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明治を見る!【4】明治後半②:日露戦争後の世界と韓国併合と明治の終わり

伊藤博文公EC

明治時代【4】明治時代の後半②:日露戦争後の世界と韓国併合、そして明治の終わりへと。

明治時代のシリーズの第4弾である。明治全体の流れを見るのは今回が最後となる。長く、いろいろな事があった明治の締めくくりをお楽しみいただきたい。

(シリーズ記事)
明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり
明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで
明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争
明治を見る!【4】明治後半②:日露戦争後の世界と韓国併合と明治の終わり
明治を見る!【5】明治時代の世界情勢
明治を見る!【6】明治の首相の覚え方

1.明治時代45年間の区分

明治時代は、一つの出来事の「前」と「後」とで大きく二つに分類できる。その出来事とは、「大日本帝国憲法の成立」である。

明治期の年表とその区分を示した表を下記に表示する。

明治時代の動き
明治時代の動き

今回は、日清・日露戦争後の韓国併合と明治の終わりまでをまとめた。

2.日露戦争のその後と韓国併合

(1) 日露戦争後のポーツマス条約

世界中を驚かせた日露戦争の勝利の後に、日本はロシアとの間で「ポーツマス条約(明治38年:1905年)」を結んだ。内容は以下の通り。

ポーツマス条約の骨子① 日本の朝鮮半島における優越権
② 日露両国は満州から撤退
③ 樺太の北緯50度以南の領土を日本へ譲渡
④ 東清鉄道の旅順―長春の支線(南満州鉄道)と炭鉱の租借権の譲渡
⑤ 関東州の租借権の譲渡
⑥ ロシア沿岸の漁業権を日本人に与える

外交的には、日本の勝利と言える交渉結果だった。交渉をした小村寿太郎こむらじゅたろうとロシア側のゲイ・Y・ウィッテは激しく衝突し、かなりタフな交渉であったが、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介により、なんとかまとまった。

ポーツマス条約
ポーツマス条約

しかし、日本の世論はこれに対して大反対だった。小村寿太郎は散々に批判されたのである。
あれだけの戦死者を生んだにも関わらず、賠償金を取れなかったことに対しての怒りであった。当時、一般の日本人やマスコミには、日本がもう戦争できる状態でなかったことが知らされていなかった。そんなことを外に出せば、たちまちロシア側が強行に出ることは目に見えていた。日露戦争は日本にとっては国をあげての「総力戦」であったが、大国ロシアは「局地戦の一部で負けたに過ぎない」という、圧倒的な国力の差があったのである。

それでも、世界で初めて有色人種が白人国家に勝ったことは、世界的大ニュースであり、これ以降特にアジア諸国は大きく勇気づけられ、行動を始めるのである。歴史的大転換となる勝利であった、という歴史的価値は、揺るぎのないものであった。

(2) 韓国・アジア(中国)大陸とのいきさつと、象徴的な福沢諭吉の「脱亜論」

この章のメインである「韓国併合」だが、少し遡って背景を解説したい。

韓国との問題に着目した明治年表
韓国との問題に着目した明治年表

韓国との軋轢あつれきは、明治の初期から既に発生していた。原因は直接的には、現状を変えずにただ閉じこもっていたい韓国(李氏朝鮮)と、開国して文明化しないと列強(特にロシア)に蹂躙じゅうりんされ、引いては日本が滅亡の危機に瀕するという日本の焦りとの、認識の違いであった。しかしもう一つ、アジア(中国)大陸が一番という「華夷秩序(かいちつじょ)」がある。長らく朝鮮は、China(中国)がトップでそれ以外の国は家臣とみる考え方が、染みついていた。その中で、距離的にChina(中国)に近い朝鮮半島は、「日本より優れている・兄貴分である」、と思い込んでいた。もちろんそれに伴う根拠(軍事力・政治力・経済力)は全く無かった。付け加えれば、現在もその思想は全く変わっていない。
また強烈な身分差別が根付いていた朝鮮半島では軍人は野蛮人だった。だから交渉に来る下級武士出身者たちに対して、ことごとく無礼であった。この頃すでに、親書に「天皇」の字を使っているだけで批判してきたのである。

