリ条約(イギリス・フランス・スペインによる条約)は、「フランス史上最もみじめな条約」といわれるほどである。特に大きかったのが、アメリカ大陸における支配権をイギリス・スペインに譲り渡すことになったことである。これにより当時のルイ15世は、「ヨーロッパ大陸最強」といわれたフランスの国力を大きく落としてしまうのである。
その後の②のアメリカ独立戦争は、ルイ16世の下で行われるのだが、フランスにとってそれは7年戦争の敗戦によるイギリスへのリベンジであった。

フランス革命前の、当時のフランスの年表を下記に示す。

フランス革命前夜の年表

フランス革命前夜の年表

こうした、度重なる戦争は、確実にフランスの経済に影響を与えた。そんな世界情勢の中で、オーストリアから嫁いできたのが、オーストリアの女帝「マリア・テレジア」の娘、「マリー・アントワネット」であり、嫁いだ相手がルイ15世の孫である、ルイ16世であった。ルイ16世はルイ15世の孫である。ルイ15世が在位69年と長く長生きであったため、孫のルイ16世の即位は若干19歳の時であった。

なお、当時の日本と対比するために、年表には当時の徳川幕府の将軍を並べた。有名どころは8代将軍徳川吉宗であるが、フランス革命の頃は、12代将軍の徳川家斉の長い治世の始まりの頃であった。と同時に、徳川家斉の時代は幕末の前夜とも言え、徳川幕府が終焉に近づきつつある頃に、フランス革命があったのである。

7年戦争が終わるのが1763年である。その後ルイ16世が即位する(1770年)が、その19年後にフランス革命のスタートといわれる「バスティーユ牢獄の襲撃」がある。

2.当時の啓蒙思想の広がりと当時のヨーロッパ社会

このように、革命前夜のフランスの状況は、度重なる戦争による疲弊であった。また、その頃のフランスおよびヨーロッパにおいて重要なのが、「啓蒙思想」といわれる考え方の広がりであった。

啓蒙思想はその定義は難しい。あえて言うなら、「キリスト教的世界観や封建的思想を否定し、人間性を重視した考え方」といえるだろうか。それでもやはりわかりにくい。英語では「Enlightenment」となり、その原語の意味としては「光を照らす」、と言ったこととなる。古くからのキリスト教を中心とした宗教的な価値観に縛られず、思想からの解放で、より人間的に、という考え方がこの『啓蒙思想」であった。王政のヨーロッパにおいて、それに影響を受けた君主により、具体化されていった。ロシアの女帝エカチョリーナ2世プロイセンのフリードリヒ2世オーストリアの女帝マリアテレジアなどは、代表的な啓蒙君主として挙げられる。

啓蒙思想といわれる人々の考え方は、宗教にとらわれないより近代的な考え方といえる。度重なる宗教戦争や王制による戦争を経て、それから脱却するかの如く出てきた考え方のように思う。

ヴォルテール

ヴォルテール

具体的にその考え方を挙げると、まず代表格がヴォルテール(1694~1778年)といえる。ヴォルテールはフランスのパリで裕福な家庭で生まれ法律を学んだが、当時のルイ15世の批判をしたとしてバスティーユ牢獄に送られている。しかし、その後に出版した「哲学書簡 またはイギリス便り」により、さらにフランスの政治や社会を批判した。それが名声を高め、1750年には当時のプロイセン大王のフリードリヒ2世に招かれるほどの影響を残している。ヴォルテールの主張の一つである「寛容論」は、当時の宗教的な縛りによる種々の制度や風習を批判し、より人間らしく宗教にのみとらわれない考え方を説いている。
思想史上では、18世紀は「ヴォルテールの時代」といわれることがあるほどである。

ジャン=ジャック・ルソー

ジャン=ジャック・ルソー

ヴォルテールの主張は精神的なものが多く、直接的に社会の理念を説くものではなかった。
社会に直接的に強く影響を与えたものとしては、社会の在り方を主張し今の「三権分立」に近い考え方を主張したモンテスキュー(フランス:1689~1755年)、そしてその後の世界の政治に大きな影響を与えたジャン=ジャック・ルソー(フランス圏ジュネーブ:1712~1778年)の「社会契約論」などが挙げられる。

