- 2022-11-1
- 維新回天期【個別記事】
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幕末に日本を守った26歳高杉晋作の4ヶ国連合との交渉とは?
明治維新はすさまじく情勢が変わっていく。その中で、日本を守ったとも言えるギリギリの交渉があったことが、あまり語られない。長州藩の高杉晋作公は当時若干26歳にして、世界最強の大英帝国と堂々と渡り合い、交渉を有利に進めた。「日本を守った」といえるその交渉を見ていきたい。是非お付き合いを。
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1.日本を守った、当時若干26歳の高杉晋作
高杉晋作と聞いても、「名前は聞いたことがあるけれども・・・」、という人も多いと思う。一方で、熱烈なファンが多い人でもあると思う。そして私は後者の人間で、私が、日本の偉大な先人の一人として尊敬してやまない人である。
その高杉晋作公の数ある「偉業」と言える中の一つを紹介したい。明治維新のまっただ中で起った下関戦争(馬関戦争)後の欧米列強(4ヶ国連合)との交渉である。結論から言えば、ただでさえ難しいこの交渉は、若干26歳の高杉晋作に白羽の矢が当たり、その際に見事な手腕で日本を守り抜いたのである。
高杉晋作の暴れ回った幕末の中で、「下関戦争」の頃は、本当に日本が文字通りの植民地になるかの瀬戸際の頃だった。少し深く言えば、この一年前に起こった「薩英戦争」と合わせて、この「下関戦争(馬関戦争)」は、相手が特に危険な国だった。当時の世界で最強の名前をほしいままにした大英帝国の全盛期(ヴィクトリア朝)にあって、その大英帝国となんと「国」ではなく「藩レベル」で戦争を起こした非常に重要な時期だった。それをきっかけに、インドや清国と同じ植民地の道をたどる危険性は十分にあった。
その時に、「長州」ではなく「日本」を守り抜いた交渉をしたのが、当時若干26歳の高杉晋作公である。後の初代首相の伊藤博文が、「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」と言って、大英帝国及び欧米列強に好きなようにされた清国(China)と同じ道を歩んでいたかもしれない、と言ったほどの交渉であった。
つまり、「うやむやにした」のである。
その交渉で、何があり、どんな交渉だったか、見ていきたい。
2.高杉晋作と維新回天
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まず基礎知識として、高杉晋作について簡単に触れておきたい。ここではあえて、維新回天(明治維新)というより、高杉晋作という個人にクローズアップして記述を進めたい。
高杉晋作は、幕末迫る天保十年(1839年)に今の長州藩(現在の山口県)の萩市に生まれている。アヘン戦争が1840年であるから、まさにアジアの侵略が目の前に来ている時代に生を受けた。
その後、吉田松陰との出会いがあり大きくクローズアップされるが、高杉晋作は吉田松陰と会う前から名門の子供ながらその優秀さと、一方で持つ破天荒ぶりは有名だったようである。そして、吉田松陰先生は早くから高杉晋作のその才能を見出していた、と言われる。
また、高杉晋作を語る上では、その早すぎる死を抜きには語れない。数々の偉業は、すべて20代で行われ、早すぎる死は慶應3年(1867年)、まだ29歳の時に訪れてしまった。明治元年の前の年である。
高杉晋作公の功績はどれもその後の日本に絶大な影響を与えた。江戸幕府を倒して明治政府を立てたのは、薩摩・長州の2藩によるところが大きいが、その「長州」は高杉晋作が動かなければ、間違いなく今、歴史で語られるような形で存在していなかった。歴史に「if」はないが、もしそうなら、江戸幕府から明治政府という形での近代化はできなかった可能性も低くない。
また、その長州で「奇兵隊」を結成したのが高杉晋作であり、それは後の大日本帝国の陸軍の礎となっている。
まさに、「日本を作った人」の一人と言っていい。
しかもそれが、20代のうちに駆け抜けた人生に凝縮されている。
