日清戦争の全容に迫る!【5】日清戦争の勃発と日本の完全勝利

下関条約

日清戦争の内容と、完全勝利した日本の状況を見る

日清戦争のシリーズの第5弾である。度重なる隣国の挑発や条約破りにより、日本は清国や朝鮮との関係をきっちりすることが政治課題となっていた。しかし一方で日本国内もまったく安定していなかった。そんな中で起こったのが、日清戦争である。戦争がどのように推移したかまとめたので、是非ご覧を。

1.日清戦争当時の状況

日清戦争に至るまでの過程として、重要なのが「2つの条約」と「3つの朝鮮動乱」があった。
そして、それらがあったとしても、明治政府の本音は戦争ではなかった。日本国内は「大日本帝国憲法」が成立して間もない頃で、日本国内が混乱のただ中にいたからである。

韓国との問題に着目した明治年表
韓国との問題に着目した明治年表

それでも結果的に戦争に至ったのは、ロシアの脅威を背景にした焦りの中で、度重なる条約違反を繰り返す清国と、その属国意識が抜けない朝鮮に対して、抜き差しならないところまで緊張が高まったためであった。清国との戦争は、もはや避けることは出来ないところまできていたのである。

2. 当時の日本と清の軍事力の差と、反対した明治天皇 のお覚悟

清国の海軍増強は、特に日本の台湾出兵(明治7年:1874)から、日本を仮想敵国として強烈に意識して進められていた。その中心が「北洋艦隊」である。

北洋艦隊の旗
北洋艦隊の旗

清国の海軍力増強はその後の数年間、急速に進捗、装甲巡洋艦2隻(「来遠」「経遠」)、巡洋艦4隻(「致遠」「靖遠」「超勇」「揚威」)を英独に発注、明治20年(1887)までに就役。明治21年(1888)、北洋艦隊が成立。この時点での合計排水量3万トン以上は日本艦隊とほぼ同等だが、旧式艦や木造艦が大半の日本艦隊に対して大きな戦力優位性があった。

一方の日本は、議会が始まったばかりでまったくの未成熟の中、緊縮財政」を敷いていて、軍備の増強はおぼつかなかった。しかし、朝鮮の「甲申事変(こうしんじへん)」(明治15年:1884)以降、清国との戦争は避けがたい物になることは、政府中枢は分かっていた。そのために、必死でその準備を進めた10年間だったのである。しかも「緊縮財政」という足かせの中で。いつの時代の話かと、嘆きたくなるが・・・。

明治大帝
明治大帝

ここで、明治天皇の事に触れたい。明治天皇は日清戦争の開始を聞いたときには、

「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」

と述べられたという。ここでいう大臣は、清国と朝鮮の度重なる対応に「このままでは日本は立場がなくなる」として戦争を主張した、陸奥宗光を指すという。陸奥は当時、外務大臣だった。
また開戦奉告祭も式部長に代行させ、先祖から継承した帝位と国家を危うくする対外冒険策を嫌ったのである。

しかし、かといって政府の焦りと国際情勢を知らない人ではなかった。
緊縮財政なら皇室の予算を回せ、と、明治天皇は沿岸防備のために皇室費を節約して30万円を拠出した。明治天皇のこの話が伝わると、地方長官は国民に海防費の献金を呼び掛け国民から200万円もの大金が集まった。
しかし、大小艦艇は25隻しか建造できず、清国には到底対抗できない状態は変わらなかった。これに対して明治天皇は「皇室費から6年、毎年30万円ずつ、総額180万円を下付するから、役人も給与の10分の1を出すように」と仰せられた。これにより貴族院議員も自発的に年棒の4分の1を製艦費に上納した。
この予算はそれほど大きくもなく、また、必ずしも日清戦争には間に合わなかったが、日露戦争では大きな戦力となったのである。

「広島国会仮議事堂の図」
「広島国会仮議事堂の図」

更に、戦争が始まると明治天皇は、海軍本部のある広島に大本営を移され、前線から入る情報を聞かれて戦地で戦う将兵を偲(しの)んでいた。食事は兵士達と同じにし、皇后陛下が面会に来ようとしたら、「兵士たちは妻子と別れて出征して第一線で戦っている、自分も皇后と会うわけにはいかない」と言われて会わなかった。

それほどまでの国の危機にあって、天皇陛下も不本意ながら戦争せざるを得ないことを覚悟しつつスタートした戦争であった。

3.決戦 日清戦争!

