「三人行えば必ずわが師あり~」に思うこと
論語の一説を取り上げる。
「かりに何人かで共同作業をするとしよう。私にとって、かれらはみな先生だ。すぐれた人からは積極的に学べるし、劣る人はわたしに反省の材料を与えてくれる」
(論語:徳間書店)
これも訳文を見るより、原文を見る方が面白い。文としては、「3人で何かをすればみな先生である。いい例と悪い例、どちらも先生である」と単純に見れるし、それだけでも含蓄のある文である。「いい例」を「先生」と見るのは簡単だが、「悪い例」も「先生」である、と考えると面白い。確かに、「悪い例」を出す人は見下したり軽蔑したりする傾向があるが、そういう人も「先生」と思うことは、人を見る上で大事と思わされる。
加えて、私がこの文でもう一つ好きなところは、「その善なるを者を『択(えら)びて』」というのと、「その不善なる者にして」、との表現の違いである。
「善」の方は「選びて」とあえて表現している。「不善」の方はただ「不善なる者にして」である。漢文に詳しいわけではないので何か漢文の文法なのかは知らないが、私の読み方としては、「不善」は誰もが見ればわかるので「不善の師」を見ればすぐに反面教師としよう、ということだろうが、「善の師」は「選ばないといけない」ということと思っている。「善の師」は自分で探して判断するものだ、と理解している。
「不善の師」を見たら自分を見つめなおしつつ先生として敬い、「善の師」を正しく選べる目を持ちそれを見習いながら自分に取り入れる、そんな人の見方をできればと思う。
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