- 2022-11-8
- 日々の思料
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安倍元総理の死と日本を取り戻す情熱。国葬を振り返る
安倍元総理の死から、早くも4ヶ月経った。しかし、その「死」そのものよりも、「統一教会」だとか「国葬」だとかで、本質からかけ離れた議論ばかりで辟易としている。ここではその「死」について、安倍元総理の死から4ヶ月で思うことをまとめた。是非、お付き合いを。
1. 安倍元総理の死とその象徴的な意味
安倍元総理の死から、早4ヶ月経った。なぜか、あの異常な「暗殺」をマスコミは「統一教会」に話をすり替え、報道し続けている。
思うところがいろいろある安倍元総理の暗殺だが、ここでは安倍元総理の「死の意味」を考えたい。「日本を取り戻す」と言った大政治家の死について考えたい。
しかし、まず、安倍元総理の暗殺について、今のマスコミ・政治・世間の取り上げ方に、どうしても感じる違和感を指摘したい。
①白昼堂々と、②安全と言われる日本で、③総理経験者で今だ有力な政治家が、④暗殺された、というのに、そちらの問題は全く取り上げない。そして、世間もその話に乗ってしまっている。本来、追究すべき重大な謎があるのに、である。あのずさんな警備の問題はなぜ起きたのか?犯人はどのような経路で武器を作り、安倍総理の情報を得たのか?そうした本質の報道・追求が全くなされていない。まるで、事実を隠すかのごとく、としか思えない。
長らく政治を見ている者として、首相経験者で、あれほどの情熱を持ち、かついわゆる「政治力」を持って多くの人を巻き込めた政治家を、私は知らない。今の岸田政権など比べる対象にすらならない「大政治家」だった。
安倍元総理の後半の移民を入れるなどの政治姿勢は、私は反対の人間であり安倍元総理の限界なのかと絶望した。しかし、そうした安倍元総理に反対の立場であっても、上記の「大政治家」という認識については、揺らぐことはない。そして、安倍元総理は総理辞任後はそうしたことを「補正」しながら、次の政治を目指していたと思う。
その矢先での死。そしてそれが、なぜか「統一教会」の話にすり替わっている事実、あまりに下らない報道となってしまっている。しかし、安倍元総理の死は何かを残したはずと信じたい。あれほどの人の「死」というより、生前の「情熱」は、誰かが引き継ぎ、本来の「日本を取り戻す」という安倍元総理の情熱は育つはずである。
漫画ワンピースの有名なシーンで、私も大好きな「ヒルルクの桜」のシーンがある。
「人はいつ死ぬのか」という問いに対し、ヒルルクは「人に忘れられたとき」と答える。
そのシーンは、私の父の死ともつながり、今でも心に残る大事な言葉として私の中に生きている。
今、あえて安倍元総理の死、で、「人はいつ死ぬのか」を思う。安倍元総理は簡単に死んだのだろうか?それを引き継ぐ人がいれば「生きている」のではないか。そんなことを思う。
2.安倍元総理の国葬と国民の反応
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マスコミが散々あおり、そして批判してきた安倍元総理の「国葬」は、まるで経費の無駄遣いのような扱われ方だった。
私はそれに対して、「怒り」というよりも、「ショック」を受けた。あの激務の首相という仕事を安定して就任し続けたことは、誰がどうみても日本に取っては大きなプラスだった。政治信条が違っていても、その事実は変わらないはずである。安定政権というのは、日本の国益に大きく貢献していた。その事実だけ見ても、安倍元総理に対する「感謝」の念はないのか?と、強く思った。
しかし、その死に対し、信条が違うからと言ってもあれほどの罵倒をすることは、とても同じ日本人とは思えなかった。「人の死を悼む」そして「歴史上最長の首相在任をしてくれた人の、残酷な死」に対して「弔意を表わす」という当たり前の気持ちがあれば、国葬に対しての批判はあのような形ではされなかったと思う。
そういう意味で、安倍元総理の国葬がまるで嫌な物のようにレッテルを貼っているのを、見るのも聞くのも、堪えられなかった。マスコミが煽った世論調査で「国葬に賛成か反対か」などと、まったく意味の無い世論調査は、許せなかった。終わった今でも、そのような報道が目立つ事に対し、怒りと言うより、本当にやるせない「ショック」というか悲しさを感じる。
しかし、実際の国葬の事実をしっかり見ておきたい。
令和4年(2022年)9月27日の平日の14時から武道館で行われた国葬は、一般向けの献花台も設けられ10時から一般の献花が可能だった。その献花ですら長蛇の列で、3時間待ちだったという。その日は最高気温は30℃近くまであがり暑い日であったにもかかわらず、東京・九段の献花台から四ツ谷まで2キロ以上の列ができ、国民が安倍元総理の死を弔った。
私も行けるものなら行きたかったし、行くべきと思っていた。それほどの「大政治家の死」に弔意と感謝を示したいと思ったからである。
物理的に遠いので叶わなかったが、安倍元総理の実績と情熱は、しっかり国民の中に植え込まれている事が、端的にわかる「国葬」だったと言えるのではないだろうか。
あまりに低レベルでひどい批判が多かったので心配したが、「国葬の実状」を見た時にはホッとした気持ちになると同時に、安倍元総理の「功績」を改めて感じた。
「人はいつ死ぬか」について、「国葬」の厳かな雰囲気は国民の一つの答えを示していると思う。「日本を取り戻す」という情熱は引き継がれていかないといけない、と思った。
3.安倍元総理の遺産と未来への継承
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安倍晋三氏の「晋」は、高杉晋作公の「晋」から取ったという。そして、安倍元総理も高杉晋作を尊敬していたという。同じ人を尊敬する人として、改めてご冥福をお祈りしたい。
安倍元総理の死について「人はいつ死ぬのか」という問いは、これからの我々がしっかり受け止めることであると思う。「日本を取り戻す」という情熱を我々が受け継げれば、安倍元総理は生きていると言える。
「情熱」を持って日本を導いた大政治家の安倍元総理、その死が一つの礎となって日本が良い方向に行くことを願う。
コメント
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私も、安倍さんが亡くなられて、菅さんの弔辞を聞いたとき、同じことを思いました。R先輩は今も私の中で生き生きと語りかけてくれますし、そう思える人に出会えたことを感謝しています。
コメントありがとね。
「出会えることに感謝」とはいい言葉だね。
仕事も生活も、そして生も死も「感謝」しながら生きたいですな。
ヒルルクの名言については、続きの(ヒルルク)「なぜ泣く、ドルトン君」(ドルトン)「国も同じだろうか」(ヒルルク)「"受け継ぐ者"がいりゃあな」まで含めて名シーンですよね。
ドルトンもいいですよねぇ~
一連で名シーンですな。