(1) 戦争のスタート~豊島沖(ほうとうおき)海戦~

度重なる朝鮮の動乱に対する清国の干渉で決定的だったのは、先に結んだ「日清修好条規」(明治4年:1871)、そしてその後の朝鮮の甲申事変(こうしんじへん)(明治17年:1884)における天津条約に対する違反であった。更には度重なる朝鮮の無礼と事大主義的動き、そして清国の「日本は戦争できない」という予測の下の挑発が繰り返されていた。
そんな中で1894年に朝鮮で起こった「東学党の乱(甲午農民戦争)」に対して清の袁世凱(えんせいがい)が兵を朝鮮半島に進めて駐留したことに対して、日本は黙っているわけにはいかなかった。

外相の陸奥宗光は、当時の覇権国のイギリスと画期的な「日英通商航海条約を結んだ明治27年(1894)の7月16日をもって、イギリスの中立維持のめどが付いたとして、同年の7月19日に、事実上の最後通牒をつきつけた。
すなわち、朝鮮に対しては「7月22日を期限とし、清国軍を国外追放し、対清条約を破棄すること」、清国に対しては「7月24日を期限とし、以後も増派を続けるのならば、戦争行為と見なすとする」と、したのである。

日清戦争
日清戦争

ギリギリの中ではあったが、日本として戦争の準備が整ったと判断した上での「最後通牒」であった。

そして間もなく起こったのが「豊島沖(ほうとうおき)海戦」である。7月25日に起こったこの海戦は、朝鮮半島の真ん中あたりにある豊島(ほうとう)沖において、日本海軍連合艦隊と清国海軍北洋水師(北洋艦隊)とで起こった海戦ある。これが日清戦争最初の戦いであった。

両者とも宣戦布告はなく、どちらが先に手を出したかで議論が分かれている。このあたりは、どちらも信憑性に乏しかったりねつ造するので重要ではない。この一週間後の8月1日に日本・清の両国が宣戦布告した。

豊島沖海戦の浮世絵(当時)
豊島沖海戦の浮世絵(当時)

この豊島沖海戦(ほうおとうおきかいせん)は、結論から言えば日本の完勝であった。このときに清の北洋艦隊を指揮していた方伯謙(ほうはくけん)という艦長は「逃げ艦長」で有名だったという。装備に勝る艦隊をもっているのに、日本の攻撃を受けたら自ら率先して逃げた。日本側の死者はゼロであり、一方の清は死傷者数が1,100名と言われ、大損害であった。

戦争において、機先を制するということは非常に重要である。見事日本は、戦線を大きく有利に導いた。

「浪速」の艦長時代の東郷平八郎
「浪速」の艦長時代の東郷平八郎

なおこの時に起こった事件が、「高陞号(こうしょうごう)撃沈事件」である。清国があろうことか、イギリスの輸送船である「高陞号(こうしょうごう)」を利用して武器や兵士の輸送をしようと試みた。もちろん、イギリスの威厳を利用した行為である。

これに対応したのが戦艦「浪速」の艦長であった東郷平八郎である。戦争状態にある両国において、当時の国際法上に照らして慎重に対応しつつも、それを破った清に対して丁寧に交渉と警告をした上で毅然と攻撃をし、結果的に船を撃沈させた。このときイギリス艦長や乗組員の救出は成功している。

これにより、伊藤博文首相・陸奥宗光外務相など、明治日本の政府は激しく動揺した。イギリス世論も大きく揺れたが、事実が伝わり東郷平八郎の毅然とした正しい対応が伝わると、むしろイギリスを盾にするような行為をした清に対する世界の世論が厳しくなっていったのである。

(2) 戦争の全容

豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)を経てすぐに上陸し、始まった陸戦が成歓の戦い(せいかんのたたかい)である。清の精鋭が集まり規模が大きくなる清の軍勢に対し、日本は南進。ここでは陸軍が進んだ。いくつかの応戦があったが、結局、清国側の軍にまとまりがなく清側はすぐに敗走していった。7月29日の戦いである。豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)からわずか3日での勝利であった。死傷者は日本側が88名、清側が500人前後といわれる。

日清戦争
日清戦争

その後は、両国の宣戦布告を経て戦線は北に移動する。陸戦で大きいのは「平壌の戦い(へいじょう:ぴょんやんのたたかい)」である。両軍の戦力が集結する中で、9月15日に日本の進軍が始まると一日で陥落した。まさか一日で陥落したことに、全軍指揮の袁世凱(えんせいがい)も驚いたという。

このように順調に進んだ日本であるが、決して楽な戦争ではなかった。兵站(へいたん)は長く、衛生状態も悪い朝鮮での進軍は、困難を極めていた。戦争による死者より圧倒的に病気による死者の方が多かったのである。清側のまとまりが無かったことが救いであった。

