日清戦争の全容に迫る!【2】日清戦争の原因①2つの条約

江華島事件(Wikipediaより)

日清戦争の原因①:2つの条約とその背景を探る

日清戦争のシリーズの第2弾である。「日清戦争はなぜ起こったのか?」について取り上げる。これについては一般の教育・マスメディアでは全く教えられない。支那(中国共産党)・朝鮮に都合が悪いためと思われる。その原因は二つのフェーズがある。今回はその前段である「日清修好条規」・「日朝修好条規」とその頃の状況についてまとめた。是非ご覧を。

1.日清戦争に至る流れ

日清戦争はなぜ起こったのか?あるいは、日清戦争とはどのような戦争だったのか?、それは不自然なほど我々は教えられていない。

この戦争の原因を追及すると、それは「日本の領土拡張」などという単純な理由ではないと断言できる。結論から言えば「関与する内に巻き込まれていった」といったのが真実と思う。それは大東亜戦争も同じだが・・・。
清国が倒れつつあった支那大陸とその属国である朝鮮半島という一地方が、日本を目指そうとしつつも日本を敵視していった結果が日清戦争である。
引いては、日清戦争が後の日露戦争・韓国併合をもたらし、最終的には大東亜戦争を含む「第二次世界大戦」への道となったと言って過言ではない。

日清戦争は戦争に至るまでにどのような過程を経たか、全体を見てみたい。

韓国との問題に着目した明治年表
韓国との問題に着目した明治年表

年表は少し細かいのでわかりにくいかも知れない。日清戦争の原因は大きく二つのフェーズがあった。

【1】 初の対等な国際条約を清国と朝鮮と結んだ(「日清修好条規」(明治4年:1871年)とその5年後に締結された「日朝修好条規」 (明治9年:1876年))。そしてそれにより両者との外交がスタートした
【2】 朝鮮半島が定まらず、朝鮮半島の動乱を朝鮮半島自身で抑えきれなくなった。大きな3つの事件(「壬午事変(じんごじへん)」(明治15年:1882) 、「甲申事変(こうしんじへん)」(明治17年:1884)、「東学党の乱」(明治27年:1894))が起こり、朝鮮半島は独力では対処できず大国(清国・日本)に頼る事になった。

この2つのフェーズを経て、日清戦争が起こった。朝鮮半島を舞台にして、まだ必死で近代国家を建設中の日本と、大国ではあるが落ちぶれていく一方の清王朝が戦ったのが、日清戦争である。

日清戦争までの経緯
日清戦争までの経緯

この戦争に日本に侵略の意図があったという論調が多いが、まったくのデタラメか意図的な誤った認識である。確かに「侵略」とは言わないまでもそれに近い論調があったことは否定できない。しかし、大多数はむしろ戦争に慎重であった。そもそも日本にはまともな軍隊すら無かった。日本国内ですらまともに制度が出来ていない状態で、他国を統治するなどとは、当時でも普通の知識層ではまったく不可能であることは明白であった。
それでも戦争せざるを得ないところまで、ある意味「追い詰められた」のである。

今回の記事は、その原因の前段である「日清修好条規」・「日朝修好条規」の締結について、詳しく見ていく。

2.日本が急いだ「国境確定」の中の「日清修好条規」

(1) 「国境確定」を急ぐ日本と周辺諸国との関係

日清戦争を考える上で、というより、まず明治の変革を見る上で絶対に理解しないといけないのが「国境確定」である。すなわち、国としての「国境」を明確に定めることである。明治政府は設立から真っ先にこれに着手している。

もともと日本を含むアジア諸国にとって「国境」という概念は明確でなかった。特に「空白地」と言われる場所は現地人のものであり「国」である必要がない、といった考えであった。しかし欧米に対峙するうえで、その考えは通用しない。国境を明確にしないとすぐにあの手この手を使って侵略される。そのため、ものすごい勢いで国境画定を急いだ。

