フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景

フランス革命とナポレオン帝政について、当時の世界情勢を踏まえて、全体を見てみる。

これからシリーズとして何回かに分けて、フランス革命についてまとめてみる。フランス革命というと、どちらかというと「市民の立ち上がりによる政治改革」のイメージが存在するが、そんな生やさしい物ではない。犠牲者数は何百万人にも及び、粛正と戦乱は悲惨を極め、ヨーロッパを席巻する大事件であった。王朝を無根拠な裁判で処刑するなど、日本では起こりえない「革命」と言え、その影響はヨーロッパ全土を席巻した。日本では、江戸幕府の後期の頃であり、日本の歴史と比較しつつ見ると、当時の世界情勢が見えてくる。そうした対比も踏まえながらまとめてみた。是非、ご覧いただきたい。

1.フランス革命とナポレオン戦争がもたらしたものは?

(1)フランス革命とナポレオン戦争とは

フランス革命と聞いて、どのように連想するだろうか。一般的には、『「自由・平等・博愛」という市民の立ち上がりにより、絶対王政を倒した市民革命』といった印象が強いと思う。しかし、下記の事実一つ見ただけでも、その実情が見えてくる。

犠牲者数は少なくとも200万人、当時のフランスの人口は2,700万人

犠牲者数の統計は実際には難しいが、相当の数が亡くなっていることは間違いない。有名な「ギロチン」だけではない。パリ郊外の町の虐殺ぶりは筆舌に尽くしがたいものがある。
また、いくら絶対王政に対する反感があったとしても、800年続いた王朝(広義の意味でのカペー朝)の王(ルイ16世)を、なんの法的根拠もなく、しかも一票差という微妙な決議でギロチンに送り首をはねたことは正気の沙汰とは思えない。また、その王妃のマリーアントワネットも、全くありもしない罪(自分の息子に対する近親相姦)をでっちあげてギロチンにかけ、さらにはその子(ルイ17世)の悲惨な末路を知ると、革命という名の負の側面の大きさを知る。

フランス革命は、このように旧王朝を完全に途絶えさせたものであり、まさに「革命」と呼べるものであった。日本では常に天皇陛下が存在し続けているため、この「革命」といえるものは該当しない。王政が続くヨーロッパにとっては「革命」であったことは間違いない。

ドイツの詩人 ゲーテ

ドイツの詩人 ゲーテ

こうした市民によるフランス革命には、著名人で賛同した人も多かったが、一方で批判的な人もいた。詩人のゲーテは、フランス革命を、薄汚い野蛮な革命、と忌みいみ嫌っていた。それほどの虐殺と粛正とが入り乱れたフランス革命は、フランスに大きな犠牲と大混乱を生じさせた。

そこに一つの区切りをつけたのが、ナポレオンである。ナポレオンはその天才的な軍事センスとカリスマで、瞬く間にフランスの政治を握り、自ら皇帝となると同時に、革命思想を広げるという名目の下、他国を侵略していった。それはヨーロッパに大きな戦果となり多大の被害をもたらすが、フランス革命に心酔していたナポレオンの思想は、ヨーロッパの長い間の王政による政治支配に大きな「くさび」を打ち込んだことは間違いない。

革命の申し子 ナポレオンボナパルト

革命の申し子 ナポレオンボナパルト

そういう意味で、「フランス革命」という時代を見るとなると、ナポレオンを抜きにしては歴史の流れがまったく見えなくなってくる。いわゆる「フランス革命」だけでは、あまりに悲惨で無残な、粛正と、全く無計画な革命の混乱しか残らないためである。「フランス革命思想の申し子」ナポレオンの存在があって、初めてフランス革命の悲劇が報われる、といっていいのではないだろうか。

