「終戦の日」である8月15日に思うこと、そして昭和天皇による二つの詔(みことのり)に思うこと。
今年も8月15日を迎えた。いわゆる「終戦記念日」といわれるこの日は、先の第二次世界大戦、とりわけアジアにおける大東亜戦争を反省する日となっている。しかし、「終戦」はどのようにしてもたらされたのか、そもそも「終戦とは何か」について、まったく語られていない。それらの日についてまとめてみた。是非、ご覧いただきたい。
ページ目次
1.8月15日の「終戦の日」とは
8月15日は日本人であれば必ず知っているだろう。いわゆる「終戦の日」といわれるこの日であるが、
日付として何が行われたかと言えば、昭和天皇による「玉音放送」である。それにより、既に前日の8月14日に受託が決まっていた「ポツダム宣言」の受託が、当時の天皇陛下から国民に知らされた日であった。今回の記事では、その歴史的意義については深くは掘り下げないが、とにかく昭和天皇の玉音放送で日本は「戦争の終結」を宣言した。それにより5年弱続いた、いわゆる「第二次世界大戦」、日本に取っては「大東亜戦争」が終結することとなった。
ここで大きく勘違いされているが、決して日本は「敗戦」したわけでも「降伏」したわけでもなかった。あくまで「ポツダム宣言」を受け入れて、戦争を継続することをやめたのである。それについては、本記事の「3.「終戦の詔(みことのり)」を詳しく見る」で深く見てみる。
実際には、この8月15日以降からも非常に重要な出来事が続くが、とにかく一つの歴史の転換点が昭和20年(1945)の8月15日であった。
2. 英霊達・先人達に「哀悼の誠」を捧げる気持ちと、今後への誓いを
ページ目次 [ 開く ]
大東亜戦争による日本人の戦没者は300万人ともいわれる。彼らはいろいろな思いで命を失った。中には間違った戦略によるものだったのかも知れない、また、中には何も分からず命を落としていった人もいると思う。
そうしたいろいろな戦略・戦術の話は歴史の検証として別で考えた上で、「日本の」「日本人の」未来を信じた上で戦地に散った英霊達については、今を生きる日本人は「感謝」の気持ちをもって思わないといけない。何も戦争に散った人達だけではないが、過去の先人に対する尊敬の念なくして、未来はない。
そうした英霊や先人対する尊敬と感謝の「哀悼の誠」をもって、毎年この8月15日を厳(おごそ)かに迎えたいと思う。
いくつか特攻隊員の遺書を示す。是非、私たちの先輩である人たちが若くして散っていったことに触れてみたい。
攻撃直前記す。
「予科練資料館HPより」
御姉上様、合掌、最後に当たり何も言うことはありません。僕が常夏の国南米伯国より日本の国へ帰って、何も知らない僕を、よく教え導いてくださったことは、心から感謝しております。
身を海軍に投じて以来未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。海軍に入営してより、日夜の訓練によって心身共に磨き清めて来ました。今、国のために散って行く私です。
日本に帰るときに母様より呉々も言われた事、頼まれたことを果さずに散ってゆくのは心が残ります。
最後に年老いた両親に迷惑かけたことを、深く悔やんでおります。
今私は澄んだ気持ちです。白紙の心です。皆々様もお元気に。
では私は只今より攻撃に行きます。再合掌。
姉上様
昭和20年8月9日
一飛曹
高須孝四郎
23才
神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊員として、本州東南洋上にて戦死
謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。
「予科練資料館HPより」
今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。
この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。
沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。
お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。
家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。
私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも……。
後はお願い致します。では靖国へまいります。
四月六日午前十一時記す
神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊
昭和20年4月7日
海軍一等飛行兵曹
松尾 巧
享年20才
佐賀県出身 乙飛17期
また、こうした先人達への感謝の気持ちを示そうという演説を、現在参議院議員の山田宏氏が行っている。是非みてほしい。
こうした英霊達の手紙や状況の展示は、東京の靖国神社の「遊就館(ゆうしゅうかん)」にある。涙なしでは見られないが、その当時の必死の思いを受け止めるためにも、日本人として是非見に行くべき物と思う。
3. いわゆる「玉音放送」である「終戦の詔(みことのり)」を詳しく見る
ページ目次 [ 開く ]
この8月15日はいわゆる「終戦記念日」として定着しているが、先にも述べたとおり実際には、天皇陛下による「玉音放送」が行われた日である。では、その「玉音放送」の内容はどんなものだったのだろうか?