急いで行われる「国境画定」交渉① 清国との対等条約としての「日清修好条規」(明治4年:1871年)
② 「宮古島虐殺事件」を利用した「台湾出兵」(明治7年:1874年)
③ ロシアとの国境交渉「千島・樺太交換条約」(明治8年:1875年)
④ アメリカ・イギリスと調整し「小笠原諸島領有宣言」(明治9年:1976年)
⑤ 江華島事件に伴って朝鮮の開国を迫った「日朝修好条規」(明治9年:1976年)
明治初期の「国境確定」
明治初期の「国境確定」

年号を見てもらえれば、如何に明治政府が国境を定めることに腐心していたことがわかる。台湾出兵や江華島事件など、かなり強引な手法も含めてだが、とにかく近代国家設立のため、非常にタフな交渉を実施してきた。

ここで特筆すべきは、今の日本を形作る沖縄・小笠原諸島・樺太千島の領有などを確定したのはこの時期ということである。それは「日本の領土を大きくし帝国主義になる」などという発想ではまったくない。そんな国力も無い。それは、その時の日本の状況とその後の議論の動きを見れば明白である。日本はあくまで、「自衛のために」欧米植民値主義からの脱却を図っていたのである。

(2) 双方の納得の下結ばれた「日清修好条規」

ではその、「国境画定」の中で結ばれた清国との「日清修好条規」とは何か。
この「日清修好条規」は明治4年(1871)という非常に早い段階で結ばれている。そして、これについてあまり歴史の教科書は語らないため、あまり印象がない。
しかし、この条約は当時の日本にとっても、また清国(支那)にとっても国と国との初の対等条約であり、大変重要なものだった。また、それ以後の日本・支那大陸・朝鮮半島との関係を見ていく上で、この条約が果たした役割は良くも悪くも絶大だった。

ここでは特に、その時期について述べたい。
日清修好条規が結ばれたのは、まだ明治4年(1871年)で、明治が始まったばかりの頃である。しかもこの年は、明治維新の3大改革の一つ「廃藩置県」を行った年であり、更に大久保利通や木戸孝允などの政府の中枢が欧米を視察する「岩倉使節団」が日本を出発する年でもあった。それほどの年であっても、急いで結ぶ必要があったのである。アヘン戦争等でほとんど死に体ではあるが、隣の大国「清国」との関係は日本にとって決定的に重要だったのである。

李鴻章
李鴻章

そしてそれは、清国にとっても同様であった。清国の全権は西太后(せいたいごう)から任せられていた李鴻章(りこうしょう)である。一方の日本側は大蔵卿の伊達宗城(だてむねなり)と外務大丞の柳原前光(やなぎはらさきみつ)などが、交渉にあたった。すぐにはまとまらなかったが、お互いにメリットがあるとして結ばれたため、これだけ早くに締結できた。
内容については後で詳しく見ていくが、このスピーディーな締結がいかに「条約」の内容が対等であり、双方が合意しやすかったかが分かる。清国側の李鴻章もこの条約を利用して日本と共に列強に当たることを考えた。ただし、一方で、日本が列強と結んで清国を潰すことも警戒していた。それが、朝鮮半島を巡る問題となる。

柳原前光(さきみつ)
柳原前光(やなぎはらさきみつ)

ここで柳原前光(やなぎはらさきみつ)について触れておきたい。

柳原前光はこの後の「台湾出兵」の年にも、清国との交渉をうまく運び日本の国益になるよう進めている。また、後の「皇室典範(こうしつてんぱん)」を作成するに当たって、女系の皇位継承を排除する仕組みを明文化した人である。更には、妹の愛子(なるこ)氏は明治天皇に仕え、後の大正天皇の生母になっている。すなわち柳原前光は、大正天皇の叔父にあたる。

公家の一人として期待された逸材であったが、明治27年(1894)に45歳の若さで亡くなった。日本を作った国士の一人でありその後のことを考えると、もっと長く生きていてほしかった人物の一人である。