こうした認識の大きな隔たりの中で交渉が順調に進む訳はなく、「西郷の征韓論」などというデマまでまことしやかに語られるようになり、西郷は下野してしまう(明治6年の政変:1873年)。

まず清とは円満に条約を結び(日清通商修好条規:明治4年1871年)その後、朝鮮ともと思ったが、やはりゴネた。とはいえ日本側から言えば「ゴネた」だが、朝鮮側から言えば反発したのだろう。しかし、まったく世界情勢を意識しない朝鮮は、列強の恐ろしさに目を背けるかのように振る舞っていた。明治政府は焦っていた。

以後、朝鮮の内乱としていろいろ起こる。そのどれにも、清も日本も、朝鮮の要請により首をつっこみ、だんだん、両者が対立していく。明治で起こった朝鮮がらみの出来事を列挙すると、

朝鮮との近代の歩み・特使に対する無礼な対応(明治2年:1969年頃~)
日清修好通商条規(明治4年:1971年)
江華島事件(明治8年:1875年)
日朝修好通商条規(明治9年:1876年)
壬午(じんご)事変(明治15年:1882年)
申(こうしん)事変(明治17年:1884年)
・度重なる条約違反、日本は清との戦争を決意せざるをえず。
東学党の乱日清戦争(明治27年:1894年)

日清戦争の舞台
日清戦争の舞台

先回も触れたとおり、日清戦争の舞台は朝鮮半島である。それが如実に物語っているのが、朝鮮の内乱がこの戦争の引き金を引いた。この間の朝鮮の行いは、あきらかに「事大主義(じだいしゅぎ)」と言われる強い者にころころ付くという形であった。あろうことか明治政府はそれを救う事が日本の役割と言わんばかりに、朝鮮に対応したのである。数々の無礼を働いていた国ににも関わらず。

このあたりの事がまったく語られずに歴史上では、「明治政府が領土拡張のために清と戦った」くらいに語られる。まったく事実は違うといっていい。

しかし、こうした状況を通じて日本の認識として形成されていく象徴とも言えるのが、福沢諭吉の「脱亜論だつあろんである。福沢諭吉は特に「甲申事変(こうしんじへん)」を主導した「金玉均(きんぎょくきん)」など、開明的な韓国人を手厚く指導した。その頃からあった「慶應義塾(のちの慶應義塾大学)」に朝鮮人を多数入れ、自宅を貸してまで教育に励んだ。すべては、韓国の手で、近代化をしてほしいがためであった。

金玉均(きんぎょくきん)
金玉均(きんぎょくきん)

この金玉均が立ち上がって朝鮮半島を日本に倣って近代化しよう、としたのが「甲申事変こうしんじへん」であった。しかし、その計画性がほとんど無く、日本も助けるわけにも行かず、結局3日で失敗に終わる。

ここでも清が条約を破り堂々と入ってくる。この頃清の実力者は、李鴻章(りこうしょう)の腹心袁世凱(えんせいがい)。この頃若干26歳で血気盛んな野心家であった。
そして、この後がむごい。金玉均きんぎょくきんはなんとか逃れ日本に亡命するが、途中で抜け出し李氏朝鮮側に捕まる。

さらし首にされた金玉均(きんぎょくきん)
さらし首にされた金玉均(きんぎょくきん)

そして処刑されると、死体はバラバラにされ首はさらし者にされている。添付した写真はショッキングな物だが事実としてみてほしい。

更にひどいのは、金玉均きんぎょくきんら開明派の三親等内の親族に対し「凌遅刑(りょうちけい)」という形での処刑を行っている。これは、生きたまま人の皮をはぎ肉を削ぎ、苦しめながら殺すという処刑方法で、当時の朝鮮ではまだ存在していた。さすがに画像はここでは出さないが、調べてもらえればすぐに出てくる。私が見ても、正視に耐えないが・・・。
ちなみに、China(中国)でも同様の刑は長年存在していた。生きたまま全身の皮を剥ぐというのもある。両国とも20世紀初めまで続けていた。