世界最初の近代海戦 黄海海戦
世界最初の近代海戦 黄海海戦

そしてその後の9月17日に始まった「黄海海戦」が戦争のハイライトと言える。産業革命以来、近代化した甲鉄蒸気艦同士の本格的な戦争は、世界でも初めてで、世界中の注目を集めた海戦でもあった。戦力は

日本(連合艦隊)軍艦28 水雷艇24 総トン数 59000
清国(北洋艦隊)軍艦25 水雷艇13 総トン数 50000

と一見戦力は伯仲しているかのように見えるが、日本海軍は旧式で弱小艦の集まりであった。装備における戦局は大いに、不利であった。

丁汝昌(ていじょしょう)
丁汝昌(ていじょしょう)

しかし、清国の指揮系統は混乱し、現場の北洋水師の丁汝昌(ていじょしょう)提督は難しい指揮を執らざるを得ない状態にあった。一進一退の海戦で死傷者も多く悲惨を極めたが、徐々に組織力で勝る日本の連合艦隊が有利となり、最終的には清国の北洋艦隊は、旅順(りょじゅん)・威海衛(いかいえい)に逃げ込み、日本勝利となった
日本側の死傷者が約500名、清側の死者が約800名、両者とも戦艦もボロボロとなり、まさに総力戦であった。丁汝昌(ていじょしょう)提督は責任を感じてその後服毒自殺している。

その後、戦争は陸・海共に北にのぼり、遼東半島に及ぶ。大連(たいれん)・旅順(りょじゅん)という重要な港を押さえ、威海衛(いかいえい)にて完全に北洋艦隊を殲滅し降伏を受け入れたのである。

(3) 清と李鴻章の状況

清と朝鮮半島
清と朝鮮半島

清の誇る北洋艦隊の生みの親である袁世凱(えんせいがい)は必ずしも主戦派ではなかった。清そのものに対する忠誠からではなく、みずからの北洋艦隊を無傷で温存したかったといわれる。
また、清の中央では西太后(せいたいごう)が専横の限りを尽くしていた。確かに「北洋艦隊」はドイツから最新の艦を購入したものではあったが、そこに注ぎ込まれるはずの予算はなかなかつかず、必ずしも能力を発揮できる状態ではなかった。そのような情勢の中で指揮を任せられた丁汝昌(ていじょしょう)などの現場は相当苦労した。

更には、李鴻章に反する勢力や官僚が清にはあり、それが李鴻章の動きを封じていた。むしろ李鴻章の失敗を喜ぶ勢力もあったほどである。こうした清の団結出来ない国内情勢が、戦力的に劣っていた日本に勝てなかった理由であった。

(4) 北洋艦隊壊滅にまで追い詰めた日本の状況

このようにして、比較的短期間で日清戦争は日本の勝利に終わった。ここで、その戦争の地図を見てみると、日本は最初の「豊島沖(ほうとうおき)海戦」からずいぶん北に向かって軍を進め、遼東半島まで出ている。

日清戦争
日清戦争

では、よく言われるように日本は「征服目的」であったかと言えば、全くそうではない。この戦争において、日本の死者の7割は病気と言われる。それほど衛生状態がひどく、戦争は非常に困難を極めた。それでもそこまで出て行ったのは、度重なる清の挑発を受けているため、ここで叩かないと必ず後の問題となるという危機感からであった。

実際に、敵の袁世凱(えんせいがい)は自分の戦力として「北洋艦隊」を温存したかったため逃げたといわれる。日本はそれを見透かしていて当時の段階で、これ以上清が日本に挑発を出来ないようにすることが日本政府の認識だった。朝鮮はむしろ日本軍を歓待し、迎え入れた。このときこそ、清の戦力を殲滅する大事なチャンスだったのである。その機会を逃さずに進めた、極めて戦略的な進軍であった。

4.画期的な戦後処理である「下関条約」

(1) 下関条約の全容

日清戦争は、日本の完勝で終わった。これは世界での戦前の予想を覆す大ニュースだったのである。日本としても、近代へと進んだ時の初めての対外戦争に勝てたことは、本当に大きかった。また、難しい戦争だったにも関わらず大きく勝つことが出来て、政府もそして国民も大きく自信をつけた。

戦後は講和会議が行われる。正式名称は「日清講和条約」であるが、下関で結ばれたこの条約は広く「下関条約」で覚えられている。明治28年(1895)に結ばれたこの条約の主な内容は以下の通り。

下関条約① 朝鮮の独立を認めること
② 遼東半島を日本に譲り渡すこと
③ 台湾と澎湖諸島を日本に譲り渡すこと
④ 賠償金として2億両を日本に支払うこと
⑤ 日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開港・開市またその地での治外法権などを認めること

