フランス革命とナポレオン時代を追う!【4】革命第二段階:王政の終焉と、周辺諸国との戦争

テュイルリー宮殿襲撃事件

フランス革命第二段階:王政の終焉とヨーロッパ諸国との「革命戦争」

フランス革命の第二段階としたのは、1791年9月3日から1792年9月21の約一年間である。わずか一年間ではあるが、この一年のフランスの変革は、まさに「革命」と呼べるものだった。第二段階は遂に王政を廃止し「共和制」までたどり着く。「第二段階」の一年をまとめてみた。是非見てほしい。

(シリーズ過去記事)
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【2】 革命前夜とバスティーユ牢獄襲撃
➡フランス革命とナポレオン時代を追う!【3】革命第一段階:憲法成立と国王の危機

1.(革命第二段階概要)衰退する王権と急進化する革命政権、感化し得なくなってきたヨーロッパ諸国

革命の第一段階において遂にフランス初の憲法ができた。これにより「テニスコートの誓い」での目的は達成したことになる。しかし、革命の波はこれからであった。第二段階と区分する時期は、憲法制定の1791年9月3日から1792年9月21日のわずか約一年間ではあるが、この一年間で、更に大きく情勢は変わっていく。

革命第一段階・第二段階の出来事

革命第一段階・第二段階の出来事

1791年憲法の成立により、「立憲議会」は役目を終えて「立法議会」(正式は「立法国民議会」)と名を変えて政治の舞台となっていた。

この1年間の大きな鍵は、「ピルニッツ宣言」である。憲法制定前の1791年8月27日、オーストリアとプロイセンが、フランス革命に対して警告を発したこの宣言は、当時のフランス議会を大いに慌てさせた。また立法議会は、戦争消極派のフイヤン派から、戦争に積極的で開戦派のジロンド派に主導権は移っていた。

かくて、立法議会はオーストリアに宣戦布告する(1792年4月20日)。これにより「フランス革命戦争」といわれる戦争が開始される。フランスはオーストリア・プロイセンとの実際の戦争に入る。

この中で、拒否権を利用してジロンド派の急進化を抑えようとするルイ16世に対する不満が高まっていた。そこにプロイセン将軍の「ブラウンシュヴァイツの宣言」(1792年7月25日)が出ると民衆の国王の怒りに火をつけてしまった。「パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さない」とした宣言は、かえってパリ市民を暴動に導いてしまったのである。

かくて、1792年8月10日、パリ市民と軍隊が王とその一家が住むテュイルリー宮殿に襲撃、王とその一家を引きずり出してタンブル塔に幽閉してしまった。これが8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃事件)である。これにより王権は完全に停止、「立憲君主制」は瓦解し、「共和制」へと移る事件となったのである。

このようにフランス革命を原因とする「フランス革命戦争」が始まり、王権が完全に停止したのが、革命の第二段階と言われる一年間であった。王とその一家はこの後、更に悲惨な運命を待つばかりとなった。この第二段階を詳しく見てみる。

2.フランスに激震を起こした「ピルニッツ宣言」とそれに対する革命政府

この第二段階において、フランスに大きな影響を与えたのは「ピルニッツ宣言」であった。これは、1791年の憲法制定の少し前の1791年8月21日に、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセンのフリードリヒ2世とが出した宣言である。レオポルト2世はマリーアントワネットの兄であり、フランス革命による王権の衰退に大きく憂慮していた。
ピルニッツ宣言の内容は以下の通りであった。

ピルニッツ宣言の趣旨
フランスにおける秩序と王政の復興はヨーロッパのすべての君主の共同利益であると宣言し、ヨーロッパの全ての君主に注意を喚起、「準備ができしだい緊急の行動を行う」ことを要請

このように、フランスで起こっている王権に対する革命に対して、他のヨーロッパ諸国に注意と協力を要請するものであり、単なる警告に過ぎなかった。しかしフランス側で大きな問題があった。
それは、発足間もない議会のほとんどが政治の素人だったということである。ピルニッツ宣言自体は単なる警告でしかなかく、オーストリアが実際に攻め込むなどとは考えていなかった。しかし、議会側にそうした高度な政治的文書が理解できる状況になく、感情的に走り、政権を揺るがすこととなる。それは具体的には、政権の勢力が比較的穏健派の「ジロンド派」から最も急進的である「ジャコバン派(モンターニュ派)」への移行を進める結果となった。フランス革命の「第二段階」はその移行期といえる。

ピルニッツ宣言の当事者国

ピルニッツ宣言の当事者国

「ピルニッツ宣言」は、フランス革命にヨーロッパの各国が巻き込まれていくきっかけとなった。出した側の、オーストリアのハプスブルク家のレオポルト2世は、妹のマリーアントワネットの身を心配してのこともあったことは間違いない。マリーアントワネットがオーストリア大使に宛てたと言われる文書がある。

