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日清戦争の全容に迫る!【4】日清戦争前夜の日本の情勢

自由民権運動

日清戦争前夜の日本の国内情勢及び海外情勢を見る

日清戦争のシリーズの第4弾である。
日清戦争に至る頃の日本の政治状況と世界列強に対する外交努力をまとめた。シリーズの前回までの記述で、いかに朝鮮半島が不安定であり、更に清国がそれに介入を続けていたかがわかる。日本はこうした情勢にいらだちと対応をせざるを得ないところまで来てしまった。その頃の日本の状況を記述した。是非ご覧を。

1.清と朝鮮との2つの条約と、その後の3つの朝鮮動乱

日清戦争に至るまでの過程として、重要なのが「2つの条約」と「3つの朝鮮動乱」があった。
2つの条約」とは、明治4年(1871)の「日清修好条規」明治9年(1876)の「日朝修好条規」である。
そして「3つの朝鮮の動乱」とは、明治15年(1882)の「壬午事変(じんごじへん)」明治17年(1884)の「甲申事変(こうしんじへん)」、そしてその10年後の明治27年(1894)の「東学党の乱(別名 甲午農民戦争)」である。

韓国との問題に着目した明治年表
韓国との問題に着目した明治年表

戦争に至った直接的な原因は、最後の「東学党の乱」(甲午農民戦争)を巡る朝鮮の関与についてである。朝鮮の動乱に対してどのように対処すべきかについて、日本と清国が争ったのが日清戦争であった。

そしてその最初の伏線となっていたのが、明治4年(1871)の「日清修好条規」であった。明治4年というのは、まだ廃藩置県をやったばかりで、徳川幕府が倒れたすぐの頃である。つまり、明治になり開国した日本の一番最初から、朝鮮を巡る対応は国の重要な課題であったのである。その後の朝鮮、そして清国の対応を見れば、望むと望まないとに関わらず、ある意味では日清戦争は、開国をした東アジアの国々にとって、必然的に起こった戦争とも言える。

ただし、日本が最初から計画的に起こした戦争では決してなかった。これは断言できる。
もともと日本にはそれほどの国力が無く、それを克服するための「富国強兵」だった。しかも、日清戦争は大日本帝国憲法発布のわずか5年後である。むしろ日本は、迫りくる列強の脅威と清国と朝鮮との争いの中で、焦らされながら戦争をせざるを得ない状況になっていった、というべき状況であった。そういった日本の状況を記述していきたい。

2. 日清戦争前までの議会と内閣 の動き

明治初期の日本において、これほどまでに清国や朝鮮との関係がこじれていた中で、日本の政治は一致団結していたかと言えば、全くそうではなかった。むしろ明治政府樹立後間もない頃で、立ち上がったばかりの議会は大荒れであった。こうした状況を見て清国国は「日本は戦争できない」、と思っていたほどである。

明治14年の政変
明治14年の政変

日本の議会は大日本帝国憲法の公布と共に「帝国議会」として発足する。明治23年(1890)の11月29日が帝国議会として第一回の議会であった。しかし、議会による政治を求める運動が盛り上がったのは、その10年以上前に遡(さかのぼ)る。
明治初期の日本は、「自由民権運動」という名の社会運動が盛んであった。これは一般的には薩摩藩・長州藩などによる藩閥(はんばつ)政治ではなく議会に基づく言論により政治を行おう、という運動と言われる。この運動が盛んに行われ、それに同調する大隈重信が失脚したのが、明治14年の政変である。この後、自由民権運動は政府の弾圧等もあって収まっていくが、その理由の一つが、明治天皇による「国会開設の詔(みことのり)」あるいは「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」が出されたことにより、その「10年後」に国会が開設されることが確定したためであった。

自由民権運動
自由民権運動

また、この「10年後」というのが重要だった。大隈はその後、10年後の国会開設に向けて「立憲改進党」を作り、一方の伊藤博文はこののちドイツに留学し憲法を自ら学習しに行くこととなる。後の議会・憲法を考えるうえで、非常に大きなインパクトのある政変であったといえる。

この頃の議論はいろいろに錯綜(さくそう)し、「自由民権派」といっても確固たるまとまりがある議論を展開した訳ではなかった。まとまりはほとんど無く、混乱していたいのである。一方の政府側は、伊藤博文公を中心とした特に長州閥が政権を固め、なんとか富国強兵に努めていた。

樺山資紀(かばやまただすけ)
樺山資紀(かばやまただすけ)