私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。
私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。
そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。
私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。日本臣民も、戦死したり、職場で殉職したり、不幸な運命で命を落とした人、またその遺族のことを考えると、悲しみで身も心も引き裂かれる思いだ。また、戦争で傷を負い、戦禍を被り、家や仕事を失った者の生活も、とても心を痛めている。これから日本はとてつもない苦難を受けるだろう。臣民みなの気持ちも、私はよくわかっている。けれども私は、時の運命に導かれるまま、耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して、未来のために平和を実現するため、道を開いていきたい。
私はここに国体を護ることができ、忠実な臣民の真心に信じ、常に臣民とともにある。もし、感情のままに争いごとや問題を起こしたり、仲間同士が互いを陥れたり、時局を混乱させたりして、道を誤り、世界の信用を失うようなことになれば、それは私が最も戒めたいことだ。国を挙げて家族のように一致団結し、この国を子孫に受け継ぎ、神国(日本)の不滅を固く信じ、国の再生と繁栄の責任は重く、その道のりは遠いことを心に留め、持てる総ての力を将来の建設に傾け、道義心を大切にし、志を固く守り、国の真価を発揮し、世界の流れから遅れないよう努力しなければならない。あなた方臣民は、これが私の意志だとよく理解して行動してほしい。
これが全文である。最も有名な
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」
ばかりが取り上げられるが、むしろそれは本文の本題ではない。是非、全文をしっかりと読んでほしい。天皇陛下が自制的に国民に呼びかけ、そして、「武器を持って争うことをやめよう」と宣言したものであることかがわかる。
決して「敗戦」でもなければ「降伏」でもない。あくまで「戦争をやめることを決断した」とし、そして、その後の日本を明るいものにしようという天皇陛下のまさに「詔(みことのり)」(お言葉)であったのである。
これを見ただけでも、如何に天皇陛下が戦争に対して否定的であり、また、欧米列強の野蛮さに対する危機意識を強く持っていたかがよく分かる。そして、その上での日本国民の振る舞いについて、極めて理性的に国民に語りかけたものであった。
4.終戦の頃の危うい状況「宮城事件」と昭和天皇の「ご聖断」
ページ目次 [ 開く ]
ここで8月15日の「玉音放送」の頃の状況について少し述べたい。
いわゆる「玉音放送」は、その前日に行われた「ポツダム宣言の受託」に基づいてなされた。しかし、まだまだ戦力が十分にあった状態でもあったため、軍の一部はそれを察知して、「終戦」を阻止しようとしたのである。
ただ、あくまで付け加えると、それは「日本という国が亡くなる」という危機感からで、彼らなりの愛国心からであった・・・。
そこで起こったのが「宮城事件(きゅうじょうじけん)」である。昭和20年(1945)8月14日の深夜から8月15日で当時の皇居の呼称「宮城」という名がつけられた事件である。陸軍と近衛師団の一部が中心となって起こしたこのクーデターは、「ポツダム宣言の受託」を阻止するものであった。
皇居を占拠するにまで至ったが、結局失敗に終わり、首謀者は逮捕もしくは自殺している。
そもそも、「ポツダム宣言の受託」を決めたのは8月14日の「御前会議」であった。出席したのは、
東郷茂徳外相、
阿南惟幾(あなみ これちか)陸相、
米内光政海相、
梅津美治郎参謀総長、
豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人と、
鈴木首相の意向で加わった枢密院議長の平沼騏一郎
そして天皇陛下が出席した。会議は何時間にも及び、結論はなかなか出ない。そこで鈴木首相が遂に採決を取るが、自分の意見を表面しなかったため3人対3人になったのである。
そこで鈴木貫太郎首相は天皇陛下に「ご決断を」と迫った。天皇陛下は政治には口を出さないという中で、異例中の異例の事であったが、事ここに至って天皇陛下のご決断でしか物事が動かせなかったのである。そこで、重苦しい中で天皇陛下が言われたのは
というお言葉だった。これこそが、天皇陛下が統治されない状態にあって、「天皇陛下としての意見を言う」ということを実行したまさに天皇陛下による「ご聖断」であった。東郷外務大臣の結論は「ポツダム宣言の受託」であった。そして、ここで終戦が決定されたのである。
これは昭和天皇が鈴木貫太郎首相を信頼した上での「あうん」の呼吸での決定だった。そして陰の立て役者である陸軍大臣の阿南惟幾(あなみ これちか)との信頼関係なしではなし得なかった。それほどに、練りに練られた結果の「ポツダム宣言受託」だったのである。なお、阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣は、この後に切腹自殺をしている。軍の総帥としての責任を取っての行動であった。
