明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり

明治時代【1】:明治時代45年間を、明治・大正・昭和のつながりの中で見る。


明治時代は45年間も続く長い期間だった。「天皇陛下一代につき一元号」となったのは明治からである。なかなか学ばない近代・現代であるが、この頃を知らなければ現代の日本が見えてこない。また、学べば学ぶほど、今までに聞いたり学んだ歴史がいかに偏っていたか、真実を見せてこなかったと愕然がくぜんとする。私なりにまとめてみたので、是非ご覧を。

(シリーズ記事)
➡明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり
➡明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで
➡明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争

1.明治・大正・昭和という時代

明治時代というと、どのようなイメージを持つだろうか。一般的には、「武士の時代から近代化へと進んだ時代」という印象と思う。

しかし、実際には45年間というある意味では長い期間ではあるが、たったそれだけの短い期間とも言えるその間にめまぐるしく日本は変貌を遂げ、そして世界も動いた。日本国内における「武士の社会」から「近代社会へ」というレベルではなく、世界的にもすさまじく動いた時代の中で、日本が大きな一翼を担い始めた期間である。

その明治時代の45年間を大まかな世界史の出来事と合わせて年表にした。

明治時代 年表
明治時代 年表

明治というと近代のイメージがあるが、そのスタートは、今だ徳川家が存在する明治元年(1868年)の「鳥羽伏見の戦い」からである。「戊辰戦争」が始まった年であり「西南戦争」はまだ始まっていない。そんな、まだまだ武士の時代からスタートして、その後に
・大日本帝国憲法の成立、
・日清戦争の勝利、
・日露戦争の勝利、
・韓国併合、
と一気に走り抜いていく時代であった。

それをすべて行ったのが、明治45年という期間であった。

明治という近代日本の建国期において、一つの区切りと言えるのが「大日本帝国憲法」の成立(明治22年:1889年)と言える。憲法がなければ文明国でないと言われ、それが欧米列強と結ばされたいわゆる「不平等条約」の撤廃の必須条件だった。そして日本は必死でこれを作り、そして守った。トルコのように憲法が根付かずすぐに破棄した国もある中で、日本もその危険が十分あった。ドイツやイタリアなどの欧米列強ですら建国間もないこの時期に、それ以外の国でまともに憲法を作り運用したのは、日本ただ一つである。欧米の列強国も、大日本帝国憲法の内容の先進性を含めて、日本という国を評価せざるを得なくさせたのである。

こうして、国際社会に欧米以外で唯一入ったのが日本という国だった。世界史の上でも大事件であった。特に、世界第2位の陸の超大国のロシアを破った日露戦争の勝利は、世界史クラスのとんでもないニュースであった。私の尊敬する渡部昇一先生(故)に言わせれば「植民地支配が始まって500年以来」の大事件であった。日本の歴史は世界を舞台に一気に動き出す。

渡部昇一氏 「少年日本史」
渡部昇一氏 「少年日本史」

 余談だが渡部昇一先生の本は、深く日本を洞察している名著ばかりである。日本と世界を正しく知るためのものとして、是非お勧めしたい。

紹介した「渡部昇一の少年日本史」の副題に日本人にしか見えない虹を見るとある。日本の、日本人の歩みを正しく見ると、渡部先生の意見に全く同意である。先人達の歩みを正しく見て、現代に生かしたいと思う。この本も名著であり、日本の正しい歴史を学ぶ楽しさを教えてくれる

しかし、明治だけをみても歴史のつながりという意味では不十分と思う。大正・昭和そして、あの第二次世界大戦という時代への入り口としての明治時代を考えてみたい。
そこで、大正・昭和(戦前)の年表をまとめてみた。

大正・昭和時代 年表
大正・昭和時代 年表

大正・昭和の時代を取り上げるのは、別の記事で行いたい。ここでは大きな流れを見ておきたい。
大正・昭和(戦前)の頃の年表を見ると、やはり「大東亜戦争(第二次世界大戦)へのプロセス」にある、とどうしても見てしまう。