特にルソーの社会契約論の主張の影響は大きかった。ヨーロッパすべてが王制の中で、政治は王制や宗教によるものではなく人民主権など民主主義理論に基づく社会契約説を説く内容であったため、当時のフランス王国やカトリック教会から強烈に批判された。しかし、それがフランス革命を引き起こしたともいられるほどに、大きな思想的影響を与えた。恐怖政治のロベスピエールもその後のナポレオンも、ルソーの社会契約論に大きく感銘し、色濃く影響を受けている。

なお、こうした「啓蒙思想」の広がりは、その前に「科学革命の時代」といわれる時代を経てからの展開である。

中世から近代のヨーロッパ史

中世から近代のヨーロッパ史

長い宗教戦争の中で、ヨーロッパ社会においてニュートンなどの科学の分野の発達があり、その後に続く啓蒙思想の時代があった。それが、まさに、フランス革命の「バックボーン」ともいえる時代背景であった。

3.ルイ16世とマリーアントワネット

当時のフランス王国における、フランス王制を見てみる。下記の年表を見てほしい。

江戸時代とフランス絶対王政

江戸時代とフランス絶対王政

フランス王制として、ルイ14世とルイ15世の長い治世があった。それぞれ、72年、59年とずば抜けて長い。

ルイ14世「太陽王」ともよばれ、フランスの絶対王政の全盛期と呼ばれる時代を作った。重商主義を進めフランスを強大国に押し上げたが、度重なる戦争を引き起こし、同時にフランスの凋落の原因を作った人でもあった。
またその後のルイ15世「最愛王」と呼ばれた。ハンサムで多くの愛人を持ち、あまり政治には傾倒しなかったといわれる。しかしその治世化で、オーストリアのマリアテレジアの即位に絡む「オーストリア継承戦争」、プロイセンから発する「7年戦争」が起こっており、フランスは全く利益のない両者の戦争に敗れ、その経済は大きく失墜していた。
そんな中で、オーストリアのマリアテレジアが主導した、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルグ家という仇敵の王室が結んだのが「外交革命」といわれる政略結婚である。それが後のルイ16世とマリアテレジアの娘「マリー・アントワネット」との婚約である。

そして、1770年にオーストリア皇女のマリー・アントワネットが、フランス王室に嫁ぐ。当時ルイ16世が15歳、マリーアントワネットが14歳であった。その4年後の1774年にルイ15世の死去に伴い、ルイ16世がフランス国王となる。

ルイ16世

ルイ16世

ルイ16世は、まだ若い20歳で即位しているが、その前のルイ14世・15世はさらにまったくの幼少期に即位している。当時で20歳といえば大いに大人であったはずであるが、就任当初から、「優柔不断」「決断力のなさ」「政治に関心がない」などといわれたようである。「非常にやさしい王であった」という評価があるが、裏返せば能力がなかったともいえる。
ルイ16世に対しての批判は大きくあるし、イメージがそのように定着した側面がある。しかし、それは、革命により処刑した後世の政権によるねつ造との説もある。

非常に勉強熱心で、特に趣味の「錠前づくり」に没頭したようである。イギリスに対抗すべく、海軍の増強にも力を入れていたようで、国民の人気もそれほど低くはなかった。愛人を作ることもなく、マリーアントワネットに対する愛情は持ち続けたようである。

先のルイ14世・15世により疲弊し、啓蒙思想により王室に対する批判が広がっている時代のフランスではない時代に王となっていたら、素晴らしい王として歴史に名を残していたかもしれない。

