明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで

大日本帝国憲法発布

明治時代【2】明治時代の前半:大日本帝国憲法の成立までの明治を見る。

明治時代を大きく二つに分けて記述する。「大日本帝国憲法」の制定前と後との時代である。大日本帝国憲法は、戦後「軍国主義の憲法」などとひどい扱いを受けている。しかし、その制定まで及び運用の道のりは、明治そのものである。明治前半の今回は、その歩みを含めてまとめた。

(シリーズ記事)
明治を見る!【1】明治と大正と昭和のつながり
明治を見る!【2】明治前半:大日本帝国憲法成立まで
明治を見る!【3】明治後半①:日清・日露戦争
明治を見る!【4】明治後半②:日露戦争後の世界と韓国併合と明治の終わり
明治を見る!【5】明治時代の世界情勢
明治を見る!【6】明治の首相の覚え方

1.明治時代45年間の区分

明治時代は45年間ある。この45年間で日本の内部及び日本をめぐる情勢はめまぐるしく変わっていく。
明治時代は、一つの出来事の「前」と「後」とで大きく二つに分類できる。その出来事とは、「大日本帝国憲法の成立」である、明治22年(1889年)公布でありちょうど明治の真ん中の時期である。また、単なる時期だけでなく、憲法制定は非常に多なきっかけであり、政治的にも国際的にもその前後では大きく動きが変わってくる。

明治期の年表とその区分を示した表を下記に表示する。

明治時代の動き
明治時代の動き

表にある通り、大日本帝国憲法制定の前の時期を「政府形成期」とする。この「政府形成期」も二つに分けられる。その前半と後半という分け方だが、その区切りは維新三傑といわれる西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が立て続けに亡くなった明治10,11年(1876,77年)である。これ以降は伊藤博文などを中心にしながら近代日本の形成は進められる。

維新三傑
維新三傑

また、憲法制定後の時期は、大きく3つに分けられる。それはそのまま海外とのかかわりの中の大きな出来事である。
① 日清戦争(明治27年:1894年)までの時期
② 日露戦争(明治37年:1904年)までの時期
③ 韓国併合(明治43年:1910年)とその後

これらの分類に従い記述していきたい。今回は前半として「政府形成期」をまとめてみた。

2.明治の始まりと維新三傑の死まで

(1) 「五箇条の御誓文」と明治の始まり

明治の始まりの年(慶応4年、明治元年:1868年)は、薩長同盟が成って間もない状態でまだ徳川家は江戸に純然たる兵力を有していた。まだまだ予断の許さない情勢であった。

これが一気に変わるのが同年の「鳥羽伏見の戦い」でありその後の「江戸城無血開城」である。そしてその後の「戊辰戦争」によって新政府軍は完全に勢力を確定し、徳川幕府の体制は完全に終了した。
(詳細は、過去記事➡維新回天 全体編【4】明治維新の流れを追う③「政府形成期」参照)

そんな激動の中で出されたのが「五箇条の御誓文」である。

これは天皇が神仏に誓う、という形で行われたものである。まさに、国としての規範を示すものであり、同時に明治政府の方針であった。文を見ても今に通じるものである。特に第一条の「万機公論に決すべし」などは、聖徳太子の十七条憲法の「和をもって貴しとすべし」にも通じる。日本の伝統を意識したまさに憲法と言えるものである。

五箇条の御誓文
五箇条の御誓文

(2) 明治維新の「3大改革」

明治政府が行った政策の中で、非常に大きいものが「版籍奉還(明治2年:1869年)」「廃藩置県(明治4年:1871年)」「地租改正(明治6年:1873年)」である。革命的な体制変更であったと言える。版籍奉還はんせきほうかん」は領地・領民を天皇に戻す、ということであり、その後に行われた廃藩置県はいはんちけんは「藩」の単位をやめて「県」とした。これにより地方が、「藩主が直轄する半独立体制」から、「明治政府が管理の権利を持ち、その委託を受けた知事が統治する」という形となった。
また、地租改正ちそかいせいは大化の改新の律令時代からの大改革である。それまで「年貢」として米を税金として物納していたが、これを「貨幣」に変えた。地租改正の目的は、①税金の仕組みを変えることで安定財源を確保する、②全国統一の仕組みを作る、という2点にあったと言える。①は米での物納だと米の物価の変動を政府が受けることになるため、税金を「米」から「貨幣」に変えることで解決させた。しかしこれは、価格変動リスクを民衆に移したことに他ならない。また、②の全国統一の仕組みを作る、という点だが、これは江戸幕府が国内すべてを取り仕切れていなかったことを示す。