日清修好条規の内容等には次の【3.初めての対等条約である「日清修好条規」】で述べる。

(3) 勢力争いを続ける朝鮮半島~閔妃(びんひ)によるクーデータ~

ではその頃の朝鮮半島はどうだったかというと、「李氏朝鮮」と言われる「李氏」が一応の支配層として存在していた。しかし、軍隊と呼べる物はなく列強に対峙するなどまったく考えられる地域ではなかった。「国」と考えると間違える。朝鮮半島という地域が、当時の清国であったり支那の王朝に対する属国として存在していた。その代表が「李氏」であった。

日清戦争時の李氏朝鮮
日清戦争時の李氏朝鮮

その「李氏朝鮮」の支配者である「大院君(だいいんくん)」は徹底した鎖国主義者で、どんなに列強が来てもただただ「鎖国」を叫んでいた。また、その子「高宗(こうそう)」がいるのに院政を引き続けていた。
それに対したのが、高宗の妻閔妃(びんひ)である。閔妃は最初は良い妻を演じていたようだがかなりの野心家であり政治家であった。高宗に能力が無かったのもあり、次第に政治・権力を握りる事となっていった。自分の一族や息のかかった人達が重用され、どんどん閔妃の体制を形成していった。その閔妃が、ついに大院君の政治を追放するクーデターを起こしたのが明治6年(1873)である。一応閔妃は「開国派」と知られていたため、日本にとってもこ、これで朝鮮半島の近代化が進み一緒に戦える、と期待した。その期待はすぐに裏切られることになるが・・・。

3.初めての「対等条約」である日清修好条規

(1) 日清修好条規の内容

日清修好条規は、近代日本にとって初めての対外対等条約であった。これを特に隣国で最もやっかいな清国と結べたことは、歴史上も非常に重要であった。しかし後に、逆にこれがあったためにことごとく清国が裏切ることにより軋轢(あつれき)が生まれるとは、歴史の皮肉であった。

内容は以下の通り。

日清修好条規(抜粋 Wikipediaより)・両国は互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1条)
・外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条)
・両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには漢文を添える(第6条)
・制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条)
・両国の開港場では刀剣の携帯を禁じる(第11条)
・通商関係については欧米列強に準ずる待遇(最恵国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う

このとおり、完全な対等条約であった。少し特徴的な条約(最後の欧米に関する条約)があるが、基本的には双方納得できる画期的な内容であった。しかしこの後に、特に第1条について双方の見解が相違し、すぐに火種となっていく。

(2) 日清修好条規の意義

このように日清修好条規は、近代日本として最初の国と国との条約としては、難産の末ではあるが、双方が納得する平等条約として生まれた。
しかし、この後結ばれる「日朝修好条規」は「不平等条約」と言われ、またその締結までにこの後5年も有している。これが、朝鮮半島の「やっかいさ」あるいは複雑さを表している。

もともと、日清修好条規は日本が清国と対等に交渉した結果得た画期的な内容であった。清国にとってもメリットがある。しかしこのアジアで考えた場合、清(支那)がトップという「華夷思想(かいしそう)」は支那のみならず、特に朝鮮半島で今もなお根強くある。
だからこそ、日本は先に「宗主国」である清国との交渉を進め、その後にその属国である「李氏朝鮮」との交渉を始めようとしていた。そしてその意味は、宗主国と「日清修好条規」を結んだ以上、「華夷思想」に染まるその属国に対して同じ条約を結ぶことは、「親と同じ立場になる」ということで、清国を刺激することになるのである。
すなわち、清国と結んだ「日清修好条規」は朝鮮と条約を結ぶ際の基準となる性質を持っていたのである。当然、朝鮮に対しての権益は下にしないといけない事になるのである。

4.台湾出兵と、高まる 清国 との緊張

このような背景で結ばれた「日清修好条規」(明治4年:1871)であった。その年は、対外的な動きも激しかったが、日本国内の動きもめまぐるしかった。「廃藩置県」が行われ、「岩倉使節団」も同じ年に日本を出て行っている。そして、西郷隆盛が実質を握るいわゆる「留守政府」となっていたが、帰国した岩倉使節団と対立し、ついには「明治6年の政変」(1873)で西郷隆盛は、盟友大久保利通・木戸孝允と袂を分かち、結果的にはその後の西南戦争(明治10年:1877)にて西郷は非業の死を遂げる。そしてその直接の原因は、朝鮮半島を巡る対応の主張である「征韓論」であった。