大正に入りすぐに、第一次世界大戦(大正3年:1914年)となる。第一次世界大戦はあまり印象にない人が多いと思うが、ヨーロッパ的には「先の大戦」と言えば第一次世界大戦を指すほどの大混乱にあった。日本も大きくそこに関与している。
そしてその後、日本では、関東大震災(大正12年:1923年)があり、昭和に入って立て続けに経済危機が起こる。昭和金融危機(昭和2年:1927年)・世界恐慌(昭和4年:1929年)・昭和恐慌(昭和5年:1930年)。そして、満州事変(昭和6年:1931年)があり、国際連盟脱退(昭和8年:1933年)があり、支那事変(昭和12年:1937年)があり、最後には真珠湾攻撃(昭和16年:1941年)により米英との戦争も始まり大東亜戦争(第二次世界大戦)への道へまっしぐら、というのが、歴史の事実として挙げられる。
しかし、年表を見ただけでは、そうなった「原因」や「背景」が見えてこない。

大正・昭和から突然大東亜戦争への道へまっしぐらだったのか?
突然日本人は侵略を目的に外へ出るようになったのか?

確かに戦争への「芽」は、明治の段階で大きく出ていた。そしてそれは、決して日本単独で作り出した「芽」ではない。ましてや、明治・大正・昭和を通じて「侵略」が目的では無かった。そんな発想も余裕も日本にはまったくなかった。それは実際の先人の行動を見ればよくわかる。それでも戦争の「芽」が育ったのには、相当外国勢力が関与している。

列強から「植民地支配には絶対にさせない」、という日本が、近代化を経て国際政治に関わっていくなかで出来てしまった火種の「芽」が導火線となって、最終的に悲劇的な敗戦となった。

明治・大正・昭和
明治・大正・昭和

明治・大正・昭和と年表を並べてみた。国際情勢がらみの出来事を集めたから、というのもあるが、国外との衝突が多いことは一目瞭然と言える。わずかこの数十年前の江戸時代には全く無かったことばかりである。

年表だけみれば、
日清戦争➔日露戦争➔韓国併合➔対華21ヵ条要求➔満州事変➔真珠湾攻撃
と、日本がどんどん進んで行っているように見える。

では、そうした衝突を日本から求めて行ったのか?

結論から言えば、明確にNoと言える。間違いなく「侵略」などではなく、列強からの植民地支配に対するためのものであった。まずそこから明確にしないと、歴史の見方がおかしくなるし、現実的にあり得ない議論となってしまう。物事はそんなに単純ではない。

その根拠は簡単に説明できる物ではない。しかし、少なくとも学校で習ったことや、いわゆるマスメディアがいうような、単純に日本が侵略したくて「加害者」であったとしか認識しない一方的な歴史の見方は明確に誤りである。私たちの先人は、そんなに単純な理由で戦争を行ったりしていない。もっと複雑な現実とそうなってしまった過程(プロセス)があった。そしてそれを知ることは、現代にも十分通じるものである。

まずは、明治という時代を見ながら、そんな過程の一つを見ていきたい。

なお、国外との衝突は多いが、地域はほとんど限定されている。当時ほとんど「死に体」であったとは言え「清」という大国がいたシナ大陸と、その間に位置する朝鮮半島である。まずはそれを知ることが、当時の日本を知り先人達の歩んだ道を見ることとなる。

2.明治時代45年間の日本の動き

明治時代の45年間は、それまでの徳川250年間の後から考えると、日本史の中でかなり特殊な45年間であったといえる。
明治45年についてより詳細な記事は次回に譲るが、ここでは大きな流れを抑えておきたい。

特殊というのは、海外との関わりが圧倒的に増えたためである。ただし、「開国」をしたからではない。もともと日本は江戸の頃から海外の情報はかなり得ていた。だからこそ、近代化を可能としたとも言える。江戸時代は「鎖国」と言われるが、これは明治の時代からいわれたようである。明治政府が自分たちが国を「開いた」としたいがために、このように呼んだという説もある。

その「海外」が極東に積極的に入ってきたために海外との関わりが増えた。というより、列強とのせめぎ合いの一員となっていった。特に明治後期には「ロシア」が脅威であった。ただし、実際にはヨーロッパに別の黒幕もいたが・・・。
そしてその「海外」勢力、すなわち欧米列強の脅威が、明治を突き動かし、その脅威の排除が明治志士たちの一貫した行動原理だった。

明治時代のスタートである明治元年(1868年)から、戊辰戦争がスタートしている。その頃まだ、徳川家は最強の大名として存在し、国内情勢は予断を許さない状況であった。そんな中でその年にすぐに出されたのが、明治天皇による「五箇条の御誓文」である。国をまとめていくという決意を天皇陛下が神に誓う、という形で行われた。