(3) 明治6年の政変の背景と結果

こうした大改革が行われる中、大きな動きがある。「岩倉使節団」である。明治4年(1871年)の12月23日から、明治6年(1873年)の9月13日までの実に3年弱もの間、政府の名だたる首脳が日本を離れ、アメリカ・ヨーロッパ各国を視察したものである。主なメンバーは、岩倉具視を団長に、大久保利通木戸孝允伊藤博文という面々である。このような時期に、しかも政府の名実ともにトップといえるメンバーが長期にわたり国を空けて外国を視察するなどと言うのは、当時でも異例であった。一番の目的は、「不平等条約の改正」である。

岩倉使節団
岩倉使節団

しかし、この視察団は一番の目的であった不平等条約の改正に失敗しており、また、木戸と大久保の不仲で苦労も多く、当時から批判があった。更に、この使節団の派遣により決定的な問題を生じさせたのが、「留守政府」との対立である。

岩倉使節団と留守政府
岩倉使節団と留守政府

「留守政府」とは、当時のトップ3とも言える岩倉・大久保・木戸が抜けた中でその留守をあずかっていた政府を指す。人事は絶対に動かさない、などの制約をした上で三条実美をトップとして組織されたが、実質は西郷隆盛の政府と言っていい。

「留守政府」という名がつくが、数々の改革を実施し後の日本を支える重要な基礎を作った、「実力派」の政府であった。そこへ、岩倉使節団が帰ってきた(明治6年:1873年)。人事を動かさない、という約束も破り、どんどん政策を進めた「留守政府」に対し岩倉使節団は対立したが、根本的には、この重要な時期に3年近く日本の舵取りをしてきた「留守政府」側と、西欧を見てその実力を肌で感じてきた岩倉使節団との間に、大きな認識の隔たりがあったことが重要であろう。そして、直接的な対立となるのが、現在に「征韓論」と間違って言われているが、西郷隆盛を特使として韓国に派遣することの問題である遣韓けんかん論」であった。

西郷隆盛
西郷隆盛

西郷隆盛の征韓論ほど、間違って認識されているものはない。一般的には「西郷隆盛が士族の不平をそらすために、武力を持って朝鮮に国交樹立を迫る」とされている。しかし、歴史の事実として、西郷隆盛が朝鮮を攻めるなどと言った証拠はどこにもない。軍事のプロであり大政治家たる西郷ほどの人は、出来たばかりの明治政府が戦争など出来るわけがないことを知っていた。だからこそ、自分が行って腹を割って話をつけてくる、といったのである。
ただ、この当時ですら「西郷が朝鮮を攻めようと考えている」と広まるほど、事態は深刻であった。当時から朝鮮半島との関係は重大な政治課題になっていた。列強、特にロシアに対するため朝鮮との関係が大事であると認識されていた。しかし使節を送ってもことごとく、当時の李氏朝鮮が無礼な対応をしていたため、政府内は「朝鮮討つべし」という議論が高まっていた。
そして太政大臣の三条実美が認めたことで、正式に西郷の派遣は決まっていた。そこへ、帰ってきた岩倉使節団が反対してきたのである。理由はそれぞれあるが、結果的にはそれを「西郷が朝鮮を攻めたがっている」という話にすり替えた上で、西郷派遣を取りやめさせた。

明治六年の政変
明治六年の政変

この、「西郷派遣」を巡って、岩倉使節団と旧留守政府側とが激しく対立した。西郷隆盛は盟友であった大久保利通とも、ここで大きく離れていってしまった。なお、大久保は西郷が朝鮮を攻めるから、などという理由で反対したのではない。たとえ西郷でも李氏朝鮮が開国をするとは思えず、そうなると西郷が殺されかねない。結果、戦争となる訳にはいかない、という考えであった。
この「西郷派遣」を覆したのは木戸孝允や伊藤博文、そして大久保利通の政治的画策によるものであるが、かなりギリギリの闘争であった。そして、「西郷派遣」が否定された翌日の明治6年(1873年)の10月24日、「西郷派遣」に賛成する西郷、板垣、後藤、江藤、副島の5名が辞表を提出。翌日に受理された。これが「明治六年の政変」である。

この明治6年の政変は結果的には、西郷隆盛を明治政府から失脚させ最後には西南戦争にまで至り西郷は「逆賊」として死を迎える。ただし後に、西郷を信奉していた明治天皇の命により、西郷の「逆賊」は取り下げられる。

しかし、実際の影響はこれにとどまらない。ロシアの脅威と朝鮮半島をめぐる情勢は顕在化していき、日本をずるずると世界の戦争の渦へと巻き込んでいくことになる。

(4) 維新三傑の死と次の世代

伊藤博文
伊藤博文公

明治6年の政変により西郷失脚後の政府も精力的に近代化を進める政策を推進していった。そんな中で、維新政府を協力に引っ張て来た後に「維新三傑」といわれる西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人が明治10,11年(1876,77年)に立て続けに死んでいった。西郷は自殺にも近い決起の西南戦争により自刃、大久保は反乱分子による暗殺、木戸は病気により、それぞれ亡くなっていった。