福沢諭吉 脱亜論
福沢諭吉 脱亜論

福沢諭吉の「脱亜論」が出たのはこの頃だった。福沢諭吉は、特に金玉均きんぎょくきんの末路を知り、深く嘆き悲しみ、新聞に投稿したのである。あまりの野蛮さと低俗さに、「この両国とは関わるべきではない」と説いた。この頃福沢と同じ論だったのは他にもいた。
すでに日本にとって、朝鮮とChina(中国)とはうまくやっていくことはもはや不可能であろうという認識は、特に甲申事変(こうしんじへん)と壬午事変(じんごじへん)を通じた両国との接触で、政府首脳は認識せざるを得なかったのである。そしてそれは清との戦争を意味していた。そして、この甲申事変・壬午事変・そして東学党の乱をもって、日本は日清戦争に入らざるを得なかったのである。

(3) 伊藤博文の暗殺~日本の元首相がテロリストの手に~

そうした背景を前提に考えると、日露戦争後の日本に対して、朝鮮・清は面白くない。日本がアジアで唯一の超大国となったのである。特に清は、これに対する敵意をむき出しにしつつあった。しかしその国力はまったくない。それどころか、清はこの後「辛亥革命しんがいかくめい」が起こり、清は倒れ(中国)大陸はしばらく内乱となる。これに日本はまたも首を突っ込まざるを得ない状況となり巻き込まれていき「大東亜戦争」になるのだが・・・。

一方朝鮮は、相変わらず貧しく、悲惨な状況にあった。それでも先の「華夷秩序(かいちつじょ)」はそれこそ何千年も続いている思想ではあるので、日本と共に進むと言うことに対する抵抗は、支配層(李氏朝鮮)にはあった。そうした中で、明治政府の議論は、韓国を直接統治しない限り、今後の国防を守れない、とする「韓国併合」を唱える方向に向かっていった。こうした声は必然的に大きくなっていった。

伊藤博文公
伊藤博文公

しかし、この論には国内での反対論も大きかった。それは、朝鮮がかわいそうではなく、どう考えても今の日本の国力で朝鮮を近代化する事は相当なお金と人材を要するためである。また、いくらやっても朝鮮が近代化するとは思えないという根本的悲観論もあった。

賛成派にしても反対派にしても、いわゆる「植民地化」をする予定などさらさら無かった。逆に言えば、朝鮮に魅力的な貿易となる物など何もなかったのである。「植民地化」をするメリットなど無かった。望んでいたのは「近代化」である。

その反対の急先鋒が伊藤博文であった。しかしその伊藤博文がテロリストによって射殺されたのである(明治42年:1909年)。これで世論は決まった。明治維新から高杉晋作と共に常に前線で奮闘し、大日本帝国憲法を自ら深く研究し作り上げ、日清・日露の戦争を必死で支えたまさに近代日本の父とも言える伊藤博文公を暗殺するなど、全く許されない行為である。今の韓国で、このテロリストが英雄視されるのは正気の沙汰とは思えない。逆だったらどう思うのか。

もちろん朝鮮に対抗する軍事力も無く、また日本は国際社会からの反発を避けるため、イギリス・アメリカやモンゴルなどの列強や関係する国にしっかりと確認を取った上での併合であった。何度も言うが決して「植民地化」などではなかった。

(4) 韓国併合とその実態

とにかく当時の韓国は恐ろしく貧しかった。その一例を記述すると

・貨幣制度が(ほとんど)ない。
・ソウルは世界有数の汚く悪臭のする汚物まみれの都市
・一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。
・道はとにかく悪い。

といわれる。これは欧米人の書いた物に残っていた記述である。

およそ文明と呼べる状態ではなかった、下水もなく衛生状態も劣悪で、平均寿命も20歳台、男尊女卑がすさまじく、女性は子を産むと乳房を出す「乳出しチョゴリ」と言われる服を着て胸を出して歩いていた。調べてもらえばたっぷり出てくる。