五箇条の御誓文
五箇条の御誓文

まだ15歳でしかない明治天皇を中心としてでも「日本」という国の単位で早くまとまらなければ列強に植民地にされるという焦りが強く感じられる。

明治維新が改革と言われるゆえんとして、「版籍奉還(明治2年)」「廃藩置県(明治4年)」「地租改正(明治6年)」の3つが挙げられる。これらはどれも、律令国家時代からの改革とも言え、わずか数年の内にやり遂げた.イギリスの公使パークスはこれを見て驚愕し、次のように述べたという。

イギリス公使 パークス
「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで…国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

こうした改革を次々と押し進めた中心人物の三人は、明治10年・11年に立て続けに亡くなっている。維新三傑と言われる、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の三人である。
私はここで明治の一つの区切りが出来たと考えている。主役は次の代に移った。

維新三傑
維新三傑

では明治の政治における次の主役といわれれば、まずは私は「いない」という答えとなる。この後には、明治の時代は憲法を制定し天皇を頂点とした「立憲君主制」となるためである。首相は明治時代だけでも14回も交代しており、リーダーは激しく入れ替わった。

しかし、実際には明治のリーダーとして、それこそ明治末期まで活躍した人として挙げたいのが、伊藤博文である。初代の総理大臣であり、憲法作成を自ら主導したその情熱と政治力なしに、その後の日本はあり得なかった。英語、ドイツ語をこなし、立派な国際人だった。
憲法の作成という大事業を自ら率先して進め、真剣に憲法とは何かを欧米に留学してまで学び、日本の歴史も徹底的に研究して、大日本帝国憲法を作った(明治22年:1889年)この憲法なしでは、近代日本はあり得なかった。そしてこの憲法は伊藤博文なしでは成立し得なかった。欧米との不平等条約の改正に、憲法は不可欠だったのである。しかもその内容は、世界でも名だたる先進的なものであった。あまりに議会に権限を与えた先進的なものであったため、むしろヨーロッパ諸国から、その運用を危ぶまれたほどであった。

伊藤博文
伊藤博文公

これでようやく「曲がりなりにも」欧米からも認められ、不平等条約の撤廃が可能となったのである。伊藤博文公なしで、日本の近代化はあり得なかった。
その後の日清戦争(明治27年:1894年)・日露戦争(明治37年:1904年)では慎重姿勢が目立ったが、常に国のためを思い行動している。そして日露戦争後の明治42年(1909年)に、朝鮮のテロリストにより射殺される。朝鮮併合に最も反対していた最高実力者の伊藤博文が殺害され、日本の世論を抑えることはもはや不可能となり、その翌年の明治43年(1910年)に韓国併合が行われるのである。

そして、その2年後に明治天皇が崩御され明治の時代の幕が閉じる。高杉晋作と共に維新回天を駆け抜けた伊藤博文が亡くなってすぐに、明治の世は終わりを告げた。

この韓国併合は明治最後に行われるのだが、この伏線は日清戦争・日露戦争に既にあった。もっと言えば、西郷隆盛が下野した「明治6年の政変」は、まさに「征韓論」と言われる朝鮮を巡る議論が発端であった。日本はすでに明治初期から、朝鮮との付き合いが大きな政治問題となっていたのである。

そしてこの政治問題は、多分に間違って教えられている。日本が無理矢理併合したわけでもなく、日清戦争にせよ日露戦争にせよ、日本が領土拡張を目的に行った、などとは全くの嘘である。これだけ急いで海外に出ざるを得なかったのは、ロシアを中心とした列強の進出を抑えるためであった。
日本が自分の植民地など作る意思も余裕も全く無かった。そもそも「朝鮮」は明確な国であったとはいいにくい。清の一地方という位置づけに近かった。日清戦争で勝った結果の下関期条約での第一条は「朝鮮の清からの独立」であった。日本は朝鮮半島に近代化を求めたのである。また、その後の日本統治を見ても明らかである。台湾も朝鮮も統治しているが、まったく「植民地」として扱ってなどいない。
大量の国費を投じて、最高の人材を送り込み、その開発を本気で進めたのである