維新三傑がいなくなっても、列強の脅威や国際情勢は待ってくれない。列強からの植民地支配に対抗するには、とにかく近代化が必要であり、そのためには、不平等条約の撤廃、が不可欠だった。そしてその前提となるのが、近代国家のあかしとしての「憲法」の成立である

伊藤博文を中心とした「維新志士」たちの次の大きな課題は、とにかく憲法の成立であった。

3.憲法の生みの苦しみで形成されていく政党と議会

明治時代の動き
明治時代の動き

(1) 自由民権運動とは

ここで教科書的に話を進めると、「自由民権運動」の名前を挙げる必要がある。自由民権運動は、その目的として「憲法成立・議会の開設・不平等条約の撤廃」などがあり、政府すなわち、薩摩長州を中心とした藩閥政治を突き上げていた。

明治13年 44歳の板垣退助
明治13年 44歳の板垣退助

その中心人物としていつも言われるのが土佐藩の板垣退助である。板垣はもともと明治6年の政変により西郷とともに下野しており、政治参加への機会を欲していた。また、このころの明治政府は薩長を中心とした藩閥で動いており、そこから外れている不平士族、そして農民も含めた不満があった。
その時代の要請にはまったのが、この運動といえる。板垣は各地で集会をし演説を行って、運動を広めた。教科書的に言えば、「国民の自由と権利を求めた運動」といわれる。

しかし実際にはそこまで評価されるべき運動とは言えないようである。そもそもの目標の「憲法の成立・議会の開設」など、明治政府がもともと進んでいた方向である。一方で、減税と対外強硬姿勢を主張するなど、威勢のいい話が多いがその方法論が全くなく、政府を批判するばかりの、まさに万年野党のごとき主張であった。とにかく「自由民権」と言っては集会などで騒いでいた、というのが実情のようである。

もちろん、初めて国民レベルでの運動があったという面では評価されるべきものであろうが、活動が過激になり暴挙と化すこともあって運動は減衰していった。結果的には帝国憲法成立後の議会が成立する明治24年(1890年)には運動は終息している。

(2) 「明治14年の政変」とその背景

この頃、大きな政変があった。それまで政権についていた備前の大隈重信を、長州の伊藤博文・井上馨(かおる)が電撃的に辞任に追い込み、それを機会に「天皇の詔(みことのり)」という形で、「10年後の」国会開設を宣言した。それが「明治14年の政変」である。

明治14年の政変
明治14年の政変

この背景はいくつかあるが、その最も大きなものとして憲法をめぐる議論があった。ドイツの憲法の形を主張する伊藤博文と、イギリスに倣うべきだとする大隈重信との対立が根幹あった。そこに先の自由民権運動が加わり、大隈の不正に対する怒りにより、このような政変に至ったのである。

この「10年後」というのが重要だった。大隈はその後、10年後の国会開設に向けて「立憲改進党」を作り、一方の伊藤博文はこののちドイツに留学し憲法を自ら学習しに行くこととなる。後の議会・憲法を考えるうえで、非常に大きなインパクトのある政変であったといえる。

4.大日本帝国憲法の成立

明治時代の動き
明治時代の動き

(1) 伊藤博文の情熱

このように憲法をめぐる議論は、単に法律を作るというものではなく、国の在り方としての規定を考えるうえで非常に重要であり、それを原因に政変が起こるほどに、議論が活発に行われていた。

そんな中で、明治天皇の勅命により、最高権力者の一人伊藤博文がヨーロッパに留学し憲法を学ぶことが命じられる。伊藤は英語・ドイツ語に堪能であり、その能力が認められての人選といわれる。政府代表として明治15年(1882年)から1年かけてドイツ(プロイセン)にて憲法の勉強をしている。

その際、伊藤は「日本が憲法を持つなどできない」といった、散々な扱いも受けながら、憲法学者を訪ねて勉学に励んでいる。ここまでの権力者になっても基本を学ぼうとする姿勢にはただただ感銘を受ける。
しかし、伊藤博文はドイツでドイツ憲法の条文をひたすら学ぶ憲法学に疑問を感じていた。

(2) シュタイン博士の教え

シュタインとグナイスト
シュタインとグナイスト

この際に大きく影響を受けたのが、ドイツの法学者ルドルフ・フォン・グナイストとローレンツ・フォン・シュタインである。

特にシュタイン博士との出会いは強烈であったようである。有名な逸話で、憲法について聞いたところ、

「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」

と言われ、伊藤博文は徹底的に日本の歴史を振り返っている。古事記・日本書紀はもちろん、万葉集や他の文献も徹底的に研究した。憲法を条文だけでとらえるのではなく、その考え方そのものを理解しようとしたのである。