台湾と日本
台湾と日本

そんな激動の中にあっても、国境画定のための外交政策は行われていた。その当時の大事件は「台湾出兵」である。台湾出兵は、結果から言えば当時の琉球(沖縄)の人に対して台湾人により行われた殺人事件に対して、日本が軍を台湾に派遣して制圧したものである。ただし、その後日本軍は引き上げている。
結果だけ言うと簡単に聞こえるが、これに対しては日本政府でも
大きな議論となった。まず、原因となった「宮古島島民遭難事件」(明治4年:1871)を見てみたい。

宮古島島民遭難事件(Wikipediaより)日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件

この事件に対して、日本政府も慎重に進めようとして清政府に問い合わせた。結果、清国は「台湾人は化外(けがい)の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」と回答したため、日本軍が動くこととした。これに対しては、国内政治を優先すべきとする木戸孝允などの長州勢は反対し下野したほどである。日本国内でもその扱いに苦慮し、それほどの論争を経て行われた。

結果として下記のことが、清国と約束された。

・清国は日本の出兵を義挙(正義の出兵)と認める
・日本は1874年の12月20日までに台湾から引き上げる
・賠償金は支払わないが、見舞金を支払う

ここで「賠償金」としなかったことが、清国の面子を重んじたことになる。
日本兵は台湾のマラリアに相当苦しめられるが、大きな成果を得た上ですべて撤退した。
この事件は日本の琉球の帰属問題でも大きく有利に働いた要因にもなった。そして、この事件は、清国の李鴻章(りこうしょう)にとっては日本との領土争いとなる側面を強く意識させる大きなきっかけとなったのと言える。

5.征韓論と江華島事件

(1) 日本で吹き荒れる「征韓論」

清国との火種は残っていたが、とにかく清とは明治4年に「日清修好条規」を結び、外交がスタートした。日本の地政学上、次に重要なのは朝鮮である。

しかし、朝鮮に関してはとにかく日本側も議論が沸騰していた。西郷隆盛・大久保利通という盟友が、「征韓論」と呼ばれる議論により仲違いをしてしまうほどに、朝鮮半島を巡る外交は日本の政治・外交上の大きな課題となっていた。
なぜそこまでややこしいこととなったのか。日本側から言えば完全に原因は朝鮮にある。華夷思想(かいしそう)」という清国(支那)崇拝の文化の朝鮮半島は、日本が「天皇陛下」をいただくだけで許せない。また、近い方にいる自分たちが上だという態度であった。そして明治政府は、天皇陛下中心の国家をスローガンに富国強兵を進めていたわけで、そこに当然理解の隔たりがどうしようみなく存在していた。また、朝鮮はほとんど「国」と呼べるほどの物ではなく、あくまで支那(当時は清国)大陸の一地方程度であったと考えるのが正しい。にもかかわらず、日本を見下していたのだからうまくいくはずもなかった。
明治政府樹立に伴い送った使節はことごとく無礼な扱いを受け、日本側の韓国(朝鮮半島)に対する感情は最悪のところまで来ていた。

とはいえ、日本としてはどうしても朝鮮半島を伝ってくるロシアが脅威であった。またロシアだけでなく、今や清国への支配を進める、イギリス・ドイツ、そして列強の仲間入りを狙うアメリカに対しても大きな脅威を抱いていて、日本という国の維持としてどうしても朝鮮半島を安定化させることが大切と見ていた。

西郷隆盛
西郷隆盛

そこで出てきたのが、「征韓論」と呼ばれる論争である。これは西郷隆盛が「朝鮮半島を戦争でねじ伏せる」といったという、あまりに間違った認識で語られることが多い。当時でもそのように誤解あるいは世論操作されていたようである。
しかし、西郷隆盛ほどの人間が戦争を行うこと、そして他の国を「統治」することがどれだけ大変なことか分からないはずはなかった。