(2)フランス革命の流れと概要

フランス革命の話は、教科書にはいろいろ出てくる。バスティーユ襲撃前のテニスコートの誓い、その後のバスティーユ牢獄襲撃、ルイ16世とマリーアントアネットの逃亡であるヴァレンヌ逃亡事件ジャコバン派、アンシャンレジューム、テルミドールの反動、ラファイエット、ギロチン、ロベスピエール・・・と覚えることばかりで、どうしてもその全体の本質にたどり着きにくい。ここでは、そういった一つ一つについては割愛して、起こったことを簡単に追いつつ、世界史に与えた意義を中心に記述したい。

フランス革命略歴

フランス革命略歴

革命は、先の7年戦争及びアメリカ独立戦争により凋落したフランス王政(ブルボン家)に対する反乱から始まる。革命の過程として、まず絶対王政が倒れ、その後、王ではなく憲法に基づく政治を行うとして、立憲君主制となる。しかし立憲君主制はあくまで君主を頂く体制で、それでは収まらずさらに共和制となったうえ、象徴的にルイ16世を処刑するところまできた(1793年)。それを主導したのは、ロベスピエール率いるジャコバン派である。フランス革命当初は、まず王党派による緩やかな改革から、三部会などによる立憲君主派としてのフイヤン派、それより急進的なジロンド派政権、そして下流階層の支持するジャコバン派へと移る。ざっくり言えば、政権は、

フランス革命の主導権の移り変わり
フイヤン派(上流階層の支持)

ジロンド派(中流階層の支持)

ジャコバン派(下流階層の支持)

へと変遷し、過激になっていった。その頂点と思われたのが、国王ルイ16世及び王妃マリーアントワネットの処刑であった。しかしそれは始まりに過ぎず、その後も仲間同士も含め粛正の嵐となり、フランス政治は大いに乱れる。

こうなってくると現状秩序をあまりに乱すとして、特に王政を敷いていたヨーロッパ諸国は看過し得なくなってくる。「対仏大同盟」と言われる同盟が何度も結ばれる。第一回の同盟はルイ16世処刑の1793年で、イギリスを中心にスペイン・オーストリア・プロイセン・オランダ・ポルトガル・サルデーニャ・ロシアが結んでいる。その後のナポレオン戦争を含めると、第7回まで結ばれるもので、いかに革命の影響が大きかったが伺える。

と言っても、革命も決して民衆の手によるもので終わったわけではなく、結局最後はナポレオンが皇帝につき帝政となったことで、革命は一つの区切りを迎える。

(3)その後のナポレオン戦争・ナポレオン帝政とヨーロッパ世界

ナポレオン戦争は、フランス革命の後にナポレオンによって行われたヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争である。「革命理念の拡大」が名目であるが、他国にとっては侵略以外の何物でもなかった。

ナポレオン戦争時のヨーロッパ

ナポレオン戦争時のヨーロッパ

ナポレオン戦争時のフランス最大版図を見ると、いかにナポレオン率いるフランス軍が強かったか改めて思い知る。図の着色部分はすべてフランスの影響下にあった。イギリス・ロシア・オスマン帝国を除くほとんどすべてのヨーロッパ諸国を下し、国境はなきものとなった。
フランス軍の強さはナポレオン個人によるところもあるが、主たる要因はそこではない。当時戦争は「傭兵」が雇われて行うものが中心だったのに対し、フランスではジャコバン政権から行われていた「徴兵制」となっており「国民軍」の形成により、動員力が全く違っていた。また、フランス革命に対する列強の圧力への対抗ということで、その士気も他国を圧倒していた。そういう意味でも、ナポレオン戦争はフランス革命の一部と考えることもできる。なお、ナポレオンはイギリス上陸も目指したが、結果的にはイギリスは無傷のままで戦争を終えている。ナポレオン戦争後、ヨーロッパ各国では徴兵制の導入など軍制改革も進み、ますます戦争の体制が大規模化されていくこととなる。