明治維新、という意味では、明治の時代を見ることなく亡くなった高杉ではあるが、最初から「日本」という国レベルの視点で物を見て判断し、行動していた。そして、高杉晋作公の残した「功績」はその後の明治に多大な影響を与え、そして現在にもつながっている。
3.下関戦争時の長州藩と高杉晋作
(1) 薩摩・長州が実行した「無謀な戦争」、薩英戦争と下関戦争(馬関戦争)
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明治維新と言われる時代は、情勢がめまぐるしく動いている。その象徴的なものとして、薩摩と長州の関係が言える。薩摩藩は当初は幕府を改革しながら日本を強くすると言ういわゆる「佐幕派」で、一方の長州は幕府の力を弱め朝廷(天皇)中心の政治の下で日本を強くするという「勤王派」だった。
当初は、薩摩藩と長州藩は、その方針においては完全に対立していたのである。
しかし、その中で薩摩・長州は大きく方針転換をせざるを得ない事件が立て続けに起きた。文久3年(1863年)に起った薩摩と大英帝国の戦争である「薩英戦争」と、元治元年(1864年)の長州と欧米列強4ヶ国(英国・フランス・オランダ)連合との戦争である「下関戦争(馬関戦争)」である。
両者とも勝ち目は全く無かった戦争であり、どちらも当時の植民地をほしいままにした大英帝国(イギリス)が入っている。薩摩にしても長州にしても、勝てるなどとは全く思っていない。その建前は、当時、幕府・朝廷から指示された「攘夷」を実行したまでである。
しかし、「外国勢力を除外する」という「攘夷」は、現実的ではなくむしろ日本を滅ぼしかねない「亡国論」であることは、一部知識層には理解されていた。「外国勢力を除外する」というのは威勢がいいが、その「力」が日本に無いと実現しないのである。
それでも実行された「攘夷」の象徴が「薩英戦争」であり「下関戦争」だった。そしてその後は、それを言い訳にするかのごとく、薩摩・長州は「攘夷は無理」と言わんばかりに、大きく動いてくのである。
(2) 下関戦争(馬関戦争)と高杉晋作
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下関戦争(馬関戦争)は、長州藩対4ヶ国連合という形で行われたが、中心はやはり大英帝国(イギリス)であった。馬関の港において長州藩が通行の邪魔をして砲撃を続けていたため、「フランス・オランダ・アメリカ」と結んで、長州藩に砲撃の中止と港を開くよう迫っていた。
それに対して、当時の長州藩の重臣達は「幕府の言うことを聞かないといけない」、と恐怖症に陥っている状態だった。なぜなら「禁門の変」で散々に長州藩は叩かれた直後だった。幕府の言うことは「誰も実行し得ない攘夷(外国勢力の排除)」である。そして、その結果、こともあろうか何の考えもなしに4ヶ国の連合艦隊に砲撃をするのである。
なお、このとき、長州藩の松下村塾の志士たちは、
・ 久坂玄瑞(高杉と並び「松下村塾の双璧」といわれた)は7月の禁門の変で死去
・ 桂小五郎は、禁門の変で行方不明
・ 高杉晋作は、脱藩の罪で謹慎蟄居
という状態で、政治の中枢から完全に外れていたのである。
ただ、高杉晋作は謹慎蟄居とはいえ、長州の行く末を案じる人であり、情勢をよく見ていた。
そんな中で、遂に元治元年(1864年)8月5日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、
長州側も前田村の砲台から応戦し、戦争が開始された。
負け戦と分かりつつも、長州藩も死力を尽くしたが、あっという間に砲台は破壊され、その沿岸地域は連合軍に占領された。
ここに至り、長州の重臣達は無謀な戦争を諦め、降伏の交渉を始めることとなった。
4.「魔王のごとき」と言われた高杉晋作の交渉術
(1) 謹慎中に交渉の白羽の矢が立った26歳の高杉晋作
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このように、下関戦争(馬関戦争)はあまりに無謀でまた無計画に始まり、惨敗した。そしてあろうことか、港には欧米勢力が入り込み、まさに危機の状況だった。そしてここから、長州藩は4ヶ国連合に「和平交渉」を申し入れる。