「諸国会議を急いでください。私たちは王国の不幸をもたらす憲法を維持しようと思わないし、維持することもできません。ですから、列国が私たちを救いにきてくれることが必要です。」<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.113>

また、王政による政治が行われていたヨーロッパ諸国にとって、フランス革命の広がり自体に対して、大きな憂慮があったことが背景にある。しかしそれは、一方でフランス革命政府にとっては、ヨーロッパ各国の干渉は大きな「脅威」であると共に、フランス革命に対する「敵」であった。そう認識することで、更に革命を急進的に導く結果となっていった。

かくて、フランス革命を沈静化しようとした「ピルニッツ宣言」は、むしろフランス革命をより急進化させかつ強固にし、ヨーロッパ全土を巻きむっきっかけとなってしまった。この「ピルニッツ宣言」により大揺れに揺れたフランス議会(立法議会)は、戦争に否定的だった「フイヤン派」の勢力は衰え、戦争積極派の「ジロンド派」が中心となる。そして、1792年4月20日、立法議会はオーストリアへの宣戦布告を宣言するに至る。いわゆる「フランス革命戦争」の開始である。この後ナポレオン戦争も含めてヨーロッパは、全土が巻き込まれる大混乱の時代へと突入する。

3.ルイ16世の拒否権の行使と、決定的となった8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃事件)

フランスと「オーストリア・プロイセン連合」との戦争が宣言されても、議会での混乱は変わらない。相変わらずの勢力争いの中、フランス議会の主眼は目の前の「敵」であるオーストリアへの対抗であった。そんな中で、宣戦布告まであったオーストリアでマリーアントワネットの兄であるレオポルト2世が死去し、その子「フランツ2世」が皇帝につく。先君のレオポルト2世は慎重であったのに対して、フランツ2世は野心的で好戦的であった。対するフランス側も好戦的なジロンド派が主導権を握っていたため、戦争は拡大の一途を進む事になる。

混乱著しいフランスは、戦争が出来る体制でもなかった。戦争は連戦連敗であり、プロイセンの将軍「ブラウンシュヴァイク」は大いに恐れられた。ここでまた、マリーアントワネットをきっかけにして、フランス革命を急進的にさせる事件が起こる。「ブラウンシュヴァイクの宣言」(1792年7月14日)である。マリーアントワネットの要請をきっかけに、将軍が「フランス王室に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する」、と宣言したものであるが、こんなものはあくまで脅しに過ぎなかった。しかし、完全に頭に血が上っている状態の革命政府において、この宣言は恐怖も与えたが、むしろ怒りを与えた方が大きかった。それを出したヨーロッパの他の王室国家に対する怒りと、それを誘導したフランス王室に対する怒りである。

テュイルリー宮殿襲撃事件

テュイルリー宮殿襲撃事件

しかもルイ16世は、1791年憲法で認められた「拒否権」を多用していて、それに対する議会の不満も大きく高まっていた。「憲法改正」がすぐに持ち上がっていたのである。そんな中で「ブラウンシュヴァイクの宣言」が出たこと、そしてそれがフランス王室とつながっていることが判明したことが、フランス王室を完全に終わりに導き、遂に「立憲君主制」から君主が消え、「共和制」へとなる事件を引き起こす。それが、8月10日に起こった「テュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)」である。

これは、国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットなどの王室が住んでいたテュイルリー宮殿に、パリの民衆と軍隊が襲撃したというものである。国王は「拒否権野郎(ムシューヴェト)」とまで呼ばれていた。これにより、王家は「タンプル塔」に幽閉され、その翌日には「王権の停止令」なるものが出て、遂に国王の権力は完全になくなった。

4.革命政府の政治体制の変遷

この革命の第二段階の約一年間は、フランス革命において非常に象徴的な一年と言える。第一段階を終えてフランス初の憲法成立までたどり着いたフランス革命であったが、革命政府にとっては二つの問題があった。一つは、フランス王家が存在し政治の足かせとなっていることもう一つはフランス革命そのものに対する他のヨーロッパ諸国の反発、である。この二つは相容れる物ではなく、王室を否定した時点でどうしようもなく存在していた。また、この二つの問題は、そのままそれぞれへの「怒り」のガソリンとなっていく。その対応が政権の主導権を変遷させ、革命をどんどん急進的な方向へと導いていった。

1791年憲法成立時点では、大きく制限されたとは言え、王権の力は「拒否権」という形で純然と大きかった。そこに「ピルニッツ宣言」があったことが、フランスにおける政権を大きく揺るがした。そして更に、「ブラウンシュヴァイクの宣言」で国民感情を完全に逆なでし、政権もそれに伴い変遷していくこととなった。