ナポレオン=ボナパルト

ナポレオン=ボナパルト

そして、歴史的に考えた場合にナポレオン戦争がもたらした最も大きい物が、「フランス革命思想の広がり」といえる。当時、ヨーロッパはすべて王政だった。そこに、非常に乱暴ではあったが、フランス革命が証明したのは王政を市民が倒せる、という事実であり、それを体現したのがナポレオンであった。ナポレオンはロベスピエールに深く心酔し、フランス革命の偉大さを大きく胸に持ちながら軍事・政治を行ったことは間違いない。その象徴と言われるのが、「ナポレオン法典」とすら言われる1804年の「フランス民法典」である。日本の現行の民法にも深く影響を与えているといわれる。

また、ナポレオン戦争による死者数も特筆しておきたい。もちろんこれも正確には難しいが、400万人~500万人と言われる。日本史最大の内戦といわれる「戊辰戦争」の犠牲者は、8,420人と言われる。
単純に日本の内戦の死者数と比較するのはおかしいかもしれないが、いかに世界が平和に行き着くために多大の犠牲を払ったか、一方で日本が比較的少ない犠牲で江戸幕府という一つの平和を得て維持したことが貴重なことか、対比してみることも重要と思う。

こうして功罪併せ持つナポレオン戦争でありナポレオン帝政であるが、それを加えてみなければ、「フランス革命」という一つの歴史の流れが見えなくなる。ロベスピエールまでのフランス革命の流れでは、単なるテロと虐殺だけが残るためである。やはり、ナポレオンの登場はフランス革命の結果であり、成果として見るべきと思う。

しかし、ナポレオンの帝政も続かない。あまりに急進的なナポレオンの帝政は、幾多の犠牲の上に成り立っていたし、結局のところ侵略政争に帰結していいた。当然、その他の諸国はおろか国内からも反発を生み、フランスは更なる混沌の時代に入り、そのまま第一次・第二次の世界大戦へと向かうのである。

2.フランス絶対王政の全盛(ルイ14世)の時代と日本の情勢

フランス革命を理解するために、フランス革命より150年ほど遡ってさかのぼって、フランスの絶対王政の時代と、そして日本の情勢を比較して見てみたい。

「太陽王」ルイ14世

「太陽王」ルイ14世

フランス革命を「市民による王制の打倒」と位置づけたとき、その打倒すべき王政の対象となったのは「ルイ16世」とその王妃「マリーアントワネット」であった。しかし、それはあくまで表面的なものであり、その大きな原動力は経済の困窮にあった。では、経済の困窮はどこから来ているかと言えば、当時の天候不順による不作もあったが、それ以前におけるフランスの王政による浪費と度重なる戦争であった。

その土壌を作り上げたのが、フランス絶対王政の象徴とも言える「ルイ14世」(1638年~1715年)である。わずか5歳にして即位し、その後72年もの在位期間を持つルイ14世は「太陽王」とも呼ばれ、フランスの絶対王政の全盛期を謳歌した。

フランス革命の舞台となる「ヴェルサイユ宮殿」を作ったのもルイ14世である。優秀な補佐のマゼランコルベールなどを重用し、重商主義を進めて、フランスを強大国にしていった彼は、また一方で度重なる侵略戦争を起こしていた。

ルイ14世の侵略戦争
・南ネーデルランド戦争(1667年~68年)
・オランダ戦争(1672年~78年)
・ファルツ戦争(1688年~97年)
・スペイン継承戦争(1701年~13年)

こうした度重なる戦争は、確実にフランスの国力に大きな影響を与え始めていた。そのつけが、その孫であるルイ15世、そして更にその孫のルイ16世の治世にも大きく影響するのである。

江戸時代とフランス絶対王政

江戸時代とフランス絶対王政

このルイ14世が即位した頃は、日本では徳川による江戸幕府は3代目家光から4代目家綱へと移った時代である。そして「太陽王」のルイ14世の治世の時代は、江戸幕府で言えば徳川家綱(4代将軍)、徳川綱吉(5代将軍)、徳川家宣(6代将軍)の頃である。すなわちまさに「文治政治」と呼ばれる時代であり、徳川盤石となった体制の中で戦争がなくなり、武士として朱子学を中心とした学問の時代へ向かっていた時代である。
(過去記事 ➡江戸時代に挑む!【3】(4代~7代)文治政治の時代参照)

