「悲観論」という考え方からの「卒業方法」を考える
私がよく言う言葉に「悲観論」がある。物事を悲観して、愚痴ばかり言っていることを指しているが、それを意識してみてみると、世の中「悲観論」ばかりである。私としては好きではないこの言葉であり考え方であるが、あえて少し哲学チックに考えてみた。是非ご覧を!
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1.種々の「悲観論」
日本では「悲観論」が渦巻いているように思う。国を考えるときでもそうだし、一般的な社会においても、いつも会社や家庭の愚痴ばかり言っている人を良く見る。
あえて列挙する物でもないが、いくつか挙げてみた。
【 政治・経済 】
・日本は借金大国で、将来破綻する。
・中国共産党の侵略が進み、どんどん日本が崩壊していく。
・少子高齢化が進み、日本はどんどん住みにくくなる。
・移民がどんどん入り、将来の日本の子供達の未来は暗い。
【 会社 】
・給料は一向に上がらず、仕事はつまらない。
・会社内のやり方が気に入らないが、どうせ一人で言っても組織は変わらない。
・仕事はつまらなくてあたりまえで、金を稼ぐためにはがまんしてやる。
【 家庭・個人 】
・自分は能力が無く、人より劣っている。
・配偶者に対する不満があるが、家庭の維持のために我慢して生き続ける。
・子供達の未来は暗い、今より暗い物になるのではないだろうか?
・(独身者について)一人で生きているだけで、特に目標なく生き続けている。
ちょっとあえて誇張して書いてみたが、書いているだけでも、あんまりいい気分がする物ではない。しかし、多かれ少なかれ、皆が持つ「悲観論」のように思う。もちろん、それだけを考えて生きているわけではないにせよ、何らかしら頭の「悲観」あるいは「不安」は誰にでもある。それについて考えてみたい。
2.「悲観」から生まれる物は?
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こうした「悲観」は言い換えれば、現状や将来に対する「問題意識」とも言える。なので、まったく無意味とは思えない、が、結論から言えば、この「悲観」だけで終わるのなら、何もプラスとなる物は生まれない。むしろその「悲観」は罪悪しかなく、即刻やめるべきである。「悲観」しても何の意味も無いから、なんにも考えずに楽しいことだけ考えて生きた方がいいと思う。
あえていうなら、「悲観だけ」している人は悲劇のヒロインになりたいか不安を煽(あお)っているだけで、何の意味も無いどころか、周囲と自分に悪影響を及ぼしている。
「悲観だけ」している人をよく見る。何か難しい話をしているように見えて、結局現状の批判と「これではダメだ」という話を延々とする。そうしたことは、私も飲んだ席などで出くわすことも多い。私自身もそういった会話をすることがあるが・・・。
これは、聞いてて楽しい物でもないし、現状認識として「物を知っている」ことを披露するという面では意味があるかも知れない。「自分はこんな問題意識を持っている」と言えるかも知れない。しかし、「悲観」あるいは「愚痴」だけで話が終わるのなら、誰でも出来る上に、聞いている方はあまりいい気がしない。人と自分を不快にする、まったくもって無意味な行為と言っていいと思う。
仕事でも良く出くわす場面である。「こういう問題があります。」、「会社のここがいけないと思います」、「このルールはおかしいと思います。」などという発言は聞くが、そこで止まるようでは次へはいけない。「愚痴」を披露しただけで、単なる「批評家」になっている状態で止まっている。
しかもたちが悪いことに、「悲観論」は自己増殖していく。結局、答えを見いだす気が無いから、単に「不安」だけが増大していき、「悲観論」が「悲観論」を呼ぶのである。
とにかく、「悲観だけ」の行為・考えはまったく意味が無く、即刻やめるべきである!
3. 悲観論から「次への対案」へ!
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誤解してほしくないが、「悲観」したり「批判」したりすること自体は重要と思う。現状に対する問題意識を持っている証拠であり、現状を変える必要があるからである。
しかし「悲観」で止まれば、それで終了であり何の意味も無いと思う。愚痴ばかり言って人として楽しいとは思えない。また、それと同意見の人と傷をなめ合う、ということで喜べる人はそれでいいのかも知れないが、私はむしろ自分が惨めになるようで好きではない。
「悲観」を単なる「悲観」だけで終わらせないのは、簡単と思う。
「悲観」は「次への提案」あるいは「次への行動」につなげてこその「悲観」であると思う。それさえ出来れば、悲観というのは「次へのステップ」であると考えられ、むしろポジティブな物として考える事が出来ると思う。
ここで大切と思うのは、「実現できるかどうか」ではなく、とにかく「どうすれば良くなるかを考えること」である。そうするといろいろ考えられるし、そこから次の行動が見えてくる。頭のいい人はすぐに「これはできない」とか「会社が邪魔する」とか言うが、まずは考えることが重要である。そうするだけで、「悲観論」というネガティブな物は、生まれ変わる事になる。
4.歴史に学ぶ「悲観論」との付き合い方
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確かに、現在の種々の問題は、深刻であり抜き差しならないことが多い。将来を「悲観」したくなる気持ちはまったく同感である。大きい視点で言えば、日本の教育や軍事、領土は大丈夫か、China(中国)支配は防げるのか、といった問題は、本当に将来の子供達を考えても不安が大きい。また、個人的にも会社のこと・健康のこと・生活のこと、いろいろ不安はたくさんある。
しかし、そうした不安を考えることも重要だが、では過去はどうだったのかと、歴史の先人達の考え方や生き方を見ることも、大きな勉強の糧となる。また、身近な人達の経験や人生からも学べる事は多い。