このあたりは、「日本のいちばん長い日」という映画をおすすめしたい。少しわかりにくい映画ではあるが、その頃の状況を見事なまでに描いている。昭和天皇に元シブがき隊の本木雅弘氏、そして、阿南陸軍大臣を役所広司氏が演じていて、本当に鬼気迫る映画である。是非ご覧を。
5.その翌年(昭和21年:1946)の昭和天皇のお言葉「新日本建設ニ関スル詔書」に見る日本の当時と今
ページ目次 [ 開く ]
終戦を振り返るにあたり、もう一つの天皇陛下のお言葉を是非見てほしい。下記は、現代語訳にしたものである。
ここに新年を迎えました。
かえりみれば明治天皇は、明治のはじめに国是として五箇条の御誓文を下されました。
そこには次のように書かれていました。
一、広く会議をおこし、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして盛んに経綸(=経済活動)を行うべし。
一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志をとげ、人心をしてうまざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一、知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし。
明治大帝のご誓文は、まことに公明正大なものです。
これ以上何をくわえるのでしょうか。
朕は、ここに誓いを新たにして、国運を開こうと思います。
私たちはもう一度、このご誓文の趣旨にのっとり、旧来のわるい習慣を去り、民意をのびのびと育て、官民あげて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民間生活の向上をはかり、新日本を建設するのです。
大小の都市が被った戦禍や、罹災者のなやみや苦しみ、産業の停滞、食糧の不足、失業者の増加など、現在の状況はまことに心をいためるものです。
しかし、私たち日本人が、いまの試練に真っ向から立ち向かい、かつ、徹頭徹尾、文明を平和の中に求める決意を固くして、結束をまっとうするなら、それは、ひとりわが日本人だけでなく、全人類のために、輝かしい前途が開けます。
「家を愛する心」と「国を愛する心」は、私たち日本人が特に大切にしてきたものです。
いまや私たちは日本人は、この心をさらに押し広げて、人類愛の完成に向かって、献身的な努力をしていくときです。
私たちは、長かった戦争が敗北に終わった結果、ややもすればいらいらと焦ったり、失意の淵によれよれになって沈んでしまいそうになるでしょう。
だからといって、過激な言動に流され、道義心を喪失し思想を混乱させてしまうのは、心配にたえないことです。
朕は、常に汝ら臣民とともにあります。
朕は、常に皆さんと利害を同じくして、喜びも悲しみも一緒にわかちあっています。
そして、朕と汝ら臣民との間のきづな(=紐帯)は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれているものです。
それは単なる神話と伝説によって生じているだけのものではありません。
このことは、天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有するなどという架空の観念に基づくものでもありません。
朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和するために、あらゆる施策と経営とに万全の方策を講じます。
同時に朕は、わが国民が、当面する難題に対処するため、心を定めて行動し、当面の困苦克服のために、また産業および学問、技術、芸術などの振興のために、ためらわずに前進することを希望します。
わが国民がその公民生活において団結し、互いに寄り合い、援けあい、寛容で、互いに許し合う気風を盛んにするならば、からなず私たち日本人は、至高の伝統に恥じない真価を発揮することができます。
そうすることで、私たちは人類の福祉と向上とのために、絶大な貢献をすることができるのです。
一年の計は元旦にあり、といいます。
朕は、朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから奮い、みずから励まし、もってこの大業を成就することを願います。
御名 御璽
昭和21(1946)年1月1日
これは、終戦の次の年に出された天皇陛下による「詔(みことのり)」であった。読めば読むほど、昭和天皇の平和への思いの強さと、国民を奮い立たせるための気遣いの深さを思い知らされる。
驚くことに、これが天皇陛下による「人間宣言」として伝わっているものである。「人間宣言」というのは好きにしてくれればいいが、この内容を見てそれしか思わないでは、あまりに理解力がないのかわざと曲がってみているかとしか思えない。
それほどまでに、天皇陛下は国を憂いまた大きく奮い立たせるべく発言し行動していたことがよくわかる。
6.そして令和の新時代へ受け継ぐ者として
ページ目次 [ 開く ]
こうした先人たちの強い思いと深い考えがあっての、「終戦記念日」であった。感情論だけでなく、あの戦争がなんであったが、そしてそれを終わらせる上での議論はどうであったか、そうしたことを振り返る日のきっかけとして、8月15日を迎えたい。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。