西郷隆盛の征韓論ほど、間違って認識されているものはない。一般的には「西郷隆盛が士族の不平をそらすために、武力を持って朝鮮に国交樹立を迫る」とされている。しかし、歴史の事実として、西郷隆盛が朝鮮を攻めるなどと言った証拠はどこにもない。軍事のプロであり大政治家たる西郷ほどの人は、出来たばかりの明治政府が戦争など出来るわけがないことを知っていた。だからこそ、自分が行って腹を割って話をつけてくる、といったのである。
ただ、この当時ですら「西郷が朝鮮を攻めようと考えている」と広まるほど、事態は深刻であった。当時から朝鮮半島との関係は重大な政治課題になっていた。列強、特にロシアに対するため朝鮮との関係が大事であると認識されていた。しかし使節を送ってもことごとく、当時の李氏朝鮮が無礼な対応をしていたため、政府内は「朝鮮討つべし」という議論が高まっていた。

明治六年の政変
明治六年の政変

そしてその結果、西郷派と海外から帰ってきた大久保利通・木戸孝允を中心とした「岩倉使節団」派とが争い、西郷派が敗れたのが「明治6年の政変(1873)」である。「征韓論政変」とすら呼ばれる。それほどに、対外政策、とりわけ朝鮮半島に対する政策は、日本の議論を二分する大きな課題であった。

(2) 日本が仕掛けた「江華島(こうかとう)事件」

そのような状況の下で起こったのが、「江華島(こうかとう)事件」である。明治8年(1875)に起こったこの事件は、日本の挑発で行われたと言われる。更に言えば、「これが韓国併合のための日本の策略」「朝鮮半島の植民地支配のきっかけ」などと言われる。マスメディアや教育界など、韓国にやたら加担する勢力から格好の批判の的となっている事件である。

結論を言えば、「日本の挑発」の側面は否定できない一方で、あくまで一部の動きであり、当時の常識の範囲での行動で自衛のために行った行為であった。あくまで、日本は当時の常識で言えばかなり紳士的に行動し、朝鮮にアプローチした結果が「江華島事件」である。

江華島の位置
江華島の位置

この江華島事件は、韓国に配慮する反日の左翼勢力から徹底的に利用されている事件である。これが「日本侵略」のスタートである、としているのである。本当にそうなのか?まず、事件の概要を記述したい。

江華島事件(Wikipediaより)
江華島事件(Wikipediaより)
江華島事件

朝鮮王朝の首都漢城(ソウル)に近い江華島沖合で、日本の軍艦が無断で測量をおこない、さらに飲料水補給を理由に上陸をはかったため、朝鮮側の砲撃をうけて交戦した事件。このとき交戦したのが日本の「雲揚号(うんようごう)」であるため、「雲揚号事件(うんようごうじけん)」とも呼ばれる。結果としてその一年後に結ばれた「日朝修好条規」の成立のきっかけとなった事件である。これにより「李氏朝鮮」の朝鮮半島は、長年の政策であった「鎖国」から脱却し、開国となった。

この事件はよく、「日本が計画的に測量によって朝鮮を挑発した事件」といわれるが、「計画的」に行われたとされる証拠はどこにも出ていない。「計画的」とする説はあくまで憶測によるものであり、また、日本が本気で軍事的に朝鮮を制圧するのであればこのような事件を起こす訳ではないため、日本の計画的な行動という説には否定的な意見も多い。

このように起こった江華島事件であるが、これが引き金となって、鎖国を続けていた朝鮮半島において、開国勢力が勢いづくことになった。また、挑発に乗ったとは言え、先に攻撃をした朝鮮側は日本に対して不利な立場となった。

その結果、日清修好条規以来、朝鮮半島に開国を迫っていた日本として、ついに「日朝修好条規明治9年:1876)」が結ばれ、朝鮮半島の開国が成る。江華島事件は、日本と朝鮮半島との条約を結ぶ導火線となったのである。