ここでは明治維新の志士、高杉晋作先生を取り上げたい。
私の尊敬する高杉晋作先生は、わずか28歳で結核で亡くなっている。亡くなる2年前に起こした「功山寺決起(こうざんじけっき)」は日本史史上、最も無謀と言える決起にもかかわらずそれを成功させ、日本の近代化になくてはならない一歩を踏み出した。その高杉晋作が、結核で病床に伏せっているときに詠んだ句が
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
と上の句だけを読んだ。下の句は、後に看病にあたっていた野村望東尼(のむらもとに)がつけたと言われるが、ここでは割愛する。
この句をどう読むかは人それぞれと思うが、あの激動の時代を生き切り開き、道半ばで28歳の若さで病床にある悔しさを感じさせず
「面白いことがない世の中を、面白くしていった」
と読める句であると思う。当時は現在とは全く違い、今より大きい国家の危機にあってそれを「面白きこともなき世」と言って捨て、しかもそれを「面白くした」という高杉先生の人生、考え方は、今の人にも十分学ぶべきところがあるのではないだろうか。「悲観」ではなく、それをプラスに持って行って考えた先人の考え方と生き方をのたくましさを強く感じる。
そして今を生きる人もしっかりそれを受け継いでいる人も居る。私の尊敬する青山繁晴氏の本を是非紹介したい。
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5.「知識人」を装って「悲観論」を煽るマスメディア・学者
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しかし「悲観論」は「たち」が悪い。不安につけ込むために、非常に広がりやすい。一方で「対案を出す」ことは、「悲観」をぶつぶつ言うことより数倍難しい。「悲観」はあくまで現状を分析した物でしかないが、「対案を出す」のは「無いものから次を生み出す」ことであるからである。
そしてその考えでテレビ・新聞などのマスメディアを見た場合に、どれをみても「悲観論」ばかりである。特に「反日」と言えるコメンテーターや学者のいうことは見事に「悲観論」である(正確には「日本ダメ論」だが)。なぜそうなるのか。それは、彼らが「反日」という明確な政治的意図を持っていることもあるが、決定的に言えることは、「悲観論だけを言っている方が簡単である」からである。結局、現状批判しかしていないのである。そしてそれは、なにもテレビのコメンテーターだけでなく、会社の上司・部下・同僚にもたくさんいると思う。
昔、友人に借りた本があったが、ひどいものだった。講談社から出ていたその本は「墓地が足りなくなる」「国民の3割が老人に」といったことをひたすら書いているだけで、「だからどうする」が全く無かった。あったとしても、本当に言い訳程度に書いてあるだけという印象だった。非常に暗い気持ちになったのを覚えている。
この手の「日本崩壊論」は非常に多い。しかし、それを信じて一緒に悲観論に陥るのは全く意味が無い。あえて言えば「時間の無駄」と言ってもいい。その本の内容が事実という前提だったとしても、解決しようと思わないのなら、不安になっても意味が無い。読まない方がましと思う。
6.「うつ病」の本質
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私は「うつ病」というものをあまり理解していない。一般的に「うつ病」と言われると、ストレスのあることはしてはいけない事になる。
精神的に不安定な人が居ることは当然と思うし、そうした人は体がおかしいのと同様に休めばいいと思う。しかし「うつ病」としてあえて、「レッテル」を貼ることには少し疑問を感じる。
「悲観論」という意味では、「悲観ばかりしている人」、「それにより自分を責める人」が、いわゆる「うつ病」と言われるようになったりする。それが私の考える「うつ病」の本質のように思う。しかし、それは誰もが持っているものであり、「うつ病」と言われる人に限った話とは思えない。「悲観」や「不安」を持つことはどんな人の人生でもあることだし、「うつ病」になるとそれがいけないように言われることがどうにも理解に苦しむ。
重要なのは、「悲観」や「不安」に対する人の考え方と思う。誰もがある「悲観」に対してどのように自分の考え方を持って行けるのか、高杉晋作先生のように「おもしろき」世にするのか、それを考えていけるようになることが、「うつ病」とか以前の人間としての生き方の知恵のように思う。
「うつ病」と言ってそうしたストレスから離れることばかりを言う風潮については、非常に疑問を感じる。
7. 「悲観論」を卒業している人々に触れよう!
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「悲観論」という言葉でまとめてみたが、とにかく、いつまでも「悲観」をせずに「対案を出す」ことで、それをプラスに変えていけばいいと思う。それは個人だけでなく、国としてもである。
具体的に「悲観論」から脱却するにはどうすればいいのか。それは簡単で、それをしている人、あるいはしてきた人達に接することである。歴史上のエピソードを見れば見るほど、日本の先人達は困難にも悩みながらしっかり「対案」を立てて考えていった。その「対案」が間違っていたこともあるが・・・。
また、現在のマスメディアや政治家など、ろくな人達がいないように見えるが、しっかりと前を見据えて行動してくれている人達もいる
(➡(過去記事)日本を救う!青山繁治氏らの「尊厳と国益を護(まも)る会」)。
会社でも、なかなか変わらない問題などを解決しようとして仕事している人は必ずいる。そうした人達と連携することで、「悲観論」はいつの間にか消えている。そして「対案」を考え、それを実行に導く、前向きなグループが出来上がる。経験上、そうしたグループとの仕事・生活は本当に充実した物になる。
是非、「悲観論」からの卒業を!
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