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平成の大地震にもなんとか耐えた「熊本城」と「加藤清正公」を見る

天下の名城熊本城

平成の大地震にもなんとか耐えた熊本城と、それを築城し熊本を治めた加藤清正公を見る

平成28年(2016年)の熊本大地震は、非常に大きな地震だった。いろいろと厳しいニュースが流れる中、あの熊本城が倒壊したというニュースを聞いて驚いた。しかし、良く見れば昔ながらのままで残っていた箇所もあった。熊本城の築城当時から、当時の技術のすごさを見ていきたい。是非、ご覧を。

1.平成28年(2016年)の「熊本地震」と熊本城の倒壊

少し昔の話になってしまうが、数年前の熊本地震の衝撃は大きかった。平成28年(2016年)に起こったその地震は最大震度7の巨大地震であり、その後の「余震」も非常に大きく、被害も多く出た。
そして映像としてあの「熊本城」が倒壊した、ということが大きくクローズアップされた

倒壊した熊本城の石垣(熊本城Facebookより)
倒壊した熊本城の石垣(熊本城Facebookより)

熊本城の被害は甚大だった。瓦は落ち石垣は崩れ、建物にも深刻な傷を負わせた。そんな中で、比較的軽傷だったのが、熊本城で最も有名な「櫓(やぐら)」の一つの「宇土櫓(うとやぐら)」だった。

宇土櫓は、築城が安土桃山時代の1600年頃と言われる熊本城で、そのまま残っている数少ない場所であった。歴史の中で修復は繰り返されてきたが、基本的な構造は築城当時そのままなのは「宇土櫓(うとやぐら)」だった。そして、その宇土櫓が今回の熊本大地震で持ちこたえたのである。

加藤清正公(Wikipediaより)
加藤清正公(Wikipediaより)

この地震により、この城を築城した加藤清正(きよまさ)公や当時の築城の技術がクローズアップされる事になった。「瓦が落ちた」のはわざとそうしたのであって、瓦が落ちることで屋根が軽くなり建物の倒壊を防ぐ、という先人の知恵だと、専門家は指摘した。

とはいえ、「宇土櫓(うとやぐら)」も大きく被害を受けたのは間違いない。大きな修理を要するが2020年8月現在ではまだそこには至っていない。
しかし、この震度7もの地震が2回も来たというのになんとか持ちこたえた、建物や石垣の技術には驚きに値する。

熊本地震を通じて、熊本城を築城した加藤清正きよまさ公を中心に見ていきたい。

2.地震に耐えた熊本城と加藤清正きよまさ

日本三大名城」というと諸説ある。江戸時代に流行したとされるこの「番付」は、一般的には「江戸城(現在の皇居)」を除外すれば、大阪城(大阪府)名古屋城(愛知県)熊本城(熊本県)の3つと言われる。ただし諸説あるので、ここでは一つの例としてみてほしい。
とはいえ諸説あっても、熊本城が名城として数えられることは間違いない。

日本3名城と熊本城
日本3名城と熊本城

熊本城は、まさに天下の名城であり熊本のシンボルとして現在も愛されている。そしてそれを作ったのが、加藤清正きよまさである。

熊本城は慶長6年(1601年)から築城が始まり慶長12年(1607年)に完成したと言われる。加藤清正きよまさ公は豊臣秀吉の腹心中の腹心の部下として仕えた。熊本城の築城当時はすでに秀吉公は既に亡くなっていて、天下は徳川家康へと移っていた。加藤清正きよまさは忠義に厚い人だったが、その後の石田三成の体制に不満だったため、徳川方の味方をすることが多く、「徳川」と「豊臣」の融合を目指した。

天下の名城熊本城
天下の名城 熊本城

当時の肥後を治めていたのが加藤清正きよまさ公であり、関ヶ原の戦いで徳川方に味方したことで論功行賞を得て加増されたことにより、「熊本藩」が成立した。もともと「隈本」だったのを「熊本」としたのは加藤清正きよまさ公といわれ、まさに熊本の「生みの親」とも言える人とである。

剣豪 宮本武蔵(Wikipediaより)
剣豪 宮本武蔵(Wikipediaより)

加藤清正きよまさ公が肥後に入ったのは、自身が27歳の頃と言われる。農家を大切にし、新田開発・治水に努め、熊本を大きく発展させた。「清正公さん(せいしょこさん)」と言われ、現在も含め愛されている人である。
熊本城は、その清正きよまさ公が自分の居城として精魂込めて作った城である。当時の日本で超一流の「築城の名手」でもあった清正きよまさは、熊本城にいくつもの仕掛けをし敵に攻められても万全の準備をした。籠城で苦労した経験もあった清正きよまさ公は、籠城の仕掛けも万全にし、数々の「櫓(やぐら)」を立てて、名城を作り上げた。