朝鮮の併合と日本統治
朝鮮の併合と日本統治

なんにせよ、この「朝鮮」を舞台としたシナ大陸・朝鮮半島との争いが、その後の日本の運命を大きく動かしていくことになる。

しかし結果はともかく、日本の一貫した目的は、列強の植民地支配の排除であった。日本人に欧米のような「植民地」という考えはなく、また国にそんな発想も余裕も全く無かったのである。

3.当時の世界情勢

明治時代の世界情勢については、次回以降に詳しく記述したい。ここでは、当時の列強の状況を簡単に押さえておきたい。明治という時代を見る上で、世界情勢の認識なしでは、全く知識不足となってしまう。

19世紀後半の世界の戦争・紛争
19世紀後半の世界の戦争・紛争

明治時代すなわち19世紀の中盤から後半と20世紀初頭にかけて、世界の列強はまさに「帝国主義」むきだしであった。産業革命により軍事・産業の発展を遂げた後は、むき出しの植民地主義に走っていた。この頃の5大国と言えばそのままヨーロッパの5強を指し、最強のイギリス、2番手にロシア、そしてフランス、オーストリア、そして発足間もないドイツ連邦であった。これに加えて、アメリカという新興国が南北戦争を終えたことで、一気にその力をつけて植民地支配に乗り出していた。
植民地支配と言っても生やさしい物ではない。ほとんど人を人と見なさず、残虐の限りを尽くしている。それらについては、またいずれ触れたいが、興味のある人は是非調べてほしい。

19世紀後半のイギリスのアジア侵略
19世紀後半のイギリスのアジア侵略

ヨーロッパから列強が東アジアまで入り始めたのは、18世紀中頃からであったが、19世紀に入るとその活動はどんどん活発になっていった。特に、悪名高いアヘン戦争で清を抑えたイギリス、そして、シベリアから鉄道を引いてあからさまにアジア支配をもくろむロシアが、アジアでの存在感を圧倒的にしてきた。

1900年の世界情勢
1900年の世界情勢

また、19世紀の後半あたりから、石油の存在が更に強大国を強大にしていった。アメリカが最初で、ロックフェラー財団が力をつけていくのはこの頃である。そして第一次大戦後に中東に石油が出るとその動きは更に活発になって行く。

列強と言われる国々にまともに対向した国は、ヨーロッパ以外では全く無かった。歯が立たなかったのである。そこに唯一対抗したのが日本であった。しかもその国が世界ナンバー2のロシアに勝ったのである(日露戦争)。日英同盟があったためとはいえ、ロシアに勝つとは誰も思わなかった。この勝利は日本にとっても大きいものであったが、欧米中心の世界にとっても計り知れない衝撃をもたらした。その後の歴史上も、大きなターニングポイントとなる戦争であった。

4.大正の日本と世界の動き

甚だ簡単に、大正期の日本と世界の情勢に触れておきたい。詳しくは別の機会にまとめたい。

大正・昭和時代 年表
大正・昭和時代 年表

明治の時代には、「急激な近代化」という動きと、それをせざるを得なかった世界情勢があった。そしてそれはもちろん、明治天皇の御代みよが終わった後でも続く。
特に世界情勢という意味で、二つの火種が明治後からどんどん深刻化していった。一つは、アジアで唯一の国という欧米列強からの人種差別も含めた欧米列強からの恨みであり、孤立である。もちろんそこには黄色人種に対する白人の人種差別意識も大きい。そしてもう一つは、本来手を組むべきシナ大陸及び朝鮮半島がまるきり近代化せず日本にとって大きな課題となっていたことである。

日本の大正の15年間は、直接的な大きな戦争がなく、第一次世界大戦の特需による好景気もあって、一見平和に見えた。当時は日本は世界の5大国の一つとなり、一部で参加した第一次世界大戦でもアジアでのドイツの植民地を奪い大きな戦果を挙げていた。

第一次世界大戦は、ヨーロッパの火薬庫と言われるバルカン半島での衝突がスタートだった。しかし、それが「世界大戦」と言われるまでに広がったのは、大国の帝国主義的政策があった。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世

中でも、統一されたドイツ連邦の存在が大きい。芸術的な外交によりなんとか戦争を食い止めていたビスマルク外交を終わらせ、次々と緊張を高める政策をしたのは、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世であった。