マリー・アントワネット

マリー・アントワネット

地味なイメージのルイ16世に対し、その王妃マリー・アントワネットは、自由奔放なエピソードが事欠かない。フランスに嫁ぐときには、「373頭の馬、132名の従者をひきつれさながら大名行列のように」移動したといわれる。
贅沢が体から抜けず、その浪費家ぶりに「赤字夫人」などと呼ばれ、特にフランス国内では「オーストリア女」といわれ反発が強かった。恋も多く、フランス国王以外との恋も公然と言われていた。
そんな彼女に対する反発の中で、有名な事件が1785年の「首飾り事件」である。この事件はマリー・アントワネットにとっては完全な被害者であったが、民衆の彼女や王制に対する反発が裁判まで動かし、ゴシップとしてマリー・アントワネットの悪評の一つとなったものであった。

とにかく、「自由・浪費家・わがまま」などという散々な評判を受けた王妃である。しかし、当時の王室から考えればそれほど批判されるべき人物ではなかった。確かに突出した浪費家ではあったが、それで国全体が貧しくなるわけはない。度重なる戦争と天候不順による飢饉が経済を疲弊させフランスの国力を落としたのである。経済が疲弊していたところにそうした王室の状況が民衆の怒りという油に火をつけ、その象徴としてマリー・アントワネット個人や王室に向けられたといえる。

4.異常気象とパンの不足と、江戸の「天明の大飢饉」

フランス革命の前夜の状況として挙げなくてはならないのが、その当時の異常気象による農作物の不作である。これにより農業国のフランスは小麦粉が不足し、主食であるパンが作れないなどの食糧不足が発生した。

浅間山の大噴火

浅間山の大噴火

当時の異常気象は特に1783年からのもので、世界中で見られた現象であった。日本では群馬県の浅間山の大噴火が起こり、「天明の大飢饉」の発端となった。江戸幕府後期に入っていた当時の日本では田沼意次による政治が行われていたが、この飢饉の対応がうまくいかず失脚となる。

一方、ヨーロッパではアイスランドのラキ火山が起きている。大噴火でありイギリスでは硫黄の中毒死で何万人もの人が亡くなった。その火山灰の影響はすさまじく、ヨーロッパ全土を覆い尽くし農作物に大きな影響を与える。

 

5.財政危機と度重なる「財務総監」の交代と、議会の反乱

こうした情勢の中で、フランスは疲弊しきっていた。ただでさえ厳しい状況なのに、7年戦争の敗北による植民地を失ったこと、イギリスに対抗してアメリカ独立戦争を支援したことが直接的に響き、経済はひどい状況となった。

フランス革命前夜の年表

フランス革命前夜の年表

当時のフランスの財務大臣とも言える「財務総監」はめまぐるしく変わっている。ルイ16世の治世で、テュルゴークリュニーネッケルカロンヌブリエンヌネッケルとどんどん変わっていった。その理由は、やはり財政危機である。財政危機により増税をせざるを得ないと判断し、その矛先は特権階級である貴族に向けられるが、そうすると既得権者の貴族によって当然反発が起きる。その結果、財務総監の罷免という流れが起こってしまっていた。

この財政危機の中で力を持ち始めていたのが、長い王政により形骸化していた「議会」であった。「議会」と言っても特権階級の貴族が握っているものではあったが、「名士会」と呼ばれる機関と「三部会」があった。どちらも絶対王政全盛にあっては、ほとんど王の行う行政を追認するだけの機関であった。しかしカロンヌが貴族に対する課税についてルイ16世の了承を得て名士会にかけたときに、260年間否定したことのない名士会が、王に逆らって否決したのである。

アベ=シエイエス

アベ=シエイエス

カロンヌはこの失態により失脚する。1787年の7月であった。後任のブリエンヌも、財政改革を行うべく進めるが特権階級の反発にあい、これも失脚する。その後に再度ネッケルが登板となるのだが、第三身分に人気のあったネッケルは貴族の反発を「三部会」にかけることで、なんとか打開しようとした。三部会はその名の通り3つの身分からなる機関である。第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である平民の3つに分かれてそれぞれ同数の300人ずついた。一見平等に見えるが、第一身分と第二身分のいわゆる特権身分が全国民に占める割合は2%程度であり、著しく偏った構成であった。また、絶対王政下ではほとんど集められていなかった議会であった。
その三部会が170年ぶりに開かれ、大論争となった。議決の仕方から大もめになり、全く議論はまとまらない。特権身分と第三身分の対立はまったく議論では解決できないところに来ていた。しかも、それに対してルイ16世は有効な手立てを立てる事が出来なかった。