保科正之

保科正之

この頃の日本の象徴的な事件として「明暦の大火(明暦3年:1657年)」を挙げたい。当時から世界的に見ても大都市であった江戸で起こった大火災で、江戸の大半が焼けたという大災害であった。このとき、江戸城の天守閣が燃えたたためその再建が議論に上がったが、当時の将軍後見職にあった保科正之は民を救済するのが最優先と、その復興に全力をあげた。江戸城の天守閣は、いまだに再建されていない。

フランス絶対王政やフランス革命というと中世のものすごい昔のように思えるが、日本では江戸時代と重なり、フランス革命の頃は幕末に近い。すでに日本では戦国の世は終わっていた。更に日本の為政者となっていた徳川の将軍や幕閣達は、程度の差はあるが大きな贅沢をするなどもってのほかで、質素倹約に努めながら政治を行っていた。

どちらがいいかをここで言う気は無いが、同時期のフランス王朝を見て対比をすることで見えることがあると思う。こうした見方も歴史を知る上で非常に重要に思う。

3.フランス革命前のフランスとヨーロッパの状況 ~「啓蒙思想」と「7年戦争」~

(1)当時のヨーロッパ情勢 ~7年戦争とフランスの敗北~

7年戦争は、フランス革命の30年程前の1756年から1763年まで行われた戦争で、ヨーロッパ全土の大きな戦争であった。ヨーロッパではこれ以外でも何度も戦争をしているが、世界戦争と言える規模のものは「30年戦争」の終わったウェストファリア体制以後では、この「7年戦争」であった。日本では江戸幕府も後期に入り、将軍は徳川家治(第10代将軍)であり、田沼意次の政治の頃である。

7年戦争の同盟関係

7年戦争の同盟関係

7年戦争は端的には、イギリス・プロイセン連合 対 オーストリア及びヨーロッパ諸国、である。オーストリア継承戦争の後、オーストリアのハプスブルグ家(マリア-テレジア)は外交革命とも呼ばれる外交手腕によりロシア・フランスと結び、プロイセンに対峙していた。それに対し、プロイセン(フリードリヒ2世)が先手を打ってシレジエン(現在のポーランドの南西部、当時のプロイセンとオーストリアの間)に攻め入ったことからスタートした。そしてイギリスがプロイセンに加担、ヨーロッパその他の列強(フランス、ロシア、スウェーデン、スペイン)がオーストリアにつき、オスマントルコを除く全ヨーロッパが参加する世界戦争となった。
この戦争の大きな特徴は、ヨーロッパのみならず植民地でも戦争となっていることである。特に重要なのが「フレンチインディアン戦争」と言われるもので、その名の通り北米でのフランスとアメリカ(現地インディアン)との戦いであるが、イギリスがアメリカ側についている。また、インドでも長らく争っていたフランスとイギリスの東インド会社での抗争を再開させている。
この戦争は、イギリス・プロイセン対その他列強、という図式だが、イギリスは植民地でのフランスとの戦争に集中していてプロイセンに兵力を出すことはできず、ヨーロッパ本土では、プロイセン対その他列強、という図式であった。海外ではイギリスとフランスの植民地戦争であり、第二次百年戦争とも言われる。

7年戦争は、イギリス・プロイセン連合の勝利に終わる。それは、その後に結ばれた「パリ条約(1763年)」に如実に現れていた。イギリスは圧倒的な「世界帝国」となり、その連邦(英連邦)を含めることで「第一帝国」と言われる黄金期を形成する。他の追随を許さない圧倒的な世界帝国を作っていった。一方、フランスは植民地支配を大きく失った。パリ条約は、「フランス史上最もみじめな条約」と言われるほどであった。

