- 2019-7-18
- 江戸期【個別記事】
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京都の土下座像のモデル、高山彦九郎とその後の影響を見る
京都の三条大橋にあるひときわめだつ銅像と、その人物について取り上げたい。地元では「土下座像」として知られ待ち合わせなどに使われるという。その銅像の由来と人物を追ってみた。是非ご覧を。
1.京都の三条大橋にある「土下座像」
京都の人はもちろん、京都に行ったことのある人ならおそらく見たことのある、有名な銅像がある。京都の三条大橋にある、大きな土下座をした像である。地元では「土下座像」と呼ばれ、待ち合わせなどに使われているらしい。
なかなかの大きさの像なので、車で通ってもすぐに気づく。しかし、この「土下座」が何を意味し、この土下座像が誰であるか、意外に知られていないように思う。
2.「寛政の三奇人」高山彦九郎
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この「土下座像」は「寛政の三奇人」と言われた、高山彦九郎(たかやまひこくろう)の像である。「寛政の」とあるので、江戸時代の人である。
寛政と言えば、徳川幕府は11代将軍家斉(いえなり)の頃であり、まだまだ全盛とも言える時期であった。そんな徳川幕府の全盛期に、天皇陛下を中心とした日本を大切にすべきと「尊皇」を説いたのが、高山彦九郎であった。
「土下座像」の土下座は謝っているのではない。本来土下座とは気品の高い人などに対する尊敬の念を表したものである。この土下座像は、はるばる遠方から京都に着いた高山彦九郎先生が天皇陛下に近づいたことに感動し、京都御所にみえる天皇陛下に対する尊敬の念を表したものと言われる。
高山彦九郎は、まだ8代将軍吉宗の時代の延享(えんきょう)4年(1747)に今の群馬県で生まれている。13歳の頃に出会った「太平記」に感動し、後醍醐天皇をお守りする新田義貞に思いをはせ、「尊皇」の意思を強く持ったと言われる。そしてその「尊皇」こそが、日本人としてのあるべき姿として、「国」という概念のない時代に「国(Nation)」を意識した人だった。
高山彦九郎のすごいところは、その情熱をもって世に広めた行動力にある。18歳の時に遺書を書き、まずは京都に向かう。その時を模したのが今の銅像である。
全国を行脚し勤皇論を広め、前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など、と名だたる人々と交友を深めた。
先にも述べたとおり、この頃は徳川幕府が全盛である。幕府にとって将軍よりも天皇陛下を重視する「勤皇」の思想は危険思想であり、取り締まっていた中でのこの行動であった。
「寛政の奇人」といわれたが、「奇人」とは変わった人を意味する言葉だけではない。他にはできない「優れた」という意味も含む。
「勤皇」の思想を持った高山彦九郎が、それを広げるべく全国を回ったその行動力と人の魅力は、まさに「奇人」の活躍であった。儒学者の柴野栗山(しばのりつさん)、水戸学の藤田幽谷(ふじたゆうこく)、蘭学者の前野良沢(まえのりょうたく)など、その影響の広がりは一分野にとどまらなかった。
なお、高山彦九郎は46歳で滞在先の鹿児島の久留米で自刃(自害)している。今も明確な理由は分かっていない。しかし、「辞世の句」は残っていた。
心は国を守らんものを
尊皇を通じて「国」を愛した、高山彦九郎先生の思いが伝わってくる。
3.明治維新の志士に影響を与えた「尊皇」の思想
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こうした高山彦九郎の活躍は、戦前は広く伝えられていた。高山彦九郎は膨大な旅日記を残しており、それ自体が日本という国を探す旅だったとも言われる。
こうした活動や記録は、後の明治維新の志士たちに大きな影響を与えた。吉田松陰始め、多数の志士が高山彦九郎の考えに大きく影響を受けたという。
京都の三条大橋を渡るときには、是非意識したい。
コメント
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京都に4年居ながら知りませんでした。お恥ずかしい。ネットで調べたら、祖先が新田義貞の「新田十六騎」の一人だそうです。そこが原点なんでしょうね。
京都では目立つ銅像ですが、意外と知られていないですねぇ。
とはいえ「新田義貞」が祖先というのは知りませんでした!