そして、第三身分の議員であったアベ=シェイエスなどの主導により、遂に「三部会」から第三身分が抜けて新たに「国民議会」なるものを作る。1789年の6月17日であり、その3日後に有名な「テニスコートの誓い」(1789年6月20日)により、憲法成立を勝ち取ることを目指すことになる。

テニスコートの誓い

テニスコートの誓い

6.バスティーユ牢獄への襲撃

このように第三身分による貴族・王権に対する反発は、実際の行動に移りつつあった。しかし、その計画性という意味では特になかった。「憲法の成立」という目標は、貧困を打開するためには王政ではいけない、という漠然としたものであはあったが、貧困から来る民衆の怒りは、確実なものであった。その対象が、支配層である王権であったり貴族に向けられていったのである。

財務長官 ネッケル

財務長官 ネッケル

そんな中で、まさに火に油を注ぐ行為をルイ16世が行う。第三身分からの信望を得ていた財務長官のネッケルを罷免したのである。ネッケルはスイス人の銀行家であったが、有能さを買われて財務長官となった。フランスの財政状態に愕然としたネッケルは、まずは王室の予算を公表したが、貴族や王室からの反発が大きかった。それに加えて三部会を開いたにもかかわらず、混乱は深まるばかりであったため、罷免されることとなった。もともと、貴族・王政が変わらないため、ネッケルは混乱をあえて引き起こしたとも言える。

そのネッケルが罷免されたのが、1789年の7月11日である。そしてこれが、民衆の行動の引き金を引いてしまった。第三身分からの信望の厚いネッケルの罷免は、民衆の暴動の引き金となり7月14日にバスティーユ前に集まった民衆が、バスティーユ牢獄になだれ込み、そこにいた囚人達を解放したのである。この「バスティーユ牢獄襲撃」をもって、フランス革命の始まりとされる。

バスティーユ牢獄襲撃

バスティーユ牢獄襲撃

このバスティーユ襲撃は政治犯の解放を目的に行われたが、実際には囚人はほとんどおらず、泥棒や強姦犯などがいただけという説もある。また、この襲撃により死者は96人で、それほど大きな物ではなかった。しかし、長い間の王政に対して民衆が行動を起こした最初であった事は間違いない。これに呼応して、フランス各地で貴族が襲撃され「大恐怖」と言われるテロに近い行動が行われるのである。

フランス革命のスタートはバスティーユ牢獄の襲撃、といわれるが、実際には行き当たりばったりの襲撃であり、貧困から来る貴族・王族に対する市民の不満による暴動であった。その後のフランス革命の行方を象徴するように、行き当たりばったりの市民の行動からスタートしたのである。

7.フランス革命の前夜の状況を見て

このようにフランス革命前夜のフランスは、財政的に疲弊しており、まさに政情不安の状況にあった。そこに、貴族や王政の贅沢ぶりという、暴動の火種となり得る物が純然と存在していた。ルイ16世と王妃マリーアントワネットの若いトップが、象徴的にターゲットとなり「暴動」とも言える行動からスタートしたのである。
確かに啓蒙思想の影響は大きかったが、民衆がすべて啓蒙思想を学んだわけではないし、それは革命の原動力ではなかった。とにかく、貧困がバックにあり、そこに「啓蒙思想」が乗ったというべきであろう。

これから、フランス革命は悲惨を極め、結果的には200万人とも言われる犠牲を生じる。一方の同時期の日本では、江戸時代の「天明の大飢饉」はあったが、それがこのような形では現れない。国の違い、といってしまえばそれまでだが、日本の為政者の違いを良く見ておくことも重要と思う。

次回以降、この後のフランス革命の展開をまとめる。まずは、王権の停止に至る革命の第一段階と第二段階である。

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