(2)啓蒙思想(けいもうしそう)とは

7年戦争の頃、すなわち18世紀において、「啓蒙思想(けいもうしそう)」と言われる考え方が特にフランスで大きく広がった。この「啓蒙思想」なしで、フランス革命を語ることは出来ない。

啓蒙思想はその定義は難しい。あえて言うなら、「キリスト教的世界観や封建的思想を否定し、人間性を重視した考え方」といえるだろうか。それでもやはりわかりにくい。英語では「Enlightenment」となり、その原語の意味としては「光を照らす」、と言ったこととなる。古くからのキリスト教を中心とした宗教的な価値観に縛られず、思想からの解放で、より人間的に、という考え方がこの『啓蒙思想」であった。王政のヨーロッパにおいて、それに影響を受けた君主により、具体化されていった。ロシアの女帝エカチョリーナ2世プロイセンのフリードリヒ2世オーストリアの女帝マリアテレジアなどは、代表的な啓蒙君主として挙げられる。

7年戦争時のヨーロッパの啓蒙君主たち

7年戦争時のヨーロッパの啓蒙君主たち

そしてフランスではこれが、「王政に対する批判」としての方向性を強く持つようになっていった。
特にフランス革命において影響を与えたのが、モンテスキュー、ヴォルテール、ルソーといった、啓蒙的思想に基づいた主張であった。中でもルソーの「社会契約論」はフランスの革命的思想に大きな影響を与えた。

ロベスピエール、ナポレオンなどは、ルソーの思想に大きく影響を受けている。

(3)フランス革命の主役、「ルイ16世」と「マリーアントワネット」

ここで、フランス革命の前半の主役とも言える、「ルイ16世」と「マリーアントワネット」について、その出自を見ておきたい。

悲劇の夫婦 ルイ16世とマリーアントワネット

悲劇の夫婦 ルイ16世とマリーアントワネット

ルイ16世はルイ15世の孫にあたる。ルイ14世が約70年の治世、ルイ15世が約60年の治世、と長く続いた後に、祖父のルイ15世の死から、1774年の5月10日に20歳で国王となる(父は既に亡くなっていたため)。即位にあたって、かなり狼狽したようである。それほどに、王としての準備と自覚に欠けていたとも言える。しかし、必ずしも暗愚な王ではなく、イギリスに対抗するための海軍の増強や、拷問を廃止し人権思想にも理解を示すなども行っている。

マリーアントワネットは、オーストリアのはハプスブルク家の皇帝マリア・テレジアの娘である。先に記述したとおり、マリア・テレジアは啓蒙君主を代表する皇帝の一人であり、その娘として生まれたマリーアントワネットはフランスとオーストリアを結ぶ象徴として、フランス王家に嫁ぐことになる。

オーストリア女帝 マリア-テレジア

オーストリア女帝 マリア-テレジア

この二人が結婚することが決まるのは、オーストリア皇帝のマリアテレジアのいわゆる「外交革命」の一環としてである。オーストリアのハプスブルク家と、フランスのブルボン家が結ぶなど、全くあり得ないことを実現した。7年戦争における構図の、イギリスとプロイセンが結ぶ中、それに対抗すべくオーストリアとフランスが結ぶことがマリアテレジアの描いた戦略であった。

オーストリアとフランスが同盟を結ぶ中、生後間もないオーストリアの皇女マリーアントワネットと今だ1歳の後のルイ16世の婚姻が、外交上の大きな要素として結ばれたのである。

4.フランス革命の区分

フランス革命は、非常にその動きがめまぐるしく、整理しないとなかなか見えてこない。その整理の方法として、下記のように区分すると全体が見やすくなる。

【第一段階】
1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃から1791年9月3日の憲法の成立まで
【第二段階】
1791年憲法の成立から、1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)による王権停止まで
【第三段階】
1972年の王権停止から、ルイ16世及びマリーアントワネットの処刑を経て、ロベスピエールの失脚及び処刑となる1974年の「テルミドールの反動」まで
【第四段階】
1794年のテルミドールの反動から、政治の混乱期を経てナポレオンが実権を握り、1799年にナポレオン帝政を開始するまで