変遷していく革命の主導権

「フイヤン派(上流層)」:1791年憲法を成立。王権を著しく制限。

「ジロンド派(中流層)」:ピルニッツ宣言を受けて、オーストリアに宣戦布告

「ジャコバン派(下流層)」:8月10日事件を扇動

このように変遷していったのが、革命の第二段階と言える期間の一年間であった。そして、最後のジャコバン派による恐怖政治による虐殺が行われるのが「第三段階」である。

ダントン

ダントン

第三段階の具体的な内容は次回に譲るが、この第三段階に入る前に起こった事件に触れておきたい。それが8月10日事件の直後に起こった「9月虐殺」(1792年9月2日~)である。これこそ第三段階の悲惨な虐殺の「はしり」ともいえる、大規模テロであった。これをあおったのが後の政権をひっぱる「ダントン」といわれる。
フランス革命はどんどん急進的になっていき、パリでは「集団ヒステリー」とも言える状態である。そんな中かだらこそ「8月10日事件」がおきた。そしてそれをあおる「ダントン」などの急進派の演説をきっかけに9月2日から始まったのが、「9月虐殺」である。革命派が「反革命派」と決めた人を裁判もなく次々と虐殺していった。数日間の内に殺されたのは1万6千人とも言われる。その犠牲者の多くは急進化する革命運動に反対し始めた人や、全く関係ない人で、まさに「虐殺」と呼べるものであった。しかしこれも序章に過ぎなかった・・・。

5.転換点となるヴァルミーの戦い

オーストリア・プロイセン連合は、連戦連勝を重ね、フランスのパリにまで迫っていた。これはフランス革命議会の混乱があり、フランスが戦争する体制を整えていなかったことなどが原因であった。ただし、オーストリア・プロイセン連合側は、必ずしもフランスそのものを統治する考えはない。フランス革命に憂慮し、フランス王室の要請に応じただけの側面があった。

そんな中で、革命戦争の大きな起点となるのがヴァルミーの戦い」である。もはやパリ陥落は目前と誰もが思っている中で、9月20日にフランス東北部の村の「ヴァルミー」にて対峙していたフランス軍とオーストリア・プロイセン軍との戦いがあった。パリが落とされるという恐怖にあったフランス側にとって、それに対抗する戦意だけは非常に高かった。そこでこの戦いでいくら攻撃しても戦意を落とさないフランス軍を見て、相次ぐ厭戦に疲れていたプロイセンのブラインシュヴァイツ将軍が一時退却を命じたのである。これが有名な「ヴァルミーの戦い」であった。

この戦いはあくまで、オーストリア・プロイセン側が一時退却したものではあるが、圧倒的劣勢にあり連戦連敗のフランスにとって、大いに勇気づけられる勝利であった。これを機に、フランスはかつての「ヨーロッパ最強陸軍」と言われた勢いを取り戻し、大いに自信をつけ、実際に戦争の勝利を重ねることになる。

なお、このときに歌われたのが「ラ・マルセイエーズ」であり、現在のフランスの国歌となっている。

ラ・マルセイエーズの歌詞

行こう 祖国の子らよ、栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の、血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の、残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは汝らの元に来て、汝らの子と妻の 喉を搔き切る!

武器を取れ 市民らよ
隊列を組め、進もう 進もう!
汚れた血が、我らの畑の畝を満たすまで!

かなり過激な歌詞である。時代背景を考えれば、この歌詞が良く理解できる。
しかし、これが「国歌」である。我が国の「君が代」は、長い命の尊さを歌う物で、他人を侵すなどという考えは全く無い。「古今和歌集」から作られたといわれる君が代と比較すると、そのまま国の成り立ちが見えてくる気がする。

6.王政の廃止と共和制の成立、そして虐殺の第三段階へ

ヴァルミーの戦いを経て、国民議会は1972年9月21日に王政を遂に廃止し、「共和制」を宣言する。フランスの「第一共和政」である。ブルボン王朝はここで正式に滅亡する。
第二段階はわずか一年だったが、めまぐるしく政権は変わり、そして急進化していった。恨みの対象であった王室は完全に力を失った。

 

しかし、フランス革命の混乱はまだまだ続く。更に急進化し、虐殺の時代へと入る。その最初が国王とその妃に向けられて、それから粛清の嵐となるのが、第三段階である。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2018年 10月 04日

    同じ立憲君主制であありながら、国王の命まで奪ったフランス革命と天皇は無傷(逆に尊王)であった明治維新。近い時期の大事件なのに全く違うのは、ただ体制(天皇と幕府)が違っているだけでなく、歴史の差ですかね。天皇がないがしろになっていた時代もありますが、脈々と受け継がれた秩序?道徳?倫理がそうさせたのか…起源は古事記でしょうかねー。

      • てつ
      • 2018年 10月 04日

      歴史の差、というより日本の特殊性のように思いますね。

      日本の歴史だと自国民はもちろん、他国民も虐殺するようなことはしていないですからね。
      それをしていない大国は、残念ながら他には見当たりません・・・。

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