先に書いたとおり、第一回帝国議会は明治23年(1890)であるが、最初から大荒れであった。衆議院と貴族院の2院制で「帝国議会」が構成されていたが、衆議院では乱闘騒ぎまでが起こる状態だった。明治23年に発足した議会だが、翌年の明治24年には衆議院は解散している。この理由は、国際情勢を知らない自由民権派があまりに軍事費を含む経費削減を主張したため、それに対して当時の松方内閣時の海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)が真っ向から対立した演説(「蛮勇演説(ばんゆうえんぜつ)」)をしたことにより、議会が大混乱したためである。この演説は、批判しかしない自由民権派に対して、

「あなたたちは薩長政府がどうのと反発しているが、日本が今ここまで立派な国になれたのは誰のおかげなのだ」

として、野党を切って捨てたのである。

この頃の野党の自由民権派の各党(民党)は、こぞって経費削減路線を主張した。ただし、一方で清や朝鮮に対する対応を「弱腰外交」として批判していたのである。そんな情勢下での、日清戦争の開戦であった。政府側は本当に厳しい状況下での決定だったのである。

では政府側である内閣はまとまっていたかと言えば、まったくそうではない。内閣は大日本帝国憲法の施行前から組織されて運営されていたが、短命で終わり何度も入れ替わっていた。薩摩藩・長州藩を中心とした藩閥政治、といわれるが、実際には内閣の「なり手」がなく、ころころ内閣が替わる状況にあった。

明治時代の内閣
明治時代の内閣

明治初期の政治状態はそれほどの混乱にあったのである。清はそれを見て、まさか日本が宣戦布告をするとは考えていなかった、といわれる。

3. 当時の覇権国であるイギリスとの関係

このように国内政治は混乱していたが、明治の元勲たちはなんとか日本の国際的地位の確立を急いだ。先に記述した「国境画定」はまさにその一環であったと言える。

明治初期の「国境確定」
明治初期の「国境確定」

また国境だけでなく、もう一つの大きな動きが列強との不平等条約の撤廃である。明治日本は全力を挙げてこの改正に取り組んだ。岩倉使節団・井上馨による「欧化政策」・「大津事件」による日本の司法制度の信頼、など、その活動はすべて開国時に結んでしまった「不平等条約」の撤廃を目指したものだった。結果的には、明治44年(1911)に全て撤廃される事になり、日本は名実ともに国際社会の一員となる。

その不平等条約撤廃の最初の条約が結ばれたのが、日清戦争の開戦の年と同じで開戦直前の明治27年(1894)7月16日であったイギリスと結んだ「日英通商航海条約」である。陸奥宗光(むつむねみつ)が外務大臣として進め、陸奥の交渉力が大きく影響し、当時の列強の中でも頭二つ飛び抜けていた最強の国家のイギリスから、日本は「領事裁判権の撤廃」や「関税自主権を一部回復」などを勝ち取った画期的な条約であった。そして、これ以降アメリカ・ドイツ・ロシアなどとも同様の条約を結ぶことに成功するのである。

この日英通商航海条約の調印の際、英国外相キンバーリー伯は、青木駐英公使に対し

「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」

と言ったと言われる。そしてこの条約は、日本側にこれによりイギリスの後ろ盾を得たと判断させるだけのものであった。このような条約をイギリスと結べたことが、日清戦争に踏み切る一つの材料となったと言われる。また、イギリス・ロシアに対しては、日清戦争に介入しないように働きかけ成功していた。

陸奥宗光
陸奥宗光

陸奥宗光(むつむねみつ)について触れておきたい。

陸奥宗光は、天保15(1844)年7月7日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれた。父の影響で尊皇攘夷の思想を持っていた陸奥宗光は、学問優秀であり、またかなりの行動派であった。とはいえ、単なる堅物ではなく、江戸に出た頃に儒学者の安井息軒(そっけん)に師事したときには江戸の吉原通いが過ぎて破門されている。かなり破天荒な人だった。

学問を学ぶ中で、坂本龍馬や、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などと交友を持つ。そして文久3年(1863)に勝海舟の神戸海軍操練所に入所し、これ以後坂本龍馬と共に海援隊で行動を共にした。この頃から陸奥宗光の優秀さは認められていて、坂本龍馬をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わせた。また勝海舟は「あれも一世の人豪(じんごう:優れた人、豪傑)だ」と評した。後の外交官としての陸奥の活躍の原点がうかがえる。