国の構造の図示
国の構造の図示

上記の絵は、当時の伊藤の留学団が書いた、国の在り方である。土台に人民がいて政府とはどういうものか、といったことが図示され、非常に印象的だったためにこれがドイツに残っている。それほどに、真剣に憲法の作成に取り組んだ。

(3) もう一人の憲法作成のキーマン井上毅(こわし)

井上毅
井上毅

また、大日本帝国憲法の作成において井上毅(いのうえこわし)に触れないわけにはいかない。官僚中の官僚とも評価される井上毅は、伊藤博文の命により大日本帝国憲法を実質的に作成した中心人物である。古事記・日本書紀はもちろん万葉集などの研究も進め、大日本帝国憲法作成をしている。憲法作成に心血を注ぎ、伊藤と意見が違っても厳しい主張をしながら、日本の近代化のためと努力を惜しまなかった。

文字通り秀才で、伊藤の懐刀のような存在であった。教育勅語もこの人が起草したものである。最終的には伊藤と意見が合わなかったようだが、まさに国士と呼べる人である。憲法作成に心血を注いだ後、憲法発布の5年後の明治28年(1895年)に亡くなる。

(4) 大日本帝国憲法の評価

このように作成された「大日本帝国憲法」は明治22年(1889年)に発布され、翌年から施行となった。当時の日本国内でも評価は高く、先の自由民権運動で政府批判をしていた面々も認めざるを得ないほどの内容だった。

大日本帝国憲法発布
大日本帝国憲法発布

また、海外からは特に衆議院の予算承認権について強すぎるため、ここまで民主的なもので大丈夫か、といった指摘があったほど先進的であった。第二次大戦後ひどい言われ方をする大日本帝国憲法(明治憲法)だが、内容は決して他の国に劣るものではなかったどころか、かなり先進的なものであった。

そして、これを作った伊藤博文を中心とした明治の元勲たちは、これがあくまでスタートであることをよく理解していた。これを守り抜きながら近代国家としての道を歩むことを固く決意していた。実際に、日清・日露戦争などの時に議会との衝突で内閣は何度も倒れ、危機は十分にあった。しかし、しっかり守り抜いたのである。

5.日本の近代化と憲法成立による国際的地位の変化と支那・朝鮮との関係の変化

明治時代の動き
明治時代の動き

このように、苦労に苦労を重ねて「大日本帝国憲法」ができた。アジアで初であり、近代国家としての道を歩んでいく日本の覚悟の象徴としての難産であった。

また明治の発足から「近代国家」として歩むとして、大きな課題として取り組んでいたのが「国境画策」である。もともとアジアでは国境という概念がなかったが、国境を設定しないと国防の範囲もはっきりしないために、すでの明治初期から日清修好条規日朝修好条規(明治6、9年)の締結、台湾出兵(明治7年:1874年)などを行っていた。

福沢諭吉 脱亜論
福沢諭吉 脱亜論

その中で、地政学的に重要な朝鮮半島をめぐり、朝鮮の王朝とその宗主国である清との間の「いざこざ」は起こっていた。江華島(こうかとう)事件(明治8年,1875年)は教科書でも学ぶが、その後の壬午(じんご)事変甲申(こうしん)事変など、朝鮮での混乱の種に日本も関わり始めていた。福沢諭吉「脱亜論」が出たのも、この頃である。明治18年(1885年)の社説に出たこの論調は福沢諭吉のものといわれるが、そこで朝鮮や清(支那)との関りをもつことの無意味さを説いた。
なお、福沢諭吉が言った「亜」とは朝鮮半島と支那大陸の国々だけである。決して漠然とした排外主義ではなく、朝鮮と支那に対する考えをまとめたものである。また、「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」と言ったといわれるが、ヨーロッパに加わるという「入欧(にゅうおう)」は言ったという記録はない。

そうした情勢の中で「いざこざ」というレベルではなく、戦争の火種として育ち顕在化するのに、時間はかからなかった。また、欧米列強が進出してくるのも、どんどん進んでいった。それが明治の後半である。

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コメント

    • ゆうじ
    • 2019年 1月 14日

    読み応え+解かりやすいですねー、相変わらず。感心します。所々に古事記・十七条憲法など、てつさんの想いが顔を覗かせているところも面白いです。

      • てつ
      • 2019年 1月 15日

      ありがとうございます。そういってもらえると嬉しいです。

      ただ、どうしても長くなってしまいますねぇ。
      次回以降もどんどん行くので。飽きずに見てやって下さい。

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