このような状態に日本は、相当の国費をつぎ込み開発した。発電所を作り、下水を作り、学校を作り、とにかく「併合」したのだから、日本と同等にすることに本気で腐心した。朝鮮に派遣される日本人は朝鮮総督府に行く事になるが、併合前からの初代は伊藤博文公である。日本でも超一級の人物を充て、その開発を全力で行った。
なお、少し前に編入している台湾も同様の対応をしている。

朝鮮では平均寿命は倍近くになり、すなわち人口も倍になり、文字もほとんどが読めなかった状態から、ハングルを復活させ教育したのには日本統治時代である。ダムも造り発電所も作った。しかも戦後はそれらを全て置いて日本に帰った。確かに、韓国人が望んだかどうかは知らないが、少なくとも、今の韓国の国力があるのは、この韓国併合から終戦まで日本が統治したからであることは間違いない。そのあたりは、百田尚樹氏の本(「今こそ韓国に謝ろう」)にユーモアと皮肉たっぷりに書いてあるので、是非読んでいただきたい。

「今こそ韓国に謝ろう」百田尚樹氏
「今こそ韓国に謝ろう」百田尚樹氏

韓国はよく、「日本統治で朝鮮民族は略奪された」というが、はっきり言って略奪する物など無かった。圧倒的に、日本からの持ち出しがすさまじかったのである。

彼らのスローガンに「七奪」というらしいが、「主権、国王、人名、国語、姓氏、土地、資源」を七つをうばわれたという。まったくのでたらめである。ほとんどの朝鮮民は日本と同様に豊かになれることに喜んで、積極的に受け入れたのである。中には反発した人もいるが、とにかく、学校が100校程度しかなかったのを5000校も建て、一流の教師を派遣し、国力増大に努めた。しかもいわゆる「国王」は「皇族」と同等としたのである。日本人になりたくて、姓を名乗ったのは韓国人である。戸籍もなかった朝鮮では自分の名前をしっかり登録することに誇りを覚えた。さこで日本名を望む人も多くいたのである。

歴史を学ぶと、韓国のいつもの被害者意識とファンタジーには、本当に呆れる。

3.日本をめぐる世界情勢と、列強との関係の変化

明治時代の動き
明治時代の動き

(1) 日本の位置づけの変化

こうして韓国併合を進めた日本だが、明らかに「列強」としての力をつけ始めた、という世界の認識であった。韓国併合の明治43年の翌年の明治44年(1911年)に不平等条約の最後の条約の改正が行われ、ここで、ようやく当初の目的を達することが出来たのである。

しかし、この頃すでに、結果的にではあるが、後に世界大戦に至る大きな火種となる物を抱えていた。「満州鉄道」である。

(2) 満州鉄道を巡る情勢

満州鉄道は、日露戦争により日本にその権利が約束され「南満州鉄道」として運用していた。

満州鉄道
満州鉄道

とはいえ、単なる鉄道会社の経営にとどまらず、満州地域の開発も当然入ってくるため、相当な困難が予想される地域だった。初代の満鉄(南満州鉄道)の初代総裁は後藤新平(ごとうしんぺい)である。少し触れたい。

後藤新平
後藤新平

後藤新平ごとうしんぺいはそもそも生物学者であるが、医者としてよりも官僚としての能力を伸ばしていく。留学も繰り返し、相当な有能な人であった。そんな中、当時台湾統治のトップであった台湾総督の児玉源太郎(こだまげんたろう)の指名を受けて、その副官として台湾の発展に大きく寄与する。日清戦争後である。この二人の主導で、時には強引な手法をとりながらも阿片を撲滅し、有為な人材の招聘しょうへいに努め、大いに台湾を発展させた。