このように、戦勝国である日本は大きく権益を得た。しかしそれは「領土拡張」などという目的でなかったことは、これまでの経緯を見ても理解できると思う。日本としては、次の列強に備えること、そしてその上で支那大陸及び朝鮮半島との関係をどのように構築すべきかを悩んだ結果の戦争であった。そして、日本にとっては列強、特にロシアに備える上で清との関係に一区切りをつけたのが「下関条約」であった。

下関条約
下関条約

(2) 朝鮮において初めて「大韓皇帝」を認める

下関条約で、是非知っておくべき事が、第一条である。しっかり見てみたい。

下関条約 第一条清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
初の韓国皇帝「高宗」
初の韓国皇帝「高宗」

これが、第一条の現代訳である。これを日本嫌いの人達は「朝鮮における清の影響を排除して日本が朝鮮を占領するために独立させた」としているが、何を根拠にそんなことをいうのか。占領するならなんでそんなまわりくどいことをするのか。

日本は本気で、朝鮮の近代化が必要と考えていた。次のロシアは必ず朝鮮を自国の領土とすると分かっていた。とすると、特に朝鮮の自立が重要と考えたのである。この結果「朝鮮国王」は、歴史上初めて「朝鮮皇帝」となったのである。

もちろん、「それ自体は朝鮮が望んだ物ではない」、といわれればその通りかも知れない。しかし日本としては、とにかく隣国と共に近代化し、列強にあたらなければならないという、切実な現実的認識と危機感があったのである。日本人自身が歴史からそれを学ぶことが重要である。それが「下関条約」の第一条によく現れている。

しかし、ここで「皇帝」となった朝鮮の「高宗」に当事者意識はまったくなく、結局いつもどおりの「事大主義」に走り、より地域の混乱を深めていくのだが・・・。

(3) 領土の拡張となった日本

下関条約によって得た領土

下関条約により、日本は「遼東半島」・「台湾」を得て、さらに支那の各港を開いた上で、関税自主権も得た。非常に大きな飛躍となった戦争であり、講和条約であった。

では、その狙いは「領土拡張」であったか?それは明確にNoである。それはこの戦争への経緯を見ても明白であり、また、日本のその後の動きを見てもみえてくる。
この後に積極的に清や朝鮮に侵略したかと言えば、それは全く行っていない。むしろ朝鮮にはものすごい国費を投じつつ近代化を促している。とにかくロシアを中心とした列強の脅威、あるいは恐怖にいかに対処するか、それのみを見つめて支那・朝鮮との連携を模したのである。

5.歴史に「if」はないが、もし日清戦争をしなければ・・・

このようにまとめてみると、日清戦争は日本が積極的に進めた戦争ではなかった事が理解できた。清やそれに突き動かされる朝鮮によりあれだけの条約違反や挑発を繰り返されて、日本としても戦争以外の方向性はなくなっていったのである。その後の歴史を考えても、当時の世界情勢を考えても、起こるべくして起こった戦争に思える。

それでも戦争を否定する人達はいると思う。歴史に「if(イフ)」はないが、もし日本が清や朝鮮の挑発に耐えて、戦争をしなかったらどうなっていたか?

間違いなく、日本が浸食されていたと思われる。それは必ずしも国力の劣る両国から直接にというより、支那や朝鮮と列強が結んで日本をおとしめていたことは、容易に想像が付く。それを明治政府の元勲達は見越していた。福沢諭吉だけでなくとも、陸軍の父である山縣有朋や首相の伊藤博文も朝鮮がロシアと結ぶことは容易に考えつく事を知っていた。そしてそれに支那が絡んでくることも。支那と朝鮮が列強になびくこと、それは日本にとっては悪夢以外の何物でも無かった。つまり、日本にとって日清戦争は歴史の必然だったとしか思えない。すでに「自衛」の戦争であったのである。

とはいえ日本は、その50年後に「大東亜戦争」という形で、まさに支那と列強の思惑にはまってしまうのだが・・・。

6.日清戦争の勝利と世界への影響

日清戦争は詳しく教えられることがない。しかし、実際には非常に複雑な状況の中、生まれたての明治政府が苦渋の決断で行った戦争であった。そして結果は「完全勝利」ではあるが、非常に難しい戦争であったのである。

この日本の勝利は世界の列強を驚かせた。アジアといえば支那でありその清国に隣の島国が勝つとは、想像もしていなかった。日本を見直した、と同時に、列強に日本に対する脅威が芽生え始めたのである。

それが具体化するのが「三国干渉」である。日清戦争はその経緯も重要だが、「その後」を語らずして歴史の流れは見えてこない。次回に「日清戦争後」をまとめたい。

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