それほどに難しい交渉に誰があたるのか、長州藩の重臣達が出した答えが、謹慎中の高杉晋作であった。当時、高杉は26歳。だれがやっても難しい交渉を、若干26歳の高杉晋作に頼まないと行けないほど、長州藩には人材がいなかったのか、若しくは、高杉でないとここは乗り切れないと考えたのか。それにしても、それを任命する側も、そしてそれを受ける高杉も、相盗の覚悟を持ったと思われる。当時の状況と、自分が26歳の時にその状況と考えると、歴史の瞬間の重みを感じる。
なお、このときに通訳として選ばれたのが伊藤俊輔、後の伊藤博文である。伊藤博文は高杉より3年下であるから更に若い。
(2) 絶妙な駆け引きを入れ混ぜて臨んだ交渉
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高杉晋作は、交渉にあたり筆頭家老の宍戸家の養子という名目で臨んだ。「宍戸刑馬(ぎょうま)」という偽名を使って交渉に臨んだ高杉は、9月8日に連合艦隊の英国船に呼ばれ交渉を行う事となった。
当時、イギリス側の通訳として従事していたアーネストサトウの描写によれば、「悪魔のごとき傲然としていた」(※傲然(ごうぜん):尊大に振る舞うこと)、と評すほどだったという。やはり、長州のみならず日本がどうなるか分からない交渉の最前線の緊張感は、高杉ならばひしひしと感じていたということと思う。
また、それは交渉の戦略の一つであった。交渉が進むと、「だんだん態度がやわらぎ」とアーネストサトウが言ったように、交渉は順調に進んだ。高杉はそれほどに堂々と交渉に臨んだと言える。
当時の連合国の要求は、簡単に言うと、
① 海峡通行の安全の確保
② 300万ドルの賠償金支払い
③ 彦島の租借
の3つだった。交渉を進めながらも、まずは休戦を結ぶことができ、1回目の交渉は終了する。
しかし、2回目の交渉には高杉晋作は現れなかった。外国との講和に反対する藩内の「攘夷論者」が「高杉・伊藤を切る」と藩の上層部に詰め寄り、なんと藩の上層部がそれを高杉のせいにしたのである。それに怒った高杉晋作は伊藤博文と共に逃げることにした。それもあって2日目の交渉は出られなかった。
しかし、高杉晋作はこの状況を利用して「あえて」出なかったと思われる節がある。
2日目の交渉で高杉が出てこなかったため、長州藩の重臣が出席したが、イギリス側が「高杉でないと信用出来ない」として高杉を要求してきた。
結果、2回目の交渉は全く進展せず、長州藩側は次の交渉を高杉に任せるしかなかった。
高杉が「どうせ俺に泣きついてくる」と考えていた、という推測は、高杉晋作の行動原理から考えてまったく無理がない。それほどまでに、長州藩の上層部は当事者意識も統治能力もないと、高杉に見透かされていたし、高杉はどのように行動すればいいか分かっていた。
(3) 絶対に譲らないところで、古事記を読んで聞かせたという逸話
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そうした経緯で迎えた3回目の交渉であった。もう一度、4ヶ国連合側の要求をまとめると、
① 海峡通行の安全の確保
② 300万ドルの賠償金支払い
③ 彦島の租借
であった。
①については、認めざるを得ないことを高杉は理解していて、あっさりと認めた。
②については、これも認めざるを得ないとしてあっさり認めた。ただし、「幕府の命に従ったのだから、幕府に請求するように」として、見事にその請求を幕府に付け替えた。後に明治政府がこれをなんとか完済する。
そして③の「彦島の租借」だけについては、高杉は断固反対の立場を貫いた。
上海に留学したことがある高杉は、大英帝国の汚さをよく知っていて、「香港の租借」と同様にあっという間に植民地化されることを分かっていた。
では、どうやって答えたか。
ここで高杉は、
「そもそも、日本国なるは高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし・・・」
と「気が狂ったかのように」古事記や日本書紀を読み始めたという。これには、通訳で参加していた伊藤博文もアーネストサトウもあっけにとられ、そして伊藤は「訳せません!」と高杉に懇願したという。それでも高杉は講釈をやめなかった。
これに対し、イギリスの艦隊司令官のキューパーは、それまでの要求を高杉が認めたこともあり、③の彦島の租借については撤回し、取り下げたのである。