日露戦争時には、児玉源太郎が陸軍大将として軍に入ると、後藤新平は台湾からも応援しようと、できる限りの資金を出すよう腐心している。

児玉源太郎
児玉源太郎

そしてその後、日露戦争後に恩師である児玉源太郎から「南満州鉄道の総裁をやってほしい」と頼まれる。しかし、軍事経験も無い後藤新平はそのような危険地域でそんな大任はできないと断り続けるが、その途中、まさかの児玉の死を聞く(日露戦争終了の翌年)。ショックを受けた後藤新平は、児玉大将のためにと、引き受けることとして、初代満鉄総裁として辣腕を振るうことになるのである。

なお、この児玉源太郎閣下は、日露戦争の英雄である。彼なくして、日露戦争の勝利はなかったと断言できるほどの功績の人である。
日露戦争で日本優勢の時に何も知らない本部や世論が、もっと攻め込むように言ったときには
「戦争を始める者は、戦争を終わらせることを考えておかねばならぬ!」

と大喝して、早々に講話に持ち込んだ人物である。本当に陸に海に、全力で当たり、その翌年に過労としか思えない状態で亡くなっている。日露戦争についてはいずれ触れたい。

(3) アメリカとの関係の変化

さて、この満州を狙っていた列強国があった。もちろんロシアもだが、ロシアは日露戦争に敗れた手前、それはとりあえず出来ない。それは、前々からアジアに拠点を作りたがっていたアメリカだった。実際に日露戦争後にアメリカは、満鉄の共同経営を持ちかけてきたのである。当時の「桂太郎」内閣は悩んだが、アメリカと友好関係を結んでおくのは得策と、アメリカの鉄道起業家の「ハリマン」と満鉄の共同経営協定を結ぶ「桂ーハリマン協定」をほぼ内定までしていた。これには、伊藤博文や井上かおるの明治元勲も同意しており、結ばれるかと思われた。

しかし、ポーツマス条約を苦労して結んだ小村寿太郎が猛反対したのである。これにより突然破棄となった結果、アメリカは大激怒となる。そしてそれは、もともと脅威に感じていた日本に対する、敵意となって行く。

セオドア・ルーズベルト
セオドア・ルーズベルト

現代の歴史家によっては、ここでアメリカと結んでおけば、大東亜戦争もなくうまく満州を維持できたのではないか、という人もいる。大きな歴史の分岐点であったという。確かに、当時の明治の元勲たちもこぞって賛成だったところを見ると、その可能性はあったかも知れないが、真相は難しい。

当時の大統領は「セオドア・ルーズベルト」であり、日露戦争の仲介をしてくれたその人である。彼は、新渡戸稲造にとべいなぞうの「武士道」を好んで読み、日本に対する理解の深い人であった。しかし、一方で日本に対する警戒と戦略を明確に持っており、この後「オレンジ計画」という形で、日本への戦略作成を進めている。オレンジ計画は日本との戦争の遂行方法であり、かなり克明に計画され沖縄戦までもがかかれている。如何にアメリカがその後の日本との戦争も含め用意周到すすめていたがわかる。そして、その初期段階が、この満鉄の運営あたりから始まっていたことは、歴史の事実として知るべき事である。これが世界政治である。

4.明治天皇と明治時代

明治時代の動き
明治時代の動き

(1) 「明治大帝」の存在

明治の時代ということで、ざっと流れを追うだけでこれだけのことがあった。これが45年間の出来事である。この最中、じっと天皇陛下としてただひたすら存在していたのが、明治元年に15歳であった明治天皇であった。

明治大帝
明治大帝

当初は若かった明治天皇も、学を積まれ経験を積まれ、御前会議ごぜんかいぎを通じて国際政治も学ばれて、後には誰よりも情勢を知る人となり、明治の元勲達も、尊敬の対象となった偉大な人であった。。

西郷隆盛を敬愛して、西郷の死には本当に心を痛めたようである。また西郷の約束により、山岡鉄舟やまおかてっしゅうが明治天皇の指南役となったのも、明治天皇の大きな財産であったと思う(山岡鉄舟の詳細は過去記事へ➡維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③「政府形成期」