ヴィルヘルム2世は強烈な人種差別主義の思想を持っていて、日本への「三国干渉」にも関わっており、歴史を見る上で欠かせない重要人物である。いずれしっかり記述したい。

第一次世界大戦は大正3年(1914年)から4年続き、大きな傷跡とその後の戦後賠償の過程で大きな禍根を残し、終結した。

三国同盟と三国協商(1907年)
三国同盟と三国協商(1907年)

特にヨーロッパ世界では第一次世界大戦がすさまじい被害と火種を残しながら終わり、第二次世界大戦への道は既に開かれていた。

また、国際連盟という場を使われながら、日本はジリジリと孤立の道を歩んでいた。その頃は第一次世界大戦後にロシア革命となり、それを扇動したレーニンの「コミンテルン」と言われるテロ活動グループが出来た頃である。
国際連盟での日本の孤立は、多分に工作による部分が大きく、世界的に「共産主義」という名の工作活動が広まっていた。日本はまさにその舞台の中にいた。
それにプラスして、韓国併合による朝鮮統治でのいざこざはシナとの緊張関係も引き起こしていた。

そんな中での大正12年(1923年)の関東大震災と、その年に失効した日英同盟はその後の日本を暗示するかのような大きな暗い出来事であった。

5.大東亜戦争に向かって行く時代の流れと明治時代の日本

今回は明治期をまとめるため、昭和の戦前期については詳しくは触れない。しかし、明治を見る上では昭和の戦前までの流れを頭に入れておかないと、全体を見誤る。

大正・昭和時代 年表
大正・昭和時代 年表

先に書いたとおり、平和に見える大正時代も世界はめまぐるしく動いていた。第二次産業革命と言われる石油による生産能力の向上、すなわち戦争能力も格段に上がり、世界は軍拡へとどんどん進む。そして、「共産主義」という思想の下での今で言うテロ活動も活発となり、世界は混沌としていた。

そんな中で、日本は明治の頃の国際情勢の火種を、そのまま引きずるどころか大きくしていた。一つは欧米に対する孤立、そしてもう一つはシナ大陸・朝鮮半島との確執である。この両者が文字通り爆発する最後の導火線となったのが、経済不安だったと思う。昭和金融恐慌(昭和2年:1927年)・世界恐慌(昭和4年:1929年)・昭和恐慌(昭和5年:1930年)は日本の経済に大きな混乱を及ぼし、人心を惑わせた。経済の混乱は人の判断を危うくさせる。
そして、満州事変(昭和6年:1931年)が起こり、その後の戦争への道へと進んでいった。

ここで述べたほど物事は単純ではないが、今の段階で言える大筋では歴史の真実の流れと思う。

私が思う明治から引きずった国際情勢の2つの火種、
① 欧米に対する孤立、
② 支那大陸・朝鮮半島との確執、
は、どちらも日本は完全に踊らされた感がある。そうした歴史の事実をよく見ておく必要がある。
しかしそれは、日本を正当化するためでもなく、また先人達を馬鹿にするためでもない。
なぜそうなったかを学ぶことは、現在にも十分通じる 教訓であるし、学べば学ぶほど、先人達は心から平和を求めて行動した事が見えてくる。文字通り「大東亜」を形成しようとした。今回は明治時代についてだが、そうした先人達の歩んだ時代をしっかり見て学び、今を生きる上での参考にしたい。

また、今までの誤った歴史ではなく、事実をしっかりと記述した本は出ている。またYouTubeなどで、本当にためになる番組はたくさんある。是非、正しい歴史を学ぶことをお勧めしたい。日本を正しく理解し、誇りに思えると思う。

日本国紀(百田尚樹氏)
日本国紀(百田尚樹氏)

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コメント

    • ゆうじ
    • 2019年 1月 09日

    年初から読み応えのある内容ですねー。急速な諸産業の発達で、世界(の距離)が小さくなる中、日本が巻き込まれ、それに対して亜細亜の先頭に立ち欧米列強と戦っていくという全体感がよく分かる「ワクワクする序章」でした。続きが楽しみです!

      • てつ
      • 2019年 1月 09日

      ありがとうございます。出来事や人物が多いので、頑張ってまとめてみます!

      明治を知った上で、大正・昭和を知りたいですね。
      かなりマニアックなまとめですが、是非ご覧下さい。

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