【第一段階】ではいわゆる「テニスコートの誓い」から、王制を制限するための「憲法成立」を目指した動きである。象徴的な「バスティーユ牢獄の襲撃」からスタートする革命の第一段階は、1791年の憲法成立をもって一つの区切りを迎える。王政に対して大きな制限をかけることが出来たためである。

マクシミリアン・ロベスピエール

マクシミリアン・ロベスピエール

【第二段階】は、革命の目標が王権打倒に移っていく過程である。王政の制限だけではおさまらず、革命がどんどん急進的になっていき、王制そのものの打倒という方向性が鮮明になっていく。そして1792年の8月10日事件として、王が宮殿から出され幽閉されるとともに、王権の停止が宣言される。この頃から政治の圧倒的主導権は、ジャコバン派をたばねるロベスピエールが握り始めていた。

【第三段階】は、王権の停止という一つの目的を終えたのちに行われる、粛清の嵐である。王権が停止してもまだ「市民」は収まらず、ついにはルイ16世・マリーアントワネットが処刑される。しかしこれは始まりにすぎず、その後、種々の理由により処刑が繰り返される。そして最後には、その処刑を主導したロベスピエール自身が失脚し処刑される「テルミドールの反動」までに及ぶ段階に至る。

【第四段階】は、その後の革命政府の混乱とそれを収めるに至る一人の英雄として、ナポレオンが帝政を敷くまでの段階である。

フランス革命はこのように4段階に分けられるといえる。これだけの混乱が繰り返され、多大の犠牲が生じた。しかし、これでもあくまで「狭義の意味のフランス革命」の区分といえる。ナポレオンが立ってもその混乱は収まらない。むしろ、ヨーロッパ全土を巻き込むいわゆる「ナポレオン戦争」を経て、さらなる戦乱が広がるのである。「広義の意味でのフランス革命」はこのナポレオン戦争とナポレオンの帝政及びその後の混乱を経たのちの「ウィーン会議」(1815年)までといえる。実に、30年近くかけて行われた、長く悲惨な大変革期であった。まさに「革命」であった。

それほどまでに大きな混乱と犠牲を生じさせたのが、フランス革命の全容として見るべきと思う。

6.フランス革命全体を見て

フランス革命というと、絶対王政に対する市民の立ち上がりと、象徴的なルイ16世とマリーアントワネットの処刑、という印象で終わりがちである。しかし、それまでのヨーロッパの体制である「王制」が覆され、ヨーロッパ全土に影響を与えた一連の大きな活動であった。またその活動は、結果として必ずしも一つの結論に行かず、何度も揺れて戻りその都度多大な犠牲を払い、最終的にはヨーロッパ全土を巻き込む大戦争となったのである。

あまりに多大の犠牲を払ったこの「革命」について、これからシリーズでその「段階」を追いながら見ていきたい。

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コメント

    • 優子
    • 2018年 9月 21日

    フランス革命。てつさんの書いてある通り民衆によってマリーアントワネットが処刑されてその後ナポレオンが出てきた、くらいの認識しかないので、ブログを読むとそれだけではない、とよく分かりました。
    4段階に分けてあるのは非常に覚えやすいです。

      • てつ
      • 2018年 9月 21日

      フランス革命は、全体を見ないとよく見えてこないです。
      当時もそうだったんだろうね。民衆が情熱を持って起こした革命であることはわかるけど、あまりにひどい犠牲の側面もしっかり理解したいところす。

      しばらくシリーズで行くよ!

    • ゆうじ
    • 2018年 9月 22日

    うーん…、何度も再読します。
    ちなみに、なぜフランス革命に着目されたのですか?

      • てつ
      • 2018年 9月 23日

      ちょっと複雑過ぎましたかね?なかなかまとめるのが難しく・・・

      フランス革命はまさに近代への一つの象徴ですので、まとめてみました。相当な犠牲を生んでいますが・・・。
      実態はなかなかのものです。

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