この激動の時代、明治天皇なしではこれほどまでにきれいには事は運ばなかっただろう。内閣はコロコロ変わり、議会はめちゃくちゃなことを言う中で、今までは幕府がやっていた政治を目の当たりにして、天皇としての振る舞いを悩みながら進められた。そしてその部下足る明治政府も上手に動いたのである。

日露戦争時に、艦隊を数隻失った際に山本権兵衛海軍大臣などが辞任を申し出たことがあった。その時明治天皇は
「朕に辞職はない」
と言って引き留めたという。単なる引き留めの言葉ではなく、本音もあったのではないかと推察する。天皇陛下という日本で唯一の役割を果たしていることの重責を感じる言葉である。

まさに、「明治大帝」と呼ばれるにふさわしい人がトップだったことが、日本の大きな幸運だったように思う。

(2) 「君臨すれども統治せず」の天皇陛下

これもあえて記述しておきたいが、学べば学ぶほど、明治天皇が直接的に政治を振るった形跡はない。むしろ、日清戦争にすら明治天皇は反対だったようである。それは、天皇陛下による統治をしては、文明国としての成り立ちが成らないためでありもっと言えば、日本は太古の昔から天皇が権力を振るう事は無かった。過去の時代の中で一時期はあったが、基本的には既に「君臨すれども統治せず」だったのである。今の日本国憲法なんぞにいわれるまでもなく。

「戦前は天皇中心の軍国主義」などという人は、具体的に聞いてみたい。全くそんなことはなかった。明治の時代、そして大正・昭和を見ていくと本当にそれがよくわかる。

(3) 明治という時代と明治天皇

やはり日本近代の象徴と言えるのが明治天皇と思う。内閣がどんなに替わっても一人孤独にその議論を聞き、憲法の制定を見届け、しっかりと耳を傾け、政治に対し助言等は行うも決定権の及ばない程度にとどめ、そうしたスタイルを貫き通した。あの激動の時代の中である。

議会でもめて軍艦の予算が下りなかったとき、タダでさえ予算の少ない宮中の予算を減らして充てるように命じた。実際それで軍艦が追加できたのだが、それはひょっとしたら戦争の勝敗を決めた物かも知れない。まさに古事記に出てくる「仁徳天皇」の「民のかまど」の話と全く同じである。民が飢えているのなら、年貢はいらない、と言った仁徳天皇とまったく同じ行為をされて、日本を救ったと言える。

5.明治天皇の崩御と明治の終わり

乃木将軍の自殺、

そして、明治の大帝が崩御されるのが明治45年:1912年、である。有名な乃木希典(のぎまれすけ)大将は、運命を共にした妻と共にその翌日に自害した。息子2人を日露戦争で亡くし死に場所を求めていたが、明治天皇に、「俺が生きている間には絶対に死ぬな」と言われていたためである。東京の「乃木坂神社」は乃木大将を祭ったものである。

こうして、明治という文字通り激動の時代は幕を閉じる。しかし、日本と世界との関わりは一掃深くなり、明治天皇崩御の2年後には第一次世界大戦が始まる。また、日本を巡る情勢は、アメリカの思惑、そして「中華民国」として息を吹き返し始めた(中国)大陸、それに呼応したり反発したりする朝鮮半島、そしてアメリカや各国が狙う満州、と波瀾万丈の状況をたっぷり含みながら、時代は大正へと進んでいく。

なお、明治時代シリーズはもう少し続く。当時の世界情勢と、内閣の移り変わりについてまとめている。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2019年 1月 27日 11:58am

    ブログだけでも心動かされる国士がたくさん登場しますね。そうした偉人を尊敬する・目標にすることを、時代錯誤や右翼と言われない世の中にしていきたいものです。

      • てつ
      • 2019年 1月 28日 10:14pm

      日本が朝鮮を無理矢理征服した、などと言われる歴史ですが、全くのデタラメとしか言い様がないです。先人達は立派に進めた事は間違いありません。当時の常識と今の常識で違うところはありますが。

      誇りを持って、先人達の歩みを見ていきたいですね。今の韓国・中国共産党を見る上でも重要です・・・。

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