作り話のように聞こえるこの話は、「逸話」とも言われるが、歴史の瞬間にはドラマのようなことがあることは、どの時代も同じである。また、つい120年前の話であり伊藤博文公がその場にいた状態で、なんの根拠もない話が流布されるとは考えにくい。
(4) 日本を守ったその交渉とその成果
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後に、伊藤博文公は
「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」
と語っているという。すなわち大英帝国や欧米列強に好きなようにされた「清国」と同じ道を歩んだ、と言われるほどに、この交渉は大きかった。
そして、敵対しているはずの大英帝国(UK:イギリス)は、この交渉を通じたこともあり、長州は信頼できる相手として、むしろつながりを強くしていった。これは薩英戦争を通じた、薩摩と大英帝国(UK:イギリス)の関係にも言えるが、幕府よりも薩摩・長州のような「藩」に信頼を持ち関係を強めていった。
このようにして、戦争としては「下関戦争」は全く無謀の無策だったが、高杉晋作はその和平交渉を経て、当時の長州を動かし日本を危機から守った、とすらも言える。そして、その後の長州藩にも多大な影響を与え、本格的に幕末へと動いていく。
この交渉は、非常にドラマティックなものだった。そしてそれは、天才とも言える高杉晋作でなければ出来なかったと思う。
5.その後の高杉晋作と維新回天
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この4ヶ国連合との交渉後の長州藩は、まったく動きが異なってくる。元治元年(1864年)は「高杉晋作の年だった」とあえて言いたい。
高杉は9月にこの交渉を行ったが、その年の12月、あの「功山寺決起」を起こす。「もはや長州藩を変えないといけない」、「そしてそれは今しかない!」、と決意し、皆から反対されても、誰も賛同しない中でも立ち上がり、功山寺にて「これよりは長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と宣言して見せた。
遺書まで書いたこの功山寺決起により、一気に長州藩の守旧派は崩れ、「開国し国力を付けて欧米列強にあたる」という方向性を明確にした(詳しくは ➡ 過去記事(「高杉晋作による「功山寺決起」に見る「決断力」と「覚悟」参照)。
この元治元年(1864年)の翌年に、功山寺決起は成功する。
そして、その後の長州の大きな危機であった「第二次長州征伐(慶応2年:1866年)」の際にも高杉率いる奇兵隊を中心に、総勢30万人とも言える幕府側を食い止める活躍をした。これも江戸幕府の失墜を象徴する出来事となり、倒幕の大きな要因となった。
しかし、その後、高杉晋作は肺結核を患い、その年に寺(東行庵)に入り療養するが、その半年後の慶応3年(1867年)4月13日に亡くなる。29歳だった。
わずかと言っていいのか、29歳という短い期間ではあるが、その人生の軌跡はすさまじい。走り抜いた高杉晋作公はどのような気持ちだったのだろうか。
その翌年が明治元年(1868年)となり、五箇条の御誓文が発布され江戸幕府は正式に倒れ、明治の時代となって行く。
6.高杉晋作の下関戦争の講和交渉を見て
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明治維新 高杉晋作の「4ヶ国連合の交渉」を中心に見てきた。歴史の一ページとしては、単に「4ヶ国連合と交渉した」とだけ出るが、その当時の状況、そして高杉晋作公の個人の人生をみると、如何にすごいことか、改めて感じる。
高杉晋作公の覚悟と、知識と、勇気と、情熱と、どれをとっても、自分では遠く及ばない。年齢は高杉晋作公の倍近くなったが、年齢の問題ではない。しかし、少しでも近づければと思う。
高杉晋作公が「日本を守る交渉」をしたことを、現代の日本人としてしっかり受け止めたい。
現在の日本を見て、高杉晋作公はどう思うのだろうか・・・。
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