元号と日本 ~「大化」から「令和」まで~

新元号「令和」までの日本の元号を振り返る

新元号となる「令和」が平成31年(2019年)4月1日に発表された。その出典は日本の文献である万葉集からである。これは、最初の元号である「大化」から見ても初のことである。事前での発表も含め異例づくめの元号であるが、その門出に日本の元号を振り返って見た。是非、ご覧を。

1.新元号「令和」と「元号」の歴史

新元号 令和

私が初めて新元号が「令和」と知ったのは運転中の車の中だったが、直感として素直にいい元号だな、と感じた。「平成」を初めて聞いた頃は中学生の頃だったが、なんか無難なネーミングだな、と思った事を思い出した。
そして更に、万葉集からの出典と言うことは本当に驚いたし、嬉しく思った。最近の安倍政権には疑問だらけだが、この件に関しては安部首相に大賛成である。安部首相でしか出来なかった偉業と言っていいと思う。

「元号」は西暦645年の「大化」から始まっている。「元号」は最初は支那大陸の王朝がつけたもので、その頃の強大国である大陸の王朝の影響を周辺国も受けていた。それに対して日本だけは、自国で「元号」を始めることで、日本という独立国を確立したのである。それほど「元号」を自国で持った意味は大きいものだった。

なお、現在の中国においては元号は使われていない。「清」の滅亡と共に廃止されたし、何度も途中で途切れている。支那大陸の王朝は大陸であるがために、常に異民族が入れ替わり立ち替わり入っている。「元号」を維持するのは簡単ではない。清の元号を否定したのは、辛亥革命による新政権であり、支那大陸では、自分で「元号」を捨てた。理由はいろいろあるが、前皇帝を否定することから次の政権が生まれる事が最も大きい。
「元号」というのは、社会によほどの同意(コンセンサス)がなければ続けられない。そしてそのような制度を現在も行えているのは、日本だけであり、実に1300年も続いているのである。世界で唯一の日本の文化といっていい。なおその数は諸説あるが、248番目が「令和」と言われる。

そのようにして、当時の強大国である支那大陸の「唐」からの脱却を図るべく生まれた元号であったが、慣習として常に大陸の文献から引用していた。それも1300年続く「伝統」であったといえる。ところがそれを、今回は「万葉集」から引用するという大転換を行った。個人的には、なにか象徴的な時代の現象に思えたし、そう思いたい。

なお、まったく不毛な議論として、「漢字は中国の物だから中国からとった」とか「万葉集の歌そのものが中国の参考であるから、中国起源だ」という人がいるらしい。よほど、「日本より中国が優れている」と言いたいらしい。
そんなことを言うのなら、アルファベットを使う国々はすべてギリシャから学んだとでも言うのだろうか?アラビア数字を使う人は、その起源とされるインドより低いのか?

漢字そのものの起源は確かに支那大陸ではあるが、その後著しく発展させていったのは日本である。そして歌にして、文化にして、発展させていった。それを集めた物の一つが万葉集である。万葉集は8世紀頃(780年)にかけて変遷(へんせん)されたと言われ、4,500首もの歌が綴(つづ)られている。万葉集に限ったことではないが、「歌の下での平等」と言われ、男女であり身分の高い低いであれ、全く関係なしにいい歌が集められている。天皇・皇族・歌人・農民、あるいは遊女、といった全く身分に隔てなく、いい歌が変遷された。それほど日本は成熟した文化を当時においても形成していたことの証拠である。

個人的な感想として、その万葉集から選ばれた「令和」という元号には、大きな意味がある、と思っている。元号が始まった「大化」の頃の日本では、当時の超大国「唐」からの干渉をうけずに自国を確立するという「日本の気概」を持って「大化」という元号が生まれている。そして今、1300年の伝統をあえて破壊してまで国書から引用した「令和」もまた、「日本の気概」を持って生まれた元号として、誇りを持って迎えたい。

なお、「令和」の元となった万葉集の歌は大伴旅人(おおとも の たびと)という人が読んだ歌で歌は「梅花の歌」からである。

梅花の歌初春の月にして、気淑(よ)く風ぎ、
梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。

意味についてはそれぞれでご確認を。

2.元号と共に見る日本の歴史

元号は1300年続くといっても、残念ながらよほどの学者で無い限りそこまで詳しく知る人はいないと思う。それどころか、現在の日本ではむしろ西暦の方が使いやすいために、どうしても西暦で時を考える。
当然私もその一人ではあるが、この機会に元号を振り返ると時代が見えてきていい勉強になる。下記に元号の一覧として、まずは最初の「大化」から平安時代の最後の「元暦(げんりゃく)」までをまとめた。

元号一覧 1

まずは平安時代までであるが、これをまとめてみて改めて平安時代の長さを思い知る。歴史の授業ではあまり取り上げられにくい時代ではあるが、京都を中心とした政治機構は、日本の文化を発展させた時代でもあった。オレンジで着色したところは、教科書的にもその時代を象徴する元号や天皇として着色した。あとで触れたい。