陸奥亮子夫人
陸奥亮子夫人

明治政府設立後は岩倉具視の推挙により政府に入り、その実力が広く認められた。帝国議会発足後には衆議院議員にもなっていて、薩摩・長州などの藩閥政治の中で、紀州出身の陸奥は実力で政府中枢で活躍した。
そして、清国と朝鮮半島を巡り緊張高まる中で、伊藤博文の信頼を深く得ていた陸奥は、外務大臣となる。特にその活躍として挙げられるのが、イギリスとの「日英通商航海条約」(明治27年:1894 7月16日)である。また、その後の日清戦争の引き金となった「東学党の乱」にあたり条約破りをした清に対して強硬論を説く一方で、イギリス・ロシアに根回しして日清戦争に介入しない約束を取り付けている。更に、日清戦争の後の列強による「三国干渉」に対しては、外交官の陸奥らしく、遼東半島の領有を得ることを主張し、柔軟な考えを示した。「カミソリ大臣」と呼ばれるほどの切れ味で、日本のために尽力した人であった。「陸奥外交」とまで呼ばれる成果を挙げた。
絶世の美女といわれた亮子夫人を後妻にし、才色兼備の夫人の活躍もあった陸奥宗光の外交成果は、日本を大きく危機から救ったのである。

西園寺公望
西園寺公望

しかし活躍はここまでであった。肺結核を患い、明治30年(1897)に54歳の若さで亡くなるまで療養生活をしていた。しかし、なぜかハワイで療養というから、破天荒な陸奥宗光らしいところである。その死を聞いて、陸奥を深く認めていた西園寺公望(さいおんじきんもち)の落胆ぶりは、周囲が心配するほどだったという。それほどに周囲の期待もあり、実力もあった陸奥宗光が長生きしていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかも知れない。日本の近代化と国際化において、日本を国際舞台に堂々と立たせた立役者の一人であった。

4.最強の布陣の「第二次伊藤内閣」

このような政治情勢の中で、一方で朝鮮半島情勢はどんどんこじれていった。先にも述べた朝鮮半島における「東学党の乱」の対応を巡り、日本と清国は遂に決定的な対立となった。
その頃の内閣は、「第二次伊藤内閣」で伊藤博文公の第二回の内閣であった。

第二次伊藤内閣
第二次伊藤内閣

当時の最も有力な政治家であった伊藤博文公を筆頭にして、明治維新に直接加わったいわゆる「元勲(げんくん)」ばかりが集まる実力集団だった。

後に「長州の三尊」といわれる長州の伊藤・井上・山縣の3人がそろい踏みで内閣にいる。また、後の最後の元老となる「西園寺公望(さいおんじきんもち)、後の日露戦争の陸軍の英雄「大山巌(おおやまいわお)」、元内閣総理大臣の「黒田清隆(くろだよたか)」・「松方正義(まつかたまさよし)」など、そうそうたる顔ぶれであった。
元勲内閣」ともよばれ、だれが首相をしてもおかしくない程の陣容で「日清戦争」に臨んでいた。逆に言えば、それほどまでに国内・国外とも緊迫した状況でギリギリの開戦であったのである。

5.日清戦争前夜の日本と戦争の遠因

このように、日清戦争前夜の日本は明治政府が立ち上がったばかりで混乱が著しかった。また一方で、朝鮮半島情勢と清・朝鮮の条約破りもある中で、明治政府は扱いに苦慮した。

明治政府は、このような状況の中で日清戦争に踏み切らざるを得なかった。それは威の本丸であるロシアが近づいてきていたためである。当時の日本は世界情勢をかなり正確に把握していて、ロシアが征服した国々の様子などをよく知っていた。そのロシアの存在が、日清戦争の陰の、また確固たる遠因であったことは間違いない。

そうした世界情勢・清と朝鮮の条約破りがあったため、日本の政情は安定しなかったにも関わらず、遂に日本は清との戦争に踏み切るのである。明治27年(1894)に朝鮮半島で起こった「東学党の乱」(甲午農民戦争)により条約を破って朝鮮に出兵した清に対して、「7月24日を期限とし、以降も増派を続けるのならば、戦争行為と見なす」として、事実上の宣戦布告を行ったのである。

明治天皇は反対されたとされるこの戦争で、国内は難しい状況だが、始まった限りは勝たなければならないという悲痛の決断の下での、苦渋の決断であった。近代日本にとって初の対外戦争は、不利な戦争でも始めざるを得なかった状況でスタートしたのである。

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