当初は、豊臣家への恩返しとして秀吉の息子の秀頼をここに迎える計画があったと言われる。秀頼のための部屋も準備してあったと言われる。
しかし、徳川の時代に完全になり加藤清正きよまさ公が亡くなった後には、加藤家は改易(身分を落とされ家を没収)され、その後熊本城の主は「細川家」となる。細川家が熊本藩の藩主として就くのは、幕末明治まで続く。

なお、この熊本城にはあの剣豪で有名な宮本武蔵(1584年~1645年)もゆかりが深い。細川氏に招かれ熊本入りしていた宮本武蔵は、その剣の極意である二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)を熊本で創始した。晩年も熊本で過ごし、剣を教えながら熊本の地で亡くなっている。

3.築城の名手 名古屋市出身の加藤清正きよまさ

加藤清正きよまさ公の普請(ふしん:土木工事の実施のこと)した城は、熊本城だけではない。日本3大名城の名古屋城も、別格とされる江戸城にも参画している。それほどまでに、その築城技術は高かった。

「清正流」石垣
「清正流」石垣

特に特徴とされるのが、「石垣」である。「清正きよまさ」とまで呼ばれる熊本城の石垣は、下部から上部に行くほど勾配がきつくなる「扇の勾配」と呼ばれる積み方がされる。「武者返し」とも呼ばれ、敵の侵入を大きく防ぐ効果があった。

加藤清正きよまさ公は、名古屋城の築城にも大きく関わっている。そして現在もその石垣には清正きよまさ公の功績が残っている。
最も重要な天守台の石垣でどうしても運べなかった石を加藤清正きよまさの技術で運んだとして「清正きよまさ」と呼ばれる巨石が今も見られる。
この「清正きよまさ」の逸話には諸説あるので必ずしも清正きよまさ公とは限らないが、名古屋城の築城には清正きよまさ公の技術が不可欠だったことは間違いのない事実である。

名古屋城の加藤清正像
名古屋城の加藤清正像

加藤清正きよまさ公は、豊臣秀吉公と同じ尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれている。小さいときから秀吉公の「小姓」として仕え、秀吉公の家臣団の最強の一人にまでなった。

その人生の多くは肥後に捧げ、熊本を作り上げた人だが、名古屋城などを通じても名古屋に大きくゆかりのある人である。そして、徳川方には付いたが秀吉公に最後まで恩義を感じて忠義を尽くした人だった。

4.西郷隆盛と熊本城 ~「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正きよまさ公に負けたとでごわす」~

加藤清正きよまさ公が活躍したのは、安土桃山時代から江戸の初期であり、西暦では1562年~1611年の人である。
しかし、築城から270年後に「清正きよまさ公に負けた」と言った人がいた。幕末の英雄、西郷隆盛である。

西南戦争の官軍と薩軍(小林市HPより)
西南戦争の官軍と薩軍(小林市HPより)
西郷隆盛
西郷隆盛

西郷隆盛は「西南戦争」という形で、最後に明治政府に対する反乱分子のリーダーとなる。鹿児島からスタートした西南戦争は、途中の熊本城を攻める。当初は簡単に攻め落とせると思われていた熊本城は難攻不落を誇り、西郷隆盛率いる薩軍は14,000人、守る方は4,000人と言われる中で、50日間の籠城により遂に全く寄せ付けないまま、薩軍を追い返した。

そこで西郷隆盛公が言ったと言われるのが
おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正きよまさ公に負けたとでごわす
である。
戦争の勝ち負けが単に城の仕組みだけでは決まる物ではない。実際に薩軍の問題はいろいろあった中での戦争であった。
しかし、それを差し引いても「熊本城」のすごさそして加藤清正きよまさという人のすごさを印象づける話と思うあの西郷隆盛公が「清正きよまさ公に負けた」というセリフを残したというのは、興味の尽きない話である。

5.熊本城と加藤清正きよまさ公の歴史を見て

名古屋に住む者として、加藤清正きよまさ公の話は思い入れが強い。

名古屋で生まれ育った私としては同じ名古屋出身の清正きよまさ公の作った名城が、遠く熊本にある上に、名古屋城も築城したという、その手腕には驚かされる。
そして、270年後に、これまた歴史の英雄である西郷隆盛公を熊本城を通じて「うならせた」という事実は、如何に安土桃山時代の建物とは言え、優れた物であったかを深く印象づける。
そして、現在の大地震にもなんとか耐え抜いたという熊本城

復興工事が進んでいると言うが、清正きよまさ公を通じて名古屋からも応援したい。
そして、一度も訪れていないので、是非見てみたい!

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