次に、それ以降の元号一覧まとめてみた。武家の社会である「鎌倉時代」から現代にいたるまでの元号である。

表だけ見るとシンプルだが、年数で言えば先ほどの表の倍近くの期間となる。明治時代以降は「一天皇一元号」となったため、元号自体の数は大きく減少する。

3.元号にちなんだ各時代の出来事

(1) 飛鳥時代:「第二の建国」大化の改新と天武天皇

奈良時代の元号
奈良時代の元号

元号の最初と言えば「大化の改新」の「大化」である。大化の改新は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が当時の蘇我氏を倒したというもので、その中大兄皇子が後に第36代天皇の天智天皇である。その弟が、壬申(じんしん)の乱で天智天皇の息子を倒し天皇となった、天武天皇(てんむてんのう)である。

この天武天皇の功績は非常に大きい。当時は、兄の天智天皇の行った「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」により、朝鮮半島において散々に唐に敗退した後だった。当時の超大国唐との国防に当たらなければならなかったし、国としての確立が求められていた。
そして、「倭国」とされていた国名を「日本」としたり、「天皇」という言葉を正式に決めたり、古事記・日本書紀などの歴史変遷を進めたりした。当時の大陸の唐からの制度を取り入れつつ「律令」を定めて国の基礎とした。それが「大宝」に行われた「大宝律令」である。

神武天皇が日本の建国の始祖とするなら、天武天皇が行った事は「第二の建国」といっていい。日本という独立国を確立し、それを模索し始めた頃がまさに「大化」の時代であった。

(2) 平安時代:長きに渡る京都政治と武家の確立

元号が始まった「大化」の時代から、奈良時代を経て、都は京都に移される。「平安京」である。この時代のくくりは、教科書的には実に390年もあり、江戸時代よりも長い。といっても、国ととしての確固たる統一政権があるわけではなく、「朝廷」として中央集権化を進めている時期であった。

この頃の元号を見て個人的に目にとまるのは「仁和(にんな)」である。私は京都の「仁和寺」が大好きでよく訪れた。その仁和寺の建設が始まったのがまさに仁和2年(886年)であり、その建設を指示した光孝天皇(こうこうてんのう)の後を継いで宇多天皇(うだてんのう)が仁和4年(888年)に完成させたと言われる。宇多天皇はこの仁和寺を愛し、自身の出家後にはここに住んでいた。
このように、現在あるお寺からも日本の歴史と元号を垣間見れる。

またこの時代の元号を下って見ると「保元(ほうげん)」と「平治(へいじ)」がある。このときの歴史を動かす代表的な戦いが「保元の乱」と「平治の乱」である。前者は、天皇家にまつわる公家の勢力争いだがこのときに武家が台頭し、そして後者が「源氏」と「平氏」が明確に実力者として対立した戦いである。公家の終わりをつける時代の象徴が「保元」と「平治」という年号に象徴されている。

(3) 鎌倉時代:幕府政治の確立と最大の国難

鎌倉時代の元号
鎌倉時代の元号

更に時代は下り、鎌倉時代を見てみたい。

鎌倉時代は武家のうち「源氏」の大将である源頼朝(みなもとのよりとも)が幕府を成立させた時代である。京都全盛の時代に鎌倉にて政治を行うという、画期的な体制を確立した源頼朝は、あの徳川家康からも深く尊敬される人物であった。

それほどの画期的な時代を切り開いた最初の元号は「建久(けんきゅう)」であるはずである。「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」で覚えたその年は「建久」であり、まさに新しい時代を「建」てるにふさわしい元号に思える。しかし、最近の教科書は違うらしい。その前の文治の時代(1185年)から実質的には幕府は存在したとしている。1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられたときであるが、朝廷からすなわち天皇からの任命を受けた年を時代のスタートしたくないらしい。あまりにも情けなく下らない歴史学会のお偉い様達の議論である。辟易する。

話を時代に戻す。鎌倉時代も150年近く長い年月続いている。とはいえ、創設者の源氏は早くに滅び、実際には「北条家」による治世が行われていた。このときに起こった大事件が、いわゆる「元寇」である。

当時世界最強の「元」が攻めてきたものであり、日本にとってものすごい脅威であった。実際には「元」よりも当時の朝鮮の「高句麗」による戦争といえるのだがここでは割愛する。そのときに大きな衝突があったのが、元号が「文永」と「弘安」の時である。いわゆる「文永の役」「弘安の役」である。

教科書的には台風が来て向こうが逃げた、という単純な記述でしかない。しかし、実情は全く異なり北条時宗がよく日本をまとめ、すさまじい戦果を挙げた歴史的な戦争であった。そしてその後、国としての国防に努めることになった。