6.「不平等条約」とレッテルを貼られる「日朝修好条規」 の真実

こうした背景を経て、ようやく日本と朝鮮半島とが条約を結ぶことになった。それが「日朝修好条規(明治9年:1876)」である。

これが「不平等条約」と言われているものであり、日本が侵略を主眼として結んだ条約、といわれているものである。しかし、それは一面を捉えただけの議論で、全く正しくない。むしろ、完全にねじ曲げられて理解されているものである。
結論から言えば、不平等条約というレッテルも当てはまる部分はあるが、朝鮮を独立国して扱った画期的な条約であった。少なくとも、日本としてもそれを足がかりにして侵略するなどという性質の物ではなかった。

日朝修好条規は「第12款(かん)」すなわち12条から成る。要点は以下の5点と言える。

日朝修好条規の要点① 朝鮮を独立国として認め、清(支那大陸)との宗主国関係にないことを宣言した。
② 互いの国に駐在員をおくこと。
③ 釜山(ぷさん)・仁川(じんせん)・元山(げんさん)の3つの港を開港
④ 開港場における日本の領事裁判権を認める。
⑤ 朝鮮において関税を無税とする。

このようにみて不平等条約と読む方が難しいように思う。もちろん、読み方によっては「不平等条約」とも読めなくもないかも知れない。かなり強引と思うが・・・。
特に語られないのが①の「朝鮮を独立国として認める」点である。それまで支那の属国として実質的に国として認められていなかった朝鮮半島を「国」として認めた画期的な条約であった。国として「見られていなかった」、といった方が正確なくらい貧乏であり、衛生状態もひどいものだった。後の日本統治前の朝鮮半島の平均寿命は20歳代であったと言われる。

そんな状態の朝鮮を「独立国」として初めて認めたのが日本であり、「日朝修好条規」なのである。それは、条約の一番最初の第一款(第一条)にある。第一条を原文で見てみたい。

第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める

これを見ても、「不平等条約」が目的と言う人の気が知れない。日本は真剣に独立国として自立した朝鮮半島と共に欧米にあたろうとしたのである。何度も言うが、日本にはそこを支配するほどの余裕はまったくなかった。

なお、ここで「不平等条約」と呼ぶのは、明らかに間違いである。例えば「関税の撤廃」は「日本と朝鮮の双方が関税をかけない」という条例であり、決して朝鮮だけに無理を言ったものではない。悪名高い「裁判権の承認」にしても、当時の常識として「現地(朝鮮)で犯罪を犯した日本人は日本で裁く」という慣習を、明文化しただけだった。

それでも、日本の策略説が常に言われている。すなわち「清国と決別させれば清国と戦争することなく朝鮮を支配できる」としたというのである。
しかし、それは結論ありきの全く曲がった見方といわざるを得ない。確かに日本は結果的に「韓国併合」で韓国を自国に編入することになる。しかし、そこに至るには伊藤博文のテロリストによる暗殺などもあり、そもそも「韓国併合」は日本国内での反対が根強かった政策である。しかもそれは明治44年であり、日朝修好条規が結ばれた明治9年から30年以上も後の話である。
それを強引に結びつけたとしか言い様のない議論にしか見えない。

日本は、清国にしても朝鮮にしても、とにかく国力をつけて欧米に対峙しようとした。第一条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」とした上での条約を見て、「不平等条約」というのは、全くの間違いあるいはねつ造であると断言できる。

7.日清修好条規・日朝修好条規の流れから見えること

このように、隣国との関係を結んで国力を蓄えようとした日本は、清とは「日清修好条規」を、朝鮮とは独立国と改めて認めた上でその4年後に「日朝修好条規」を結んだ。これは、日本が進めていた「国境画定」の中で隣国と関係を結ぶ当然のものであった。

少なくとも、この時点で侵略の意図があっただとは、まったくの嘘としかいいようがない。日本が急いで進めた政策の中で結んだ、初めての対等条約とその属国と結ぶ上で細心の注意を払った条約であった。
ところが、日本の意図がそうであっても、隣国はあろうことかことごとくそれを破っていく。その原因を作ったのは、他ならぬ朝鮮半島であった。それが日清戦争の原因の後段にあたる「朝鮮半島での3つの事変」である。それが直接の引き金となって、日清戦争となっていくのである。

 

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