(4) 南北朝時代と戦国時代:朝廷が揺れ日本が大きく混乱した時代

南北朝時代の元号
南北朝時代の元号

南北朝時代といえば、足利尊氏(あしかがたかうじ)の室町幕府だが、真の主役は後醍醐天皇といっていい。元号が「建武」のときに、天皇自らが政治を行おうとして「建武の新政」を宣言するが、その後足利尊氏と対立し、天皇家が二つに分かれる「南北朝」となった。
南北朝時代は、元号も二つ存在する。朝廷と共に日本が大揺れに揺れた時代だった。足利氏は当時の大陸の超大国である「明」と密接になり、朝廷をないがしろにしたともいわれる。国の危機とも言えるこの時期は、元号は別れ大いに乱れた。

この時代の後半が、いわゆる「戦国時代」と言われる時代となる。そのスターtが「応仁(おうにん)」の時代の「応仁の乱」である。この応仁の乱は時代を象徴するように、裏切りだらけで誰がどっちの味方もわからず、終わりもうだうだで、私利私欲に走った大義のない争いであった。

(5) 江戸時代:「武家諸法度」と元号

江戸時代の元号
江戸時代の元号

江戸時代の元号は、教科書で文化の名前などでよく使われるので、比較的なじみがあると思う。江戸の前半の反映を表す「元禄(げんろく)文化」、徳川吉宗の改革を象徴する「享保(きょうほう)の改革」など、元号と時代がある程度想像出来ると思う。

私として取り上げたいのは「元和(げんな)」である。元和は徳川幕府の創設時を元年とし、このときに出されたのが「武家諸法度(ぶけしょはっと)」である。平和の時代になり武士とはどうするべきかを説いたこの「武家諸法度」はその後何度も出されるが、最初に出された物が「元和令(げんなれい)」と言われるものである。

この武家諸法度では、第一に大名に対し「文武弓馬の道、専ら相嗜(たしな)むこと」と説いている。「学問と武芸に励め」とするこの令は、当時の為政者に対する物として非常に道徳的である。今にも十分通じるし、是非政治家に読んでもらいたい。
そしてこれは、聖徳太子の「(為政者は)和を以て貴しとなす」といった言葉に通じると感じていた。それが「元和」という「和」の「元」となる元号の名前からスタートしたと思うと、元号の重みであったり巡り合わせを感じる。

4.元号の背景にある聖徳太子の「和」の精神

聖徳太子
聖徳太子

ここまで、江戸時代までの時代を元号と共にまとめてみた。大化から始まる元号は、いろいろな想いと歴史を刻んでいると思う。

しかし、ここであえて挙げておきたいのは元号に「和」が多いことである。そして「令和」にも「和」があることは、巡り合わせと思う。

もともと、日本は「和の国」であると古代から伝わっている。それは元号よりも前の話である。そしてそれを象徴したのが、元号の始まる50年頃前に活躍した聖徳太子の考えと思う。それが十七条憲法の第一条と思う。

第一条「和を以てとうとしとなす」の全文
【全文の読み下し文】
一にいわく、和をってとうとしとなしさからうこと無きをむねとせよ。人みなたむらあり、またさとれるもの少なし。ここをもって、あるいは君父くんぷしたがわず、また隣里りんりたがう。しかれども、上和かみやわら下睦しもむつびて、事をあげつらうにかなうときは、すなわち事理じりおのずから通ず。何事か成らざらん。
【現代語訳】
和というものを何よりも大切にし、いさかいを起こさぬように心がけよ。人は仲間を集め群れをつくりたがり、人格者は少ない。だから君主や父親にしたがわなかったり、近隣の人ともうまくいかない。しかし上の者が和やかで下の者も素直ならば、議論で対立することがあっても、おのずから道理にかない調和する。そんな世の中になると何事も成就するものだ。

私の個人的な勝手な思い込みではあるが、こうして読み返すと、改めて「和」という言葉を重く感じる。

5. 新元号「令和」に思うこと

あくまで教科書的に、そして非常に駆け足で、元号と歴史をまとめてみた。もっともっといろんな場面で元号は日本の文化に深く根ざし、日本と日本人に大きく影響を与えていると思う。

近現代の元号と天皇
近現代の元号と天皇
確かに西暦が使われることが多くなった現在だが、やはり日本の歴史を刻む一人として、改めて「元号」を大切にしたいと思う。
そして、1300年続く歴史の中で初めて日本人の文書からとった「令和」という時代が来る。新元号となるにあたり、改めて、日本や日本人にとっていい時代となることを望み、また、そうなるように時代を作っていきたいと思う。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2019年 4月 23日

    「れいわ」響きもいいですね。仁和寺の御室桜は私も大好きですよ。八重桜で樹高も低いので迫力がありますよね。遅咲きのため観光客が殺到するので、大学時代に朝イチで見に行ってました。

      • てつ
      • 2019年 4月 23日

      令和、本当にいいですね。いい時代になるようにしたいですな。

      仁和寺がお好きとは。私も久しぶりに行きたくなります。

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